「人間の心・イエスの心」

及川 信

ヨハネによる福音書 2章23節〜25節

 

「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」



 アウグスティヌスという人が、こう言っていました。
「人間は、自分自身の中にあるものを知らないが、人間の創造者は人間自身の中にあるものを知っておられる。」
 それは、本当のことだと思います。私たちは、自分が自分の心の中に何があるかを一番良く知っていると思っています。もちろん、他人には知り得ない心の部分があることは確かです。しかし、実は、自分だけが見えておらず、むしろ他人には見えている心の部分もあります。そして、自分も他人も知ることができないけれど、神様だけが知っている心があるのです。私たちは、自分自身の中に何があるのかを、実はよく知らない。分かっていないものです。
 今日の箇所は不思議な所ですし、ここだけで説教をするということは教会ではあまりなされないかもしれません。この箇所は3章のニコデモとイエス様の対話の序文のように扱われることが多いのです。しかし、2章と3章をつなぐ独特な位置をもっていると思います。過越祭の直前に、イエス様が神殿の商人たちを追い出すという非常に激しい行為をなさったというのが前回の箇所ですが、その後、祭りの期間中に、イエス様がいくつもの「しるし」をおこなわれたことが、今日の箇所から分かります。この「しるし」という言葉が最初に出てくるのは、カナの婚礼の時に水をぶどう酒に変えた場面で、その業が「最初のしるしであった」とあります。そして、神殿の商人を追い出した時には、「ユダヤ人」たちが「こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言ったとあります。そして、その後になされた「しるしを見て、多くの人々がイエスの名を信じ」、その信仰者の代表のような形で、ニコデモが登場する。そういう流れだと思います。
「しるし」とは、2章11節にありますように、イエスの栄光を現わす「しるし」、つまり、イエスが神の子、メシアであることを現わすしるしなのです。そのしるしを見て、弟子たちは「イエスを信じた」とあります。けれども、2章22節を見ると、弟子たちが「聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」のは、イエス様が復活されて以後(これは聖霊を与えられて以後という意味でもありますけれど)のことであると書かれている。つまり、「しるし」を見ることと「信仰」の関係に関しては、非常に注意深く、また微妙な言い回しがされていると思います。そして、今日の箇所では、「しるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエスご自身は彼らを信用されなかった(信じなかった)」と記されています。
ご記憶の方もあると思うのですが、1章12節を見ると、こうあります。

