「イエスは見て、知って、言われた」

及川 信

ヨハネによる福音書 5章 1節〜18節

 

その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。(以下、省略)



  舞台はエルサレム ユダヤ教の中心地

 今日の話の舞台は、エルサレム神殿近くの池と神殿の境内です。それは言うまでもなく、神の民であるべきユダヤ人の中心地です。しかし、既に語ったことですが、この地はガリラヤ地方とは違って、イエス様に敵対する人々が沢山いるところなのです。イエス様にとっては非常に危険な地でもあります。今日の箇所において、そのことはさらに鮮明になっていきます。今日の出来事が起こった日は「ユダヤ人の祭り」の時期であり、その日は特に「安息日」です。この池には「五つの回廊」があったとわざわざ書いてありますが、ひょっとすると、これは創世記から申命記までの「モーセ五書」と呼ばれる五つの書物を象徴しているのかもしれません。「モーセ五書」は、当時のユダヤ教の中心である律法の書です。そして、ここには池の水がありますけれど、この水というのも、後日触れることになると思いますけれど、霊にとって代わられるべきユダヤ教の律法の象徴であるかもしれません。こういういくつもの舞台設定を通して、イエス様が律法ではなく「恵みと真理」をもって、人を生かすために、ユダヤ教の中心部に入ってこられたのだということが、言われているのだと思います。

 池の辺に38年

 その池は、日本で言えば湯治場のように、様々な病や障害を負った人が癒しを求めて集まってくる池でした。その人々の中に、なんと38年も病気で苦しんでいる人がいたのです。
この三十八年という年月に意味があるのかないか、よく分かりませんが、あるとすれば、それは恐らく旧約聖書に由来すると思います。申命記2章14節以下にこういう言葉があるからです。

カデシュ・バルネアを出発してからゼレド川を渡るまで、三十八年かかった。その間に、主が彼らに誓われたとおり、前の世代の戦闘員は陣営に一人もいなくなった。主の御手が彼らに向けられ、陣営に混乱が引き起こされ、彼らは死に絶えたのである。

 エジプトを脱出してから約束の地カナンに入るまでは、通常「荒野の40年」と言います。ここでは出発点がエジプトではなくカナンの南に位置するカデシュ・バルネアです。イスラエルの民はカナンを目前にしつつ、神に背いた罪の故に、38年もの間、約束の地に入ることが出来ずにおり、その間に、主の御手が彼らに向けられて、エジプトを脱出した世代の戦闘員は皆、死に絶えてしまった。これは恐ろしいことです。そこに、神様の峻厳な裁きがあることは言うまでもありません。しかし、その裁きを経て、神様はついに新しい世代のイスラエルを約束の地カナンに入れようとされる。その時にモーセが語った言葉が、今、お読みした言葉です。この後は、自分たちの罪をしっかりと悔い改め、新たに信仰をもって神様の命令に従って前進しよう、という内容の言葉が続きます。
 もし、この「38年」が今日の箇所の背景にあるとするなら、それはやはり、ひたすらな信仰に生きることなく、他の神々に心を奪われ、この世の富に心を奪われ、性の誘惑に負けと、イスラエルの民が荒野で犯した罪の数々とその罪に対する裁きの期間が、この病人の姿の中に隠されていると言うべきなのだと思います。そして、律法の中では赦しがなく、新しい出発が出来ない。そういうユダヤ教の現実が象徴されているのかもしれません。

罪と裁き

 そうでなくても、当時の病は、何らかの意味で罪の結果として考えられていましたし、今だって、病気が何年も治らない場合、キリスト者の方でも、「私はこんな目に遭わされるような悪いことをした覚えはないのに、神様がいるのか、何を考えているのか分からない」と仰ることはしばしばありますから、病気や障害は罪の結果だとする因果応報的な考えは根深いものがあります。しかし、健康も病気も、そのなかに誘惑や試練があり、そしてそのいずれの中にも神様のメッセージがあるものです。私たちは、多くの場合、それを見逃し、聞き逃しているだけです。
 神様は、罪に対する裁きを与えられます。神様の最も大切な業は裁くことです。5章の19節以下は、神様の裁きに関する言葉です。罪を裁いて罰を与えるのも神様だし、罪を裁いて赦しを与えるのも神様です。荒野に38年間閉じ込めたのも神様ですし、その裁きの後に、約束の地を取得させてくださるのも神様です。そして、5章22節にありますように、「父は誰も裁かず、裁きは一切子に任せておられる」のです。イエス様が今、神様から全権を託されて、裁きを行われるのです。

