「わたしたちが知らないことがある。」

及川 信

ヨハネによる福音書 4章27節〜42節

 

ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。 その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」 さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

 先週の金曜日、A・Kさんが95歳で召されました。その日の夕方、この会堂で納棺式を執り行い、昨日ご家族、ご親族による前夜式を執り行い、明後日の午前十時半から葬儀を執り行います。ですから、今日は、こうしてA・Kさんのご遺体を前にして礼拝を捧げます。

(一)状況設定
 今日ともう一回掛けて、ヨハネ福音書のイエス様とサマリアの女の話を読み終わりたいと思っています。
 この話は、非常に長い上に、読めば読むほど実に巧みに構成されていることが分かりますし、いつも言いますように、時空を越えたイエス様の言葉が飛び出てきます。そういうところを読み取っていかないと、少しも面白くないというか、今に生きる私たちに対する言葉となっていかないのです。
 今お読みいただいた27節以降も、町に大急ぎで帰っていくサマリアの女と入れ替わりに食料を買いに行っていた弟子たちが町から帰ってくるという状況設定が大事なのです。その時、弟子たちは、見知らぬ女と話しているイエス様のただならぬ気配を感じつつも、彼らは腹が減っていたのでしょう、「ラビ、食事をどうぞ」と言います。しかし、実は、ちょうどその頃、あの五人もの男との結婚と離婚を繰り返し、今は六人目の男と同棲をしているあの女は、これまで町の人との接触を避けていたのに、町の人々に向かって「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と告げており、女の言葉にビックリした町の人たちが、今、イエス様の方へ向かってきているのです。

(二)弟子たちとの奇妙な対話

 そういう状況設定の中で、弟子たちとイエス様が交わした会話が31節から38節までに記されています。今日は、この箇所に集中していき、来週、全体の構成を見ていきたいと思っています。
 教会ではよく、「収穫の秋」になぞらえて「伝道の秋」と言ったりします。ですから、中渋谷教会でも十月末にバザーをして、近隣の方たちに特別伝道礼拝やクリスマスのご案内を渡しますし、十一月一週は、ご遺族をお招きしての召天者記念礼拝があり、第二週には、礼拝後の幼児祝福式があり、三週目は特別伝道礼拝です。そして、クリスマスへと向かっていきます。それは、私たちにとっては、収穫というよりも、むしろ種まきの季節、来るべき収穫に備えて伝道の労苦にいそしむ季節と言ってよいかもしれません。
 今、「労苦」と言いました。それは38節にその言葉が出てくるからです。「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」と、イエス様は仰っています。これは一体どういうことなのか?ただ、イエス様と一緒に食事をしようとしていた弟子たちには、何が何だかさっぱり分からなかったでしょうし、私も最初は何のことだがさっぱり分かりませんでした。
 そもそも主イエスはいつ弟子たちを遣わしたのでしょうか?また「あなたがたの知らない食べ物」とは何か?「労苦」とか「刈り入れる」とはどういうことなのか?「食事をどうぞ」という弟子たちの言葉から始まるこの段落の意味を、聖霊の導きを祈りつつ、ご一緒に示されていきたいと願っています。
(二)・@ 神から遣わされた者  主イエスは今日の箇所ではじめて、「わたしをお遣わしになった方の御心を行う」ということを仰いました。この言葉は、後でも述べることですが、これからも極めて大事な箇所で何度か出てきます。ここに「遣わす」という言葉が出てきます。父なる神様が御子主イエス・キリストをこの世に遣わされたということです。そしてそれは、父なる神様の御心、ご意志や願いを、御子に行わせるためです。そういう目的をもって父は御子を遣わしておられる。そして、御子イエス・キリストは、父から与えられた使命を今も果たしているのだという意味で、ここで「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」と、仰っているのです。つまり、主イエスはご自分を遣わした父なる神の御心を行うことで生きているし、今もまさにその業を行っている最中なのだ、ということでしょう。つまり、イエス様にとっては、今まさに、弟子たちに「食事をどうぞ」と言われなくても、食事中なのです。そして、それは具体的にはどういうことであるかと言えば、サマリアの女との対話を通して、今まさに起こっていることを指して、「わたしの食べ物だ」と仰っているのです。
この女は愛に飢え乾き、愛に傷ついている女です。心の中はカサカサなのです。そして、ユダヤ人であるイエス様に対しては、彼女は最初、敵対的あるいは懐疑的に接しました。主イエスが「水を下さい」と求めても、即座には与えようとしなかったのです。しかし、その後の主イエスとの対話を通して、彼女自身が心の渇きに気づき、永遠の命に至る「その水を下さい」と叫ぶようになり、次第に、主イエスを神に立てられた「預言者」ではないかと思うようになり、さらに、来るべき日に到来する「メシア」、「キリスト」かもしれないと思うようになり、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」という主イエスの言葉を聞いた時、「恐らく体内に電流が走るような戦慄を覚えたと思います。つまり、活ける神様の現臨に触れたという感覚です。彼女は、水をそこに置いたまま、大急ぎで町に取って返して、これまでは会いたくもなかった町の人々に向かって「さあ、見に来てください。この方がメシアかもしれません」という告白をするに至っているのです。「この方は、わたしの恥ずべき過去と現在の行為のすべてをご存知でした。でも、そういう行為をせざるを得ないわたしの心の渇きを何よりもご存知でした。そして、今、わたしは潤っているのです。是非、この方を見に来てください。」彼女は、そう告白したのでしょう。そういうことが、主イエスとサマリアの女との対話の中で起こっている。つまり、永遠の愛を求めつつ、それを手にすることが出来ずに飢え乾いていた女が、今、永遠の命に至る水を貰い始めており、さらにその水を他の人々にも分け与えようと伝道の業をし始めている。伝道の労苦を始めている。そういう現実を、主イエスは対話を通して引き起こされたのですし、今、その女において起こった現実がさらに拡大して町の人々の現実になっていく様を見ておられるのです。
「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」とは、そういう意味です。しかし、もちろん、この時の弟子たちには何が何だか分かりません。彼らは、まだこの時、遣わされていなかったからです。

