「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属
する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見た
こと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れ
る者は、神が真実であることを確認したことになる。神がお遣わしになった方は、神の言
葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。
御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永遠の命を得て
いるが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にと
どまる。」
ヨハネによる福音書3章31節〜36節
今日与えられている言葉が、一体誰の言葉なのか?そのこと自体に論争があることは先
週語った通りです。そして、私は洗礼者(バプテスマの)ヨハネの言葉として読む立場を
取ることも、先週語りました。しかし、先週も少し触れておいたことですが、このヨハネ
の言葉の中に、たとえば3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を
愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」という
言葉と似たものがあることも事実です。この言葉は、文脈上からは、ニコデモという人に
対するイエス様の言葉のはずですけれど、ここでは何の説明もなく、この福音書を書いた
ヨハネという人、あるいは彼が属している教会の信仰告白、また信仰への招きの言葉です。
こういうことが、この福音書ではよくあります。そして、ある学者は、今日の31節以下は
元々十六節以下の言葉に繋がっていたはずだと言います。つまり、教会の信仰告白の続き
だと考えるのです。文章の内容だけ考えれば、それも当然のことだと思います。しかし、
現在の文脈としては、洗礼者ヨハネの言葉として受け取らざるを得ないのですが、その言
葉の中にも福音書記者のヨハネ、あるいは彼が属する教会の信仰の告白が入っているのだ
と思います。つまり、理想的な証言者である洗礼者ヨハネに、後の教会の信仰告白の言葉
を語らせている。そう考えてよいと思うのです。
私たちはよく「きっと死んだお爺ちゃんは、こう言っているに違いない」とか「こう言
って喜んでいるに違いない」というようなことを言います。それはある意味で、後に生き
ている者たちの想像に過ぎません。しかし、その想像が全くあり得ない想像である場合は、
捏造ということになるのですが、誰しもが、「まさにあの人が今生きていたら、そう言って
喜んだに違いない」と思える内容である場合、それは捏造ではなく、一つの証言になるこ
とがある。それと似たようなことが、ここにはあるのだと思うのです。洗礼者ヨハネが、
実際にこういう言葉を言ったかどうかは分かりませんが、ヨハネが生きていたとすれば、
こう言っていたはずだということです。そして、その言葉は、3章16節以下のように、内
容的には、主イエスの言葉であってもおかしくないし、教会の言葉であってもおかしくな
い。そのように、三者が密接に絡まっている。
こうして見ると、つくづくヨハネ福音書というのは面白い福音書です。非常にフィクシ
ョナルでありつつ、非常にリアリスティックであると言わざるを得ません。そして、その
リアリティとは二千年前に起こった歴史的事実に関するリアリティであると同時に、今も
起こっている事実に関するリアリティです。この福音書を読んでいると、それも聖霊の導
きを祈りつつ読んでいると、さらにこうして礼拝の中で読んでいると、つまり、私にして
みると語りながら聞き、皆さんにしてみれば聞きながら読んでいると、説教の言葉と聖書
の言葉が次第に重なり合ってきて、どちらが語っているのか分からなくなる。そういうこ
とが事実として起こる。起こる人には起こるのです。そして、起こらない人には起こらな
い。それもまた二千年前の少しも変わらぬリアルな現実なのです。
そのことを覚えた上で、ご一緒に読んでまいりたいと思います。
「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属
する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。この方は、見た
こと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。その証しを受け入れ
る者は、神が真実であることを確認したことになる。」
この言葉を読むと、まず思い出すのが、ニコデモに対するイエス様の言葉です。イエス
様は、3章11節以下でこう仰っています。
「はっきり言っておく。わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししているの
に、あなたがたはわたしたちの証しを受け入れない。わたしが地上のことを話しても信じ
ないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た
者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。」
主イエスは天から降って来られた唯一のお方です。だから、天上のことを語ることが出
