霊と真理による礼拝

及川 信

イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は
答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいま
せん』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添って
いるのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主
よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しま
したが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」
イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でも
エルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 あなたがたは知らないもの
を礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ
人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父
を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者
を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理
をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれ
るメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに
一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話
をしているこのわたしである。」
                ヨハネによる福音書4章1節〜26節

 「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼
拝している。」

 一ヵ月半ぶりに、またヨハネ福音書の説教に帰ります。前回は、サマリアの女
とイエス様との間で繰り広げられる会話の途中、15節で終わっていますから、今
日はその続きです。でも、今日も26節までは出来そうもなく、修養会を挟んで
再来週にもう一度同じ箇所の説教をさせて頂きます。
 今日は、今お読みした主イエスのお言葉から思い起こしたことを語ることから
始めさせていただきたいと思います。主イエスは、ここで「父を礼拝する」と仰
り、また「わたしたちは知っているものを礼拝する」とも仰っている。ここでの
問題は、自分の父を知って礼拝しているか否かということにあります。つまり、
イエス様の父である神様を自分の父と呼んで礼拝することが出来るか否か。それ
は、救われているか否かという違いなのです。
 私が大学時代に出席していた京都の教会も、牧師になって赴任した松本の教会
も、献金感謝の祈りはその当日に指名されるという習慣でした。礼拝が始まる前
に司式者が予め依頼している場合もありますけれど、しばしば司式者は依頼を忘
れるのです。そうなりますと、講壇の上からいきなり「それでは、誰々さんに献
金感謝の祈りをお願い致します」と司式者が言うことになります。私も月に一回
程度司式をさせて頂いていましたけれど、私はしょっちゅう忘れてしまい、その
場でお願いしていました。そして、多くの場合、その場でいきなり捧げられる祈
りに慰められ、心から「アーメン」と唱えていました。その祈りには説教を聴い
た直後の生々しい感動とか悔い改め、また感謝があり、献身の祈りがあったから
です。説教者の喜びとは、説教を聴いた方が、「御言に触れたことが分かる」こと
です。説教の内容や構造が理解されたとか、納得してもらったということは、あ
る意味どうでもよいことであり、そんなことを目的として語っているわけではな
いのです。説教の目的は、語る者も聴く者も、今日与えられている御言、聖書の
言葉に触れるということ、神様の臨在、キリストの臨在に触れて、罪を悔い改め、
信仰を告白し、賛美を捧げることにあります。ただそれだけが目的なのです。私
が聴衆として毎週礼拝に出席して説教を聴いていた時代も、私にとってはただそ
れだけが問題でした。説教を聴いていて、御言が聞こえてくる瞬間、聖書の世界
が見える瞬間、その瞬間がある時、私にとってその日の説教は説教となったし、
それは私の中で神様への礼拝を引き起こすものでした。牧師の説教の起承転結な
ど何も覚えていなくても、神様の愛に圧倒された。罪を示された。赦しを示され
た。そういうことが分かる時、私にとって、それは礼拝となりました。そして、
説教者として礼拝を捧げるようになってから、信徒の方の献金の祈りを聞きなが
ら、「ああ、この人は、今、私の説教を通して、私が聴いた以上のこと、見た以上
のこと、感じた以上のことを見聞きし、感じ、そして信じているのだ」と分かる
時、「こんな説教でも神様が用いてくだされば、ちゃんと役に立つんだ・・・」と
心底ホッとし、感謝したことが何度もあります。
祈りには人によって癖というか個性がありますけれど、ある初老の女性の場合
は、本当に幼子が父親を慕うように、祈りの中で「お父様、お父様」と仰ってい
ました。「今日もお父様を礼拝できて感謝します。お父様のお言葉がよく分かりま
した。お父様、どうぞ赦して下さい。どうぞこれからも見守っていてください。」
その方は、いつもそう祈られました。私は、そういうお祈りを共にしつつ、私ま
でもが幼子のような気持ちになって、天の神様が今ここにおられるお父様として
感じられて、心が熱くなりました。この方が「知らないものを礼拝しているので
はなく、知っているものを礼拝している」。それは明らかな事実です。そして、そ
のこと自体が救いだと思います。
主イエスは、その救いをサマリアの女に与えるためにこう仰っています。

