そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。
わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
宝石箱の世界
前回の説教において、この五章一九節から三〇節までは、物凄く高価な宝石が詰まった宝石箱で、「はっきり言っておく」(アーメン アーメン レゴウ ヒューミーン・まことにまことに我汝らに告ぐ)と三度も出てくる言葉が、宝石箱の中を三つに区切る板のような働きをしていると言いました。しかし、箱の中の宝石は、その区切られたスペースにきちんと区分されているわけではなく、あるスペースに入っている宝石が、隣のスペースにも入っていたりしますから画然とスペース毎に分ける訳にいきません。そういう空間的な区分もさることながら、ヨハネ福音書は時間的な区分も明確ではないというか、時系列的な書き方を敢えてしていないのです。昔のことを書いているようでありつつ、今のことが書かれているのだし、地上を肉体をもって生きておられたイエス様のことが描かれているのですけれど、それは同時に、霊において今も生きて働いておられるイエス様のことでもあるのです。よく「史的イエス」と「信仰のキリスト」と言われますけれど、その両者が分かち難く結びつき、二重写しのように書かれているのです。最初に、そのことをまず心に留めておいて頂きたいと思います。
救いは裁き
今日も、二〇節の途中から入っていこうと思います。
「また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。また、父は誰をも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。」
前回は、死者の「復活」に関して御言に聴きました。今日は、その次の「裁き」に関して聴きます。でも、「復活」と「裁き」は分かち難く結びついている事柄です。前回語りましたように、死者とは既に死んで墓の中にいる人間のことでありながら、同時に、肉体としては今生きているけれども、罪に堕ちて神との交わりを失っている者たちのことでした。それと同じように、「裁き」もまた、世界の歴史が終わる日の最後の審判であると同時に、ここでイエス様の言葉を聴いている「今」起こる出来事でもあるのです。
「裁き」とは「区分」、「分ける」ということです。ある所が闇で覆われていたとします。そこには闇しかないのですから、闇を分けることは出来ません。しかし、その場所に僅かな光が射し込んだとします。すると、その光に照らされる所と闇のままで何も見えない所は分けられます。ここで主イエスがお語りになっている「裁き」とは、そういうものです。それは、三章一六節以下を読むとよく分かります。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。(中略)光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」
神様の御心は、世(罪人である私たち)を裁くことではなく、御子によって世が救われることです。しかし、それはすべての人間が自動的に救われるということではありません。イエス・キリストを信じる者は誰でも救われ、永遠の命を与えられるのですが、信じない者は自ら裁きを招くということです。死の闇の中に命の光が射し込んできたのに、その命の光の方に来ないのであれば、その人は自ら死の滅びの中に留まることになるからです。そしてそれは、世の終わりに起こる出来事ではなく、今起こっている出来事である。信じる者となりなさい。そういうメッセージがここにはあります。
それと同じことを、主イエスは五章二四節でこうお語りになっているのです。「わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」
聖書に関する説き明かし
説教者は、正しく御言を取り次ぐことが使命です。妙な思い込みや、独断で語ってはいけない。だから、毎週、学者たちが書いたものを読んだり、他の説教者が語ったものを読んだり、辞書を調べたりと、色々なことをします。その中で、たとえば五章二四節に関して、こんな文章も読むのです。よくお聞きになってください。
「父なる神は信ずる者のもとに到達し、つまり、御子の派遣の意志によって到達しているが故に、また、御子の意図が信じる者において実現されているが故に、また、信じる者がその信じることによって、終わりの時の御子の復活の呼びかけに従って、ただ、なお永遠に生きるべく備えているが故に、信じる者は永遠の命を持っているのである。」