来る。天上で見たり、聞いたりしたことを、語ることがお出来になる。主イエスご自身が、
後に、こう仰っています。
「父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。」(6章46
節)
「わたしは父のもとで見たことを話している。」(8章38節)
「わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向
かって話している。」(8章26節)
しかし、その主イエスが、地上に生きる人間に地上的なことを語っても受け入れないの
ですから、まして天上ことを語ったところで受け入れるはずがないとお嘆きになる。今日
の箇所では、それと同じことを、洗礼者ヨハネが言ったということになっています。
しかし、注意しておかねばならぬことは、3章11節以下の「イエス様の言葉の中」に、
突然、「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししている」という一人称の
複数形が入ってくるということです。つまり、ここも教会の言葉なのです。イエス様の言
葉と教会の言葉がぴったり重なり合っているのです。つまり、イエス様は、今は教会の中
で生きており、教会を通して語られるということなのではないでしょうか?だからこそ、
教会が存在している限り、イエス様は常に現在形で、そして時に複数形の証しの中で、自
らの言葉をお語りになっている。今日の箇所でも、そういうことが起こっているのだと思
います。洗礼者ヨハネの言葉の中には当時の教会の言葉があり、その言葉の中に、実は教
会を通していつの世にも語りかけてこられるイエス様の言葉がある。そして、いつの世の
中でも、その証しは受け入れられない。そういう現実がある。これは既に繰り返し言われ
てきた現実です。
こういう現実をどう考えるのか?ある人は、神の選びの中で、信じる者と信じない者と
が既に決められているのだ、と言います。この「神の選び」とか「神の予定」とか言われ
る事柄の裾野は広く、奥行きは深いのですが、五世紀前半に活躍したアウグスティヌスと
いう人はこの立場を取ります。しかし、その一方で、二〇世紀の神学者であるバルトとい
う人は、信じる者と信じない者との対立という単純な問題ではないと言います。「すべての
人間は繰り返し信じない。そして、信じる者が存在するということは、モーセの杖が触れ
た岩から水が流れ出るようなものだ」と言っています。つまり、それは奇跡であり、恵み
なのだということでしょう。アウグスティヌスとバルトとでは、一見すると全く相容れな
い主張をしているのですが、両方とも「確かにそうだ」と言わざるを得ない面があると、
私には思えます。しかし、実は両者が共通していることもある。それは「信じる」という
行為そのものが、神様の恵みの賜物であって、人間の努力の賜物ではないということです。
この点に限っては、二人は同じだと言ってよいでしょう。そして、皆さんも、アウグステ
ィヌス的に考えるにせよ、バルト的に考えるにせよ、私たちが今キリスト者にされており、
こうして毎週の礼拝を守るものとされ、礼拝の中で語られる言葉、歌われる賛美、祈られ
る祈りの中にイエス様の臨在を知り、天からの言葉を聴き取り、さらに天の情景を見るこ
とが出来るとすれば、それはまさに恵みの賜物として受け止める以外にはないのではない
でしょうか。
そして、その「恵みの賜物として与えられた信仰」において、私たちは神様の真実を確
認するのです。ここで「確認する」と訳された言葉は、他の聖書では、「確認の印を押した」
となっています。正式な契約が成立した時などに、私たちは署名捺印をします。中渋谷教
会も土地建物などの権利証は、銀行の貸し金庫に入れてあり、印鑑もそこで保管していま
す。つまり、署名捺印をしてない書類は、何が書いてあっても、ただの紙切れに過ぎない
けれども、署名捺印がしてあると、それは絶大な効力を持つのです。
私たちが、様々な形で証言されているイエス様の言葉を信じることが出来る時、私たち
は水と霊からなる洗礼を受けます。それは、「神はその独り子をお与えになったほどに、
世を愛された」という証言が真実であることを法的にも有効な形で確認していることなの
です。そして、その時、私たちキリスト者の存在そのものが、神の愛とその真実を証しす
るものとなるのです。その問題は、また最後に戻ってくることにして、今は、先に進みま
す。
「神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになる
からである。御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。御子を信じる人は永
遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒り
がその上にとどまる。」
ここではっきりと語られていることは、神様の派遣と聖霊の付与が、神の言を語ること
の条件だということです。御父は御子を派遣し、御子に“霊”(聖霊)を限りなくお与えに
なっているのです。そうであるが故に、イエス様のお語りになることはすべて、神の言で
あり、1章1節にありますように、イエス様の存在そのものが神の「言」であるし、イエ
ス様の御業もまた神の「言」なのです。その点でイエス様は唯一無比の独り子です。御父
は御子を愛して、その手にすべてを委ねられているのです。
しかし、17章2節を見ますと、イエス様は父なる神様への祈りの中で、こう仰っていま
す。
