「わたしたちが信じるのは、分かったら。」

及川 信

ヨハネによる福音書 4章27節〜42節

 

「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」 人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。・・・中略・・さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」

(一)ヨハネ福音書 礼拝

ヨハネによる福音書が、過去の歴史的な事実を踏まえ、その歴史的な事実を再現している一面を持ちつつ、他面では、今生きているすべての人間に対するキリストの言葉、あるいは神の言として書かれた書物であるということは、これまで読んできて既に明らかなことです。つまり、今、この福音書を読んでいる私たちに対する、活けるキリストの言葉なのです。そのことが私たちにとっての現実でないならば、私たちは今、「礼拝」を捧げていることになりません。聖書を読んだり、説教を聴くことが、自分とは無関係な遠い時代、遠い国のお偉いお方の故事来歴や教えを勉強することであるなら、それは日曜日の教会ですることではありません。聖書を一つの啓蒙書、教養書、あるいは一つの宗教の経典として読む場所は他にあります。私たちは、今、聖書をキリストの言葉、神の言として聴き、そして、その神様に信仰の応答、信仰の告白をするためにこうして集まっている、あるいは集められている。それはイエス様を通しての神様との対話、交わりの時を持つために集まっているということです。

(二)父の求め イエスの業

  私たちは、先週と今週の二週にわたって、四章二七節以下の御言に耳を傾けていますが、その直前に記されている主イエスとサマリアの女の会話を、最初に振り返っておきたいと思います。主イエスは、こう仰いました。

「父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

  「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」


ここを説教した時、私は、これは神様がご自身を現わす時の言葉であり、それを今、イエス様が語っているのだということを言いました。つまり、イエス様において神様が現れている。「キリスト」とか「メシア」という言葉は、旧約聖書の教えに基づけば、その神様が遣わす使者ですけれど、イエス様は、そういう遣わされた使者的な存在であると同時に、神様ご自身として、今、女の前に、そして私たちの前に立ち、そして語りかけておられるのです。そのことは、今日の箇所の最後にあります「救い主」という言葉が、旧約聖書においては神ご自身を指す言葉であるからも分かります。イエス様は、神様から遣わされたメシアであるだけでなく、礼拝されるべき神であるということが、今日の箇所の結論なのです。そういうお方として、今、何を目的として、一人の女に語りかけておられるのかと言えば、それは父なる神様が求めておられることを実現させためなのです。
 父なる神様は、「霊と真理をもって父を礼拝する者を求めて」おられます。何故なら、私たち人間が、霊と真理をもって父を礼拝する時、私たちが「真の意味での人間」となることが出来るからです。その「真の意味での人間」とは、神様に創造され、神様に祝福され、その愛と信頼の交わりの中に生きる人間という意味です。そして、それは神を父と信じ、その御名を崇めて礼拝を捧げる人間です。そういう人間を救われた人間と、聖書は言います。「救い」とは、私たち人間が、神様を礼拝することの中にあるのです。何故なら、この礼拝は、地上における一時の行為ではなく、天上でも捧げられている永遠の行為だからです。天地をお造りになり、時間もお造りになった「昔いまし、今いまし、とわにいます」神様を、天においても地においても、昔も今もこれからも、すべての信仰者が共々にささげてきた、そしてささげる礼拝なのです。その礼拝をささげる民に加えられる。それが被造物である私たち人間の本来の姿であり、その本来の姿を生きるところにこそ、私たちの最大の喜び、幸福があるからです。救いがある。これは実感した人間でなければ、知りようがない喜びであり、幸福ですから、言葉では説明しようがないことです。