(二)・A 遣わした者の御心

  「わたしをお遣わしになった方の御心」という言葉が大事な言葉であると先ほど申しました。この言葉が、他ではどういう形で出ているのかと言うと、たとえば六章三八節三九節に、こうあります。

「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
 「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」、そして、主イエスが、「その人を終わりの日に復活させること」。それが、主イエスをお遣わしになった父なる神様の御心なのです。そして、まさに主イエスはその御心、またその「業」をなさっているのです。何故なら、今、愛に飢え渇いていた一人の女が、御子を信じて永遠の命を生き始めるという神様の御心が実現し始めているのですし、この一人の女の伝道の労苦によって多くの町の人々がついに「この方が本当に世の救い主であると分かりました」と告白するに至りつつあるからです。この現実こそ、主イエスの食べ物、食事なのです。  その事実を弟子たちは今、全く知りませんし、知りようもありません。だからいつも頓珍漢になってしまう。でも、「その弟子たち」が、この段落の中ほどから次第に時空を越え始めるのです。そして、イエス様も時空を越えていきます。それが分からないと、私たちも弟子同様に頓珍漢になってしまうのです。  先ほど読みましたように、38節で、主イエスが弟子たちを「遣わした」と過去形で仰っています。しかし、ヨハネ福音書では、これまで主イエスが弟子たちを遣わすということはありませんし、他の福音書と違って、主イエスが肉をもって地上を生きている間に、弟子たちを神の国の福音伝道のために派遣するということもないのです。しかし、この福音書を最後まで読んでいきますと、こういう記述があります。それは、復活の主イエスが、ユダヤ人を恐れて隠れ家に集まっている弟子たちの真ん中に立たれた時のことです。主イエスは、掌の釘の跡やわき腹の刺し傷を弟子たちに見せた後、彼らにこう仰った。

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 主イエスが、すべての罪人の罪が赦されるために十字架に掛かって死んで下さり、復活されたことを罪人たちが信じるならば、その罪人は赦されて永遠の命を与えられる。それは、復活の主イエスが与えて下さる聖霊によって保証されます。この主イエスの十字架の死と復活を信じるところにこそ、真の平和、平安があります。私たちが安んじて生き、安んじて死ねる根拠があるのです。この救い主なるイエス・キリストを宣べ伝えるために弟子たちは派遣されるのです。聖霊を与えられるこの時、弟子たちは派遣されるのです。
 ですから、ヨハネ福音書の文脈の上では、それは将来のことです。けれども、この福音書は、復活の主イエスが弟子たちを派遣された結果、その伝道によって御子を信じた者によって書かれた福音書ですし、この福音書が書かれた当時は、ペトロをはじめとする十二弟子はもう死んでいたはずです。ですから、この段落の後半で「あなたがたが、自分で労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした」と主イエスに言われる「あなたがた」とは、この福音書が書かれている当時、サマリア地方を初め各地で伝道の労苦を担っているキリスト者達ということになりますし、それはさらに、今、この国で一生懸命に信仰に生き、また伝道をしている私たちということになります。そして、そう語りかけるイエス様も二千年前のイエス様であると同時に、実は聖霊において今も生き給うイエス様であるということなのです。
聖書というものはすべてそうなのですが、この福音書は特にそういう射程をもって書かれているので、そういうものとして読まないと、読んだことになりません。ここに記されていることは、過去に起こったことであると同時に、今も起こっていることなのです。