「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあな
たからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。永遠の命とは、
唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知
ることです。」(17章2節3節)
すべての人を支配する権能を与えられたイエス様の手に「委ねられた」人とは、イエス
様を信じる人々です。17章の文脈上では、イエス様の弟子たちのことであり、それはつま
り、教会に生きる私たちキリスト者のことです。(私たちはイエス様に委ねられ、また私た
ちも自分をイエス様に委ねた人間達です。)イエス様は、イエス様を信じる私たちに「永遠
の命」を与えることが出来るのです。そして、この「永遠の命」とは、霊魂が永遠に不滅
であるということではなく、「唯一のまことの神であるあなたと、あなたのお遣わしにな
ったイエス・キリストを知ることです」とあります。「イエス・キリストを知ることです」
とイエス様自身が祈りの中で言うはずはないので、これもまたイエス様の祈りの言葉の中
に教会の信仰告白、信仰への招きの言葉が入っていることは明らかですけれども、問題は
「知る」ということです。ここでの「知る」は、常々言っておりますように、ただ知的に
知るということではなく、「信じる」ということだし、「愛する」ということだし、心も体
も「交わりの中に生きる」ことなのです。だから、イエス様の言葉、教会の証言の言葉を
信じて洗礼を受ける時に、私たちは、イエス・キリストとイエス・キリストを遣わして下
さった父なる神様と、聖霊の注ぎの中で、全身全霊を含めた交わりを生き始めるのですか
ら、その時に既に永遠の命は与えられており、今はその生命を生きているのです。
その反対に、その言葉を信じないで、つまり、聞いても従わないで、これまで通り生き
ていくことは、神の怒りの下に留まることなのだと言われています。既に読んだ言葉で言
えば、「信じない者は既に裁かれている。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、
光よりも闇を好んだ。それが、もう裁きになっている」ということです。
ヨハネ福音書の一つの特色は、「いつか裁きが来る」とか、「世の終わりに神様の怒りが
発せられる」ということではなく、今がその時であり、今信じれば今救われるし、今信じ
なければ今裁かれるのだと証言していることです。光は今来ているのだし、神の言は今証
言され、語られており、それを私たちは今、見たり聞いたりしているのです。光は闇の世
に来た命なのですから、その命の到来という喜ばしい事実を告げる言葉を聞いても、その
言葉を信じることなく、受け入れることをしなければ、それはこれまで同様に死の闇の中
を肉体が生きているだけなのだし、それは罪に対する神の怒りの下に留まり続けるという
悲しく愚かしい人生を生きるだけになってしまう。そのこと自体が、既に自ら招いた裁き
なのだ、ということです。
「あなたは、本当にそれで良いのか?!」と、ヨハネは真正面から私たちに問いかけま
す。そして、このヨハネの背後に、主イエスがおられるのです。
先週、教会員の皆様には、献金感謝の祈りに関する文章を長老会としてお配りしました。
その中に、こういう言葉があります。
「礼拝において御霊の導きの中で与えられる御言によって示されることは、主イエス・キ
リストの献身の愛です。その愛に対する私たちの応答は、何よりも献身(奉献)となって
表れるはずのものです。『献金』とは、あくまでも主の献身に応える私たちの『献身のしる
し』です。私たちは、自らを主に捧げる祈りと共に献金をするのです。」
ここに出て来る「礼拝において御霊の導きの中で与えられる御言」とは、具体的に何を
指すのかと言えば、説教のことです。しかし、私たちが「御言」と言えば、それは神の言
なのであって、人の言葉ではありません。神様がお語りになる言葉を「御言」というので
す。そして、私たちはまず何よりも『聖書』を神の言、御言として信じ、そういうものと
して読んでいます。しかし、聖書を読んでも、なかなか分からない、ピンと来ない、神様
からの語りかけとして響いてこない。そういうこともあります。聖書そのものが、ある意
味では、聖霊の導きの中で、神様の言葉の翻訳あるいは説き明かしとして人間の手によっ
て書かれた書物ですから、その聖書もまた、翻訳され、説き明かされなければならないの
です。その時に、どうしても必要なのが、聖霊、御霊です。つまり、聖霊として生きる神
様の導きなのです。神様の言葉は神様ご自身によって教えて頂かないと、結局、大事なこ
とは何も分かりません。勉強で分かることは勉強で分かることですから。
アウグスティヌスは面白いことを言っています。既にご紹介したこともありますけれど、
彼は説教の中で、ヨハネ福音書を書いたヨハネに関してこう言っているのです。
「兄弟たち、ヨハネもまた〔真理を〕あるがままに語ったのではあるまいと、わたしは敢
えて言う。彼もまた自分にできる限りで語ったのである。なぜなら人が神について語った
のであるが、彼は神から霊感を受けていたとはいえ、人だったからである。彼は霊感を受
けたゆえに語った。もし霊感を受けなかったならば、何も語らなかったに違いない。しか
し彼は、人として霊感を受けたのであるから、存在するもののすべてを語ったのではなく、
人にできる限りのことを語ったのである。」
