「最初のしるし」

及川 信

ヨハネによる福音書 2章1節〜12節

 

三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、イエスの母がそこにいた。イエスも、その弟子たちも婚礼に招かれた。ぶどう酒が足りなくなったので、母がイエスに、「ぶどう酒がなくなりました」と言った。イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」しかし、母は召し使いたちに、「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と言った。そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである。イエスが、「水がめに水をいっぱい入れなさい」と言われると、召し使いたちは、かめの縁まで水を満たした。イエスは、「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と言われた。召し使いたちは運んで行った。世話役はぶどう酒に変わった水の味見をした。このぶどう酒がどこから来たのか、水をくんだ召し使いたちは知っていたが、世話役は知らなかったので、花婿を呼んで、言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、酔いがまわったころに劣ったものを出すものですが、あなたは良いぶどう酒を今まで取って置かれました。」イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。この後、イエスは母、兄弟、弟子たちとカファルナウムに下って行き、そこに幾日か滞在された。



先週の火曜日に「詩編の集い」があり、午前と午後にかけて詩編13編を読みました。13編は、非常な苦しみの中で、「主よ、いつまでですか」と叫ぶことから始まります。「いつまで、こんな苦しいことが続くのですか、あなたは一体何やっているんですか、あなたを信頼する私がこんなに苦しんでいるのに、御顔を隠されているのですか・・」そういう叫びが続く。その詩人の叫びについて、色々と話し合っていた時に、ある方が、「自分の苦しみなど、神様にいちいち訴えてよいとは思わなかった。そういう苦しみは、一人で抱えて、我慢しなければいけない。自分のことで神様を煩わせてはいけないと思っていた。こんな風に神様に文句を言ってもいいのですか?」大体、こういう趣旨の質問をされました。私はその時、「もちろんです。何でも神様に相談した方がいい。どうしてくれるんだ。なんとかしてくれと言ったほうがいいに決まっている。神様にしてみれば、どうしてそうやってなんでも独りで抱え込む。水臭いじゃないかと思っておられる」と言いましたが、すぐにそれに付け加えて、「でも苦しいことばかり言うのじゃなくて、嬉しいことも楽しいことも、神様に言って、感謝しなくちゃ。神様、有難うございます。神様、感謝しますって言って、神様に共に喜んでもらう。そういうことも大事だと思いますよ。」悲しい時も嬉しい時も、主に訴え、主に悲しみも喜びも知っていただき、共にしていただく。そこに悲しみは喜びに替えられ、喜びは真実なものに変えられていく道が開かれると思います。
詩編の集いがあったのと同じ日に、昨年召された阿部綾子さんの記念会があり、私はその会に向けてのメッセージを書き、奥田長老に代読していただきました。今週の木曜日には、昨年11月に逝去された小松睦子さんの埋骨式があります。これからメッセージを与えられるのを待ちます。そして、土曜日には準備会を重ねてきたHさんとTさんの結婚式があります。その結婚式で語られるべきメッセージもこれから与えられるのを待ちます。人が苦しみの中に生きること、そして死ぬこと、結婚すること、子供が生まれること、愛する者に先立たれること、私たちの人生の中で起こるすべての事柄に、主が関係しておられる。主の御手が働いている、主の語りかけがある。それは、どこでどのように働いているのか、現われているのか、聞こえるのか。信仰の目と信仰の耳をもって最大漏らさず聴き取り、見つめ、そして、主イエスを信じ、賛美し、証言する。私たちの信仰生活とは、目に見える形はそれぞれ違っても、結局、そういうことだと思います。
今日の箇所は、一般に「カナの婚礼」と呼ばれる箇所です。しかし、結婚そのものが問題になっているわけではなく、主イエスの御業がなされる舞台が婚礼の場なのです。主イエスが婚礼の場に来られる。そのことの意味は大きいと思います。主イエスのいない婚礼など、私たちには考えられません。人が集まっている所で「私たちは結婚しました」と宣言し、集まった人が「おめでとう」と言い、あとは飲んだり食べたり歌ったりということが結婚式であり、その祝いであるならば、それは何と空しいことかと思います。しかし、主をお招きし、主が来てくださって、結婚する二人を祝福して下さる式や婚宴を挙げることが出来るなら、それは何と素晴らしいことかと思います。今度は、そういう式を中渋谷教会の礼拝堂で挙げることが出来ることを感謝しています。
そして、ヨハネ福音書をこの先も読んでいきますと、主イエスは悲しみのどん底にあるような葬式にも来てくださることが分かります。また、何気ない日常生活の中にふらりと来てくださることもある。主がおられない、そんな場所はない。主はあなたと共におられる。あなたが死ぬ時、そこにも主はおられる。あなたが死んだ後、そこにも主がおられる。信じた者にとって、主がおられないような場所も時もない。そして、主がおられる時、そのことに気づく時、受け入れる時、すべてのものが、それまでのものとは違うものに変えられる。あなた自身も。この福音書の語りかけは、そういうものだと思います。
「三日目に」とあります。これは1章43節から数えて三日目ということです。しかし、以前も言いましたように、29節、35節に「その翌日」とあり、創世記の書き出しを意識しているヨハネ福音書の文脈で言うと、この三日目は初めの日から数えて「七日目」ということになります。創世記の七日目とは、安息日であり、その日そのものが神様に祝福された日です。そして、それは世界の完成の日を暗示しています。人がこの祝福の中に安息を与えられる。そういう七日目が意識されていることは確実です。