(三)神を知る(分かる)こと

  来週の火曜日は、ルターによる宗教改革を記念する日でもありますけれど、ルターに続いて、改革長老教会の基礎を築いたという点ではむしろ中渋谷教会に近い関係にあるカルヴァンという人は、「人生の主な目的は神を知ることである」と言いました。その理由は、私たちは元来命の源なる神を褒め称えるように造られているのだから、その目的にかなった生き方をすることこそが最大の喜びであり、幸福であるからです。逆に、神を知らいで生きる不幸は獣よりも酷いものだ、とまで言っています。そして、彼は、「神をイエス・キリストにおいて知る」ことが、その動物以下の不幸から私たち人間を救い出すと言うのです。それは、本当のことだと思います。
 今日の説教題を、「わたしたちが信じるのは、分かったから」としましたけれど、この「分かる」と訳された言葉は、「知る」とも訳されます。既に読んだところですが、イエス様はサマリアの女に向かって、わたしが「誰であるかを知っていたならば、あなたの方から(水をください)と頼み、わたしはあなたに生きた水を与えるのに・・」と仰いましたし、「あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している」とも仰いました。この4章では、「知る」とか「分かる」ということが信仰にとって不可欠であることが語られているのです。神様のことをイエス・キリストを通して知る、分かる。そして、信じる。訳も分からず鵜呑みにするとか、洗脳されてしまうとか、思考停止状態になってしまうことが信仰ではないのです。私たち人間の知性が最大限に覚醒されて、そして、霊性も発揮させられて、知においても霊においても、イエス・キリストを通して語りかけられる言葉を聴き、そこに神の言としての権威と力と何よりも愛を感じ、理解し、ひれ伏し崇め、御名を賛美する。そういうことが出来る時、それは霊と真理に包まれた時ですけれど、その時に、私たちは獣ではなく、人として生きることが出来ている。人として最大の幸福を与えられている、救われているのです。

(四)驚き

  主イエスは、今、一人のサマリアの女に、その最大の幸福を与えるために、「真の意味での人間」とするために、ご自身が誰であるかを知らせているのです。27節にある「ちょうどそのとき」というのは、イエス様が、神に遣わされたメシア、キリストであり、またイエス様の中に神ご自身が生きておられるという事実をお示しになったその時であり、その事実が女に伝わった瞬間なのだと、私は思います。何故そう思うのか、と言うと、こういう言葉が続くからです。

「ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話しておられるのに驚いた。しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はいなかった。」

 ここで「驚いた」という言葉が出てきます。この言葉は「サウマゾウ」というギリシャ語ですが、福音書の中では、神の驚くべき御業、奇跡を目の当たりにした時などの反応としてよく使われる言葉です。当時、公の場で男が女に話しかけることは禁じられていましたし、特にイエス様のように律法の教師、ラビと呼ばれるような立場のお方が、見知らぬ女性と話しているということ自体があり得ないことでした。さらにその女は、ユダヤ人とは犬猿の仲、敵対関係にあるサマリア人の女なのですから、二重三重の意味で、イエス様と女が話しているということ自体が、弟子たちには信じ難いことでした。だから、彼らは驚いた。
表面的には、そういうことでしょう。しかし、ここに記されていることは、そういう表面的に目に見えることだけではありません。「しかし、『何か御用ですか』とか、『何をこの人と話しておられるのですか』と言う者はなかった」とあります。ここで「何か御用ですか」と訳されている言葉は、直訳すれば「何を求めているのですか」となりますし、「何を話しているのですか」は「何故、何のために話しているのですか」とも訳される言葉です。ヨハネ福音書の言葉遣いが、しばしば、こういう両義的、あるいは多義的なものなのです。しかし、なぜ、弟子たちの心の中の思いがここに記されているのかと考えてみますと、私は先ほど読んだ箇所と深い関係があるからだと思います。
イエス様は、神様が「求めている」ことを実行しておられるのだと思います。神様は、霊と真理をもって父を礼拝する者を求めておられます。つまり、一人でも多くの人間が、動物よりも不幸な状態から救われて、イエス・キリストを通して神を知り、礼拝する者となることを求めておられるのです。イエス様は今、神を知らせるために来たメシア、キリストは「今、あなたと話をしているこのわたしである」と女に語りかけている。この女は、これまでに五人の男との結婚に破れ、五回の離婚をしたにもかかわらず、なおも愛に飢え渇く心を癒せぬままに、新たな男との同棲をしている女です。イエス様は、この憐れな女(これは一面まさに私たちの姿そのものなのですけれど)、その女の心の渇きをいやし、真の人間、イエス・キリストを通して父を知り、父との交わりを回復する人間に造り替えつつあるのです。神の求めることを実現させるための御業を為しておられるのです。
弟子たちは、まだそれが何であるかはよく分からなかったでしょう。けれども、主イエスと女の間に漂うただならぬ空気に触れて驚き、恐れたのです。一人の人間が、活ける神様としての主イエスの言葉を聞きながら、造りかえられていく。それまでの古い命が死に、新しい命が造り出されていく。そういう厳かな現実を目の当たりにする時、私たちはただ沈黙して、その御業を見る以外にない。そういう時があります。弟子たちが帰ってきた時は、まさに「ちょうどそのとき」だったのです。神と人間が真正面から向き合う真剣な礼拝の真っ最中だった。

