「はっきり言っておく」

及川 信

ヨハネによる福音書 5章19節〜30節

 

 

そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」



はじめに

 今日の箇所から5章の終わりまで、イエス様の説教が続きます。その説教の主題は「イエス様とは誰であるか」に尽きると言って良いと思います。イエス様についてイエス様ご自身が語っておられるのですから、他の誰が語るよりも明快と言えば明快のはずなのですが、これほど難解な言葉もちょっと珍しいとも言えます。説教というものは、しかし、まさにそういうものです。ある人には、またある時には、よく分かるけれど、その他の人、また他の時にはさっぱり分からない。今日から始まるイエス様の説教を、私たちは何週にもわたって読み続け、そして聞き続けていきます。聖霊の導きの中で霊的に理解し、そして信じる者とならせて頂きたいと共々に祈りつつ、主イエスの説教に目を凝らし、耳を澄ませていきたいと思います。

「身体の甦り」??

 先日ある家庭集会で、『ハイデルベルグ信仰問答』の「問い57」を読みました。「問い57」とは、「使徒信条」の最後、「からだの甦り、とこしえの命を信ず」という告白に関する問答です。

「『身体のよみがえり』は、あなたにどんな慰めを与えますか。」

「聞く耳のある者は聞くがよい」という説教とは違って、家庭集会における説明の場合は、そこにいる方たちになんとか分かってもらいたい、納得してもらいたいと願って語ります。少人数の集会で、目の前にいる人が全く分からないという顔をしているのは辛いものです。しかし、復活について説明するということが、どれほど無謀なことか?これは皆さんにも共感して頂きたいと思うのです。
皆さんも、「身体の甦り」はあなたにどんな慰めを与えるのですか?と問われて、自分が答えるとしたら、なんとお答えになるのでしょうか?また、「あなたにとって神様に愛されているとはどういうことなのですか?それと復活との関連は?」と問われたとしたら、皆さんはどうお答えになるのでしょうか?これは、相当に恐ろしいシチュエーションではないでしょうか?
 「神様は、イエス様の十字架によって私たちの罪を赦してくださった。それが神様の愛だ」と答えられたとします。でも、「あれ?イエス様って十字架にかかって死んだだけじゃなくて、復活されたんでしょう?復活のイエス様が生きていて、あなたを新しく生かしてくださるということが、神様の愛なんじゃないの?でも、復活ってどういうこと?イエス様だけでなく、イエス様を信じている信者も復活するって聖書に書いてあるけれど、それってどういうこと?今のこと?それとも将来。でもその復活の身体ってどこでどうやって生きていくの?食べ物はどうなっているの?排泄もするの?」なんて訊かれたら、皆さんはどうお答えになるのでしょうか?「そういう面倒くさいことは牧師に訊いてよ」とか言って、お逃げになるのでしょうか?「プロなんだから、ちゃんと答えろ」と言われても、私もまだ死んだこともないし、復活したことがあるわけでもないのですから、何をどう言ったら良いかは、私だって分からないのは当然だし、まるで自分が経験したかのようにすらすらと説明できたら、それこそ怪しむべきことです。

  洗礼 死と新生

 その家庭集会には、去年のクリスマス礼拝で洗礼を受けられた方がおられたので、集会が始まる前に、「洗礼を受けて一ヶ月経ちましたけれど、どうですか?」とお尋ねしました。するとその方が、「洗礼式の時はあがっちゃって、何が何だか分からなくなるんじゃないかと思っていたのだけれど、先生がお読みくださった聖書の言葉とかお祈りの言葉の意味がよく分かりましたし、水を頭にかけて頂いた時に、ああ、私は今、新しくされるんだなーと感じました」と仰いました。本当に嬉しい言葉でした。
洗礼式の時に、私が読んだ御言は、こういうものです。

「罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しい命に生きるためである。もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様に等しくなるなら、さらに、彼の復活の様にも等しくなるだろう。」