しかし、その一方で、「その翌日」「その翌日」「その翌日」ときて、最後に「三日目」と書かれる理由もあると思います。私たちキリスト者は「三日目」と聞くと、それだけで主イエスの復活、あの喜ばしい朝の出来事を思い浮かべます。そして、私は、ヨハネは、そのことを意識して、ここで「三日目」と書いていると思います。この日に、主イエスがそのお姿を現す、啓示される。その時、キリスト教会は誕生した。何故なら、その日にキリスト礼拝が始まったからです。今日の箇所を読みつつ礼拝する者が、今生きておられる主イエスのその姿を見ることが出来、信じることが出来れば、その者は幸いだ。そういう思いで、ヨハネはこの箇所を書いていると思います。そういう「三日目」に、11節にありますように「弟子たちはイエスを信じた」のです。この言葉で、1章から続く弟子の召命物語は一つの区切りがついているのです。
しかし、その一方で11節には、「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた」とある。この出来事は、これからはじまる一連の「しるし」の最初なのです。次のしるしの舞台は、いきなりエルサレム神殿に飛びます。そこで主イエスが、父の家である神殿を「商売の家にするな」と猛烈にお怒りになり、「この神殿を壊してみよ。三日で立て直して見せる」と仰る。ここにも「三日」という言葉が出てきます。それは最後にまた触れます。とにかく、この衝撃的な事件もまた、婚礼の席における喜ばしい奇跡と同様に、イエス様が誰であるかを示す「しるし」なのです。
今日の箇所には「イエスの母がいた」と出てきます。そして、その後の、母と子であるイエス様との会話は、例によって何が何だか分かりません。ここに「マリア」という固有名詞が出てこないことには象徴的な意味があります。「この母とは何を意味するか」も実に興味深いのですが、そのことを話し始めるとどうしても長くなるので、残念ですが、今日はすべて省略します。
 とにかく母は、息子に「ぶどう酒がなくなりました」と告げるのですが、何のために、どういう立場で告げたのか分かりません。常識的に考えれば、この家の召使が主人に告げるべきことでしょう。しかし、何故か招待客の一人であるだろうイエスの母が、これまた招待客の一人に過ぎないイエス様に「ぶどう酒がなくなりました」と告げています。それに対して、イエス様は、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と答えた。「いくらなんでも婦人よ、はないだろう。これはあんまりじゃないか」と思うのですが、しかし、母は、息子のその言葉を聞いた上で、自分の息子を「この人」と言いつつ、「この人の言うことは、それが何であれ、しなさい」と、その家の召使に命じているのです。ここでは、ごく普通の婚礼の場で起こりそうなことが描かれているようでありながら、実は全く別の次元の会話がなされているのです。母は、この方の言うことは、それが何であれ、そのまま行えと命じているのです。これは他人が他所の家で言う言葉ではありません。
 その母の言葉を聞いた上で、主イエスは行動を開始されます。そこには「ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである」とあります。1メトレテスというのは約40リットルのようです。かなりの量です。その水瓶が六つある。「全部に水を満タンに入れよ」というのが、主イエスの命令です。水道の蛇口を開けばジャーと水が出てくるわけではありません。深く掘った井戸の底まで下って行き、桶に水を汲んできては水瓶に入れるという大変な作業を、召使達は黙々とこなしたのでしょう。ただの招待客に過ぎない女とその女の息子に、理由も目的も告げられずに、そういうことを命令される。常識的に考えれば、あり得ないことです。しかし、彼らは黙々と服従しました。彼らは、この時、この命令を下される方が、誰であるか、既に分かり始めていたからだと思います。
 水瓶は一杯になりました。主イエスは「さあ、それをくんで宴会の世話役のところへ持って行きなさい」と仰る。すると、その水はぶどう酒に変わっていた。それも、これまで出していたものよりもよいぶどう酒に変わっていたのです。問題は、「このぶどう酒はどこから来たか」。ただこの一点です。
 この「どこ」という言葉は、ヨハネ福音書では非常に大事な言葉です。たとえば、主イエスの最初の弟子になった者たちは、主イエスの「何を求めているのか」という問いに対して「どこに泊まっているのですか」という問いで答えました。これは「あなたは誰ですか」という問いなのだと、その時の説教の中で語りました。「あなたは神と人の間のどこに位置しているお方なのですか。神ですか、人ですか、それとも・・何ですか?」そういう問いが「どこに泊まっているのですか」という言葉の中には込められている。
 だとすると、「このぶどう酒がどこから来たのか」という問いは、「このぶどう酒は、天から来たのか、それとも地からか。神から来たのか、それもと人からか。そして、何なのだ・・・」そういう問いであるということになります。今後も、幾たびも「どこから」という言葉が出てきます。霊はどこから?命の水はどこから?命のパンはどこから与えられる?という形で出てくるのです。そして、それはすべて主イエスから与えられるのだし、それはさらに神から与えられるのです。そして、人は神が与えるもので生きる、それも肉体の命を越えて永遠に生きる者とされるのです。
 今日の箇所で、主イエスは命令しているだけです。「水を入れなさい」「持って行きなさい」。すると、そこには上質のぶどう酒が充満していた。これは明らかに、この福音書冒頭にある言葉、「万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった」の一つの実現です。そして、それは何を現わしているかと言えば、この方こそ万物の創造の源になる神、この方が「光あれ」と言えば「光がある」、そういう神、独り子なる神だということです。このしるしを通して、主イエスは、初めて神としてのご自身を隠された形で啓示しておられるのです。これが第一のことです。
 次に、この水瓶はもともと「ユダヤ人が清めに用いる石の水瓶」でした。つまり、律法に定められた清めです。律法に忠実に生きて、自らを清くしておきたいユダヤ人にしてみると、異邦人や罪人と服が接触してしまったら、それは汚れたということですし、歩いた跡を踏んでも汚れたと考えますから、彼らは外出から帰ると必ず手や足を洗い、身を清めるのです。そうやって体についた汚れを洗い清める。しかし、その律法に定められた水が、イエス様の言葉によってぶどう酒に変わる。そこに神の独り子としての栄光の姿が現われている。それはどういう意味なのか。それが問題になってきます。
 私たちは1章14節以下で、既にこういう言葉に出会っています。