そうだと思います。この福音書全体を「語り」として捉えていることも正しいと思いま
すけれど、その語り、つまり証言は、明かに神様から与えられえた「霊感」によってなさ
れたものです。つまり、聖霊を与えられることによって、イエス様において現われている
神様に関して、見たこと、聞いたことを語っている、書いているのです。しかし、それは
あくまで人として出来る限り語ったのであって、それ以上のものではない。つまり、肉を
もって生きているものとしての限界があると言っているのです。しかし、神様は、またイ
エス様は、そういう肉をもって生きている人間に霊感を与えてご自身の言葉を聞かせ、そ
して聞いたことを語らせ、ご自身の支配の現実を見させ、見たことを証言させようとして
おられる。それが『聖書』の成立の背後にある神様の意志だと思いますし、礼拝において
語られる説教の背後にある神様の意志だと思います。
御言を語る者は、聖霊の導きを祈り求めながら、聖書を読み、印刷された文字の中に、
何が聞こえるのか、何が見えるのかを、必死になって探す以外に準備の方法はありません。
聖書に関する様々な勉強も、所詮は、霊感が降るまでの過程に過ぎません。そして、それ
は御言を聴く者においても同じであって、人が語る言葉の中に、神の言を聞き、生ける主
イエスの姿を見る。またはるかに天上の光景を仰ぎ見ることが出来るとすれば、それは霊
感が降る時、聖霊の導きの中に説教を聴ける時です。だから、説教前の司式者の祈りの中
で必ず祈らなければならないことが、語る牧師の上に聖霊が注がれ、聴く会衆の上に聖霊
が注がれ、人が語る説教が、神が語る御言になるようにという願いです。そして、その祈
りは、ひとり司式者の祈りではなく、私たちすべてが礼拝に向かって心備えする時の祈り
であるはずです。人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によ
って生きるのですから、礼拝において神の言を聴くことが出来るか出来ないかは、人間と
しての死活問題です。だから、皆で祈るしかないのです。
そういう祈りの中で礼拝に備え、そして神様が祈りに応える形で聖霊の導きを与えてく
ださり、その導きの中で説教が語られ、そして聞かれる時、私たちには何が起こるのか?
それが最後の問題になってきます。
今日の箇所の最初の言葉は、「上から来られる方」という言葉です。これはつまり「天か
ら来られる方」ということであり、天に属している方ということです。それに対して、地
から出た、地に属している私たち人間がいるのです。しかし、ここで「上から来られる方」
の「上から」という言葉は、ギリシャ語ではアノーセンという言葉です。そして、その言
葉は3章で既に二回出てきています。それはどこかと言うと、ニコデモに対する主イエス
の言葉の中です。
イエス様は、頭では神様のことを分かっているつもりであり、さらに深く分かろうとし
ているのかもしれないニコデモに対して、いきなりこう仰った。
「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」
その意味が分からないニコデモに更にこう仰いました。
「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは
できない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたが
たは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」
ここでの「新たに」という言葉が「上から」という言葉と同じ「アノーセン」です。そ
して、この「新たに生まれる」ために必要なのが霊、聖霊であり水です。つまり、聖霊の
注ぎの中で受ける水の洗礼です。私たちは誰もが聖霊によらなければ「イエスを主である」
と告白できません。聖霊を与えられ、神様の光に照らされる中で、それまでの自分の歩み
が、いかに神様から離れた歩みであったか、いかに薄暗い闇の中での歩みであったかを知
らされ、その罪を悔い改めて、洗礼を受ける者は、それまでの命、神の怒りの下にあった
命に死んで、新しく生まれることが出来ます。つまり、肉から生まれた私たちが、霊から
生まれた者となることが出来るのです。
パウロは、ガラテヤの信徒への手紙の中で、その霊的な命のことをこう言っています。
「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられ
るのです。」
このキリストの命が永遠なのです。キリストと共に生きることが永遠の現実だからです。
私たちが聖霊によって与えられる信仰において罪に死に、キリストを受け入れるとき、キ
リストが私たちの内に生き始めて下さるのです。そして、そのキリストは、体としては天
にあって、神の右の座についておられるのです。
ヨハネは、「御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命に与る
ことがない」と言っています。この「命に与る」という言葉は、実際には「命を見る」と
書いてあります。「見たこと、聞いたことを証しする」という場合の「見る」と同じ言葉で
す。聖霊によって御言を信じる時に、私たちはイエス・キリストが私たちの内に生きて下
さっていることを見ることが出来るだけでなく、天におられるキリストも見ることが出来
るのです。たとえば主イエスをキリストと証言したが故に殉教者となったステファノは、
ユダヤ人達に迫害をも恐れずに力強い説教をし、その最後に、聖霊に満たされ、天を見つ