 ここで語られていることは、洗礼はそれまでの自分の命が死に、キリストと共に新しく生き始めることだ、ということです。そして、その新しい命を生きている私たちは、いつの日か、キリストと同じように死人の中から甦らされる、復活するというのです。
 この言葉の意味が、洗礼式のときによく分かった。それは良かった。でも、今も、よく分かりますか?その分かったことを言葉にできますか?と問うたらお困りになるだろうと思って、黙っていました。分かる時は分かるけれど、いつでも分かっているわけではない。それが死と復活の問題なのだと思います。分かる時、それはまさに聖霊の注ぎの中で御言を聞き、信じる時なのです。

  ところがどっこい生きている

 牧師向けの『説教黙想・アレテイア』という雑誌があります。その最新号の中に浅野順一という牧師兼旧約学者についての追憶文が掲載されていたので読みました。その中に、既に故人である関根正雄という無教会の指導者兼旧約学者が、浅野先生を追悼している文章が引用されていました。それは、こういうものです。

「当時の先生は30歳前後であられたと思うが、非常に老成された方という印象であった。植村正久、森明、高倉徳太郎という先生方の最もよいものを受け継がれて、その真実なお人柄と信仰から知らず知らずのうちに感化を受けた。当時の先生のお話の中で妙に忘れられないでいるお言葉として、『死んだと思っている古い人間がなおピクピク生きている』というその表現をそのままに憶えている。先生は大変正直な方だ、というのが、当時から一貫した私の感想である」。

 森明という牧師が、この中渋谷教会の創立者です。浅野先生は、渋谷駅の反対側で美竹教会を創立され、その他幾つかの教会の開拓伝道をされました。青山学院神学部の教授もされた。その時代のキリスト教世界におけるリーダーの一人です。その先生が、「死んだと思っている古い人間がなおピクピク生きている」と仰った。この「古い人間」というのは、罪に支配されている人間、結局は裁かれて、滅びで終わってしまう罪人のことです。その人間は、洗礼を受けた時に死んだと思っていたのに、実はどっこい生きている。気がつくと、自分の中にピクピクと生きている。これは、本当の言葉だと思います。洗礼を受けた時に、本当には死んでいなかったのか?それとも古い人間も甦るのか?それは私にはよく分かりません。ただ、浅野先生が仰った意味はよく分かります。私たちは、たしかに、洗礼を通して古き自分が死に、キリストと共に新しく生き始めたのです。でも完全に罪から解放された訳ではないし、肉をもってこの世を生きている限り、私たちを虜にしようとする罪との戦いは続いており、私たちはあまりにしばしばあっさりと罪に負けます。そして、気がつけばすっかり世の人として生きていることがある。古い人間が、全然死んでいない。むしろ生き生きとして生きているという現実は、私たちキリスト者の誰もが経験することです。けれど、肉体の死を経て、復活した経験をもっている人は、この世にはいないのです。

  嘘?