「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい。」

この女は、これまでに五人もの男と結婚と離婚を繰り返し、今も別の男と同棲
中の女です。その事実を町の人は知っており、そうであるが故に彼女は人目を避
けて真昼間に井戸の水を汲みに来たのです。そこに既にある種の象徴とか暗示が
ありますけれど、彼女は水を飲んでもすぐに渇いてしまうのです。「あっちの水は
甘いぞ」と思って新しい井戸に飛びつくけれど、その水の味にも程なく飽きてし
まう、あるいは井戸の水が枯渇してしまう。そうすると新しい井戸、新しい男に
移っていく。そうやって、渇きを癒そうとしながらますます渇いていく。そうい
う女であったと思います。そして、そこに私たちのかつての姿、あるいは今でも
潜む姿があることは事実だと思います。
主イエスは、ユダヤ人の迫害を逃れて、ユダヤ人が蛇蝎の如く嫌っているサマ
リア人の住む町に入り、そこで疲れ果て、喉の渇きを癒すために井戸の辺に座り、
水を汲んでくれる人を待っておられました。表面的には、主イエスこそが水を求
めていたのです。けれども、実は事の深層においては、女こそが心底渇いていた。
そして、ついにこの女は、主イエスに向かって「主よ、渇くことがないように、
また、ここにくみにこなくてもいいように、その水をください」と叫ぶに至りま
した。この叫びは「救いが欲しいのです」という叫びです。
主イエスはその女に向かって「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」
と促す。イエス様は何もかもお見通しなのです。そして、イエス様が、女に向か
って「行って、あなたの夫をここに呼んできなさい」と言う時、それは女の心の
渇きの本質がどこにあるかをズバっと抉り出す言葉となっていると思います。
私たちも、聖書を読んでいる時に、そういう言葉に出会う瞬間があります。自
分でも普段は全く意識していない、あるいは意識しまいと隠蔽している思いや出
来事が、ある言葉に触れた瞬間に、隠しようもない形で示される。神様そしてイ
エス様には、すべてがお見通しだったんだ・・・ということを知らされる瞬間、
そういう瞬間があります。その時、私たちは神様の前に立たされているのです。
葉っぱで腰を覆い隠しつつ。しかし、イエス様は、その葉っぱの覆いも取り去っ
てしまわれます。女を救うために、そして私たちを救うためにです。
 女は、「わたしには夫はいません」と言いました。これは嘘ではありません。
本当のことです。そして、この事実の中に、彼女の悲しみ、嘆き、渇きがあるの
です。今、彼女には夫がいない。彼女を愛してくれる存在、彼女だけを命がけで
愛してくれる存在がいない。そして、彼女自身もその命をかけて愛する存在がい
ないのです。その事実を、彼女は語りました。
 しかし、実は今も夫ではない男性と「連れ添っている」、その事実は語りません
でした。「嘘」は言ってはいないけれど、「すべて」を言っているわけでもないの
です。そうである限り、それは完全な自白ではなく、完全な悔い改めには結び付
かず、結局、完全な救いにも至らないのです。主イエスは、適当なレベルで人間
を慰めて、「お優しいお方だ」と慕われるために、この世に来られたのではありま
せん。世の罪人に慕われるためではなく、世の罪人を罪の支配から救うために来
られたのです。そして、罪人が救われるためには、自分の罪を自分で見つめ、罪
の赦しを信じて悔い改めることは避けて通ることは出来ません。主イエスは、「永
遠の命に至る生きた水を下さい」と切望する女に対して、その水を与えるための
一筋の細い道、救いへ至る細い道を提示し、その道を歩むように促し、彼女がも
う逃げも隠れも出来ない状況に追い込んでいかれたのです。
その時、彼女は「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と告白します。
この「預言者」をメシアに匹敵する者と解釈するか、それとも一種の神的な力を
帯びた預言者と解釈するかで学者の意見は別れます。けれども、彼女がこの言葉
を発した直後に、礼拝の場所を問題にしていることから、今彼女の目の前にいる
人が、メシアとしての預言者であれ一般的な預言者であれ、彼女自身は、神の前
に自分が立たされていることを直感したことは確かだと思います。そして、「神様
の前に立つ」とは、どういうことかと言えば、それは「礼拝する」ということな
のです。ここでは、「ひれ伏す」という意味の言葉が使われていますけれど、礼拝
はまず神様の前にひれ伏し、憐れみを乞い求める、罪の赦しを乞い求めることに
始まります。典礼歌が、キリエ・エレイソン(主よ、憐れみ給え)から始まるの
は、そういうところから出てくることです。その後、礼拝には「罪の告白」「赦し
の宣言」「宣教」「賛美」「奉献」、そして「派遣」と「祝福」という要素がありま
す。しかし、そういう礼拝を「知らないもの」に対して捧げても、それはまさに
滑稽というか、惨めなことではないでしょうか。
神様から遣わされたイエス様に次第に追い詰められている女は、ここでまだ逃
げの姿勢を見せます。

「わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所
はエルサレムにあると言っています。」

 この女が、ある意味でサマリア人を代表する立場に立っていることは事実です。
しかし、その「サマリア人」の中に「自分」を隠してしまって、さらに「先祖」
という過去の人々に言及して、主イエスの目を自分からサマリア人、あるいはそ
の先祖に逸らそうとする。そういう思い、彼女自身も気がついていない思いが、
ここにはあるように思えます。そういう彼女に、イエス様は間髪入れずにこうお
答えになりました。

「婦人よ、わたしを信じなさい。」

「今の問題は、あなたなのだ。他の誰でもない。あなたの救いこそ、今の私の問
題であり、あなた自身の問題であるはずだ。だから、私がこれから言うことをよ
く聞き、それを信じなさい。」そして、このイエス様の言葉は、私たちに向けられ
た言葉でもあることは、言うまでもないことです。
「あなたは今、サマリアの女と私の間の話だと思っているかもしれない。二千年
前にあったある人と私の出会いの話を、昔の物語、異民族の先祖の話として聞い
ているとするなら、それはとんでもない思い違いだ。今、私はあなたに向かって
語っているのだ。」
主イエスは、そうおっしゃっているはずです。何故なら、「まことの礼拝をする
者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」と主イ
エスが仰る「今」とは、サマリアの女と話している時の「今」でありつつ、この
福音書が書かれた時の「今」であり、この福音書を今のような礼拝の中で読むす
べての人にとっての「今」を意味しているからです。この点については、次回に
また触れることになるはずです。
 だから、「わたしを信じなさい」という言葉は、そのまま今ここにいる私たち
ひとりひとりに向けての言葉として読まないと、読んだことにならないのです。
そして、そういう意味で正しく読む場合、私たちにとっては、信じるか信じない
かの二者択一しかないということが明らかになるのです。私たちは「今」、そうい
う問いの前に、あるいは決断の前に立たされているということを、深く覚えてお
かねばなりません。
 主イエスは、こう言われます。

「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。
あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼
拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。」

 ここで「あなたがた」と「わたしたち」という言葉が出てきます。しかし、こ
の「あなたがた」とは誰であり、「わたしたち」とは誰なのか?それは簡単に分か
る話ではないのではないでしょうか?皆さんは、読んですぐにお分かりになった
でしょうか?
文脈を素直に読めば、「あなたがた」とはサマリアの女を含むサマリア人全体の
ことだと思います。では、「わたしたち」とは誰なのでしょうか?これまた素朴に
考えると、「サマリア人」に対する「ユダヤ人」のことのように思えます。しかし、
ヨハネ福音書においては、そういうことはあり得ないのです。
 時間がありませんから詳しい説明は出来ませんけれど、たとえば1章11節に、
「言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった」とあります。この
言はイエス・キリストのことであり、「自分の民」とは狭義の意味ではユダヤ人の
ことです。ユダヤ人は、イエス様を受け入れないのです。また、2章にありまし
たように、イエス様自身がユダヤ人の聖地であり、中心であったエルサレム神殿
の礼拝を否定されました。今日の箇所でも、「この山でもエルサレムでもない所
で、父を礼拝する時が来る」と仰っていますから、エルサレム神殿を神聖な場所
として信じているユダヤ人とイエス様が連帯しているはずはありません。
 それでは、「わたしたち」とは誰なのか?そのことを考える上で大事な言葉は
「父」という言葉です。イエス様は、ここで当たり前のように神様を「父」と呼
んでおられます。「お父さん」と言っておられるのです。そして、当時のユダヤ人
にとって驚きや躓きはまさにそこにありました。ヨハネ福音書を読み進めていく
と、5章17節以下にこういう記述があります。

