独り子を与える愛

及川 信

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も 滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くため ではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じな い者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、 人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないか らである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたとい うことが、明らかになるために。

(ヨハネによる福音書3章16節〜21節)  しばしば言うことですが、聖書を読むということの中にある厳しさと喜びは、他で経験 することがないものです。聖書を開いて真剣にその言葉に向き合っていくと、普段見えて いなかったことが、見えてきます。それは真に厳しいことであり、そして実に喜ばしいこ とです。その厳しさと喜びを、今日もご一緒に味わい、主の御前にひれ伏し感謝し、賛美 を捧げることが出来ますように祈りつつ読んで行きたいと思います。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も 滅びないで、永遠の命を得るためである。」  この言葉を知らないキリスト者はいないでしょう。キリスト者になるとは、この言葉を 信じて生きる人になると言ってもよいことだからです。  しかし、この言葉は不思議な文脈の中で出てくるのです。しばらくヨハネ福音書の説教 から離れていたので簡単に振り返っておきますが、三章はニコデモという人物が、ある夜 に、イエス様を訪ねてくる所から始まります。彼は旧約聖書以来のユダヤ教の律法に忠実 に生きる「ファリサイ派」に属する人物であり、ユダヤ人たちの最高会議の「議員」でも あった。また、律法の「教師」でもあったようです。つまり、世間的には非常に地位も高 く、教養もあり、人望もあった人物だということになるでしょう。しかし、その彼が、心 の奥底にある不安感、あるいは不足感を抱えつつ、エルサレム神殿における事件以来、ユ ダヤ人の権力者の間では危険人物として見られていたはずのイエス様に教えを乞いに来た のです。しかし、イエス様は、彼に「人は新たに生まれなければ、神の国を見ることは出 来ない」「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない」と仰 った。つまり、救われて永遠の命を得るためには、水と霊によって新たに生まれ変わらな ければならないということです。次回ご一緒に読む3章22節以降には、洗礼のことが記 されていることからも分かりますように、この主イエスの言葉は洗礼による生まれ変わり についてお語りになっているのだと思います。  しかし、先週のアブラハムとサラに関する説教の中でも言いましたが、人が新しく生ま れ変わるということの中には、大変な痛み、苦しみが伴うのです。出産は、新たな命を生 み出す母親にとっても生きるか死ぬかという大事件です。また生まれてくる子供にしても、 それまでは母の胎内で羊水の中を漂って生きていたのが、時が満ちると、真っ暗な産道を 必死になって通り抜けて、体外に出た瞬間から空気を吸ったり吐いたりする肺呼吸をし始 めるわけですから、まさに古き命に死んで新しい命に生き始めると言ってよいことだと思 います。新しい命が誕生するということ、それは大変なことです。 それと同じように、イエス様を主、キリストと信じて生きるということは、それまでの 命に死んで、新しく生き始めることですから、「それはよいことだ」と思ったとしても、現 実にそのことをし始めることは、生半可なことでは出来ないものです。だから誰もが、キ リストの話を聞いて感動したとしても、信仰の決断を求められると尻込みするのです。ニ コデモは、そういう人間の一つの典型としてここに登場しているように思います。  14節15節で、主イエスはこう仰っています。 