「言は肉体となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。・・・わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現われたからである。」

 律法はモーセを通して与えられた。しかし、神はついに律法を通してではなく、独り子なる神イエス・キリストを通して恵みと真理をもって私たちに臨んで下さっているのです。恵み、それは愛であり、それは罪の赦しです。人を汚すのは罪です。人との接触によって表面的に汚(よご)れることと、内面から汚(けが)れるのとでは本質的に違います。律法で定められた水は、表面の汚れを洗い清めるだけです。しかし、ぶどう酒は、その内面から清めてくださるものです。何故なら、ぶどう酒は旧約聖書では、しばしば、終わりの日に与えられる罪の赦しという祝福の象徴ですし、新約聖書においては、神の独り子主イエス・キリストの血潮の象徴だからです。私たちの罪を赦すために流された血、財産を持ち逃げして家出をしてしまった私たち放蕩息子や娘を再び神の子として迎え入れるために流された血の象徴です。この赦しの愛がイエス様において満ち溢れている。水瓶の中に満ち溢れている。これが、イエス様が最初になしたしるしであり、そこに神の「栄光」が現わされ、「弟子たちは、イエスを信じた」のです。
 イエスの母の言葉、そして、イエスの言葉に黙々と従った召使もまた、イエス様が誰であるかを知っています。「宴会の世話役は知らない」し、ぶどう酒を飲んでいる招待客も知らないし、新郎新婦も、この家の主人も知らない。でも召使は知っている。この「召使」という言葉はヨハネ福音書の他の箇所では「仕える者」と訳され、テモテの手紙などでは教会における「奉仕者」とか「執事」と訳される言葉でもあります。ここでは、表面上、ある家の召使のように登場していますが、その奥にある意味は、神の家(ベテル)の奉仕者のことなのではないでしょうか。神の家でイエス様に仕える者たちのことです。その者たちを今に置き換えれば、聖霊の注ぎの中で、イエス・キリストを礼拝し、父なる神様を礼拝している私たちのことです。主イエスに従ってこの家に来た「弟子」もまた同じことです。弟子だって、私たちのことです。私たちは皆、今、神様に仕えている、サービスしている、礼拝しているからです。礼拝する者だけが、イエス様が誰であり、ぶどう酒が何であるかを知ることが出来るのです。
 しかし、今日はその信仰の問題を、もう少し突き詰めていかねばなりません。