   良くなりたいか

 そのイエス様が、旧約の律法の世界の中心に入ってこられた。そして、律法違反の罪を裁かれたままの病人のいる所にやって来られ、その「人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、『良くなりたいか』と言われた」。
 ここにすべての始まりがあるはずでした。ここから約束の地への新たな旅立ち、新約聖書的に言えば、神の国、あるいは永遠の命に至る新たな旅立ちへの招きがあるからです。
 しかし、ヨハネ福音書は他の福音書とはやはり相当に違った観点がありますし、ひとつひとつの話が非常に長く、この池における出来事も、結局、5章の終わりまで読んで始めて全貌が見えてくるのです。しかし、そのすべてを今日扱うことは到底出来ませんから、いくつかの飛躍や省略をしつつ、イエス様と病人とのやり取りの中には、何がどう秘められているのかに絞って、御言の語りかけに聞いていきたいと思います。
 イエス様はここで「よくなりたいか」と訊いておられます。でも、38年間も病気で苦しんできた人にこんなことを訊くこと自体、ちょっとおかしいのではないでしょうか?「よくなりたい」のは当たり前じゃないか?!と思います。この文章は、直訳すれば「心身が健康になることをあなたは望むのか」というものです。長年、病気で苦しんできた人に、こんなことを言う人は、イエス様をおいて他にはいないと思います。
 病人は、こう答えます。

「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」

 この答えも、何だか分かったような、分からないような答えだと思います。
  バルティマイの場合

たとえば、他の福音書に出てくる盲人バルティマイのことを思い出してくだされば、この答えの不思議さ、あるいは異様さが分かります。目が見えなくなったために、当時としては道端で乞食をする以外に生きていく術がなかったバルティマイは、イエス様が今自分の目の前を通りかかっていると分かった途端に、必死になって「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と絶叫し続けました。周囲の者たちが叱り付けて黙らせようとしてもお構いなく、もう必死になって「憐れんでください、憐れんでください」と叫び続けた。そのバルティマイに向かってもイエス様は、こう仰いました。

「何をして欲しいのか。」

「私が何をすることをあなたは望んでいるのか?」が直訳です。盲人の乞食がしてもらいたいことなんて決まっているじゃないですか?バルティマイは、こう答えました。

「先生、目が見えるようになりたいのです。」

 当然です。
イエス様は、彼にこう言った。

「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

  この言葉で、彼の目はすぐに見えるようになりました。しかし、その後、彼はどこにも行かず、「なお道を進まれるイエスに従った」のです。ここには、非常に切実な、そして素直な問答があり、そして、信仰と救いのストレートな関係があります。

