水を(飲ませて)下さい

及川 信

 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けておられるということが、 ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、―洗礼を授けていたのは、イ エス御自身ではなく、弟子たちである――ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しか し、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近 くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエ スは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。  サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子 たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあな たがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。 ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあな たが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれである か知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えた ことであろう。」  女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからそ の生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いの ですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸 から水を飲んだのです。」  イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与え る水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に 至る水がわき出る。」  女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、 その水をください。」                     ヨハネによる福音書4章 1節〜26節  先日、ある家庭集会で、人間は喉が渇いたと思った時には、もう既に脱水症状が始まっ ており、渇く前に水分を補強しておかないといけない、と教えていただきました。家庭集 会というのは面白いもので、そういう話から次第に「説教は神様からの愛のプロポーズだ」 という話になり、「愛しているよ」と毎日聞きながら、それにちゃんと応えて、私たちも「神 様、わたしも今日、あなたを愛しています」と言えたらどんなに良いことかと思うという 話になりました。そして、この「良い」という言葉は、ギリシャ語では、実は「美しい」 とも訳せる言葉ですけれど、そういうことを知ってか知らずか、ある方が、「日本の男とい うものは、妻に向かって『愛している』と言わないからいけない。だから、私たちも綺麗 でいようとか、美しくなりたいと思わなくなってしまうのよねー?」ということを仰って、 そこにいた女性たちは、皆「全くその通りだ」ということになって、皆で「先生もそう思 うでしょう?」という雰囲気になったので、私は思わず、日本の男、また夫を代表して「い や、まったくその通り。本当にすみません」と謝りました。しかし、そう仰る皆様方は、 私から見れば、とても美しい方ですと、その時は言えませんでしたから、この場を借りて 言わせて頂きます。  それはとにかくとして、喉が渇くということは、単に喉が渇いているのではなく、実は 体内に水分が不足していることであり、その体内の水分不足は自覚していなくてもお肌の 潤いだとか乾燥の具合と関係している。また、植物でさえ、「お前は綺麗だね、いい子だね」 と声をかけながら水をやると、本当に美しく花を咲かせるという話も以前聞いたことがあ りますから、心のこもった言葉とそれに伴う行いというものは、命を生かす力、霊的な力 があると言うべきなのではないか。家庭集会の帰り道、そんなことをあれこれ考えつつ帰 ってきました。すると会堂の正面にある掲示板に『水を(飲ませて)ください』という今 日の説教題が目に入り、説教の準備を始めろということだな、と感じたのです。  そして、準備しながら気づかされたことは、ヨハネ福音書は最初から「水」と「霊」と いう言葉が何度も出てくるということです。バプテスマのヨハネが、自分の洗礼は水の洗 礼だが、私の後から来られる方は聖霊で授けると言ったことに始まりますけれど、イエス 様はニコデモという人に、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入るこ とはできない」と言いました。また、3章22節からはバプテスマのヨハネの洗礼とイエス 様の洗礼について記されていましたが、そこには「水が豊かであったからである」とあり、 その続きの31節以下には、「神が霊を限りなくお与えになった」という言葉がある。