これは非常に有名な神学者の言葉ですが、皆さんお分かりになったでしょうか?ドイツ語からの翻訳なので、尚更分かりにくいと思いますけれど、この一つの文章の中に「父なる神は」と「御子の意図が」と「信じる者が」という三つの主語があるのですから、私のような者には、何を言っているのかほとんど分かりません。でも、これも仕事だと思って我慢して読みます。そして、こんな難しいことを書いている学者もまた、イエス様において起こっている出来事に驚き、心を躍らせ、何とかして一人でも多くの人間に伝えたくて熱を込めて書いているんだな・・程度のことは分かってきます。その上で、再び聖書本文に帰っていきます。そして、聖書に書かれていることが、本の中ではなく、現実の中で説き明かされている事例はないのか?と思い巡らします。
訪問聖餐
先週は、週報にも報告されていますように、お二人の方の訪問聖餐をすることが出来ました。お二人とも高齢の方です。Tさんは二月九日で九五歳になられました。Sさんは一月二三日に八六歳になられ、次第にベッドの上での生活が長くなっています。そういう方と、聖書の御言を読み、祈るために、また主イエスの御体と御血潮の徴であるパンとぶどう酒を共に頂くためにお訪ねする時、私の心はいつも非常に緊張していますけれど、非常な喜びに満たされてもいます。何故かと言うと、どんな本を読むよりも、そういう方と一緒に聖書を読む時に、聖書の言葉がよく分かることを私はこれまでの経験からよく知っているからです。
今回、お二人をお訪ねした時は、ヨハネ福音書の五章と六章のイエス様の言葉を読むことを心に決めていました。
「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。」
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
「このパンを食べる者は永遠に生きる。」
この言葉を読む私の前におられる方は、私の倍近くを生きてこられた方であり、「百年近くも生きれば、だいぶ疲れましたよ」とか「いつお迎えが来るか分かりません」ということを普通に口にする方たちです。私はまだまだそんな年齢ではありません。そこには区別がある。はっきりとした違いがあるのです。でも、この言葉を読んでいる時に、Tさんにしろ、Sさんにしろ、私が読む御言を聴きながら、みるみる顔つきが変っていくのです。上手く言えないのですが、まさに生気が甦ってくる。そして、それまで部屋に漂っていた空気も変ってきます。ただの居間や寝室だった部屋が、礼拝堂になっていくのが分かります。その礼拝堂の霊気を感じながら、御言を読んでいると、よく分かるのです。(だから、私も毎週、この講壇の上で、沢山の御言を読むのだろうと思います。)その時、私はこう語りました。
「人間がこの世に生まれてきて、そして死ぬまでに、聴くべき言葉があると思う。この言葉を聴くことが出来れば、もう死んでもいいと思える言葉がある。それは、この言葉だと思う。神の子イエス・キリストの声を聴く。その言葉を聴くことが出来る。こんな嬉しいことはない。この言葉を聴いて信じることが出来る今、私たちはその信仰によって生きることが出来る。この『生きる』というのは、肉体が生きるというのとは全然違う。永遠の命を生きるということです。それは、今信じている私たちには明らかなことですよね?これから頂くパン。これもまた今生きておられるイエス様の命としてのパンです。これを食べて私たちは生きるのです。このパンを食べ、この血を飲む者は永遠の命を得るのです。本当に感謝ですね。さあ、頂きましょう。」
そう語ってから、いつものように讃美歌二〇五番を歌って、聖餐式を始めました。このメッセージを語った時も思いましたし、こうやって思い出して文字にしながら、尚更思うのですが、私はただ聖書の言葉をなぞって語っているだけです。何も難しい解釈とか思索などしていない。イエス様の言葉をそのまま自分の言葉で言いなおしているだけです。でも、その言葉を読み、語り、共に聴き、共に信じることが出来る時、そこに年齢の差などないし、病気であるとか健康であるという違いがないことが分かります。命の光が射し込んできた時に、その光の方に来ることが出来た喜びにおいて一つにされているということが分かります。教会員のご自宅を訪問し、そこで聖餐を頂く度に、そのご家庭の小さな部屋の中に主イエスが入り、命を持って来て下さるということを感じます。それは、死を間近に控えた方が横たわっている病室においても同じことです。その部屋に、また病室に入って来てくださったイエス様が、信じてパンとぶどう酒を頂く私たちを「死から命へ移してくださる」ことが分かります。私はそういう時に、遣わされた者としての使命を果たさせていただいている喜びを感じます。
遣わされる
今日の箇所に、「遣わす」という言葉が三度出てきます。イエス様は、ご自身のことを父なる神様に遣わされた方として自覚しておられます。その派遣は、何のための派遣なのか?この福音書は、結局、そのことを告げるために書かれていると言って間違いはないと思います。
