「霊と真理による礼拝 U」

及川 信

ヨハネによる福音書 4章 1節〜26節

 

イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。 あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

前回に引き続き16節以下の御言に聴きます。前回は大体22節まででしたが、今日は26節までです。
 今日は、週報にも記載がありますように、中渋谷教会の創立記念日ですから、礼拝献金は将来の会堂建築のために捧げます。
中渋谷教会は3年の前史を経た1917年(大正6年)9月29日、「日本基督教会」という改革長老教会の団体に属する一つの教会として、その歩みを始めました。ですから、来年は90周年ということになります。教会が創立されるとは、先日の修養会で用いた言葉を使うならば、神を父と呼んで「礼拝する民が生まれた」ということです。今から89年前に、神はこの渋谷の地に、ご自身を礼拝する民を誕生させ、今もその民を養い導いてくださっている。その恵みを感謝し、御名を褒め称えることから、今日の説教を始めたいと思います。
 サマリアの女とイエス様の対話を読み始めてからもう二ヶ月になります。8月はヨハネ福音書の説教からは離れましたけれど、わたしの心の中では、ずっとこの対話が響き続けていました。そして、「なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない」という言葉は、今日の創立記念礼拝に聴くべき御言として、まことに相応しい言葉ではないかと思いました。
 神様が、神様をこのように礼拝する者を求めておられる。つまり、イエス様を通して神様を、「お父さん」と呼んで礼拝する者を求めておられる。神様が求めておられるから、教会は誕生するのです。そして、神様は今も、その教会における礼拝に、一人また一人を迎え入れようと働いておられます。つまり、罪人を一人また一人と、罪の奴隷状態から解放し、神様を礼拝する者、救いに与る者を造り出そうとしておられるのです。その神様の願いを、神様の独り子であるイエス様が、まさに体を張って実現しておられる。実はそのことが、このサマリアの女との対話において起こっていることだと、最近になって漸く分かり始めました。私は、時間をかけてゆっくりと読んでいかないと、ここで何が起こっているのかが、なかなか分かりません。読んでいることを忘れない限り、聖書はこうやってゆっくりと読んでいくものでもあるとも思いますし、急いで読み終わらなければならない理由もありませんから、今後も皆さんと一緒にこの福音書を嘗め回すように読んで参りたいと思います。
 イエス様は、人間としてはユダヤ人ですけれど、その同胞であるユダヤ人から迫害される恐れがあって、ユダヤ人とは昔から犬猿の仲であるサマリア人の地を通って故郷であるガリラヤへ向かっておられます。しかし、この先の4章44節には「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とイエス様ご自身が仰ったと記されていますから、イエス様はどこへ行こうと、敬われず、拒絶され、迫害されるということでしょう。神様の愛の体現者であるにも拘らず、人々から理解されず、愛されず、拒絶される。サマリアにおいては尚更のはずでした。女も、当初は、あからさまにイエス様に対する不信感を表明していました。しかし、その彼女が次第に、イエス様に心を開き、イエス様に「永遠の命に至る水」を「ください」と言うまでになっているのです。
今日の箇所は、その続きです。ここにありますように、彼女が愛に飢えた女であることは明白なことです。そして、主イエスはそのすべてをご存知なのです。五人の男との結婚と離婚、そして現在も他の男と同棲中であるということは、この女にとっては半ば公然の秘密であり、町の人々は薄々そのことを知っている。女は、町の人々の非難や侮蔑の目には堪えられない。だから、人目を偲んで昼の日中に町から少し離れた所にあったと思われる井戸に水を汲みに来たのです。人々の裁くような目線にさらされるだけで、この女は平静を保つことは出来ないからです。しかし、今、彼女は自分の隠したい部分のすべてを主イエスに見抜かれ、そして赤裸々に暴かれているのに、彼女自身はその言葉に傷ついているようには見えません。普通だったら、恥ずかしさと怒りの両方を感じて、その場から憤然と立ち去っていってもおかしくないのに、彼女はむしろイエス様の方に引き込まれていきます。
自分自身の暗部、あるいは恥部を、人に暴かれることは耐え難いことです。しかし、そうではあっても、私たちはその心の奥底においては、すべてを知って欲しい、知った上で受け入れて欲しい、赦して欲しい、愛して欲しいという渇望を抱えて生きているものです。自分でも受け入れ難い、自分でも赦し難い、自分でも愛し難い、その部分をすべて知って欲しい、そして、受け入れて欲しい。愛して欲しい。そういう願いを持っている。しかし、そんなことを求めることが出来る相手はいません。それは人間の求めであるに違いないけれど、人間に対して求めることが出来るものではないのです。そのことを、経験的に知っている人は知っているはずです。
彼女は、イエス様に向かって「主よ、あなたは預言者だとお見受けします」と言って、確かに神様から自分の所に遣わされた人物であると分かったのです。つまり、「この人が私のことを見抜くことが出来たのは、この人が神様から遣わされた人物であり、この人が知っているということは、神様が私のことをすべて知っているということだ。」そういうことを直観したのではないか?そう思います。
だから彼女は、神様に対する礼拝に関して話し始めます。しかし、イエス様は、彼女たちはまだ「知らないものを礼拝しているのだ」と仰る。22節に出てくる「あなたがた」と「わたしたち」というのは、この当時のユダヤ人とサマリア人の対立を背景として、「あなたがたサマリア人は神を知らず、私たちユダヤ人は知っている」と仰っているように一見すると見えますが、実は、ここはそうではなく、神様のことを「お父さん」と呼ぶことが出来るようになったキリスト者とそれ以外の人々のことであると、私は思います。つまり、ここで語っているのは、キリスト者、クリスチャンなのです。具体的にはこの福音書を書いたヨハネが属している教会のメンバーであり、当時のキリスト教会すべてに属しているクリスチャンが、イエス様の言葉を語っているのです。そういうことが、この福音書ではしばしばあります。
 そして、今日聴くべき言葉は、その後の言葉です。