これ は神様がイエス様に霊を限りなく与えるということですが、先週の説教で明らかなように、 イエス様を信じ、受け入れる者にも、似たことが起こるということでした。つまり、イエ ス様を信じる人には聖霊が与えられ、永遠の命に生かされ、さらにその命を証言する者に 造り替えられるのです。  その続きとして、今日の井戸の水を巡る話が出てくるのです。そして、これは先取りと して言っておきますが、この先の7章37節まで読み進めていくと、主イエスのこういう 言葉に出会うことになります。   「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖 書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」 イエスは、ご自分を信じる人々が受けようとしている霊について言われたのである。イエ スはまだ栄光を受けておられなかったので、霊がまだ降っていなかったからである。(7章 37節〜38節)  つまり、「水」と「霊」として出てきた二つの言葉が、次第に混ざり合って、最後には「水」 は「霊」であるということが明かになり、その「霊」、つまり「聖霊」は、主イエスの十字 架と復活の時に与えられることが暗示される。教会はその聖霊によって誕生し、聖霊によ って生きており、その聖霊において生きるイエス・キリストを多くの人々に知らせる証言 者として生き続けていることが、ここで暗示されるのです。4章1節から42節という長い 単元も、実はそういう大きな流れの中にあることを踏まえておきたいと思います。  そして、この1節から42節そのものの中にも流れがあり、この単元としての終着点が あることを、今日の段階でも覚えておいた方がよいだろうと思います。  このヨハネ福音書は、「イエスとは誰か」について、最初から最後まで追及し、その都度、 証言している書物だと言ってよいと思いますが、それはこの単元にも端的な形で現われて います。 10節には、こうあります。 イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませ てください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、 その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」  「『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか。」これが、この単元の主題です。 つまり、イエス様は誰であるか、です。 サマリアの女は、イエス様とのやり取りを通して、最初は「ユダヤ人のあなた」と言っ ていたのが、次には「主よ」と言います。これは英語で言えば「サー」、目上の人への敬語 程度の意味です。次に彼女は、「あなたは預言者だとお見受けします」と言います。しかし、 次には、「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が 来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」と言い、町の人々に「こ の方がメシアかもしれません」と言うまでになっていきます。そして、この女の証言を聞 いてイエス様と会い、暫く共に過ごした町の人々は、イエス様を信じるに至り、こう言う のです。 「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分 で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」  これがこの単元の結論であり、またこの福音書の結論でもあります。私たちは、この単 元を九月から何回かに分けて読んでまいります。それは私たちもまた、このサマリアの女 や町の人たちと同じく、イエス様を「メシア」「キリスト」「世の救い主」と信じて、その 信仰を告白するために読んでいくということです。 少し前置きが長くなりましたが、以上のことを踏まえた上で今日の箇所に入ります。  イエス様とその弟子たちの活動が活発に展開されていることが、ユダヤ人の一派である ファリサイ派の人々の耳に入った。すると、イエス様はユダヤ地方を去り、故郷であるガ リラヤ地方に行かれたとある。それはつまり、身の危険を感じられたということです。詳 しい事情は省きますが、ユダヤ教の当局者にとって、イエス様の活動は最初から危険なも のだったからです。しかし、問題はガリラヤへの通り道です。  ここには、「サマリアを通らねばならなかった」とあります。「サマリア」というのはエ ルサレムがあるユダヤ地方と北の辺境であるガリラヤ地方の中間にある地域のことです。 しかし、そのサマリアとそこに住む人々は、紀元前10世紀にイスラエル王国が南北に分 裂した時から次第に犬猿の仲になっていきました。そして、紀元前8世紀に北王国イスラ エルがアッシリアに滅亡させられて以後、その地には異邦人が強制的に移住させられ、異 民族同士の結婚が進み、血が混ざり合っていきました。また宗教的な面でも、以前からエ ルサレム神殿とは別の神殿を造ったりしていましたから、お互いに見るのも嫌だという感 じになっていたのです。関心のある方は、後で列王記下の17章あたりを読んでくだされ ば大筋は分かっていただけると思います。  ですから、ユダヤ地方からガリラヤ地方へ行く最短コースはサマリアを通ることなので すが、当時のユダヤ人は、決してその道は使いませんでした。