この福音書において、イエス様が何のために神様から遣わされたかを最初に証言したのは洗礼者ヨハネ(バプテスマのヨハネ)です。彼は、イエス様を見た途端にこう叫びました。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」
イエス様は、世の罪を取り除く方として、遣わされた方だということです。父なる神様は、独り子であるイエス様に世の罪を取り除かせるという使命を与えられたのです。しかし、今日の箇所では、「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」とある。人間の罪を身代わりに背負って裁かれることによって罪を取り除く小羊の役割と、罪を裁く裁き主の役割は矛盾します。本来、両立しないのです。しかし、その矛盾というか相反することが、主イエスお一人の中に起こる。それが神様の驚くべき御心なのです。
驚き
前回のヨハネの復活に関する説教についても、また先週のハガルやイシュマエルに関する創世記の説教についても、幾人かの方たちが、「あんな話だとは思ってもみなかった。驚いた」と仰り、説教原稿を読んだある方も、十字架上のイエスの声に耳を貸さずに、私たちを救ってくださった神様の愛を知って、「愕然としました。その愛に、感謝と言うより、恐ろしさを覚えます」という感想を書いて来てくださいました。私は、そういう感想、あるいは応答を聞かせて頂きながら、皆さんと一緒に聖書を読んでいる、神様の言葉、神の子の声を一緒に聞いているという喜びを感じます。
聖書をじっと読み続ける中で、神様が御子を通してなさる「大きな業」を知らされて驚愕する。喜びに満たされるだけでなく、恐ろしさや驚きにも満たされる、逃げ出したいような畏怖を感じる。そういうことが起こった時に、初めて「説教」で語るべきことが、そこにあるのだと分かります。
先ほど言いましたように、贖いの小羊と裁き主は互いに矛盾します。裁き主は、罪の償いを求める立場です。それなのに、その裁き主が、その代償として自分の命を捧げる立場でもある。これは、当時の誰も考えたこともない事態です。誰も想像することすら出来ない現実なのです。でも、神様は、そういうことを望まれた。それが神様の御心なのです。
「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」
ここに出てくるイエス様の「意志」と神様の「御心」は原文では同じ言葉です。他のすべての福音書に出てくる、あのゲツセマネの祈りの中のあの言葉と同じです。「アッバ、父よ、あなたには何でもお出来になります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。」この「願う」と「御心」と同じセロウという言葉です。
何でもお出来になる神様が願ったこと、その御心は、裁き主であるイエス様が、小羊として死ぬことなのです。それが神様の裁きなのです。イザヤ書五三章の言葉で言えば、「誰が信じえようか」という御心が、イエス様の十字架の姿にはあるのです。
「彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちは癒された。
わたしたちは羊の群れ
道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
そのわたしたちの罪をすべて
主は彼に負わせられた。」
これが、イエス様の十字架の死において起こったことです。
イエス様は、ご自分の地上の歩みの最後が、こういうものであることをご存知でした。その上で、いや、だからこそ、「アーメン アーメン レゴウ ヒューミーン・まことに まことに 我 汝らに告ぐ」と仰ったのです。それは、「私は、あなたたちの罪の贖いのために死ぬのだ。その私が言う。この言葉を聴いて信じるか否かに、あなたたちが生きるか死ぬかが掛かっている。そして、その生きるか死ぬかは、肉体の命の生死の次元ではなく、永遠に生きるか、それとも裁きの中に滅んでしまうかという次元のことなのだ。信じて欲しい。そして私と共に生きて欲しい」という語り掛けです。
これは、ご自分の命を捧げる愛の言葉、命がけのプロポーズです。この熱烈な愛の言葉、プロポーズは、一番最初、誰に向けてなされたのか?それは、一五節以下を読めば分かりますように、安息日規定を破り、さらに「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言って、「ご自身を神と等しい者とされた」イエス様を迫害し、殺意すら抱いている者たちなのです。