「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」

 「まこと」、アレーシノスという言葉はヨハネ福音書にだけ出てくる言葉ですけれど、それは「真理」アレーセイアから出てきた言葉で、意味もほぼ同じです。そして、この「真理」という言葉はヨハネ福音書では非常に大切な言葉です。既に1章14節で独り子であるイエス様の栄光は「恵みと真理とに満ちていた」とありました。また、主イエスがローマの総督ピラトの裁判にかけられた時、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と仰いました。それに対してピラトは、「真理とは何か」と尋ねています。実に興味深いところです。この問題は福音書すべてを読んでいく中で次第に分からされてくると思います。
 しかし、真理という言葉を考える上で、外してはならない言葉は14章のイエス様の言葉です。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」14章6節〜7節

 つまり、イエス様を通って私たちは父の所に行く、あるいは帰ることが出来るのだし、イエス様を知ることは実は父を知ることであり、そして、それが真理であるということにもなります。そして、いつも言いますように、「知る」とは単に知的な知識ではなく、人格的な交わりを持つということであり、イエス様、神様との交わりを持つとは、具体的には礼拝における交わりであることは言うまでもありません。
 そして、私たちは「イエス様」「神様」と言いますが、イエス様がここで「神は霊である」と仰っているように、私たちキリスト者には肉眼で見える有難い「ご本尊」がありません。目で見て、手で触れる「ご神体」がないのです。特に、私たちのような改革長老教会の流れを汲む教会には、そういうものがない。この礼拝堂には十字架すら目に見える形ではありません。そういう目に見えるものを大事にするというか、そこに神様がおられると思ってしまうということは、裏を返せば、ご本尊がない場所、ご神体がない場所、つまり礼拝堂以外のすべての場所には神様がいないということになってしまうので、私たちは非常に強く警戒します。つまり、神様は、いつでもどこでも、私たちがいるところにはおられるし、交わりを持つことが出来るお方なのだと信じているのです。神様は霊なのです。しかし、その霊なる神様との交わりとは、具体的にどういうものなのでしょうか。
 この福音書を読み進めていくと、こういう言葉があります。