しかし、イエス様とその一 行は「サマリアを通らねばならなかった」。これは表面的なレベルにおいては、急いでい たので直線コースを選ばねばならなかったとか、危険が迫っていたので、ユダヤ人の追っ 手が来ないサマリアの地を通ったとか解釈すべきことでしょう。でも、もっと深いレベル があるのだと思います。 「ねばならない」という言葉は、ギリシャ語ではデイと言いますが、この言葉は、以前 も言った様に、神様のご計画、救いの道筋を表わすことがしばしばある言葉です。ここも そうだとすれば、イエス様は、身の危険を感じて逃亡を余儀なくされ、最短コースとして サマリアを通っているように見えるのだけれど、実は、このことにも神様の深いご計画が あったのだ。このサマリアの地でも、罪人が、「霊と水とによって、新たに生まれる」ため に、イエス様はサマリアを通らねばならなかったのだ。そう受け止めることが出来ると思 います。そして、そのことを通して、ユダヤ人とサマリア人の間にある敵意や憎しみによ って聳え立っている壁をも打ち破っておられるのだと思います。  私たちは今、イスラエルとレバノン、ユダヤ人とアラブ人、ユダヤ教とイスラム教とキ リスト教の間に立つ厚く高い壁を思い知らされています。その壁を挟んで、人々は互いに 憎み合い、恐れ合い、殺し合っています。そして、その壁は、私たちが属している極東ア ジアの諸国の間にも高く聳え立っていることを、私たちは深く自覚しておくべきだし、実 は、その壁は、私たち一人一人の人間の心の中に立っている壁であることを、より深く自 覚しておく必要があるでしょう。  そういう壁が人間の内外に立っている世の中を、壁などあり得ない天から来られたイエ ス様が旅しておられる。そして、イスラエルの先祖である「ヤコブがその子ヨセフに与え た」と言われる井戸に到着されました。イエス様は、「旅に疲れて、そのまま井戸のそばに 座っておられた。正午ごろのことである」とあります。  今まで読んだ部分に、「与える」、「疲れる」、そして「井戸」と訳された言葉が出てきま す。調べていくと、この一つ一つが、実に面白いというか、緊密な関係と深い意味を持っ ていることが分かります。 最初に「疲れる」という言葉ですが、これは他の所では「苦労して働く」という意味で 使われる場合が多い。ヨハネ福音書では、この6節と38節にだけ出てきます。そこで主 イエスは弟子たちに向かってこう仰っています。 「そこで『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あな たがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わし た。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」  この言葉に関しては、後日ここを読むときに詳しく語りますが、主イエスは、ここで「あ る人が伝道の種まきをしても、その実りが与えられるのは次の世代だ」と仰っているのだ と思います。つまり、「労苦」とは神の国、罪の赦しと永遠の命の到来を告げる伝道の労苦 なのです。その言葉が、6節では「旅に疲れて」というふうに使われている。だとするな ら、先ほど言いましたように、主イエスは単に逃避行をしているのではなく、罪人に福音 を告げる伝道の旅をして下さっているのです。そして、なかなか受け入れられない現実に 疲れていらっしゃる。しかし、その疲れの中でも、主イエスは一人の女を救うために、労 苦を厭われません。  時は「正午ごろ」のことです。井戸のそばに座っている主イエスの所に、   「サマリアの女が水を汲みに来た。」  誰だってお分かりのように、水が必要なのは朝とか夕です。洗顔、炊事、洗濯に必要な 水を汲みにいくのは朝だし、夕食を作るために必要な水を夕に汲む。そして、その時と場 所が、近隣住民のまさに井戸端会議になるわけです。井戸端は、住民同士のコミュニケー ションの場ですし、それが同時に、互いを見張り合う機能も持ち、噂話の温床にもなる。 それは古今東西変わることがありません。その井戸に「正午ごろ」水を汲みに来るひとり の女がいる。これだけでもう既に「訳あり」の女であることが察せられます。  この女が、実は五人もの男との結婚と離婚を繰り返し、今も一人の男と同棲していると いうことが、主イエスによって明らかにされていくことになりますけれども、その女に向 かって、主イエスの方から、「水を飲ませてください」と語りかけるのです。  これは二重三重の意味で女にとっては驚愕すべきことでした。主イエスは見た目で分か るユダヤ人でした。そして、男です。ユダヤ人とサマリア人は交際をしない。お互いに口 を利かない。それが通常の姿なのです。さらに、初対面の男と女が外で言葉を交わすとい うことも、通常ではあり得ないし、それも、男の方から女に頼みごとをするということは 考えられないことです。  しかし、伝道のために労苦している主イエスは、その旅の中で疲れ、渇きを覚えておら れる。そして、訳ありの女に「水を飲ませてください」と頼んでいる。直訳すれば「私に 下さい、飲む物を」「私に与えてください、飲む物を」です。主イエスは喉が渇いているの です。  女は驚きます。 「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むので すか。」  主イエスは、しかし、ここで不思議なことを仰います。 