「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、 信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」  ここで主イエスは、旧約聖書に記されている事例を取り上げつつ、ご自身が人間の罪を 裁く蛇であると同時に、罪が赦される為に十字架にかかって死ぬ「人の子」(ここでは、「神 から遣わされた救い主」の意味と言ってよいと思います)であることを告げておられます。 この「人の子」を信じる者は皆、人の子によって「永遠の命を得る」。それが主イエスの約 束です。  そして、16節に繋がります。でも、今お読みになって、皆様も「あれ?」と思われたと 思うのですが、16節以下は、主イエスの言葉のようでありながら実はそうではありません。 この言葉は神様と主イエスに対する信仰告白の言葉であり、さらにこの福音書を書いたヨ ハネが属している教会の福音宣教の言葉、信仰への招きの言葉と言った方がよいのではな いでしょうか。こういうことは、イエス様のことをすべて過去形では書かず、今も生きて いるお方として書くこの福音書ではしばしば起こることです。イエス様の言葉は、そのま ま教会の宣教の言葉となり、イエス様の祈りはそのまま教会の祈りになるのです。  以上のことを踏まえた上で、今日の御言を見つめ、またその語りかけを聴いていきます。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も 滅びないで、永遠の命を得るためである。」  目に見えるシチュエーションは、ニコデモとイエス様の対話、つまり二人の人間の対話 の続きです。しかし、実はニコデモという個人は、世の象徴、世に生きる人間の象徴とい う役割を負わされていることが、ここでよく分かります。ニコデモとは、傍目には立派な 人格者であり、地位も名誉も知識もある人でした。しかし、心の奥底では不安があり、満 たされない思いがある。だから救いを求めている。主イエスの言葉で言えば、「神の国」で 生きる命、「永遠の命」を求めているのです。こういう人は世の中にはたくさんいますし、 今はキリスト者にされている私たちの誰もが恐らく例外なくそういう人間でもあったと言 ってよいと思います。そして、彼が世の典型、あるいは象徴であるもう一つの理由は、救 いを求めているのに、そのためには水と霊によって新たに生まれなければならないと言わ れると、尻込みして逃げるということです。新たに生まれるとは、それまでの命、人生の 終わりを経験する、死を経験することです。そのことが分かった時に、暗い子宮の中で生 きていたい、生きていけると思っている人間は、やはり怯えてしまってひきこもる以外に はないでしょう。こういう経験も、今はキリスト者である私たちは、それぞれに持ってい るはずです。それまでの生活の延長線上に自然と信仰が与えられたとか、それまでの自分 が何も否定もされずに信仰が与えられたとか、そういうことは本来あり得ないからです。 悔い改めるということは、それまでの生き方と逆の方向に生き始めることを意味するので すから。 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も 滅びないで、永遠の命を得るためである。」  この言葉、ここに記されている出来事を信じるとは、どういうことでしょうか。 それは第一に、自分が救われ、永遠の命を得るためには、神の独り子が十字架に掛かっ て死なねばならなかったのだ、自分の罪はそこまで重いのだと知ることです。その事実を 知ること抜きに、独り子を信じることも、その信仰によって永遠の命が与えられることも 起こり得ないのです。しかし、自分の罪を「知る」とは、客観的な認識のことを言ってい るようですが、実はそんな単純な、そして呑気なことではありません。ここにマイクがあ ることを知るとか、ペンがあることを知るとか、そんなことではありません。ここにマイ クとペンがあることを知ったとしても、それと私の人生とは何の関係もありません。しか し、私の中に罪があることを知ることは、それは私の人生にとってとてつもなく大きなこ とです。そのことを本当に知るとすれば、それは最早、それまでと同じ生活など出来ない ことだからです。  聖書が私たちに告げること、それは「罪の値は死である」ということです。罪の結果は 死である。そして、その場合の「死」は客観的な肉体の死のことを言っているのではあり ません。罪の結果としての死ではない肉体の死だってあるからです。