「言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。」

 「イエスの名を信じる」その信仰によって神の子となる資格を与えられるとは、信仰によって救われるということです。そして、そのことがこの福音書が一貫して語っていることだと言っても良いのです。しかし、今日の箇所では、その「信仰」が救いの条件となっていない。それはどういうことか。信仰とは何なのか。
 人はだれでもそれぞれに特殊な生い立ちと育ちをしているのですが、私は牧師の子ですから、生まれた時から教会で育ちました。ですから、幼い頃から人間の姿をまざまざと見させられるということがありました。親の仕事と生活を間近で見るということもその一つですけれど、教会に来られる方たちの姿を通して人間の姿を見させられるのです。
 たとえば、クリスマスとかイースターの時にはほぼ毎回洗礼式がありましたけれど、私が育った教会では、その洗礼式を終えて後に、皆の前で信仰告白をするということが習慣でした。今でも教会によっては、それが当たり前のところがいくつもあります。自分がどのようにして教会に導かれ、イエス・キリストに出会い、信じるに至ったかを、自分の言葉で語るのです。大体は原稿にしてきたものを読むのですが、何人もの人が涙ながらにその信仰を告白しました。そして、その後しばらくは熱心に教会生活に励む。しかし、何年かすると姿が見えなくなる。もちろん、学校の卒業に伴う転居とか、転勤によってということもあります。しかし、現実には、教会生活を離れていく人が何人もいるのです。卒業、就職、結婚、出産などなどのお祝い事があるたびに、教会生活をやめていく、卒業していくのです。そして、教会生活をしていた頃のことを青春の日々の思い出話にしたり、若気の至りのように片付けてしまう。そういう人たちの姿を繰り返し見てきました。私を可愛がってくれ、教会学校の教師として信仰を伝えてくれた人ですらが、いなくなるのです。あの涙、あの情熱は何だったのか?と子供ながらに思うし、人間不信というか、クリスチャン不信というか、その現実をどう考えたらよいか分からなくなる。そういうことがありましたし、今もある。
要するに、自分に必要があって教会に来たわけですから、必要がなくなれば、教会に通う理由もなくなるということなのでしょう。日本のクリスチャン人口が未だに一パーセントを越えないどころかむしろ減少している理由は、受洗者が少ないということだけでなく、受洗した人間達の多くが、その後に教会を去る、教会生活を止めてしまうことにもあるのです。
 もちろん、私がどれほど人間不信になろうが、クリスチャン不信になろうが、母教会の信徒の方たちが今も教会に残っている。あるいは、つい先日も電話でお話しましたが、故郷である長崎の離島に帰ってもキリストにしがみつくような信仰を生きている方たちがいる。生涯をかけてキリストに結び付き、その信仰を生きている人たちがいる。教会にどれほど躓いても、牧師に躓いても、そして、自分自身がどれ程罪を重ねてしまっても、自分に嫌気がさしてしまっても、いやそうだからこそ、どこかの教会でキリストに繋がり、必死になって赦しを乞い、愛と赦しに生きることが出来るように祈りつつ生きている人たちがいる。そういう人たちの存在、そういう人たちが信じている神を、否定は出来ない。軽蔑することは出来ない。そういうことも、幼い頃からずっと見続けてきた人間、キリスト者という人間から教えられてきたことです。
 その信仰を信用できるキリスト者はいる。しかし、その信仰を信用できないキリスト者もいる。それは事実です。最初は分からなくても、必ず目に見える形で分かってくるのです。しかし、もちろん、最終的には分かりません。以前、説教の中で語りましたように五〇年間、自分が洗礼を受けたキリスト者であることをひた隠して生きてきても、死ぬ二週間前に信仰を告白するというケースもあるし、長いこと熱心に教会生活をしていても、晩年になって信仰を捨てるというケースもあります。さらに、聖書には、信仰を持たないで死に、陰府の世界に降った人たちが、そこまで降って来て下さったキリストの説教を聴いて、悔い改め、救われる可能性も記されていますから、最終的にどうなるのか?それは私たちには分かりません。私たちは誰も人を裁く権威を持ってはいません。それが出来るのは、キリストだけだからです。
そして、そのキリストが、今、私たちに語りかけてきている。私たちは今、キリストの前に立ち、その言葉を聞いている。それは、今、聞いて信じるのか、そして救いに入るのか。それとも、今、聞いて、信じないのか。そして自ら裁きを招くのか。その決断の前に立たされているということなのです。礼拝の中で神の言、キリストの言としての説教を聴く(私も語りながら聴いています)とは、そういうことです。呑気に歌ったり話を聴いたりすることではありません。救いへの招きを受け入れるか、拒絶するかということなのです。
 聖書を読んでいると、そういう招き、生と死を分けるような招きが至る所にあり、ドキドキしてしまうことがよくあります。
この福音書を読んでいくと、こういう言葉に出会います。
イエスは最初から、信じない者たちが誰であるか、また、ご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。(6章64節〜65節)

   「弟子たちの多く」とは、イエス様のしるしを見て、またその教えを聞いて、イエス様を信じて従ってきた人々です。その人々が、途中でその信仰を捨てるのです。つまり、招きを拒絶し、自らそれが滅びとも知らないまま、イエス様から離れていく。教会から離れていってしまう。

イエスは、ご自分を信じたユダヤ人たちに言われた。わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。(8章31節)

 この後、「イエス様を信じたユダヤ人たち」とイエス様の対話が続きます。でも、その最後の場面はこういうものなのです。

イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から『わたしはある』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