こう言いますと、私たちは、それは二千年前の「ユダヤ人たち」のことだと決め付けて、安心してしまうかもしれません。昔の人はなんて愚かなんだ、ユダヤ人ってなんて頑ななんだ・・と。でも、先週も言いましたように、ここに出てくるユダヤ人たちは、私たちなのです。私たちは、自分を傷つけた人間のことを心の中で裁き、抹殺することはいくらでもある。具体的に相応の対応をすることもある。そういう私に、イエス様が、「お前は何を言っているんだ。お前を赦すために、私が死んだことをお前忘れたのか?!お前はそのことを信じたはずじゃなかったのか。ならば、赦しなさい」と語りかけてくる。様々な手段で語りかけてくる。心の中にその声が聞こえる。また、人の口を通して耳に聞こえる形で語りかけてくる。その都度、心を掻き毟(むし)られながら、その声を抹殺し、耳を塞ぐ。そうやって、愛と赦しをもたらすために、そして、私たちに真の平和をもたらすために十字架に掛かって死に、甦り、今も生きておられるイエス様を、私たちは抹殺する。殺してしまう。そして何をしているのか?実は、自分を殺している。裁きを招いている。そして、終わりの日の滅びを招いているのです。恐ろしいことです。
復活の日に起こったこと
この福音書の説教を続けていく中で、繰り返し読んできたし、これからも繰り返し読むことになるのは、先ほどの三章一六節以下の言葉と二〇章一九節以下の言葉です。そこは言うまでもなく、ユダヤ人を恐れて部屋に閉篭もっている弟子達のところに復活のイエス様が現れる場面です。小さな部屋、死の闇が覆っている部屋に、命の光であるイエス様が入ってこられる。自分たちを殺そうとする者たちに対する恐れと、イエス様を裏切ってしまった自分たちに与えられるであろう神様の裁きに対する恐れが、彼ら弟子たちを支配していたでしょう。彼らは、その恐れの中に閉じこもり、立ち上がることが出来なかっただろうし、まして部屋の外に出ることなど、到底出来ないのです。その彼らの只中に、十字架の死において彼らの罪を取り除いて下さったイエス様が現れ、「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださいました。なんという言葉かと思います。この言葉の意味が分かり、この言葉が私において実現すれば、それはもう人生の完成と言ってよい言葉だと思います。この言葉を聴き、それを信じ、そしてその言葉が実現するとき、そこに生まれてきたことの意味、神様の祝福の実現、成就があるからです。
この平和、それは何よりも罪の赦しによって与えられる神様との平和です。この平和が与えられる時、私たちは神様との愛の交わりに入れられる。まさに死から命へ移されるのです。もう罪に怯え、終わりの日の裁きを恐れる必要はありません。私たちは救いの確信を持って主の前に立つことが出来ます。この平和、それは私の罪の贖いのために主イエスが十字架にかかって死んでくださり、私に新しい命、永遠の命を与えるために主イエスが復活して下さったことを信じる信仰によって与えられるものです。弟子たちは、この主イエスと出会った時に、「主を見て喜んだ」のです。もちろん、驚愕しつつ喜んだ、畏れの中に、ひれ伏し喜んだのです。主を信じ、礼拝したのです。その彼らに主はこう言われます。
イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」
これもまた驚くべき言葉です。弟子たちは、恐れたでしょう。この部屋の外には、彼らを見つけ出して迫害し、場合によっては殺そうとする人々がいるのです。神への信仰があると自負しつつ、実は、神の愛をいつも抹殺し、神の子を罪人として裁いて、その裁きは正しいと確信している人々がいる。そういう人々に、罪の赦しを与えるために出て行くように命ぜられている。イエス様は、まさにそのことのために父から派遣されたのです。それと同じ使命を、イエス様は、今まさに罪の赦しを与えられて新たに生きる者となり、そのことを喜んだ弟子たちにお与えになるのです。イエス様の十字架の死と復活を信じることによって与えられた命とは、このように使うために与えられたものなのです。私たちが驚くのは、驚愕し、恐れを感じて逃げ出したくなるのは、この御業です。病の癒しなど比較にならない大きな業、私たちが驚くことになる業とは、実は、このことです。
主イエスは、さらにこう言われました。
「驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出てくるのだ。」
この善(アガソス)という言葉は、この福音書の中では、あと二回しか出てきませんが、いずれも間接的な形でイエス様を指す言葉として出てきます。つまり、ここに出てくる善悪は、私たち日本人の道徳観念上の善悪ではありません。善とは、イエス様のように生きることです。イエス様が、罪人の罪の赦しのために生き、その命を捧げるために遣わされたように、私たちも罪を赦すために生き、そのことに自分の命を捧げる。それが善、復活に繋がる善なのです。そして、その善は、今、この礼拝において、復活の主イエスの「あなたがたに平和があるように」という赦しの声を聞いて信じ、新しい命を造り出す聖霊を受け入れた者だけが、生きることが出来る善なのです。