この病人の場合

 それに比して、この38年間の病人はどうでしょうか?彼は、「よくなりたいか。そのことを望むのか?」と問われた時、「主よ、よくなりたいのです。癒してください。私の望みはただそれだけです」と答えたでしょうか?この千載一遇のチャンスに、長年ただこの時を待っていたと言ってもよいこの瞬間に、彼は、そうは言わず、ただ現状の説明をし、他人の冷たさに対する不平不満をあげつらっているのです。
 もちろん、病気の苦しみから解放されたいと心底願っている人はいます。また飢え死にしそうな貧乏から解放されたいと心底願っている人もいます。しかし、病人が皆、乞食が皆、心底から、その状態からの解放を願っているかどうか、それは微妙な問題です。
 「オリエントの乞食は、病気が治ることで快適な暮らしを失ってしまう場合がある」とある本には書いてありました。またテレビの話ですが、先日ある報道番組で、一人のホームレスの方の生活が特集されていました。その方は、手先が器用で、電気製品を直したり、ちょっとした大工仕事をしたりして、近隣の方から重宝がられて、その都度、多少の手数料をもらって生計を立てているのです。何でも年収は二百万円なのだそうです。住んでいる所はバラックの家とはいえ、バッテリーによる電力があって、テレビもあるし、電子レンジもあるし、炊飯器もあるし、酒はあるしで、実に快適そうなのです。その人が言うには、「自由が一番さ。俺達は行くところはないし、野垂れ死にするだけよ」ということでした。野垂れ死にするのは嫌だけれど、でも、こういう自由な生活は手放したくない。そういうことでしょう。ホームレスの方の中にはその生活から脱出したいと切実に願い、仕事を求めて職安に通っている方もいます。でも、中には実際に仕事があっても、やれ「きつい」だの、「自分よりも若い奴にこき使われるのが気に入らない」だのと言って、すぐ辞める人も沢山いるし、最初から仕事をしない人もいる。そして、世間が冷たいから、こうなっちまうんだという人もいるわけです。
私は生まれた時から教会に住んでいますから、昔で言えば浮浪者とか物乞い、また刑務所を出てきたばかりの人とか、今で言えばホームレス、家出青年、本当にいろんな人が教会を訪ねてきます。だから、いろんな人に会って来ましたし、今でも時折会っています。そして、その方たちの話を聞きます。最初は、悩みを聞いて欲しいということから始まりますから、悲惨な身の上話がある。そして、「自分がこうなったのは、その環境のせいだ。そして、今も立ち直ろうとしているのに、社会が冷たい。今日、あなたが五千円貸してくれれば、明日、新たな職場の面接に行ける。」「私の母はクリスチャンだった。クリスチャンは困っている人のために何はさておいても愛の手を差し伸べるものだと聞いている・・・。あなたは神に仕える牧師だ。私は今困っている。こういう人間のために金を貸すことが、神様のみ心ではないのか?」という脅迫めいたことまで言われる。「そりゃそうだ」と思いますし、手を差し伸べたいとも思います。そして、何度もそういうことをやってきました。でも、職場までの交通費として貸したお金は、こっそりと後をつけていくと、即座にコンビニで買うカップ酒に化けて、決して返って来ないのは仕方ないとしても、私のしたことが、人を騙して生き続けることに手を貸してしまうことになることが困るのです。そういう人たちは、心底から今の生活から脱却したいとは思っていません。このまま行けるところまでいこうと思っています。
 また、もっと単純に食料を求めにやって来る兄弟のホームレスの方も何度かこの教会に来られました。三度目か四度目の時に、カップラーメンとかジュースとか、色々と袋に詰めて手渡しながら、「教会はさ、こういうものをあげるところじゃなくてさ、命のパンをあげるところなんだよ。だから、礼拝に来てよ。ずっと続けて礼拝に来れば、きっとそこから何かが始まると思うよ」と言ったら、それっきり来なくなってしまいました。彼らもきっと、今の生活も楽じゃないけれど、どこかで楽なんだろうと思います。バルティマイのような人間は、実は少ないのです。

 売り物としての苦労?

 また、色々と苦しみの多い人や苦難続きの人の中には、そのことに慣れてしまっている場合もあるし、下手をすると、それが売り物になっている場合もあります。自分の不幸を並べ立てて、「こういう苦労はした人でなければ分からない、先生みたいな人には分からない」と言い続ける人もいる。「分かって欲しい」と言って相談に来るのに、「分かるはずがない」と言って帰る。つまり、分かってもらったら困るのです。これは自分だけが味わっている苦労なんだと思うところに甘んじるのです。私も「牧師の子の苦労は経験しないと分からない」とかなんとか、愚かなことをよく言っていましたが、そういう場合は、結局、そのことが売り物なんで、実際に苦労がなくなってしまうと苦労の自慢話もなくなってしまうので困るのです。
また引きこもりとかで苦労している場合も、明かに精神的な病などで苦しんでいる場合があります。しかし、他方で「苦しんでいる」限り、家族も社会も腫れ物に触るように大事にしてくれるから、まだまだこの状態でいたいという潜在的な欲求を持っている場合もあります。それもまた、俺の苦労なんて誰も分からない、誰も助けてくれはしない、と言い続けることが生業になっているのです。そして、本当に病気なのか、実は仮病なのかは、本人も周囲の人間もよく分からないし、何が本当の望みなのかも分かっていない場合が多いと思います。