(五)礼拝において起こること

  女は、この日もいつもと変わらず、生活に必要な水を汲みに井戸にやって来ました。彼女だけは人目を避けて昼の日中にやって来た。しかし、そこに待っていたのは旅に疲れ、喉の渇きを覚えておられるユダヤ人であるイエス様でした。イエス様は、女に「水を下さい」と話しかけられました。それが対話の最初です。礼拝の開始です。私たちの礼拝も招きの御言から始まります。そして、その対話の中で、女はイエス様から「この水を飲む者はまた渇く」と言われたのです。その時、彼女は自分が求め続けている人の愛は、一時満たされたと思ってもすぐに渇いてしまうものであることを直感したでしょう。所詮、それは肉の欲望に基づく愛だからです。その欲望に基づいて、あるいは欲望に支配される中で、手にしたいと願うものは、愛だろうが、富だろうが、地位だろうが、名誉だろうが、それらは手にしても手にしても満ち足りることなく、むしろ手にすればするほど不足を感じ、飢え渇いていくものです。女は、目の前にいる不思議な人から、「この水を飲む者はまた渇く。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言われた時に、思わず、そして心底から「主よ、渇くことがないように、その水をください」と叫んだのでした。そして、その後も、彼女はそれなりの時間、イエス様と共に過ごしたのです。そして、その時が、彼女の人生を根本的に変えました。礼拝とは、そういうものなのです。私も学生時代に通うことになった北白川教会の礼拝に初めて出て「あなたがたが神の宮なのである」という題の説教を聴いたときの鮮烈な感覚を忘れることは出来ませんし、その礼拝に出たことが、北白川教会の生みの親ともいうべき中渋谷教会の牧師になったという事実に起点であることは間違いのないことです。
私たちは誰でも、「あの時の出会いがなければ今の自分はない」ということがあると思います。この女にとって、イエス様と出会って話をしている時、その時が、そういう時でした。生活必需品の水を汲みに来たこの女は、「それは、あなたと話をしているこのわたしである」という主イエスの言葉を聞いた時に、その水瓶を置いて、即座に町に帰って行きました。しかしそれは町に帰ったのではなく、町の人々に「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません」と告げに帰ったのです。
彼女は、そんなことをしている自分自身に驚いたでしょう。まさに「サウマゾウ」した。神様の御業によって、自分の心の中の何かが根本的に変わってしまったということに気づいて驚き、心の中が変わったと思ったら行動まで変わってしまったことにさらに驚いたでしょう。そして、すっかり変わってしまった彼女の顔つきや、彼女から出てくる言葉を聞いて、今度は町の人たちがビックリしたのでしょう。これまで町中の鼻つまみ者として蔑んでいた女が、喜びに顔を輝かせて、公然の秘密であった自分の恥ずべき過去と現在の生活が暴かれたことを嬉々として語っているのです。そして、「いつの日か到来し、『一切のことを知らせてくださる』はずのメシア・キリストが今こそ来ておられます。その方は、町外れの井戸の辺で、永遠の命に至る水を与えるために座っておられます。私はその方と話していて、この方がメシアであると分かった。この方の中に神が生きておられることが分かった。この方は、私たちの罪を赦し、再び神様をお父さんと呼んで礼拝できる人間に造り替えるために来て下さった方だと信じることが出来た時に、私のかさかさに渇いた心の中に永遠の命の水が湧いて出てきました。あなたにとっても、そういうことが起こるかもしれません。だから、来てください。見てください。そして、話を聞いてみてください。あの方は、もしかしたら、あなたにとってもメシアかもしれません。」ただのふしだらな人間だと思っていた彼女が、顔を輝かせてこういうことを言うものだから、町の人々はすっかり驚いて、町を出て、イエスの許にやって来たのです。

(六)聴くこと 信じること

その間に、弟子たちとの会話がありますが、そこは先週ご一緒に聞いたところなので、今日はこのまま39節に飛びます。

さて、その町の多くのサマリア人は、「この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました」と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。