「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。・・・あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。・・・わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(14章15節〜22節)

   イエス様が肉体として弟子たちの前から去ってしまっても、いや、去るからこそ、父なる神様は「真理の霊」を弟子たちに遣わして下さるのです。そのイエス様は父のうちにいるわけだし、弟子たち、つまり私たちはイエス様の内におり、イエス様も私たちの内にいて下さる。そういう日が来る。そういう霊的な交わりの中に、人間が生かされる日が来ると、イエス様は仰っているのです。
 教会は、この聖霊、真理の霊が弟子たちに注がれたことによって誕生した礼拝共同体です。イエス様を思いきり裏切ってしまった弟子たちの罪をイエス様は赦して下さり、それだけでなく、彼らに罪人の罪を赦す権威を与える聖霊を注いで下さったのです。その時、教会は誕生したのです。十字架で死んだ今もイエス様が生きておられることを知った弟子たちが、イエス様を主、キリストとして礼拝し、さらに罪の赦しと永遠の命の福音を宣べ伝え始める民が誕生したのです。それが、2000年前の過ぎ越しの祭りが終わった日曜日のことです。その日以来、教会は日曜日の礼拝を守り続けてきました。
「霊と真理をもって」という言葉は「霊と真理の中で」とも訳される言葉です。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」ここに何度も「内におり」という言葉が出てきますが、それと同じ言葉です。私たちが霊と真理を用いて礼拝するのではなく、神様が送ってくださった霊と真理に包まれる中で、私たちとイエス様と神様が一つの愛の交わりの中に生かされていることを知らされて、その恵みと真理に満ちた神の栄光を讃美する。それが礼拝なのです。そして、私たち罪人が罪を赦されて聖霊の交わりに生かされることこそ「聖霊の賜物」であり、それこそ女が「その水を下さい」と切実に求めた水であり、イエス様が「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」と仰った水なのです。
 女は、イエス様との対話の中で、まさにイエス様の愛と赦しの心の中に引き込まれつつ、またイエス様を自分の心の中に次第に迎え入れながら、少し興奮気味にこう言いました。

「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」

 これは、預言者以上の方、42節の結論部分に出てくる言葉で言えば、「世の救い主」の到来があることは知識として知っていると言っているのです。そして、そのキリストが「一切のことを知らせてくださいます」と彼女は言う。しかし、その言葉を真っ向から否定するような形で、あるいは、真っ向から受け止める形で、主イエスはこう言われます。

「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 「いつか来ると、あなたが思っているキリスト、救いの福音をもたらすキリストは、私だ。私が、あなたの罪を贖い、愛に渇いているあなたに尽きることのない命の水を与える。あなたが信じるならば、あなたは今日、私の父を『お父さん』と呼んで礼拝することが出来る。あなたは父の尽きることのない愛と赦しの中で霊に満たされるだろう。」主イエスは、そう仰っています。誰に?この時、主イエスの目の前にいた女に?もちろん、そうです。しかし、今ここにいる私たちにキリストが語りかけているのです。そのことが分からないと、この福音書を読んでいることにはならないのです。
 昨晩、NHKの「世界遺産」という番組をご覧になった方もおられると思います。昨晩は、エルサレムが特集されていました。その中で、NHKのアナウンサーが、イエス様の墓と言われる教会の説明を日本人の神父さんから受けていました。その説明の中で、神父さんが「ここはイエス様の墓と言われているけれど、より正確に言うならば、イエス様の復活を記念する教会です。」アナウンサーは「復活」という言葉にビックリして「ふふ復活ですか?!」と尋ねました。神父さんは平然と「そうです、キリストは今も生きているのです」と応えました。アナウンサーは「今もですか・・・」と言って、絶句してしまいました。しかし、まさに私たちにとってイエス・キリストは今も生きて、そして語りかけて下さるお方です。