再び「良くなりたいか」

 これらのことを考えた上で、改めて、イエス様の「良くなりたいか」という問いを考えてみると、それは単純に「健康になりたいのか」という問ではないことが分かります。この問いの中にあるのは、「あなたの本当の望みは何なのだ。あなたは、私が望めば、その望みが実現することを信じるか。そして、健康になった暁には、あなたは何をするつもりだ。ただこの世の生活に帰っていくのか?それがあなたの望みか?それとも、あなたを癒してくださる神を賛美し、私を信じ、私に従う歩みをするのが望みなのか?あなたは、それだけの覚悟があるのか」ということなのではないでしょうか。
そして、その問いは、今この礼拝堂にいる私たちに対する問いでもあります。「何のためにここに来たのか?何が望みだ?と主は言われます。
 この問いに対する病人の答え、それは答えになっていません。「本当の望みは何なのか?その望みに忠実に生きるのか?!」と問われているのに、彼はこう言っているのです。 「主よ。こんなものです。何も変わらないのです。私が何を望んだとしても、それがどうしたというのですか。私の望みなど、何の力にもなりません。私だって最初は若かったから、病気とは言っても今よりもずっと素早く動くことが出来たんです。でも、その頃でさえ、私よりも先に水に入っちまう奴がいるんです。今この歳になって、誰よりも早く水に入るなんてことは、あり得ませんよ。でも、私は毎日、ここにくるのが日課なんです。ここに来て、水に真っ先に入れば癒されると思っているだけでいいんです。別に、新しいことが起こらなくてもいいんです。世間は冷たい奴ばかりです。そんな所に出て行く気もありません。もうずっとこうやって、この寝床に寝そべって生きてきたんですから・・」

    罪への敗北

 そして、これもまた私には実に身につまされる話です。
随分前のことなのですが、前の教会に着任して2〜3年経った頃、遠方にお住いの教会員のご家族が亡くなり、教会墓地に埋骨をすることになったので、その方が、若き日にお書きになった文章を読みました。それは庭の雑草を取る作業に関するものでしたが、「雑草は本当に強い。抜いても抜いてもすぐに出てくる。罪も同じだ。だから、いつもいつもコンチクショウ、コンチクショウと言いながら雑草と格闘している。」という内容でした。私の妻もそのことを知って、いたく共感し、当時は時間を見つけては広い庭や駐車場の雑草取りを「数時間やっても一メートル四方しか取れない、でも罪に負けちゃいけない」などと言いながら、熱心にやっていました。でも、冬が終わって春になれば、必ず新しい雑草が生えてくるのです。根っこから抜いたはずなのに、必ず出てくる。そして、雑草は雑草で恐るべき生存競争をしていますから、去年とは違う雑草が猛烈な勢いで出てくることもあります。罪もたしかにそうです。生きている限り、健康な時は、その時に芽生える罪があり、病の時は、その時に芽生える罪がある。私たちは健康な時も病の時も、そういう罪との戦いの人生を生きている。そして、いつしか戦いに疲れて、自然の流れに身を任せる。その方が楽だからです。たしかに楽です。でも、そうやって放っておけば、せっかく蒔かれた美しい花の種は芽を出しても花を咲かせる前に雑草にやられてしまうのです。信仰の実りを結ぶことが出来ない。