御子主イエス・キリ ストの迎えによって天国へ旅立つ死があると聖書は告げています。罪の値としての死、そ れは肉体の死を言っているのではなく、滅びとしての死を言っているのです。そして、そ れは現に肉体としては生きながら経験する場合もあるのです。罪によって、生きながらに して滅んでいる、滅びが約束されている。そういうことが、あるのです。  神様が、「独り子を与えた」その目的とは、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠 の命を得るためです。ここでは、世に生きる人間は罪の闇の中に生きており、それは即ち、 滅びとしての死に向かって生きているのだという理解が前提とされています。それでは、 「滅び」とは何かということが問題になります。 この「滅び」と訳されたアポルーミという言葉がどこでどのように使われているかを調 べると、色々と興味深いことが分かります。そのうちの一つは、ルカによる福音書15章 に何度もその言葉が出てくるということです。ルカによる福音書15章には、有名なたと え話がいくつも出ています。百匹の羊の群れから一匹の羊がいなくなってしまう話、ある いは10枚の銀貨のうちの一枚がなくなってしまう話。そして、親の遺産の半分を現金に 換えて家出し、都会の遊びで身を持ち崩した放蕩息子の話です。私たちが今礼拝において 使用している新共同訳聖書では、羊が「見失われた」、銀貨が「なくなった」、そして、息 子が「いなくなった」と訳されています。しかし、それはすべて同じ言葉であり、ヨハネ 福音書で「滅びる」と訳されている言葉と同じなのです。  一匹の羊を見つけることを、主イエスはこう仰いました。 「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人について よりも大きな喜びがある。」  見つかった銀貨についても、こう仰った。 「一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」  そして、放蕩の限りを尽くして身を持ち崩した息子が見えも外聞もなく帰って来た時、 走りよって抱き締めた父は、こう言ったのです。 「この息子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった。」  「いなくなっていた」とは、この息子を愛して止まない父にしてみれば「死んでいた」 ということであり、それは「滅んでいた」ということに他なりません。自分の子を何より も愛する親は、自分の子供がいなくなり、死んでしまい、さらにそれが滅びとしての死で あることには耐えられません。息子が帰ってくるまで、心が痛み続けるのです。そして、 待ち続ける。家を出て滅んでいくその滅びの責任が、子ども自身にあることが明白であっ ても、息子が帰ってくるなら、悔い改めるなら、親はすべてを赦して自分の腕の中に抱き 締めたいのです。それが親の「愛」というものです。聖書が証言する神の愛、それはそう いう愛です。  しかし、自分の欲望を実現させるために盗人のように財産を奪って家出をして、滅びに 落ちてしまった私たち罪人の罪を赦して、滅びから救い出し、永遠の命に生かすために、 神様がなさらねばならなかったこと、それがたった独りの子を、与えるということなのだ、 と聖書は告げます。  私たちは、この福音書の1章18節でこういう言葉を既に読んでいます。 「いまだかつて、神を見た者はいない。父の懐にいる独り子である神、この方が神を示さ れたのである。」  「独り子」とは「父の懐に」いた方です。その胸にしっかりと抱き締められていた子な のです。永遠の昔から、この父と子は一体の交わりをしていた。離れることなど考えよう もない愛の交わりの中に生きてこられたのです。しかし、神様は、その子を与えてしまっ た。世に与えてしまった。「生木が裂かれる」という言葉がありますが、本来一体であった ものが引き裂かれるということは、つまり、それまでの状態ではあり得ないということで す。神様が神様としてのあり方を全く新しいものに変えてしまわれたということです。そ れが新しい契約、新約聖書は、その愛の凄まじさを証言しているのです。神様との交わり を捨てて、世に出て行き、その世の闇の中で生きている罪人、暗闇の中で見失われ、なく なってしまい、いなくなってしまった罪人を、一人でも多く見つけ出し、再びその腕の中、 懐に抱き締めるために、父なる神様は、たった独りの子を世に遣わし、世に与えてしまっ た。