 皆さんもそうでしょうが、私は子どもの頃や若い頃のことをよく思い出します。私が中学生だった頃、大学紛争で授業がない学生たちが教会に入り浸って、下手なギターをかき鳴らしつつ、フォークミュージックを歌っていました。その中のひとつは、牧師をあからさまに揶揄するものでした。内容はこういうものです。
「聖なる神の使者気取りの牧師が、信者に向かって、この世で神様を信じれば、きっと天国にいけますよと説教している。けれども、あんた死んだこともないくせに、見てきたような嘘をつかないでくださいよ。そんな嘘には私たちはもう騙されませんよ。」
 この歌を作って歌っていたのは、当時、「フォークの神様」と言われた人ですが、牧師の子で、神学部で勉強もしていた人です。そういう人の歌を教会の中で歌う青年たちと、それを笑いながら聞いている牧師である父の姿を見ながら、私は複雑な愉快さを感じましたけれど、今でも、よくこの歌を思い出します。ここには、一つの大きなチャレンジがあるし、まともに応えなければならない問いがあるからです。
 「宗教なんて、所詮、人間が作った嘘で塗り固められているのであって、信仰とはつまり騙されているということだ」と、よく言われますし、私も信仰に入る前はずっとそう思っていました。
ここでまた思い出したことがあるので、ついでに言っておきます。私が23歳の神学生だった時、ある人と結婚したいと思って、その人の両親に会うために初めて家に行ったのです。その時、私はその人の父親から二つのことを質問されたというか、確かめられました。父親は、私が将来牧師になることを知って、こう言いました。「まさか、あんた人を騙しているわけじゃないだろうな。」私はびっくりしました。そして、もうひとつの質問は、「まさか、あんたヤクザじゃないだろうな」というものだったのです。私はさらにびっくりしましたけれど、当時の私は今言いましたように、23歳の神学生でしたから、二番目の質問には、自信をもって「いえ、違います。ヤクザではありません。神学生です」と言えたのですが、「まさか人を騙しているわけじゃないだろうな」と言われたときは、実は相当に動揺したのです。「私としては、騙しているつもりはありません」と答えたのですが、心の中では、「イエス様が救い主・キリストだと人々に宣べ伝えるということは、人を騙していることなのかもしれない。でも、伝道しようとする私自身が誰よりも騙されており、イエス・キリストを信じるところにしか救いはないと確信しているのだから、悪意をもって騙していることにはならないだろう・・・」とかドギマギしながら必死に考えていました。幸か不幸か、その父親は、「それじゃ、いいよ。娘はやるよ」と言ってくれまして、一瞬呆気に取られつつ、心底ホッとしたことを思い出します。
 語っていることが、嘘であるか否か。それは、ある事柄について語る人が、その事柄の目撃者であるか否か、あるいは体現者であるか否かに掛かっていると言えるのではないでしょうか。実際に見てもいないのに、実際に当事者から聞いてもいないのに、また自分自身で経験もしていないのに、見てきたかのようなことを言う、聞いたかのように言う、経験したかのように言うとしたら、それは嘘だし、その人は嘘つきです。でも、イエス様は嘘つきなのか。そして、イエス様を救い主と信じ、証しをしている聖書は嘘で塗り固められた書物で、その「聖書」の言葉を信じている私たちは騙されたのか、そして伝道する私たちは人を騙す嘘つきなのか?これはやはり大問題だと思います。

  アーメン アーメン

 今日の箇所には、「父」と「子」という言葉が何度も出てき、「遣わす」も出てくる。それ以外にも、言葉、声、命、死、信じる、裁き、永遠の命、復活、人の子、神の子という大事な言葉が沢山出ています。物凄く高価な宝石がいくつも詰め込まれている宝石箱のような箇所なのです。私などは読めば読むほど、目がくらむという感じです。どれから取り出したら良いかさっぱり分からない。その宝石箱の中を区切る板のように、「はっきり言っておく」という言葉が三度出てきます。これは、原文のギリシャ語では「アーメン、アーメン、レゴウ ヒューミーン」という言葉です。神学校に入ってギリシャ語を習い始めた時、この響きの格好良さにうっとりしてしまい、「これだけ分かればもうギリシャ語はいいや」と思ったのがいけないのですけれど、この言葉は文語訳では、「まことに、まことに、我、汝らに告ぐ」です。これは名訳です。「アーメン」は、ヘブライ語で「真実」という意味です。本当のこと。一分の嘘もないということです。イエス様が、非常に大事なことをお語りになる時に、最初に「アーメン アーメン」と仰った。その時の威厳、聞く者が圧倒されるような威厳が人々の記憶に残って、「アーメン」という言葉だけは、そのまま使ったのです。そして、私たちは今、祈りの後に、あるいは讃美の後に、「この祈り、この讃美は、心からのものです。嘘偽りのない言葉です」という意味で、アーメンと言います。その元になっているのが、イエス様の「アーメン」です。しかし、それは比較にもならないアーメンです。