(三)A・Kさんの場合

  私たちは今日、A・Kさんの遺体を前にして礼拝を捧げています。六月の斎藤晃子さんの時もそうでした。あの時は特別伝道礼拝でした。そして、八月の小泉和子さんの時もそうでした。これまでに何度も兄弟姉妹のご遺体を前にして、一緒に礼拝を捧げてきましたし、これからも捧げていくことになるでしょう。
 A・Kさんの信仰とその歩みについては火曜日の葬儀の時に語らせていただきますが、今日の御言との関連において、今日も少し語らせていただきます。
A・Kさんは金曜日の午前、胸が苦しいと仰って、救急車を呼んで、それまで入院をされていたカトリック系の聖母病院に運ばれましたが、それとほぼ時を同じくして召されたそうです。しかし、夏の初めに入院をされた時から、95歳という年齢から言って、ご本人も、ご家族も、また私たちも、心のどこかで地上のお別れの日は近いということは覚悟してはいました。A・Kさんが、ご自分の信仰の歩みに関して書いてくださったものをお読みしますと、女学校時代に熱心なクリスチャン家庭が毎週土曜日に子供のために開いていた集会に誘われたのがキリスト教との最初の出会いであったそうです。まだ十代の前半です。多分、お友達の一人が誘ったのでしょう。そこにはイギリスから来た宣教師ボサンケットさんという方がいらして聖書を分かりやすく教え、讃美歌も沢山教えていただき、クリスマスには劇をして、本当に楽しい集会だったそうです。その集会への出席は21歳で結婚するまで続きました。また、女学校時代の担任であったクリスチャンの先生が非常に深い愛情をもってA・Kさんたち生徒を教え導いてくださったのですが、A・Kさんはその先生を心から尊敬し、卒業後は、その先生が自宅に牧師を迎えてもっていた月一回の家庭集会に欠かさず出席していたそうです。A・Kさんは「この先生のお導きによって今日の私があるような気がする」とお書きになっています。ご結婚後も、教会には行けなかったけれど、この先生のお宅での集会にだけは行っていたそうです。
しかし、ご主人が戦後4年経った時に、まだ高校生と中学生だったお子様二人を残して、四二歳で急性心臓麻痺で急逝されてしまうのです。A・Kさんは38歳の時です。それからA・Kさんの苦難の歩みが始まります。しかし、まさにそこからA・Kさんの信仰を求める求道の生活もまた本格的に始まることになります。 A・Kさんは近くの信濃町教会に通い始め、山谷省吾牧師から洗礼を受けます。その後、浅野順一牧師が開拓伝道をする教会に移り、さらに深津容伸先生の導きを受けることになります。その間、それぞれの教会でまたよき信徒の交わりを結んでこられましたが、その教会で何か問題があったらしく、礼拝の場を求めて、1987年にお仲間と共に、中渋谷教会に転入されました。それ以来、中渋谷教会の礼拝と交わりの中で、A・Kさんの信仰は豊かに育てられ、私たちはそのA・Kさんの礼拝を捧げる姿勢、ひたむきに信仰と愛に生きようとする姿を通して、教えられ、慰められ、励まされてきたのです。
このA・Kさんに信仰の種を蒔いたのは、女学校時代の友人であり、クリスチャンの夫人であり、イギリスの宣教師であり、また担任の先生です。そういう何人もの方たちの伝道の労苦が洗礼という形をとったのは、種蒔かれてから20年以上も経ってからです。洗礼を授けた牧師が福音の種、信仰の種を蒔いたわけではありません。しかし、伝道というのは、そうやって進んでいくのです。「一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる」「他の人が労苦し、あなたがたはその労苦の実りに与っている」とは、本当のことです。「与る」とは「中に入っていく」という意味のギリシャ語が使われていますけれど、これは主イエスを中心とした信仰の交わりの中に入っていくということだと、私は思います。ここにおられる多くの方は、私などよりもはるかに長く深い主にある交わりをA・Kさんともってこられた。その恵みの背後に、昔、A・Kさんに信仰の種を蒔いた方々、「この方こそ、あなたの救い主、キリストです。信じなさい。そうすれば、あなたは永遠の命が与えられます」と告げてくださった方々がいるのです。主イエスに遣わされて伝道の労苦をされた方がいる。そして、今、私たちも、新たなキリスト者が生まれることを願って、伝道の労苦を捧げてもいるのです。そして、この伝道の労苦は種を蒔いた人も刈り入れる人も、「共に喜ぶ」労苦、天地を貫いて喜びを分かち合う労苦なのです。今、天でA・Kさんは、御言の種を蒔いてくださった恩師の方たちに感謝を捧げつつ、その種の究極である主イエスに感謝し、賛美を捧げ、一切の栄光を父なる神に帰しておられるのではないでしょうか?すべては一粒の麦として地に落ちて死んで下さった主イエスから始まった神様の御業なのですから。