「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのが だれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた 水を与えたことであろう。」    ここに繰り返し「与える」という言葉が出てきます。「神の賜物」という言葉も、「神が 与えて下さる物」という言葉です。この4章1節から15節までの間に、「賜物」も入れる と、実に九回も「与える」(ディドーミ)という言葉が使われているのです。問題は、誰が 誰に何を与えるかです。そして、誰が誰から何をどのようにして受け取るのかです。  「飲み物を与えてください」と言っているのが誰であるかを知らず、神様が何を与えて 下さるのかも知らない女は、こう言います。 「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を 手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコ ブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲ん だのです。」  彼女達サマリア人にとって、ヤコブは偉大な先祖でした。そのヤコブが自分達に与えて くれた井戸と、その井戸から汲む水こそが、彼女達の生活を支え、命を支えているのです。 女は、主イエスに「汲む物を持っていないのに」と言っていますが、ある本によるとこの 井戸は地中三十メートルの深さで、人々は長いロープがついた桶を各自持ってきて汲んだ とありますから、旅人に過ぎない主イエスにとっては、まさにお手上げの井戸です。  けれど、主イエスは、こう仰います。 「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇か ない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」  ここにも「与える」という言葉が二度出てきます。ここでの与え手はヤコブではないし、 女でもない。主イエスです。主イエスが、人々に水を与えることが出来るというのです。 それも「生きた水」をです。当時、この言葉は溢れるばかりに湧いてくる水や、滔々と流 れ出る水を意味していたようですが、地下三十メートルの井戸から水を汲むものを持って おらず、喉の渇きを自分ではどうすることも出来ない主イエスが、そして「私に与えてく ださい、飲む物を」と頼んでいた主イエスが、いつのまにか、水を与える者になっている。 そして、その水とは、井戸の水ではなく、生きた水であり、さらにその水を飲んだ人の中 で泉となって、永遠の命に至る水がその泉からどんどん湧き出るというのです。  女は、私たち同様、主イエスが何を言っているのかさっぱり分からないのです。でも、 彼女は思わず、こう叫びます。 「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみにこなくてもいいように、その水をく ださい。」  彼女こそ、渇いていたのです。  これまで、「疲れる」と「与える」という言葉に関して見てきました。最後に「井戸」と 訳された言葉について見ていきたいと思います。私たちが礼拝で使用している『新共同訳 聖書』では、6節に二度、11節と12節に一度ずつ、合計四度「井戸」という言葉が出て きます。6節の方は、イエス様がそばに座っている井戸です。11節と12節の方は、女の 言葉の中に出てくる井戸です。両方とも「井戸」と訳されていますけれど、原文では違う 言葉が使われています。もちろん、肉眼に見える「井戸」は一つだし、同じものです。け れど、ヨハネ福音書では敢えて違う言葉を使っているのです。6節の方の、イエス様がそ ばに座っている井戸は、ギリシャ語ではペーゲーという言葉です。それは14節でイエス 様が「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と仰っ た「泉」という言葉と同じです。それに対して、女の言葉に出てくる井戸(フレアル)は、 人間の手によって掘られた通常の意味での井戸です。水が地中で染み出るだけで湧き出る 泉とは程遠い井戸のことです。  となると、ことの真相は、こういうことになるのではないでしょうか。目に見える形で は、イエス様の身に危険が迫り、逃避行の旅に出られた。そして、その旅に疲れ、喉が渇 いた主イエスが井戸のそばに座り、井戸から水を汲む桶を持っている人が来るのを待って おり、女が来た途端に「水を与えてください」と頼んでいる。でも、実はイエス様は水が どんどん湧いてくる泉の辺で待っているのです。渇ききっている女をです。そして、その 女に生きた水を与えようとして待っている。そういうことが、ここで起こっていることな のではないでしょうか。  この女は夫を五人も変えました。しかし、現実は分かりません。変えられたのかもしれ ない。五人を捨てたのか、五人から捨てられたのか、それは分かりません。夫婦なのです から、どちらか一方だけの責任とは言えない部分があるでしょう。そして今、六人目の男 とは結婚しないで同棲している。結婚することに恐れを抱いているのかもしれない。いず れにしろ、この女は、男からの愛を求めて、その愛に縋り付き、溺れて、そして結局、深 まらない。満たされない。潤わないのです。「あなたを愛している」と言って欲しい。そう 言い続け、そして言ったとおり愛し続けてくれる男を、あるいは夫を心から求めている。 でも、そんな人はいない。求めれば求めるほど、夫にはうっとうしがられて逃げられてし まう。