「イエスを信じたユダヤ人たち」が、最後には、主イエスを石で打ち殺そうとする。何故なのかについては、この箇所を語るときに譲りますが、人間の信仰というのはこういうものである場合が多いのです。業や説教に感動して、この方こそキリストだと信じて、弟子にはなる。でも、私たちの信仰の多くは、私たちにとって良い信仰です。だから、気に入らないことがあれば、「主よとんでもないことです」と逆切れして、「あなたがおかしい」と言って、信じた方に石を投げつけようとしたりする。前も言いましたが、私たちは慈愛に満ちたイエス様は好きだけれど、神殿で鞭を振るうイエス様は嫌いで、そういう場面はすっ飛ばして読んだり、自分とは関係のない話として読んでいる場合が多いのではないでしょうか。聖書を読んで感動して印をつけるのは、自分を慰めてくれる箇所だけ。肯定している箇所だけ、同意できる所だけ。そういうことが多いのではないでしょうか。少なくとも私の場合は、そうです。説教をするために、嫌でも、一節ずつ読み進めていくことがない限り、自分の心に心地よく響く言葉だけを捜し求めて読むだけのことです。しかし、それでは信仰はいつまで経っても本物にはならないでしょう。それじゃ、本物の信仰とは何か、本当の弟子とは何か、それが問題になります。
 私たちは前回、エルサレム神殿でのイエス様の驚くべき業を見ました。イエス様が、そこで何に対して、これほどの怒りを示されたのか?それは神殿で通用している「信仰」というものに対してです。過越祭に各地からユダヤ人が神殿にやってくる。これはユダヤ教徒にとって一つの義務です。しかし、もちろん全国のユダヤ教徒がすべてこの日に集まれるわけがないし、集まるわけもないのです。この日にエルサレム神殿に来る人は、信仰深い人、熱心な人ですし、また事情がかなった人々です。また迎えるのは祭司達です。信仰とは何かを人々に教え、自らも信仰に生きているはずの人々です。しかし、そういう祭司達と信仰熱心な信徒たちが神殿を「商売の家」にしている。それが現実なのです。  現代の教会だって同じです。教会に生きている牧師と熱心に通ってくる信徒。実は、その人々こそが、教会を商売の家にするという罪を犯す、犯せるのです。信仰を告白し洗礼を受けたにもかかわらず教会を離れた人々はそういう罪を犯せません。教会に残っている人々が教会の中で罪を犯す、犯せるのです。牧師は牧師で、熱心に仕事をしながら、実はいつのまにか神の御心の実現ではなく、自己の願望の実現のために生きる罪を犯しているものです。また、神ではなく世を愛し、自ら堕落し腐敗する場合もある。その罪の程度とか傾向は人によってそれぞれですが、何らかの意味で罪を犯しながら生きている。それは私自身、否定しようがない事実です。また信徒も、いわゆる信仰深い熱心な人が、実は自分を愛することに熱心であったり、キリストを伝えてくれた人を熱愛して、その人の弟子であることを誇りとしていたり、教会でこそ自分を発揮できるから熱心だったりするのです。牧師も信徒も、自分の中に、その心の中に何があるのか知らないのです。

イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の(心の)中にあるかをよく知っておられたのである。(原文には「心」はありません)