 ここでも多くのことを語らねばなりませんが、一つのことだけを語ります。それは、信仰は証言を聴くことから始まるということです。 パウロはローマの信徒への手紙の中でこう言っています。

「ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。・・・実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」

 信じるためには聴くことが必要です。聴くためには、良い知らせを伝える使者が必要です。私たちは誰だって使者の言葉を最初に聞いたのですし、多くの人が、「あの人が信じているのだから」とか、「あの人が言うのだから」と、使者とその言葉を信じて信仰に入るのです。そのこと自体少しも間違ってはいません。しかし、使者の告げる言葉を信じることが信仰ではないこともまた事実です。それは信仰の第一歩に過ぎません。入り口です。その入り口で留まっていては、何にもなりません。使者がいなくなれば信仰も終わってしまう。そういうことになるからです。
 しばしば教会で起こる珍現象は、牧師が交代したり、自分を信仰に導いてくださった方が死んでしまったりすると、礼拝に来なくなる人がいるということです。つまり、キリストを伝えてくれる使者の言葉はよく聞いている。そして、その言葉を通してキリストを信じたのかもしれない。でも、本当にキリストの言葉を聴いているのか?使者の言葉を通して、本当にキリストの言葉を聴いているのか?あるいは聖書そのものからキリストの言葉を聴くという経験、あるいは訓練を積んでいるのかというと、そんなことはない。ただ自分にとって分かりやすいお話だけを求め、そのお話を聞いて満足しているだけ。それを自分では信仰だと思っている。残念なことに、そういうレベルに留まっている人が多いのです。私の恩師であった先生も、「信仰は隣人の証言を信じるところから始まる。説教を信じ、書物の説くところを信じるのである。しかし、それだけでは駄目で、自分自身で親しく聞いて、判る必要がある。聖書を読み、祈り、礼拝に参加し、イエスと共に留まる生活である。隣人がいないと信仰がぐらつき、牧師が媒介してくれないと神の言が聞こえない。誰かの支えがないと信仰を失う。環境がその人の信仰をぐらつかせる。何と多くの人が、この域で停滞しているだろうか」と、その著書の中に書いておられますが、それは本当のことです。

(七)とどまること

サマリアの町の人々は、信仰の入り口からもっと奥に入っていくことを願いました。彼ら自身が、霊と真理をもって父を礼拝する者となっていきたいと願ったのです。
「このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスはそこに二日間滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。』」

ここに出てくる「とどまる」と「滞在する」は原文ではメノウという同じ言葉で、ヨハネ福音書では極めて大事な言葉の一つです。ご記憶の方もおられると思いますが、最初にイエス様の弟子になった者たちは、イエス様に「来れば分かる」と言われてイエス様について行き、イエス様が「滞在している」所に一緒に「滞在した」、「泊まった」のです。そのことによって、イエス様がメシアであると「分かった」。そういうことが記されていました。イエス様と一緒に留まるとか、イエス様が私たちと共に滞在してくださる、寝泊りしてくださる、そういう日常生活をすべて一緒にしながら人生を共に生きてくださる。そのことを通して、私たちはイエス様が誰であるかを深く深く知っていく、分かっていくことになるのです。
この福音書の15章まで読んでいきますと、イエス様が弟子たちに向かって、こう仰っている言葉に出会います。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」