捨てられてしまう。自分もまた、移り気で、一人の人を愛し続けることが出来ず、 あっちにフラフラ、こっちにフラフラしてしまう。男の愛に裏切られ続け、また自分で自 分の愛も裏切る。そういう裏切りの中で、お互いの間には、厚くて高い壁がそそり立つ。 もう決して越えることが出来ない壁がそそり立つのです。 そういう悲しい経験の連続の中で、この女の心は激しく渇いているでしょう。もう、カ ラカラに渇ききっている。もちろん、これは女だけの問題ではありません。愛を求め、そ の告白を求めているのは女だけではない。男もまた同じです。愛に飢え渇いているのは男 も女も同じです。そして、男も女も、自分のすべてを受け入れて欲しい、自分のすべてを 理解して欲しい、そして、すべてを赦して欲しいと願っている。相手に願っているのです。 でも、相手に願っていることを、自分が願われることは困るのです。毎日「愛している」 と言って欲しい妻が、夫に毎日「愛している」と言うかと言えば、そんなことはない。少 なくとも日本では大体はそんなことではないと思う。それじゃ、毎日、電話を切る時でさ え「アイ ラブ ユー」と言うことが習慣となっている国々での夫婦の間に壁が立つこと がないのかと言えば、そんなことはない。離婚率が50パーセント近かったりするのです。 要するに人間の言葉なんて、何とでも言えるのであって、軽いものです。そういう言葉に 縋っても溺れても、惨めなだけです。しかし、愛を最初からまったく信じることが出来な いで、その言葉に縋ることも溺れることも出来ないのも惨めです。結局、人間はそのどち らかの惨めさを味わいながら生きるしかないのだとも言えるでしょう。  そういう私たち惨めな人間の心の渇き。それはまさに「罪人の渇き」と言うほかにない と思いますけれど、その「罪人の渇き」を癒し、その内面から潤すために、主イエスは「サ マリアを通らねばならなかった」のです。そして、鎖国をしていた日本を通らねばならな かった。そして、渋谷を通らねばならなかったのです。そして、私たち一人一人と出会っ てくださったのだし、出会ってくださっているのです。主イエスは今日も、私たちに永遠 の命に至る水を与えようと、井戸のそば、憩いの汀に座っておられる。私たちは、浮世の 生活の中で、人の罪の現実に打ちのめされ、自らの罪の現実に疲れ果て、望みを失ってい ます。でも、なんとかして新たな命、新たな力を得たいと願って「この世の救い主、キリ スト」にお会いしたくて、礼拝にやって来ました。 「その水をください。」    これは私たちの叫びです。普段意識しない、意識しようとしない、意識したくない、心 の奥深くの叫びです。真実の愛に飢え渇いた惨めな罪人の叫びです。 「わたしを愛してください。『愛しているよ』と言って下さい。わたしは愛を信じたいので す。永遠の愛を信じることが出来れば、私は満たされます。潤います。生きていくことが 出来ます。」  私たちは誰でも、心の奥底でそう叫んでいる。主イエスは、そういう私たちに、こう答 えて下さいます。 「わたしを信じなさい。私が与える水を飲みなさい。聖霊を受け入れなさい。そうすれ ば、あなたは決して渇くことがない。そればかりか、わたしが与える水は、あなたの中で 泉となって、あなたを永遠の命に導き、さらに生きた水が川となって、あなたの中から周 囲の人たちに流れ出ていくことになる。わたしはあなたを愛している。このわたしを、そ の愛を信じて欲しい。そして、生きて欲しい。」  ヨハネ福音書で「渇く」という言葉が、最後に出てくるのはどこか?それは十字架の場 面です。  主イエスは、罪に対する神様の峻厳な裁きを罪人に代わって一身に受けながら、なんと 仰ったか。 「渇く」 こう仰ったのです。 主イエスの周りには、主イエスを最初から憎んでいたファリサイ派がいます。主イエス を最初は信じたけれど、直ぐにその信仰を捨てた人々がいます。主イエスのことを裏切り、 売った愛する弟子がいます。「あなたのためなら命を捨てます」と言いながら、結局、逃げ た弟子たちがいます。皆、自分だけ愛しているのです。人間とはそういう存在です。罪人 とは、自分だけ愛する人間ことです。そして、実はいつも激しく渇いているのです。自分 だけ愛するとは、自分しか自分を愛する人間がいないと信じているということですから。 こんなに悲しく、惨めなことはありません。 主イエスは、そういう悲しく惨めな罪人の「渇き」を、本当に心底から、いや、体全体 で味わってくださいました。渇ききって死んで下さったのです。罪人を愛したからです。 その愛を裏切らなかったからです。裏切られても、裏切られても、主イエスは、ご自身の 愛を裏切らない。私たちを愛してくださいます。 そして、この主イエスのわき腹を一人の兵士が槍で刺したとき、そのわき腹から「血と 水とが流れ出た」とあります。主イエスご自身から、命の水が流れ出てくる。命の御霊が 流れ出てくるのです。私たちはこの水、聖霊によって、初めて渇きを癒され、新たな命に 生きることが出来るのです。  その命を得るために必要なこと。それはただ一つです。「信じなさい」というプロポーズ に対して、「主よ、信じます。わたしにその水をください。聖霊をください」と答えるだけ なのです。こう答えることができれば、私たちは尽きない泉を内に与えられつつ生きるこ とが出来るのです。そして、私たちの内から水は他の人々に流れ出していくのです。なん と幸いなことでしょうか。

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