 「信じる」も「信用する」も原語のギリシャ語では同じです。ピステェウオウと書かれている。そして、「信じる」とは「委ねる」とも訳される言葉です。自分の身も心も委ねる、それが信じるということなのです。私たちは信じた人に身を委ねます。しかし、その信頼を裏切られる、あるいは裏切るという経験を持たない人はいません。そういう経験の中で、私たちは信じて身を委ねるということを、本当にはしなくなるのです。それが大人というものでしょう。
 イエス様は、小さな子供を抱き上げて、「神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることは出来ない」と仰いました。四月にはIさんに女の子が、五月に入ってからMさんに男の子が生まれました。Iさんの所では赤ちゃんがベッドで寝ていたので、祈った後に抱くことができなかったのですが、弘恵さんの所ではMさんに抱っこされていたので、帰り際に抱かせて頂きました。赤ちゃんを抱っこできるということは、本当に幸せなことです。胸が熱くなります。神様の祝福を心から感じますし、また心から祈りたくなります。そして、赤ちゃんを抱っこさせて頂く時に、私を信頼して赤ちゃんを委ねてくださるお母さんやお父さんの信頼を感じて胸が熱くなります。最愛のわが子、万が一抱き方が悪かったり、落としてしまったりしたら、大変なことになるのに、「どうぞ抱いてください」と私の腕の中に赤ちゃんを委ねてくださる。そのことを思うと、本当に申し訳なく、また有難い気持ちで一杯になります。そして、赤ちゃんはもちろん何にも意識していないでしょう。でも、それこそ全身を私に委ねているのです。それが「信じる」ということの本来の姿だと思います。何の疑いもなく、人の腕にその身を委ねる。それと同じように、イエス様に自分自身を委ねる。それが信仰の本来的姿です。そこには抱く方と抱かれる方の間に無限の愛と信頼があるからです。
しかし、赤ちゃんが少し成長して幼児になると、見知らぬ人や、信頼していない相手に抱かれる時は、抱いている人の洋服をつかんでいたり、腕をつかんでいたりします。それが当然です。でも、それは信頼していないからです。抱かれてはいるけれど、疑っている。心配している。だから、どこかをつかんで、落とされそうになったときに備えておく。私たちの信仰も、しばしばそういうものです。信じているとは言いながら、どこかに逃げ道を作っている。全幅の信頼を持って全身全霊をイエス様に委ねていないのです。私たちはそういう人間です。大人は誰だってそうなのです。そういう人間のことを罪人というのです。神様の愛を全幅の信頼をもって信じていない。全身を委ねていない。どうしても疑ってしまう。それが惨めな大人です。社会では成功しても、信仰を生きることでは失敗を続けている惨めな大人、罪人なのです。そして、聖書は、私たちは誰もが罪人だと言っている。その事実をちゃんと知ることが大事なのです。何故なら、その事実を知らない限り、私たちの信仰が本物にならないからです。
来週から3章に入っていきます。そこでは中途半端な信仰のニコデモとイエス様との噛み合わない不思議な対話が続きます。そして、その対話は、これまた不思議な形で、こういう言葉になっていきます。これはイエス様の言葉の続きの体裁をとってはいますが、同時に、ヨハネの教会の信仰告白、あるいは説教なのではないでしょうか。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