 ここで「つながっている」という言葉が、メノウです。イエス様につながって生きること。ただそれだけが、私たちが真の意味での人間として生きる道であり、与えられている命が実を結ぶ、つまり永遠の命へと至る唯一の道なのです。イエス様と一緒に生き続ける。それは、ある面では、結婚と同じなのです。結婚とは、夫婦が愛し合って一体の交わりを生きていくということです。イエス様の愛を受け入れて、イエス様を愛して生きていく。いつでもイエス様が私たちを愛し、心にかけてくださっており、具体的に手を差し伸べてくださっていることを信じて、私たちもまたいつでもイエス様を愛し、イエス様を心に思い、イエス様の導きに従って生きる。そのとき、私たちは豊かに実を結んで生きていくことが出来るのです。しかし、そういう愛の交わりはこの礼拝堂の中だけ、この礼拝の時間だけ、ここから出て行けば、またこの時間が終われば、イエス様のことはすっかり忘れ、この世の価値観に基づいて、肉の欲望に従って生きていくというのであれば、それは伴侶以外に外には愛人がいるということですから、その結婚生活は実を結ぶどころか、空虚なものとなり、結果は、惨めな破綻に向かっていかざるを得ません。最後は「火に投げ入れられて焼かれてしまって終わり」の人生になってしまうのです。
 神様は、そんな惨めな人生を私たちに送らせるために、私たちを創造し、生かしておられるのではありません。豊かに実を結ぶ人生、喜びと望みに満ちた人生を生きることを、お望みなのです。そのために、神はその独り子を世に与えて下さった。私たちに与えて下さったのです。つまり、神に背いて欲望のままに生きる私たち人間の罪、飲めば飲むほど渇く水を追い求め、それを美味しいと感じてしまうほどに感覚を麻痺させていくその罪に対する裁きを、イエス様が一身に背負って下さって、十字架にかかって死んでくださり、永遠の命を与えるために復活させ、今も主イエスと繋がるための聖霊を与えて下さるのです。その聖霊を通して、私たちはキリストに結ばれ、罪の支配から解放されて、初めてキリストの言葉を聴くことが出来るのです。聖書を読んでいて、電流が走るように神様の存在とその御心を感じる時、説教を聴いていて、すべての罪が明らかにされつつ、その罪のために死んで下さった十字架の主イエスが見えるとき、「平和があるように、あなたの罪は赦された」と釘跡の残る両手を開いて語りかけてくださる復活の主イエスの声が聞こえる時、私たちは、分かるのです。「この方が本当に世の救い主であること」が。
 サマリアの人々は、「自分たちの所にとどまるように」とイエス様に頼みました。私たちに繋がっていてくださいと、頼んだのです。イエス様は喜んで彼らのところに二日間滞在して下さいました。しかし、あの井戸の辺でのイエス様との対話の時が、女にとって人生を変え、一生を支える時であったように、この二日間は、サマリアの人々にとって決定的な時であり、その後の人生を支える二日間だったのです。肉体のイエス様は見えなくなりました。しかし、聖霊において臨在するイエス様は、いつも彼らと共に生き続けて下さるからです。そして、そういう過程の中で、彼らは、さらにさらに深く、この方こそ、世の救い主であることを知っていったでしょう。

(八)礼拝にとどまる

信仰は洗脳で与えることが出来るものではありません。教育で与えることが出来るものでもない。聞いて信じるか否か。それは、聞いた者の自由と責任に委ねられていることだし、神様の自由な選びに委ねられていることです。私たちキリスト者にされた者は、幸いにも、聴いて信じることが出来たのです。しかし、一回、聴いて信じたわけではないし、何年も聞き続けてようやく信じるに至る場合も多々ありますし、信じた後だって聞き続け、新たに分かることで、信仰が成長するのです。だから、結局、礼拝に留まる以外にない。この礼拝で御言を聴き続ける。考え続ける。きちんと理解したいと願い続ける。カルチャーセンターや学校で教える知識としての理解ではなく、神様が願っている仕方で理解し、分かったと言えるようになりたいと求め続ける以外にないのです。つまり、カルヴァンが言うように、イエス・キリストの十字架と復活を通して、神様の全能と愛の力を知り、圧倒されて礼拝する者となりたいのです。そして、神様は、そういうふうに求め続ける人間を求めておられるし、そういう人間にイエス・キリストを遣わして、イエス・キリストこそ活ける神であることを知らせてくださいます。絶えず新たに知らせてくださるのです。そして、私たちは絶えず新たに信仰を深めていくことが出来るのです。何と幸いなことかと思います。

(九)主よ おわりまで

私たちはこれから讃美歌338番を歌います。この讃美歌は、先週、ご遺体を囲むようにして礼拝を捧げたA・Kさんの愛唱讃美歌です。

主よ終わりまで 仕えまつらん
みそばはなれず おらせたまえ
世の戦いは   はげしくとも
御旗のもとに  おらせたまえ

主よ、今ここに ちかいをたて
しもべとなりて つかえまつる
世にある限り  このこころを
つねにかわらず もたせたまえ


生涯、主イエスのもとに留まらせてください。そうして、主イエスを世の救い主であると信じ、その信仰の証しを世に向かってさせてください。そういう僕として生かしてください。そこに私の最大の喜び、最大の幸福があるのです。そう告白する讃美歌です。
私たちも、この讃美歌を歌いつつ、天に続く信仰の生涯を、今日新たに歩み出しましょう。
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