「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

 これは直訳すると、「わたしはあなたと話している者である」となります。ギリシャ語で言うと、「エゴーエイミ」「私である」という言葉が最初に来て、次に「あなたに語っている者」という分詞形が来ます。エゴーエイミという言葉は、神様がご自分を現わす時に使われる言葉でもあります。モーセが、シナイ山の麓で自分に語りかけてきた神様の名前を尋ねた時、神様は「『わたしはある』という名前だ」とお答えになりました。それがギリシャ語では「エゴーエイミ」です。そして、その時も、モーセに語りかけることにおいて、神様は神様として臨在しておられたのですが、ここでイエス様が、「わたしはあなたと話している者である」と仰った意味は、「私は神が遣わしたキリストであり、独り子なる神だ」ということです。「誰でも私を見ることで神を見、私を知ることで神を知るのだ。そして、私を信じる者は父の許に行くことが出来る。罪を赦され、永遠の命を生きるものとされる。それが、真理だ。あなたは私を信じるか」ということなのです。
 私たちにとっての礼拝とは、今に生きるキリストの前に立ち、こういう問いを受けることだと言ってよいのです。そして、この問いに対して、「主よ、信じます」と応えることが出来る時、私たちはキリストの贖いに与り、罪赦され、神の愛の中に新たにされるのです。だから礼拝こそ、キリスト者の命の拠り所です。ここで新しい命は誕生し、ここでその命は養われるからです。病や高齢の故に、たとえこの場に集えなくても、聖霊によってキリスト者とされた者たちは、この日この時、主にある兄弟姉妹と共に、どこであっても、霊と真理の中で神様を礼拝することが出来るのです。神様は、エルサレムとかゲリジム山の神殿の中におられるわけではないからです。
 今日、この中渋谷教会の創立記念礼拝において是非とも確認しなければならないことは、「10年ヴィジョン」にも掲げたことですが、私たちは何よりも礼拝に結集する民として生き続けなければならないということです。この「礼拝に結集する」という言葉は、私が学生時代を過ごした京都の北白川教会で初めて耳にした言葉です。それまで聞いたことのない言葉だったので、私にとっては鮮烈な響きでした。そして、その北白川教会の母教会は、この中渋谷教会です。
 中渋谷教会の創立が1917年(大正6年)であることは冒頭で言いましたが、その6年後、1923年(大正12年)は関東大震災に見舞われた年です。その時の森明牧師の一つの姿勢が『中渋谷教会80年史』に「教会と関東大震災」という題の文章の中に記されています。この山田松苗長老が記した文章は、私たちが繰り返し読むべき文章の一つだと思います。  それによれば、9月1日に大地震に見舞われた東京は、もちろん、水道、電気、電話、交通、すべてが破壊されましたし、多くの家は倒壊したのですから、沢山の人が食料や水を求めて避難所に集まっていたのです。その翌日は日曜日でした。山田松苗長老は、「『この様な非常事態に礼拝を欠席する事は、常識的に当然のこと』として片付けておいた」というのです。私もそう思います。しかし、事態は急転します。その日の午後、病身の森明牧師が、なんと震災の大混乱の中、ステッキをついて渋谷から山田長老が避難している麻布まで歩いてこられたというのです。その時の森明牧師について山田長老は、こう記しておられます。

「先生には恐怖はもちろん、驚きとか、周章狼狽の色は少しもなく、むしろ憂いと怒りに似た表情が表れていた。そして、一言『天地が崩れるようなことがあっても礼拝は止めません』との僅かな言葉を残して立ち去られた。」