「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現わされた。それで、弟子たちはイエスを信じた。」

   1章から続いた弟子の召命物語は、ここで一つの結末を迎えます。「メシアに出会った」と言い、「あなたこそ神の子、イスラエルの王です」という信仰の告白した弟子たちを、イエス様は引き連れて、招かれるままに婚礼に出席をし、男女が愛の契約を結び、新しい生活に歩みだす時に合わせるかのように、真実な愛である罪の赦しという恵みを豊かに満ち溢れさせて下さいました。そして、それを見て、召使は、ぶどう酒がどこから来たかを知り(つまり、イエス様が誰であるかを知り)、弟子たちはイエス様を信じました。そのことで、彼らもまた新しい信仰の歩みに踏み出したのです。しかし、その信仰とは、どういうものなのか?
 2章23節にこういう言葉があります。

「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」

 人間がイエスを「信じる」、その信仰は、まことに信用できない信仰であることを、私たち自身がよく知っていますが、イエス様もよくご存知なのです。当然の事ながら・・。
 続いて、12章の20節以下をご覧いただきたいと思います。そこには、過越の祭りの時に、ギリシャ人がイエス様に会いたいと言って来たとあります。その意味を語る時間はありませんが、その時、主イエスはこう仰いました。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

 主イエスが、「栄光を受ける時が来た」と仰るその「時」とは、主イエスが一粒の麦として地に落ちて死ぬその時にことです。十字架に磔にされて殺されるという恐るべき、そして惨めな死を遂げる時、それが主イエスの「時」、2章では、「わたしの時はまだ来ていない」と仰っていた時なのです。そして、その恐るべき、惨めな死の姿の中に実は神の栄光が現わされ、主イエスが栄光を受ける時なのだと仰っている。しかし、そのことを本当の意味で知り、信じることが出来る人は、いつの世でも多くはありません。そして、信じるということを具体的に「仕え」「従う」という行為で実行に移す人は、さらに少ないのです。
ここに出てくる「仕える者」、これは2章の「召し使い」と同じ言葉です。召使として主イエスに仕えることと、主イエスに従うことは同じです。つまり、主イエスを信じる弟子たちは主イエスの召使として生きる者たちなのです。少なくとも、主イエスはそのことを望んでおられます。自分の命を愛するのではなく、主イエスを愛して、主イエスに命を捧げる。その時にこそ、主イエスが私たちをどれ程愛してくださっているかが、分かるのですから。
弟子たちは、主イエスと出会った時に、「メシア」と言い、「神の子」と言い、「イスラエルの王」と言って、その信仰を告白しました。そして、カナの奇跡を見て、新たに信じました。そして、彼らは生涯信仰に生きました。メデタシ、メデタシということにはならないのです。彼らの信仰は、たしかにここから始まりました。しかし、その後に山あり谷ありの歩みが続きます。私たちはこれからその過程を見ていくことになります。そして、彼らの無理解、不信仰の凄まじさにあきれ果てることになります。そして、それがそのまま自分の姿であることに愕然とする。そういう歩みをしていくでしょう。その究極は十字架の場面です。そこに、主イエスを信じたはずの弟子たちはいません。ヨハネ福音書にだけ出てくる名前の分からない愛弟子がイエスの母と共にいたことになっていますが、ペトロ(岩)と呼ばれたシモンもフィリポもナタナエルもいません。主イエスが十字架にかかって殺される時、弟子たちは「あの人のことは知らない」と言って、逃げて隠れてしまったのです。それが、彼らの信仰の行き着く姿だったのです。私たち人間の信仰とは、そういうものなのです。信用できないものなのです。
しかし、にもかかわらず、私たちは信仰によって救われる。それは罪の赦しという恵み、神の愛を信じる信仰によって救われるということです。私たちの信仰が堅いから、決して動揺しないから救われるのではありません。主イエスの私たちへの愛が堅いから、決して動揺しないから、その恵みはいつでも満ち溢れるほど与えられるので、私たちは今日も、こうして主イエスに仕える者、礼拝する者、召使、弟子として生かされ、用いていただけるのです。この恵みによって、そしてこの恵みを信じる信仰を、今日も新たに与えていただけることによって、私たちは救われている。
次回は、宮清めの記事をご一緒に読みますが、そこでイエス様は、「神殿を三日で建て直す」とユダヤ人に言い放ちます。ユダヤ人は何のことだか分かりません。しかし、今日の箇所と同じように、「弟子たちは信じた」と書いてある。弟子たちには、三日で神殿を建て直す主イエスが誰であるかが分かったし、それが何を言おうとしているかが分かったのです。でも、それはいつのことだったのでしょうか。ここは不思議な書き方がされています。