それは、神様の方からすれば失ってしまったということです。 そして、独り子なる神であるイエス様は、その父なる神様の愛を体現する方として、肉 をもった一人の人間となり、罪に陥って、自ら滅びに向かっている私たち一人一人を追い かけ、探し出し、見つけ出し、主イエスを救い主と信じて永遠の命を生きる道を開いてく ださったのです。ご自身が一旦十字架の上で滅びることを通してです。 「私たち罪人を救うために、自分が滅びる。生かすために、自分が死ぬ。それが愛、それ が御子イエス・キリストを通して現わされた神様の愛なのだ。この愛を信じ、罪を悔い改 め、身も心も一切を委ねれば、救われる。神様との愛の交わりの中で、肉体の死を越えて、 永遠に生かされる。賛美と感謝と喜びの中に生きることが出来る。」  ヨハネは、そのことを堅く信じて、この喜ばしい知らせ、「福音」を証言しているので す。  問題はこの福音を聞いた私たちが信じるか否か。ただ、それだけです。 「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じ ていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を 好んだ。それが、もう裁きになっている。」  信じる者は裁かれず、信じない者は既に裁かれている。救いとは裁きを経たものです。 誰もが無条件で救われるなどと、聖書には記されていません。「そんな無慈悲な?!」など と言っても仕方ないことです。救いの背後には、主イエスの十字架の死という事実があり、 最も無慈悲な目にあったのは、実は神の独り子なのです。そのことを知れば、私たちは神 様に対する不平不満など何も言えません。「裁き」とは「区別」のことです。この区別があ るから救いがあるのです。 もちろん、神様は分け隔てなく、世を愛されました。世の中のある人々を愛し、ある人々 を愛しておられないわけではありません。神様は世を愛されたのです。しかし、その愛を 受け入れる人と受け入れない人がいる。そういう違いがある。そこに区別がある。これは 事実です。そして、その事実に基づいて、私たち洗礼を受けた者だけが天国の食卓、ある いは天における礼拝を指し示す聖餐の食卓に与るのです。愛を受け入れていない者は、ま だその食卓には与らないし、与れないのです。  私たちの誰もが、かつては福音を聞いても信じない人間でした。信じることが出来なか ったのです。何故でしょうか?理由は色々あるでしょう。しかし、突き詰めていけば、結 局、こういうことなのではないでしょうか。 自分の罪を認めたくないということです。自分が滅ぶべき罪人だなんて認めたくないの です。そして、それを認めないが故に、心底から救いなど求めていないのです。救いを必 要としていないのです。だから光の方に来ないのです。しかし、それは本能的に知ってい るからだと思います。光にさらされると、自分の惨めさを知らされるということを。闇の 中に、つまり、これまで通りこの世の中に生きていれば、自分の惨めさなど知らないです むから、わざわざ光の方に来ることなどしないのです。私たちがかつて礼拝に誘われても、 礼拝に行かなかった理由は、突き詰めれば、そういうことです。そして、私たちが今礼拝 に誘っても、礼拝に来ない人たちもまた同じです。まして洗礼を受けることを拒絶する深 い理由は、そこにあります。もちろん、神様のことがよく分からない、聖書もろくに読ん でいない、色々な正当な理由はあります。しかし、それもこれも含めた上で、敢えて言い ますが、自分がこの罪のお陰で滅んでいく、いや今既に滅びの中にいると心底から分かれ ば、「助けてください」、「赦してください」、「救ってください」と叫ぶほかないのです。あ る人がこういうことを言っていました。「海の真ん中で溺れそうな時に、小さな木が流れて きた。その木よりも大きな木があとから来るかもしれないとか、その木がどこに流れ着く かなんて考えてなどいられない。とにかく、その木にしがみつく。それ以外に、溺れる人 間のやれることはない。」そうだと思います。ただ、私たちにとってやっかいなのは、本当 は溺れているのに、その自覚をもてないということです。浮世の波というのは、時に心地 よく波乗りをしている気分にさせるものだからです。  私は少年だった頃から、かなりの年齢になるまで、新聞配達をすることが好きで、趣味 と実益をかねてアルバイトとしてよくやっていました。