 「世」というのは、世に生きる私たち罪人のことです。つまり、信仰を拒絶し、あるいは中途半端な信仰しか生きることが出来ずに、自ら滅びへの道を歩んでいる者たちのことです。罪人というのは、命の源なる神様を信じることなく、その身を委ねないで、自分の力で生きていける、また自分のために生きるのが人生だと思い込んで、いや罪によって思い込まされて、永遠の滅びに向かって生きている惨めな存在のことです。神様は、そういう罪人を愛し、なんとかして救おうとして下さるのです。その愛は、ついに独り子を与えるという愛となって現れたのです。自分のたった独りの子を、私たちの腕に委ねるということです。親が、自分の子供をひと時他人に抱かせるということだって、愛と信頼の現われですが、神様が私たちに対して示してくださった愛と信頼は、そんなものではありません。自分のたった独りの子を、自分で何を考え、何をしているのかも分からない愚かな、そして、まさに何をするか分からないという意味で恐るべき私たちの手に委ねるのです。これは狂気の愛と言って良いと思います。自分の利害を考えることが正常であるとすれば、愛は、利害を超えて、相手のために生き、そして死ぬことなのです。それは異常なことであり、狂気だと言ってよいでしょう。しかし、私たちは、そういう愛と信頼に自分自身を委ねることが時にのみ、本当の命を生きることが出来るのです。
 神様は、独り子を私たちに与えて下さいました。そして、独り子は私たちにご自身の命を与えて下さったのです。せっかく愛し、信頼して下さったのに、私たちはその愛と信頼を無視し、あるいは踏みにじり、そして逆切れして抹殺してしまう。しかし、主イエスは、私たちのそういう罪が赦されるために、私たちの罪の身代わりとして、過ぎ越しの小羊、世の罪を取り除く小羊として十字架にかかって死んでくださったのです。「人がその友ために死ぬこと。これ以上に大きな愛はない」と、主イエスは仰いました。そして、主イエスの言葉はすべて真実であることが証明されるのです。そのまま現実となるからです。主イエスは、ご自分を拒絶し、無視し、あるいは裏切り、憎む者たちを、友と呼び、その友のために命を捨てる方なのです。
しかし、「あなたのためなら命を捨てます」というペトロの言葉は、少なくとも、その直後に、嘘であることが証明されてしまうのです。ペトロは口からでまかせの嘘を言ったのではありません。彼は、心底イエス様を愛して、そう言った。しかし、彼は自分の中に、自分の心の中に何があるかを知らない。しかし、主イエスは知っておられる。ペトロが知らないこと、彼の中に何があるかを知っておられるのです。罪があるのです。
 だから、主イエスはその罪を取り除くために死んで下さったのです。ペトロを愛しておられるからです。私たちは人の心の中に、自分を裏切る思いが隠れていることを知れば、愛しません。愛せないのです。人を裏切ってしまうのも、自分を裏切った人間を赦せないのも、私たちが人間だから、罪人だからです。そして、私たちがそういう人間、罪人である限り、何の希望もないのです。どんなに愛そうと思っても裏切ってしまう。どんなに赦そうと思っても赦せない。私たちがそういう人間である限り、そこには何の希望もありません。そこにあるのは、パスカルという人が『パンセ』の中で言っているように、気紛らしだけです。絶望を見ないようにするために、必死に仕事をする。快楽に身を委ねる。酒に溺れる。何をしても根っこは同じです。絶望を見ないようにしているだけなのです。社会的に成功しようが、酒に溺れて落ちこぼれようが、根っこは同じだし、行きつく先も同じです。罪の行き着く先は、死だからです。
 主イエスは、そういう私たちを知り尽くし、そして、そういう私たちに無視され続け、また背かれ続け、そして裏切られ続けているのに、尚も愛してくださるのです。パウロが言うように、罪が増し加わる所に恵みが増し加わる。愛が強まるのです。イエス様とは、そういうお方なのです。
 主イエスは2000年前、「あなたのためなら命を捨てます」と言いながら、死ぬのが怖くて、死ねなかったペトロを初めとする弟子たちのところに現われて、「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と言ってくださいました。日曜日のことです。そして、主イエスは弟子たちが新しい命に生きるようにと、命の息を吹きかけて下さったのです。そして、こう言われた。

「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 「さあ、ゆっくりと深呼吸をしなさい。あなたの体の中にある悪いものを全部吐き出しなさい。偽物の信仰、中途半端な信仰、妙な思い違い、打算、裏切り、すべてを私の前に吐き出しなさい。私はそのすべてをその身に負って、あなたのために死んだ。だから心配しないでよい。あなたの罪は赦された。私が裁かれたから。そして、神は私を甦らせ、あなたを私の甦りの命に与らせるために、私を遣わしたのだ。だから何も心配しないでよい。信じなさい。あなたの罪は赦された。ただそのことを信じなさい。私はただそのことのために世に来たのだし、十字架に架かって死んだのだし、甦ったのだ。このことを信じることが信仰なのだ。この信仰にとどまりなさい。そうすれば、あなたは私の本当の弟子になる。私はあなたを遣わす。私が愛したように愛し、私が赦したように赦しなさい。聖霊をいつも受け入れなさい。呼吸をするように私の息をその体の中に入れなさい。その時、私はあなたの中に生きる。ただその時にのみ、あなたは私の弟子として生きることが出来る。ただその時にのみ、神の子として、愛と赦しに生きることが出来るのだ。」
 主イエスは、二千年前の弟子たちに、そして今日、私たちに、こう語りかけてくださっているのです。それは明らかなことです。信じて受け入れることが出来る人は幸いです。その人は今、神の子とされたからです。そして、聖霊を受けて主イエスの福音を証しするために派遣される人は幸いです。その人は、新たに神の子を生み出すという大いなる使命を生きるからです。
主イエスはこう仰いました。

  「父のもとから来る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである。あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世では苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」アーメン。

 真理の霊を受け入れた時にのみ、信仰は本物の信仰になるのです。その信仰をもって生活し、仕事をし、人を愛し、人を赦し、祈り、御言を信じ、御霊を呼吸しながら生きれば、それがキリストの愛の証しになります。キリストは私たちの中に生き、私たちを通して現われます。それは間違いないことです。
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