 普通だったら安否を聞いて、無事を喜んで、感謝の祈りを捧げるようなシチュエーションだと思います。しかし、森明牧師は、礼拝こそ、キリスト者の命の源泉であることを断言することで、牧師の使命を果たして、そのまま帰ったのでしょう。キリスト者の命は、一体どこで養われるのか?!避難所で配られるパンと水なのか?!それとも礼拝の中で与えられる命のパンと水なのか?!そういう峻厳なる問いがここにはあるし、恐るべき言葉だと思いますが、こういうところに、私たちが本当に継承すべき中渋谷教会の伝統があるのだと、私は思います。「遅刻をするな」とか、「礼拝前に私語をするな」とかいうレベルとは比較にならないレベルがここにはあります。
 そして、先週は修養会の講演録を書く仕事を終えてから、今日の創立記念礼拝に備えて、清水二郎長老が書いた『森明』という本をパラパラとめくりながら過ごしました。まだ京都にいる頃にやはりパラパラと読んだ記憶がありますが、その時の私には難しい本でしたし、今も難しくてよく分からない所はいくつもあります。しかし、かつては中渋谷教会でしきりと口にされたという「血みどろの十字架」という箇所を読んで、今更ながら、私と中渋谷教会の不思議な縁を思わされました。そして、私の魂の奥底でピッタリ来るものがありました。
森明の信仰の中心は、キリストの十字架の贖罪、罪の赦しを信じる信仰です。その信仰について「語られた」ほとんど唯一の記録は、私の前任地である「松本日本基督教会」の礼拝で語られた説教の筆記として残っていることを知りました。最初にこの本を読んだ時は、その後、私が松本日本基督教会の牧師をさせていただいたり、さらに中渋谷教会の牧師にならせていただくなどとは想像も出来ないことでした。しかし、今、森明牧師の説教の要約を読みますと、まさに二五年余りの自分の歩みの暗部、恥部が曝け出されますし、その私の罪を背負って血を流して死んでくださったイエス様のお姿を、まざまざと見させられる思いがします。
 森明牧師は、こう語られました。少し飛ばしながら読みます。

「キリスト者が救いを得る秘訣は、泣いて徹底的に罪を悔い改めるにある。しからざれば、善に移る力がない。人は罪の結果を恐れ、苦しみ、その罪を苦しまない。・・・『わが神、わが神、何ぞ我を捨て給うや』。われらを愛し給う故に、イエスはわれらの立場に下られ、かく祈られたのである。神の怒りは遠慮なくキリストに降りかかって来た。神において、罪は、ただ許したくも許す道がない。神が正義であるなら、決して許すすべがない。真に悔い、謝して苦しむ事が必要である。真に罰せられることが必要である。・・・罪には永久に責任があるもの。この責任はキリストが負われる。・・・・どうせ弱い者の集まりである。過ちも起こる。しかし、もし右の手が汝を罪におとさば、これを切って捨てろ。救われたくば、血みどろになって来い。そして、人間のどうしてもできない関門を越えるのには、御霊の導きによるのである。・・・キリストほどのお方に思われている。彼のためには、自分はどうなってもよい、どうか従わせてください。・・・よく戦ってくれたと、イエスに喜ばれるまでになりたい。弱いものは途中で倒れるかも知れぬ。二十年、三十年、倦まずたゆまず、自重自愛、御霊に導かれて戦い、勝利を得て行きたいと思う。」

   サマリアの女は、それまでの人生の飢えと渇き、その惨めな罪のすべてをイエス様に暴かれていくことを通して、この方こそ、自分のすべての罪を背負って神の裁きを受け、血みどろの十字架に掛かって死んで下さる救い主、キリストと出会って行くことになりました。そして、この女は、私たちです。私たちキリスト者です。私たちは誰でもこの女なのです。真実の愛を知らない寂しさの中に、肉の欲に振り回され、自己保身をし、自己独善に陥り、愛と信頼の交わりをどんどん失い、愛に渇き、その渇きを癒すためにこの世が提供する水を飲めば飲むほど、実はもっと渇いていく。その悲しい罪の現実をどうすることも出来ない。その連鎖から自分の力では抜け切ることが出来ない。しかし、イエス様はそういう私たちを探し求め、追いかけ、ある時は待ち伏せし、見つけ出し、語り掛け、そして聖霊を注いで信仰を与えて下さいました。そして、今日も、私たちに聖霊を注ぎつつ、語りかけてくださっています。「わたしを信じなさい」と「今こそ、霊と真理の中で礼拝する時だ。あなたが救われる時だ。あなたがいつか来ると思っているキリストは、今、あなたに語りかけている私だ。私を信じなさい。」この語りかけに、「主よ、信じます。信仰のないわたしを助けてください」と応答することが出来ますように。
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