「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活された時(これは十字架の死から三日目のことです)、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」

 そう。彼らが信じたのは、宮清めがあったその日ではありません。その日に、目の前で起こったことが何であったかが分かり、イエス様を信じたのではないのです。イエス様を「信じた」のは、それから数年先のことです。イエス様を裏切り、逃げてしまった弟子たち、「あの人のことは知らない」と言って逃げてしまった弟子たちを、主イエスはそれでも赦し、三日目の日曜日に、恵みの上にさらに恵みを与えて下さったのです。彼らに命の息吹である聖霊を与えて下さいました。その時にキリスト教会は新しい神殿として建てられたのです。信じたのに裏切った、そういう弟子たちを尚も愛し、三日目の日曜日に復活し、新しい祝福をもって命の息吹を吹きかけてくださったのです。この主の恵みの中で、弟子たちの信仰は、次第次第に練り清められ、強められていくのです。2章11節の「信じた」と22節の「信じた」では、同じ「信じた」でも全く違うのです。
そして、あのシモン・ペトロについて、ヨハネ福音書は最後にこう書き記しています。

「イエスは言われた。『わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。』ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現わすようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』と言われた。」

 両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。とは処刑場に連れて行かれることを現わしているそうです。つまり、殉教の死、イエス様は、私たちの救い主ですという告白をすることによって、死ぬということです。
「もうお前は駄目だ、お前の信仰など信用しない。あっちへ行ってしまえ」と言われたのではありません。イエス様は、どこまでもどこまでも弟子を赦し、新たに信仰を与え、育てようとして下さるのです。そして、何度でも、「わたしに従いなさい。今からでも遅くない。わたしに従いなさい。わたしのために生き、わたしのために死になさい。その時、わたしがいつでもあなたと共にいることが分かる。そして、あなたの生と死を通して、神の栄光が現れ、私が栄光を受けることになる。」そう語りかけて下さるのです。私たちは、今日も、その語りかけを聞いているのです。私たちの希望は、ただここにのみあります。
 私たちにとっては、結婚式も神様の栄光を讃える礼拝だし、葬式もまた神様の栄光を讃える礼拝です。そして、私たちの日々の生活も、仕事も、皆、自分を愛するためにするのではなく、イエス様に仕えるために、イエス様に従うためにするのでれば、そこに主イエスは共にいますのですから、それ自体が主イエスに仕える礼拝行為なのです。そして、神様の栄光を讃えるものなのです。私たちは、今日も、この礼拝堂における礼拝において新たに信仰を与えられ、新たに祝福を与えられ、新たにこの世へと派遣されます。それは、この世で主イエスに従い、主イエスに仕えるためです。神を愛し、隣人に仕え、隣人を愛し、神に仕える生活。満ち溢れる恵みを与えられたのですから、勇気をもって、その生活に踏み出していきましょう。信じるもの者には主が共にいてくださいます。そして、その栄光を現わして下さいます。
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