東京でも京都でも松本でも色々な 所で早朝新聞を配りました。朝の冷気の中、誰にも会わないで一人で配っていると気分が よいのです。松本には、みるからにみすぼらしい小さな歓楽街(「裏町」と呼ばれていまし た)があるのですが、ある朝、そこで働いている女性たちが店から出てきた所に出くわし ました。一晩中、酒を飲みながら働いていたその店内はもちろん暗い照明でしょうし、そ の暗さの中でこそ美しく見える衣装を着て、そういう化粧をしているのです。でも、そう いう衣装とか化粧は、太陽の光、それも出てきたばかりの清々しい光線に照らされると、 惨めなほど醜いのです。そのことは、彼女達自身が誰よりも知っています。だから、店を 出て朝陽に照らされた瞬間、そしてそこに私がいたのを見て、何とも言えない顔をして顔 を伏せました。光に照らされて、自分の醜さがさらされる時、私たちは顔を伏せてうつむ くしかありません。  カインが弟アベルを殺したとき、神様が出てくると、彼は顔を上げませんでした。見ら れたくないのです。アダムとエバだって同じです。彼らは体全体を隠しました。醜いこと、 悪いことをした後、そのことが白日の下にさらされようとする時、私たちは顔を隠し、体 を隠すのです。醜いこと、悪いことも、実は闇の中では美しいことだし、善いことなので す。闇の世界と光の世界では価値が全く逆転しているからです。光の世界では盗み、姦淫、 泥酔、殺人などは悪事であっても、闇の世界ではほめそやされるようなことであり、美し いことであったりする。だから、闇の中は居心地がよいのです。神様の懐から飛び出して、 その家を飛び出して、街に出て、放蕩の限りを尽くしている間は、あるいはその逆に目に 見える形では立身出世をしている間は、少なくとも、光に照らされたくはないのです。「あ なたはどこにいるのか」「あなたは何ということをしたのか」などと問われたくはありませ ん。その問いの前に立って、自分が今何処にいるかを知ってしまったら、自分がやってい ることが何であるかを知ってしまったら、つまり、今、自分が闇の世の中で放蕩の限りを 尽くしつつ、あるいは立身出世をしつつ、結局、罪の中に陥り、罪の数々を犯しているこ とに気づいてしまったら、本当の意味で知ってしまったら、もうそれ以上、同じことは出 来ないから、私たちは光よりも闇を好むのです。そして、そのことが「悪い」ことであり、 そのことが既に「裁き」になっているのです。 「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない からである。」  「憎む」などと言われると、「私は憎んでなどいない」と言いたくなりますが、最近急激 に増えてきた幼児虐待、その虐待の中の一つはニグレクトというものです。つまり、無視 です。親は、自分は子供を憎んでなどいない。だから殴ったり、蹴ったり、熱湯を掛けた りなどしていない・・と言うし、そう思っている。でも、子供にしてみれば、自分を愛し 育ててくれる唯一の存在である親から無視されることは、下手をすれば、殴られることよ りも痛切な悲しみです。それは存在の否定だからです。具体的に殺されることではないか もしれないけれど、事実上の抹殺だからです。そのニグレクト、無視の中に、根深い憎し みが隠れているのです。自分で気づいていないだけです。  「悪を行う者は皆、光を憎む」。そうです。私たちが、世の光として来て下さったイエス 様を無視する。その言葉を聞いても聞かなかったように生きる。それはイエス様を憎んで いることなのです。自分の罪を知らせる光、自分が実は滅んでいるという事実を知らせる 光など、私たちが愛するはずがないじゃないですか?私たちは無視して、そして腹の底で イエス様を憎んでいる場合があるのです。その内面の思いもまた、私たちは無視して、自 分が善人であるかのように思っている場合が多い。つまり、闇の中では自分自身の姿も見 えないということです。恐ろしいことです。 「真理を行う者は光の方に来る。その行いが、神に導かれてなされたということが、明か になるために。」   20節と21節を表面的に読むと、悪人は光の方には来られないけれど、正しい人は正々 堂々と来られるのだと誤解してしまうかもしれません。しかし、ここで言われていること は、そういうことではないと思います。光であるイエス様のところに来ないこと、そのこ と自体が悪いことであり、裁きを自ら招くのです。