めて、こう言いました。
「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える。」
それを聞いて、ユダヤ人はついに怒り心頭に達し、ステファノに石を投げつけて殺し始
めました。その時の情景は、使徒言行録にこう記されています。
「人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、『主イエスよ、わたしの
霊をお受けください』と言った。それから、ひざまずいて、『主よ、この罪を彼らに負わ
せないでください』と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。」(7章59
節〜60節)
これは肉では言えない言葉です。自分を殺す者たちの罪の赦しを願う。これは、主イエ
スの十字架のお姿です。しかし、霊から生まれた者は、この主イエスに似た者とされてい
く、主の言葉を語り、その祈りを祈る者とされていくのです。彼は、自分の中に生きてい
るキリストを見ることが出来、その命に与るのだし、天において神の右の座におられるイ
エス・キリストを見ることが出来、その天に自分が迎え入られて、生かされることを見る
ことが出来るのです。本当に幸いなことです。
私が、このヨハネ福音書の説教を始めたのが去年の一〇月一六日のことです。その五日
前の十月十一日に、ヨハネ福音書の研究者であり、私にとっては様々な意味での掛け替え
のない恩師でもあった松永希久夫先生が眠りにつきました。その先生のことを語りだせば、
今でも切りがありませんけれど、召される数日前に病床の先生をお見舞いした際に、先生
が仰った言葉を、私はヨハネ福音書の説教を準備する中でしばしば思い出します。先生は、
誰に言うとでもない様な感じで、こういう信仰の告白をされました。
「そうか、聖書はやはり本当のことが書かれているんだ。こうやって二度も同じことをし
ていると(死にそうなっても、なんとか生きているという意味だと思います)、そのことが
よく分かる。聖書はたしかに書かれたという意味では、ずっと後に書かれたけれど、人間
が後から考えて書いたことじゃないんだ。そうなんだ。ずっと前からあったこと、最初か
らあったことを、後から書いたんだ。すべてのものは、言によって出来たんだ。ただ、そ
れを見たままに書いているんだ。分かった。わざわざ来てくれて有難う。お子さんたちに
も宜しく。」
「すべてのものは、言によって出来たんだ。ただそれを見たままに書いているんだ。分か
った。」
その時の先生のお姿を間近で見つつ、私は、「今、先生には見えたのだ」ということが分
かりました。聖書の世界が見えた。神の国が見えたのです。松永先生は、死の間際に、聖
霊で満たされて、新たにされて、神の国を見ることが出来、自分が既に今、その国に生か
されていることを感謝し、さらに天の住いへと移されることも見えたのでしょう。神様が
聖霊の導きの中で見させてくださったのです。その時、先生はその見たまま、聴いたまま
を証言したのです。ステファノもそうです。洗礼者ヨハネもそう。福音書記者のヨハネも
そうです。そして、パウロもそうなのです。私もそうです。すべての説教者は、聖霊の導
きの中で見させられる神の国、キリストの命、キリストの姿を聖霊の導きの中で証言させ
られるのです。そして、聖霊の導きの中で聴かされた神の言、キリストの言を語るのです。
その証言を人の言葉としてではなく、神の言として聴くことが出来る人々がいる。その時、
その人々もまた、永遠の命を見、その命に与ることが出来るのです。
パウロは、言いました。
「わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いた
とき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからで
す。事実、それは神の言葉であり、また、信じているあなたがたの中に現に働いているも
のです。」(テサロニケの信徒への手紙T 2章13節)
またこうも言いました。
「神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果
たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。」(コ
リントの信徒への手紙U 5章20節)
神様は、ご自身が立て、聖霊を与えつつ遣わす人間を通して言葉を語ることがあります。
その神に遣わされた使者は、キリストに代わって、主イエスを信じて、神の怒りから逃れ、
和解させていただくように人々に勧めることが使命なのです。
だから、私も聖霊を与えられて語る者として皆さんに勧めます。
神様の独り子であるイエス・キリストを信じ、受け入れてください。そうすれば、あなた
はその罪を赦されて、新たに生まれることが出来ます。地に属しており、地の塵から造ら
れたが故に、地の塵に帰るべきあなたは、霊によって生まれ、天に帰ることが出来るよう
になります。キリストを信じてください。そうすれば、御言を聴くたびに、そして聖餐の
食卓に与るたびに、キリストがあなたの内に生きて下さっていることを見ることが出来る
し、天におられるキリストの面影を写し偲ぶことが出来るのです。永遠の命を生きること
が出来、さらにその命を人々に証ししながら生きることが出来るのです。なんと幸いなこ
とでしょうか。主を賛美し、感謝しましょう。
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