洗礼は受けたのに

 来るクリスマス礼拝では一人の洗礼式が執り行われます。そして、午後の祝会では、洗礼を受けて50年を迎える方のお祝いを致します。私も今年で恥ずかしながら30年になりました。でも、今日の箇所を読んでいて、30年も同じ寝床の上に寝ているんだな、という気がしました。息子にも言われたことがあるのですが、「信仰と言ったって、それで人が変わるわけではないことは、あなたたちを見れば分かる。誰もイエス様のようにはなれっこない。それなのに教会の人は信仰をもって自分が変わったかのようなことを言っている。それは偽善だと思う。だから俺は教会の人が嫌いだ・・」。それこそ、若い頃の私が牧師である父に言ったことを、そのまま言われているのです。そして、私は何も言い返すことが出来ません。その通りだとも思うからです。でも心の中では、これでもまだいいんだ。信仰を与えられていなかったら、どんな風になったか分からない。信仰を与えられているから、まだこの程度で済んでいるんだ・・と言いたいのですが、それもなんだか情けないことです。
 洗礼を受ければ、翌日から何もかも変わると思った。たしかに、その当初は何もかもが新鮮だった。でも、1年経ち2年経ってみると、何が変わったのかと思う。相変わらず、人を妬み、羨む気持ちや悪意もあるし、肉欲もあるし、何も変わらない。だけれど、毎週、礼拝に行って、毎週、同じような話を聞き、なんとなく讃美歌を歌っている。献金も習慣のように捧げている。でも、何かが変わったのか?すべてが惰性であり、単なる習慣ではないのか。この病人が38年間毎日せっせと池の辺に通ってきたように、私も教会に通っているだけじゃないのか?そもそも、今、心底から望むことがあるのか?

   病は癒されても・・

 5章の終わりまでを繰り返し読んでみると、次第次第にこの38年間、池の周りに通い続けた挙句、切実な望みを失っている病人と自分が重なって見えてきて、なんだかゲンナリした気分になってきました。
 彼は、この時、主イエスの「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」という言葉によって起き上がることが出来ました。床を担いで歩けるようになった。でも、彼はイエス様を信じてそうなったわけではないし、信仰によって救われたわけでもないので、バルティマイのようにイエス様の後に従おうともしませんでした。
 彼は、この直後に、床を取り上げて歩くのは安息日にしてはならいことだ、「それは律法違反である」とエルサレムのユダヤ人に見咎められて、ついにはイエス様のことを違反者として告げ口するという役割を果たすのです。その結果、イエス様に迫害が始まり、さらにはユダヤ人たちがイエス様を「殺そうと狙うように」までなる。この話はもともとは救済の話だったのに、救済された人間が、迫害する側に立ってしまうという、何とも考えさせられる顛末なのです。その分かれ目の所で、イエス様は再び、彼に出会い、こう語りかけています。

「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」

 良くなったのに、このあと罪を犯せば、38年間の病気の苦しみよりも悪いことが起こるかもしれない。それはどういうことなのでしょうか?

  起き上がりなさい

主イエスの「起き上がりなさい」という言葉を考えなければなりません。この言葉は、この病人がユダヤ人に詰問された際の答えの中では抜けている言葉です。彼は、最初に言われた「起き上がりなさい」という言葉を理解していないし、その言葉を誰が仰ったかも分かっていません。だから、「わたしをいやしてくださった方が『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」としか言わないのだと思います。
この言葉を調べてみると、実は他の所ではしばしば「復活する」と訳される言葉でした。
 先週、私たちは王の役人の息子の癒しに関する奇跡(ヨハネでは「しるし」と言いますが)を見ました。その時、役人は、息子の病気の治癒を願いました。しかし、イエス様は、こう仰った。

「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」

 病気の治癒ではなく、もっと根源的な命を与えるとイエス様は約束されました。役人は、その言葉を信じて帰りました。そして、帰る途中で、イエス様の言葉が発せられたまさにその時に、息子の熱が下がったことを知らされ、もっと信じる者とされたのです。
イエス様の使命は、病気を治すことではなく、神が与える命で人を生かすことなのです。そして、それは最終的には死人すらも生かすこと、つまり、永遠の命を与えることなのです。今日の箇所においても、それは同じです。イエス様は、病人を治そうとしておられるのではなく、新しい命に生き返らそうとされているのです。この先の21節ご覧下さい。そこでイエス様はこう仰っています。