    命を与える

今日は、すべてを扱えないので、21節に飛びますけれど、そこでイエス様はこう仰っています。

「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」

命を与える。父なる神様は、死者を復活させて命を与えることが出来るお方です。この「復活させる」が病人を「起き上がらせる」と同じ言葉であることは何度か語ってきました。イエス様は、5章の前半で、肉体が死んでいたわけではないけれども、38年間の病で、死んだも同然だった人を立ち上がらせました。それはその人に新しい命を与えたということです。しかし、その人は、イエス様の言葉を聞いて、確かにその時起き上がり、それまで彼を支配していた罪と死の象徴のような床を担いで歩き始めました。つまり、それまでの自分は死に、新しい命を生き始めるチャンスを与えられたのです。けれども、ユダヤ人の厳しい尋問を受ける中で、死んだはずの古い人間、罪と死の奴隷だった自分が、彼の中でまたぞろ生き返ってきて、彼を滅びへと引きずり込もうとしているということを先週知らされました。

「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」

 この死者に「命を与える」という言葉は、もう一箇所、6章63節に出ていました。お読みします。

「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」

 「わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」とあります。これも不思議な言葉です。言葉と霊と命が一つになっている。そして、言葉を信じる者だけが、霊によって与えられる命を生きることが出来る。しかし、信じない者たちもたしかにいるのです。

  枯れた骨の復活

 5章や6章について色々と関連箇所を調べていくと、ここにおけるイエス様の言葉、あるいは新約聖書におけるイエス様の存在は、旧約聖書のエゼキエル書37章の実現なのだということが分かります。そこは、「枯れた骨の復活」が記されている所です。預言者エゼキエルが神の霊に運ばれてある谷に着くと、そこには夥しい数の骸骨が散らばっていました。その骨に向かって、「霊が吹き込まれれば、お前たちは生き返る」と預言しろと、エゼキエルは命令されます。彼が、そうすると、骨は立ち上がって、筋と筋肉がつき、皮膚もついた。けれどまだ生きてはいなかった。神様はエゼキエルに、霊に向かって預言し、「この身体に入れ」と言いなさいと命ぜられる。彼がそうすると、霊が身体に入り、その身体は生き始めた。再び生きる命を与えられたのです。
 その時、神様はエゼキエルに向かって、こう語りかけています。

「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。『我々の骨は枯れた。我々の望みはうせ、我々は滅びる』と。 それゆえ、預言して彼らに語りなさい。主なる神はこう言われる。わたしはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げるとき、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」

 枯れた骨とは、絶望している人間、罪と死に支配されている人間の象徴なのです。度重なる罪に対する神様の厳しい裁きにあい、バビロンに捕囚されてしまい、もう二度とイスラエルに帰ることができないと諦め、絶望している神の民イスラエル。それは最早、生ける屍であり、墓の中に葬られ白骨化している人間と同じなのです。しかし、そういう人間が神の言葉を聞き、霊を吹き入れられる時に、復活し、新しく起き上がり、神様が主であることを知るようになる。その時こそ、イスラエルの新しい誕生、新しい出発です。墓から引き上げられる時、復活の時なのです。主を知るとは、主を礼拝するという意味だからです。