そして、「真理を行う」とは、光である イエス様のところに来ることなのです。そして、実はその真理の「行い」そのものが、「神 に導かれてなされた」ものなのです。これはちょっと意訳で、直訳すれば、「神の中でなさ れた」ということです。 この先の6章44節で、主イエスはこう仰っています。 「わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来 ることは出来ない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。」  主イエスの下に来る、光の方に来る。独り子の名を信じる。これは、私たち人間の努力 だとか修行の結果、自らの力で獲得する信仰なのではなく、最終的には神様の恵みによっ て与えられる信仰です。そして、その信仰の結果何が起こるかと言えば、「神の中に」自分 を見出すということが起こるのです。見失われていた羊であった自分が、失われた銀貨で あった自分が、いなくなっていた息子、死んでいた息子、滅んでいた息子であった自分が、 今、父の懐に中に迎え入れられている。それは何故か。父が、独り子を与えるまでに、私 たちを愛してくださっているからです。独り子が私たちのために罪の結果としての死、滅 びとしての十字架の死を味わい尽くしてくださったからです。その上で、罪と死の力に勝 利をして下さった。復活して、天に昇り、今は聖霊を通して、私たちを新たに造り変えて 生かそうとしてくださっている。ご自身を憎んで抹殺した相手を、ここまで愛して下さっ ている。 私たちには、この愛は信じて受け入れるか、憎んで受け入れないかの二つの道しか残さ れていません。そして、そこで永遠の命に生きるか、滅びるかが分かれるのです。どちら でもない第三の道など、残念ながらないのです。だから私たちは、神様に、どうか恵みに よって信仰を与えてくださいと祈るしかありません。罪の支配からの救いを求めて、信仰 を求めること。それが、私たちの悔い改めであり、一人でも罪人が悔い改めれば、天上で は大きな喜びがあるのです。主イエスは、その者を赦して、神の国に招き入れてくださる からです。  アウグスティヌスという人は、散々放蕩を繰り返したあげくに、信仰を与えられ、神様 に向かって、こう告白しました。 「よろこんで、讃えずにはいられない気持ちにかきたてる者、それはあなたです。あなた は私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうち に憩うまで、安らぎを得ることが出来ないのです。・・・主よ、私はあなたを呼び求めなが ら尋ね、信じながら呼び求めたい。あなたはすでに私たちに宣べ伝えられているのです。 主よ、私の信仰があなたを呼び求めます。信仰を与えてくださったのはあなたです。あな たの御子の人性を通じ、その宣教者の奉仕を通じて、私の内に吹き込んでくださったので す。」  私たちが信仰を与えられて、神様の内に自分を見出したときに、つまり、神様の懐に抱 かれる子供としての本来の自分に帰ることが出来た時に、私たちは真の平安を得ることが 出来るのです。そこにこそ、永遠の命があるからです。この命に生きるために必要なこと は、ただ一つ、罪を悔い改める者のどんな罪をも、神様は独り子の十字架の死によって赦 して下さり、その復活の命に与らせてくださることを信じる信仰だけです。そして、その 信仰は神様が与えてくださるのです。そして、その信仰が与えられる時、私たちの口から は賛美が溢れ出てくるのです。 今日、この礼拝堂に来た皆さんは、神様が主イエスの下に引き寄せてくださったから、 ここにいるのです。まだ自分の罪を知らず、心底からの救いを求めることをせず、新しく 生まれ変わるための洗礼を受けておられない方が、一日でも早く罪とその赦しを知り、主 イエスを信じて洗礼を受けることが出来ますように。そして、心からの賛美を捧げること が出来ますように。既に洗礼を受けて信仰に生きている私たちは、今日も、光によって罪 の汚れをさらけ出されたのですから、その汚れた手足を主イエスの前に差し出し、洗い清 めていただきましょう。そして、今日からの一週間、清められた罪人、死んでいたのに生 き返った子供として、感謝と賛美をもって光の子らしく歩み出しましょう。
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