「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」

 この「復活させる」が「起き上がる」と同じ言葉です。イエス様は、ここでこの生きながらにして死んだような病人に新しい命を与えてくださっているのです。そして、それはイエス様の自由な選びによることです。イエス様は、その自由な選びによって、その場に多くいた病人の中で、この人を選ばれたのです。この人がバルティマイのように切実に求めたわけでも、信じたわけでもありません。だけれども、イエス様は、この男を見て、状況を知って、その言葉によって立ち上がらせたのです。それは、彼の信仰によることではなく、イエス様の選びによることだし、恵みによります。彼は、イエス様の選びと恵みよって、38年間縛られていた寝床から、つまり、あと何年か十数年かすれば、その上で静かに死ぬことになる寝床から立ち上がって、罪と死の象徴であるその寝床を担いで歩けるようにしていただいたのです。それこそが、祝福に満ちた安息日、命が充満する安息日の祭り、礼拝で起こるべきことです。

   問題は祭りの後

 しかし、問題はその後なのです。彼はイエス様の「起き上がりなさい」という言葉を忘れ、あるいは無視しました。そして、ユダヤ人を恐れて、せっかく「よくなった」のに、彼がこれまで縛られていた律法の世界、旧態依然の世界の中に戻っていってしまうのです。主イエスは、その時に、「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない」と語りかけておられるのです。でも、彼は聞く耳を持ちません。
 病気の時に犯す罪があります。しかし、今こうして病を癒され、新しい命を与えられた時に犯す罪がある。それは、「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と言って下さった方を忘れること、拒否すること、信仰をもって従わないことです。そうなると、せっかく罪の中に死んでいた自分に与えられた命が、裁きの中で滅びに至ることになってしまうのです。健康を与えられることで、むしろ、永遠の滅びに落ちることになってしまうとすれば、それは38年間の病気の苦しみよりも「もっと悪いこと」になります。
 この先の28節で、主イエスはこう仰っているのです。

「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ。」

 復活して永遠の命を受ける者が一方におり、復活したのに、裁きを受けて滅びる者がいる。恐ろしいことです。ここでの善行と悪行の基準は、この世にある道徳的尺度ではなく、選びと恵みの中に信仰などない私たちに復活の命を与えて下さったイエス様を信じて従うことを、最大の、いや唯一の望みとして生きるか否かという一点にある。信じて生きるか、信じないで生きるか。それが、ここでの善悪の基準です。信じなさい、と主イエスは言われます。神の御心は独り子を信じる者をすべて救い、永遠の命を与えること。神様の最大の、いや唯一の望みが、私たち罪人の救いなのですから。

  再び「起き上がりなさい」

 私たちは今日も聖霊が働く命の泉である礼拝堂に集まって来ました。そこに主イエスも入ってこられます。そして、私たち一人一人を見て、そのすべての外的状況、そして心のあり様を知って、こう言われるのです。
「良くなりたいか。何が望みだ。心の底から罪を赦して欲しいのか?本当に、新しい人間となって生き始めたいのか?この一週間の罪を悔い改めて、私の十字架の死を贖いと信じるか?そして、私が復活して今も生きていると信じるか?そして、私の祝福を受けて、今日からの一週間、信仰の道を生きる。今、あなたの望みはただそれだけか?心の底からそう望むのか?」
 私たちは、主イエスからそう問われています。
「主よ、お願いします。私の罪を赦してください。私はあなたを信じます。あなたに従います。ただ、そのことだけが私の望みです」と心の底から言える人は幸いです。7度を70倍するまで赦してくださるお方は、今日も、あなたを罪と死の寝床から立ち上がらせてくださいます。

「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」

これが、今日私たちに与えられた主の言葉です。信じる者には実現する主の言葉です。信じましょう。信じて生き、そして、また来週のクリスマス礼拝に集まりましょう。祈ります。
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