  生ける屍としての弟子たち

 今日の箇所で、イエス様は「死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」「時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受ける」と仰っています。ここでの声は言葉だし、そして、その言葉は霊なのです。人を生かす霊です。新しい命そのものであり、それはイエス様ご自身なのです。そのことが、ヨハネ福音書の最後20章で明らかになるのです。
 そこはもう何度も何度も繰り返し読んでいる箇所です。そこには、ユダヤ人の迫害を恐れ、また自分たちの罪に絶望して、戸を閉め切った部屋に隠れている弟子達のところに復活の主イエス・キリストが現れたという事実が記されています。その時のイエス様は、霊の身体となったイエス様です。肉体が蘇生したわけではありません。鍵が掛かっている部屋に、戸を開けずに入って来られる。でも、弟子には見える。そして、手には十字架の釘跡がある。そのイエス様が、恐るべき罪の支配の中で絶望し、死の闇の中に沈んでいた弟子達のところに来てくださった。この部屋の中は、墓の中と同じです。弟子たちは、肉体はたしかに生きているけれど、本質的には死んでいるのです。イエス様からの愛を裏切り、自分で自分の愛を裏切った人間は、その本来の命を生きていくことは出来ません。洗礼を受ける前の私は、町を歩いていても、学校に行っても、そこに生きている人たちが骸骨のように見えました。意味もなく、カタカタと音をたてて動いているけれど、生きているわけではない。自分がそういう状態だったから人のこともそう見えたのですけれど、愛を失っている人間、誰のことも心底愛していないし、誰からも心底愛されていない人間というのは、たとえ表面的には生きていたとしても、その本質において死んでいると感じました。だから生きていることが空しいのです。そのことに気づいてしまえば、もう積極的に生きていく理由はありません。死ねないから生きているだけだし、どうせ生きなくてはならないのであれば、出来るだけ空しさを感じないですむように生きるほかにありません。だから、必死になって目標を探して勉強したり、仕事をしたり、快楽に走ったり、酒に溺れたりして、空しさ、空虚、絶望を紛らわしているに過ぎないと思いましたし、それは今も思います。
 あの時の部屋の中にいた弟子たちは、もう紛らわすことも出来ない絶望の中にいた弟子たちです。そういう人々は、年間に30,000人も自殺するこの国には、今だって沢山います。親からの愛を受けられず、親を憎み、人をどう愛したらよいか分からず、人を裏切り、自分自身を裏切り、人を傷つけ、自分を傷つけてしまう。そして、人に絶望し、自分に絶望し、人生に絶望する。そして、深い孤独の闇の中に沈む。

  霊・体・赦し・命

イエス様は、それこそ人を愛したのに、裏切られ、全き孤独の中に死なれました。でも、イエス様は死んでから3日目に復活されたのです。そして、ご自分を裏切った弟子たちに真っ先に会いに来て下さった。イエス様は、絶望していないのです。私たちを諦めない、見捨てないのです。神様が、そうだからです。イエス様は、「父のなさることを見て」「父がなさることはなんでも、そのとおりにする」神の子であり、「父から聞くままに裁く」方であり、その「裁きは正しい」のです。イエス様が、裏切り者の弟子たち、そして自分の罪に絶望している弟子たちに現れて「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださったということは、神様がイエス様を裁くことを通して弟子たちを赦してくださったということなのです。神様が、尚も弟子たちを愛してくださっているということなのです。決して見捨てず、むしろ新たに生かして、共に生きようと語りかけてくださっているということなのです。そこに、新しい裁きの正しさがある。
神様が、枯れた骨に言葉と聖霊を吹き入れて新しい命を与えられたように、イエス様は、生ける屍になっている弟子たちに罪の赦しという平和が与えられていることを告げて、息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と語りかけ、さらにこう仰った。

「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがた赦さなければ、赦されないまま残る。」

 この言葉、聖霊の言葉、命を与える霊なる言葉を聞き、信じた時、弟子たちは、この部屋から出ることが出来ました。古い自分が死んで、新しくキリストと共に生きる命が与えられたのです。枯れた骨が生き返り、墓から引き上げらあれ、イエス様こそ、私の主、私の神であると知ったのです。そして、その主を宣べ伝え始めた。彼らはイエス・キリストの証言者、十字架の死と復活、罪の赦しと新しい命を宣べ伝える伝道者とされたのです。そこにキリスト教の出発があります。