イエスはお答えになった。「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わ
たしも働くのだ。」
このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。
イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等し
い者とされたからである。

 父と子は、その本質を同じくするものです。神様を父と呼ぶということは、自
分が子であるということであり、親子は深い絆で結ばれているものです。ユダヤ
人は、自分達は律法を守ることで神と繋がっており、律法をもっていない異邦人
や、ユダヤ人でも律法を守らない、守れない者は、神から断ち切られた存在、見
捨てられた「罪人」なのだとしていました。しかし、イエス様は、そういう罪人
の一人一人を訪ね求め、その罪を赦し、神様との繋がりを回復して下さったので
す。それは、端的に言うと、神様を「父」「お父さん」と呼ぶことが出来る人間に
して下さったということなのです。
 パウロという人は、ローマの信徒への手紙の中で、救いに関してこう言ってい
ます。

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷と
して再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によ
ってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたち
が神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。

またガラテヤの信徒への手紙の中ではこう言っている。

あなたがたが子であることは、神が「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わた
したちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたがたはも
はや奴隷ではなく、子です。

神の霊によって信仰を与えられたということは、神の子として生きる霊を与え
られたということです。そして、この霊の導きの中で、私たちは御子イエス・キ
リストと共に神様を「お父さん」と呼ぶことが出来る者とされた。父を礼拝する
ことが出来る者とされたのです。それが、私たちに与えられた奇跡だし、恵みだ
し、救いなのです。

昨年に引き続き、八月の終わりに教会学校の夏季学校と教会全体交流会を一つ
の流れの中で持つことが出来ました。召しを受けて教師となった方たちや、サポ
ーターと称する方たちの喜びに満ちた奉仕によって、子供たちも愉しい時を過ご
しました。今年の夏季学校の主題は「放蕩息子の譬話」でした。子供たちは、夢
中になって紙芝居を作り、その興奮冷めやらぬうちに交流会の中で皆様に見てい
ただけて、とても良かったと思います。放蕩息子というのは、父親からふんだく
れるだけの財産を貰った上に家から出て行き、金を使い果たし、身を持ち崩して
しまった息子のことです。端的に言うと、「もう父と呼ぶ資格がない元子供」です。
父親にしてみれば「いなくなった息子」「死んでしまった息子」なのです。そして、
イエス様は、罪人とはそういう存在だと仰る。
このいなくなっていた息子が見つかり、死んでいた息子が生き返るために必要
なこと、それはこの息子が自分の罪を知って心から悔い改めることであり、その
悔い改めを受け入れて迎え入れてくださる父なる神様の愛です。この二つが相俟
って初めて、いなくなっていた息子、死んでいた息子は、新しく息子として誕生
する。それまで知らなかった意味と深さにおいて「お父さん」と出会い、父との
交わり中に生きることが出来るのです。神の子となることが出来るのです。
そこで私たちが思い起こさねばならない言葉は、ヨハネ福音書3章16節の言葉
だと思います。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者
が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 父なる神様が、いなくなっていた息子、死んでいた息子を、再びご自身の家に
迎え入れるために、ご自身の息子として抱き締めるために、永遠の命を与えるた
めに、ご自身の独り子であるイエス・キリストを十字架につけて殺した、裁いた。
その事実があるということ。そのことを、私たちは思い起こさなければならない
のです。
 私たちが「お父さん」と呼んで礼拝できるということ、父のもとへ帰ることが
出来たということ、それは御子イエス・キリストが死に、復活し、聖霊を与え下
さるという出来事があったからですし、今も聖霊を与えてくださっているからで
す。
そういうすべてのことを考えていきますと、主イエスの言葉の中に出てくる「わ
たしたち」は、もちろんユダヤ人のことではなく、イエス・キリストを信じ、受
け入れて、神様を「お父さん」と呼んで礼拝をしているすべてのキリスト者のこ
とです。この福音書を書いたヨハネその人と彼と共に生きているキリスト教会の
信徒すべてが「わたしたち」という言葉で表現されているのだし、そのすべての
キリスト者の中に霊において生きて下さっているキリストが、すべてのキリスト
者を兄弟として「わたしたち」と言っているのだとも言えるのです。つまり、キ
リストを信じ、神様を「お父さん」と呼んで礼拝しているこの「わたしたち」の
ことです。そしてそうなりますと、「あなたがた」とは、目の前のサマリアの女と
サマリア人だけではなくて、まだ神を知らないすべての人、まだ神様を「お父さ
ん」「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来ない、あるいはすべての罪をお見通しの上、
独り子を十字架につけてまでして赦してくださる神様を知らない人々のことを言
っているということになります。知らないからこそ、あちこちの神様を拝んでい
る。あるいは神などいないと思い込んでいる。そういう人々のことだということ
になります。
そういう意味で、私はとても面白く、また深いなと思ったのは、ある神学者が、
「わたしには夫はいません」という女の言葉を、「わたしには神はいません」とい
う意味だと解釈していたことです。これは深いし真理だと思います。問題は、そ
こにあるからです。
「主よ、渇くことがないように、またここにくみにこなくてもいいように、そ
の水をください」と叫んでいる女の渇きの根源的な理由は、「わたしには神はい
ない」ということにあるのです。豚の餌でさえ食べたいと思うほどの放蕩息子の
飢えの本質も、「もうお父さんと呼ぶ資格などありません」という所にある。父を
失ってしまった。もう「私には父はいない」ということ、それこそが飢えの本質
なのです。自分の肉の欲望、願望に従って生きることで真実の愛を失ってしまっ
た人間、罪人。その罪人たちの飢えと渇き。そのすべてを癒すために、主イエス
はユダヤ人の姿をもって来てくださり、私たちの心の渇きと飢えを暴いて見せ、
その上で、「私があなたの飢え渇きのすべてを引き受け、私が身代わりに十字架で
死ぬ。あなたが父の許に帰ることが出来るように、私が断絶してしまった関係を
命をかけて結んであげる。私を信じなさい。そして、聖霊を受け入れなさい。そ
うすれば、私と一緒に『アッバ、父よ』と呼ぶことが出来る。あなたは救われる。
だから、私を信じなさい」と語りかけてくださっているのです。