(四)成し遂げる

その関連で、見逃してはならない言葉がここにあります。それは「その業を成し遂げる」という言葉です。神様の御心を行う主イエスは、その業を成し遂げていかれます。それが主イエスの食べ物であり、その食べ物を食べつつ、主イエスはこれからも生きていかれるのです。
先ほど、神様の御心とは「子を見て信じる者が皆永遠の命を得ること」、であり、主イエスが「その人を終わりの日に復活させること」であることを知らされました。この御心を行う業を成し遂げていくとは、実際にどういうことなのか?あるいは、どういうことに行き着くのか?それは、主イエスご自身が一粒の麦として地に蒔かれていく、そこで命を捨てるということに行き着くのです。
 一九章二八節以下の十字架の場面をちょっと飛ばしてお読みします。

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。・・・・イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。

 厳密には少し違うギリシャ語が使われていますが、この十字架の場面に、「成し遂げる」とか「実現する」という言葉が立て続けに三度も出てきます。この十字架の死にこそ、神様に遣わされたイエス様が成し遂げねばならない御業の究極があるのです。この御業を通してのみ、御子を信じる者が永遠の命を得るという御心が実現するからです。何故なら、十字架にあげられた死は、そのまま天に上げられるための死であり、御子を信じるものの罪を赦し、天にある父の住まいに上げるための死だからです。御子主イエス・キリストは、この死に至る業を、これからもずっと成し遂げていかれる。それが、御子の食べ物、この時の弟子たちが知らない食べ物です。

(五)弟子たちそして 私たち

 しかし、弟子たちは、この時知らなかったものを、後もずっと知らなかったわけではないでしょう。彼らは、主イエスの十字架の死の時は皆逃げてしまい、ものの見事に主イエスを裏切りました。しかし、その彼らが、ある意味では、自分の罪の現実、その惨めさを誰よりも痛切に知らされた彼らだからこそ、その罪が赦されるという恵み、喜びを痛切に知らされて、キリストを宣べ伝える者に造り替えられていったのです。そして、彼らは主イエスのために労苦する者、福音の種まき人となっていったのです。そして、彼らの後継者達が彼らの伝道を通して福音を信じた人々に洗礼を授け(刈り入れ)、彼ら自身もまた別の人々に種をまく人となっていったのです。
聖霊は、今に至るまで、一粒の麦として死んで下さった主イエス・キリストを宣べ伝え、証しする人間を次から次へと造り出しているのです。「さあ、見に来てください。この方がメシア、救い主です。礼拝に来てくれれば分かります。そこで語られる説教、そこで歌われる讃美歌を聞いてくだされば、それが分かります。そこで捧げられる祈りを共にし、キリストを信じて生きている人たちの姿を見れば、あなたもキリストと出会うことが出来るはずです」と証しする者たちを、今も造り出して下さっています。私もその一人だし、皆さんもそうです。私も皆さんも、そういう種まき人によって教会に招かれ、祈っていただき、教えていただき、キリストを信じる信仰の種を蒔いていただいたのです。そして、キリストの者として誕生した。つまり、教会に刈り入れて頂いたのです。
伝道の秋です。収穫の秋です。同時に私たちにとっては新たな種蒔きの季節でもあります。蒔く者も刈り入れるものも、共に感謝し、共に喜びつつ、主のために労苦をしていきましょう。そして、愛に飢え渇いてカサカサの心になっている一人でも多くの人が、永遠の命の水を飲むことが出来ますように。そして、それまで知らなかった食べ物、つまり、御子を信じる者が永遠の命を与えられるために働く、労苦するという食べ物を知ることが出来ますように。
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