  証言の真実性

 死人からの復活、それを文字通りに経験されたのは、私たちの主イエス・キリストしかいません。福音書に記されている言葉は、その主イエス・キリストの言葉です。だから真実、本当のことなのです。このイエス・キリストの姿を見、その言葉を聞いた弟子たちの証言は嘘ではありません。
彼らは、最初、嘘つきでした。彼らは、イエス様のことなど「知らない」と嘘を言って、生きようとしたのです。でも、彼らが自ら生かそうとしたその命は、所詮、空しい命でした。ただ肉体が生きているだけの生ける屍、枯れた骨になるだけの命だったのです。罪と死に支配された命です。でも、そのことを痛切に知らされ、死の闇の中に落ち込んでいる時に、復活のイエス様が彼らに現れ、その罪を赦して下さり、聖霊を吹き入れて下さった時、彼らは、「イエス様こそ主でありキリスト、救い主です。この方を信じる時、私たち人間は救われます。永遠の命を与えられるのです。さあ、聖霊を求めて、私たちの話を聞いてください。イエス様が何をなさり、何をお語りになったかすべてお話します」と説教をする人間になっていったのです。福音を語り始める人間となっていったのです。そして、その時から、彼らはイエス様が経験したことを経験し始めました。ユダヤ人たちに尋問され、迫害され、そして殺されそうになったし、実際、ユダヤ人に、またローマ人に殺されていった、殉教の死を遂げていったのです。嘗て「あの人のことなど知らない」と言って、肉体の命を生き延びようとした彼らは、今や、「イエス様は救い主です」と証しつつ、「イエス様と同じように死ねるのなら、本望です。イエス様と同じように復活させられることが確実なのだから。私たちは今、信仰において既に、その復活に至る永遠の命を生きているのだから・・・」という信仰に生きる者とされたのです。
 福音書は、十字架で死んで後に甦り、以後、聖霊において生きておられるイエス様ご自身の言葉と御業を見て、聞いた弟子たちの証言に基づいて記された霊的な書物です。その聖書を読む私たちは、霊の導きの中で、ここに神の言、神の声を聞き取り、信じるか、信じないかの決断を迫られるのです。

  信じるか信じないか

「アーメン、アーメン、レゴウ ヒューミーン」「まことに、まことに、我汝らに告ぐ。」

  十二弟子を見れば分かりますように、主に招かれ、主を信じ、弟子として新しく生き始めた者たちも、主を裏切り生ける屍となってしまうことがいくらでもあります。それは死んだ者です。枯れた骨です。私たちも、しばしば同じです。でも、復活のイエス・キリストが、今日も私たちの罪を赦し、聖霊を吹き入れ、私たちに新しい命を与えようとして下さっているのです。今です。「死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である」とは、この福音書を読んでいる人、説き明かしを聞いている人の「その時」のことなのです。2000年前のことではありません。主イエスは復活されて今も霊において生きており、今生きて、しばしば罪に沈んで死んでしまっている私たちに命を与えようと、今、この礼拝堂の中で語り掛けてくださっているのです。今です。この広い東京、その中でも多くの人でごった返している渋谷の地で、一歩外に出れば、空しい人生に刺激を求めてうごめく人々の喧騒があります。しかし、私たちはどういう幸いか、イエス様が命を与えたいと思ってくださり、今、この礼拝堂の中にいる。そして、今、神の子の声を聞いています。これは本当に奇跡です。こういうことを恵みというのです。選びというのです。

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」

  墓は復活の場所です。ローマの古代教会は、皆、墓の中だったのです。そこで、毎週、復活の主イエス礼拝し、迫害の中で、命を捧げて伝道したキリスト者がいたのです。今だって、いる。私たちだって、そういうキリスト者になれるのです。キリストが生きており、語りかけてくださるのですから。霊において聞いて信じることが出来れば、私たちは迫害する者、敵の罪の赦しを宣言するために、出て行くことが出来るのです。
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