サマリアの女は、この後に続く、主イエスの言葉を通して、ついに信じるに至
りました。そして、同時に、これまで会いたくなかった町の人に、「さあ、見に来
てください。この方がメシアかもしれません」と、イエス様のことを宣べ伝える
人間に変えられていきました。罪赦されて、新たに命を与えられた喜びは、証し
を引き起こす、伝道を引き起こします。この女の証しの言葉を聞いてイエス様に
会いに来て、直接イエス様の言葉を聞いた町の人たちは、ついに「わたしたちは
自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かった」と告白する者に、
また造り替えられていったのです。
イエス様との出会い、それは一面で痛みを伴います。自分の罪が赤裸々に暴か
れるのですから。しかし、その罪のすべてを背負って身代わりに死んでくださり、
復活し、今も聖霊において生きて、私たち一人一人に語りかけ、働きかけ、導き
続け、執り成しの祈りを父なる神様に捧げてくださるイエス様に出会うというこ
とは、まさに感謝であり、喜びです。それは他の何ものとも比較することが出来
ない感謝であり、喜びです。私たちは、このイエス様を通して、天地の造り主な
る全能の父なる神の子として、永遠の命を与えられているのですから、「アッバ、
父よ」と神様を賛美しつつ、それぞれの生活の場、証しの場に出て行きましょう。
聖霊において今も働いてくださる主は、私たちと共にいて、その証しを支え、励
ましてくださいます。そして、必ずいつの日か、「わたしたちが信じるのは、も
うあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本
当に世の救い主であると分かったからです」と新たに信仰を告白する人々を生み
出してくださるのです。この二千年間、教会が一貫して伝道し、すべての大陸に
キリスト教会が建ち、キリスト者が誕生し続けていることが、そのことを証明し
ているでしょう。私たちの教会においても毎年、一人また一人と、自分で聞いて
信じるに至り、洗礼を受ける人が立てられています。主は真実なお方です。その
約束されたことは必ず実現してくださるお方です。だから、私たちは主を信じて、
主と共に「アッバ、父よ」と祈りつつ、今日から新たに信仰の道を歩んで参りた
いと思います。

ヨハネ説教目次へ
礼拝案内へ