弟子たちは、このイエス様の言葉を聞き、信じ、そして聖霊を受け入れて、この部屋の外に出て行きました。彼らを迫害し、彼らを殺そうとする者たちがいる外に出て行ったのです。敵を愛し、迫害する者のために祈る者となって出て行った。そこに教会の出発があり、私たちは、その教会の歴史の最先端を生きているのです。罪の赦しの権能は、父なる神様から、御子イエス・キリストに与えられており、そして、洗礼を受けた私たちキリスト者に与えられているのです。教会とは、この世に罪の赦しを与えるための権能を授けられたキリストの体であり、神の宮です。
しかし・・・・
しかし、現実問題として私たち一人一人は、他人にしろ家族にしろ、人の罪を赦して生きているなどと公言できる生活はしていないのではないでしょうか。少なくとも、私はそういう生活をしてくることは出来ませんでしたし、今も出来ていません。でも、牧師というものは、自分では出来なくても、「皆さんは出来ます」と語るべき立場の人間なのかもしれないと、いつでも思います。自分が出来ないからと言って、イエス様がここで命じていることを、自分のレベルに引き下げてしまって、「イエス様はこんなことを仰っているけれど、それは理想論であって、現実には誰もこんなことは出来ませんよね?」と言ってよいなら、どんなに楽かと思いますが、それは罪に罪を重ねることだと思います。しかし、自分が出来ないことを、イエス様を信じればすぐに誰にでも出来るかのように語ることもまた、欺瞞を深めることでしょう。自分が犯してきた罪、犯している罪を思えば、神様と皆さんの前に立って、何かを語ることなど到底出来ないし、そんなことをなすべきではないことは分かっています。でも、その自分の現状に正直に誠実に「御言が語っていることはこうですが、私には語る資格がないので、語ることをやめます」ということが、果たして御心に適うことなのか?!少なくとも今の私が牧師として語ることを辞めるということは、私にとってはキリスト者をやめるということですから、信仰を捨てますということです。「信じている」と自分では思っていても、少なくとも私という人間は変らないし、相変わらず、罪を犯し続けている。赦せないものは赦せない。与えられた傷は絶えず疼くし、人にも疼き続ける傷を与えている。信仰をもっていても罪の現実は変らない。ならば、いっそ捨てよう。辞めようと思う。
でも、信仰というもの、キリスト者という立場、身分、それは私にとっては牧師として生きるということですけれど、皆さんは皆さんで、それぞれ立場でキリスト者として生きておられるのですが、そのキリスト者という立場は、自分が持ちたくて持ったものではないし、自分が手にしようと努力して獲得したものではないのです。そうではなくて、やはり恵みによって与えられたものなのです。だから、私のものではない。私が自由に捨てたり、拾ったり出来るものではないのです。
「父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える」とイエス様は仰いました。まさにそうなのです。キリスト者として生きる命は、イエス様ご自身が私たち一人一人に与えてくださった賜物です。どういうわけか分かりませんが、私のような者にも、イエス様はその命を与えようとしてくださったのだし、今でも、そうなのです。与えたいと「思う」という言葉も、先ほどの「セロウ」、「御心」と同じです。その御心が変らない。今日も変らない。この礼拝堂の中で、今日、この主日礼拝において私が聴き、まさに驚愕すべき言葉は、「今日も、私はあなたに命を与えたいと思うのだ。あなたの罪を赦す。信じなさい」というものです。そのことは、今ここにいる、すべての方に共通のことだと私は確信します。だから、今日も語ります。そうするしかないから語ります。
「イエス様は、今日も、皆さんの罪を赦し、新しい命を与えてくださいます。信じてください。そうすれば、新たにされます。」
ただ礼拝だけが
私たちは、この言葉を携えてこの礼拝堂の外に出て行くのです。この言葉を語りかけて下さるイエス様と一緒に出て行くのです。イエス様は「あなたがたが赦す罪は、誰の罪でも赦される」と仰いましたが、その「あなたがた」とは、聖霊を受け入れた私たち、つまり、「最早、私が生きているのではない。私のうちでキリストが生きておられるのである」と、パウロがガラテヤ書の中で言う意味での「私たち」キリスト者です。罪を赦すことができるのは、イエス・キリストだけです。イエス・キリストが、私たちの中で働いてくださる。父が働くようにイエス・キリストは今も働いておられる。そのキリストが私たちの内に生きておられるから、私たちも今も働くのです。
その最大の働きは「すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるため」の働きです。すべての人が、父と子を礼拝する。聖霊の導きの中で礼拝する。そして、この礼拝の中で、罪赦され、そして、互いに罪を赦し合う者として造りかえられる。このために、私たちは礼拝をしているのだし、この礼拝堂から出て、一週間の歩みをするのです。この礼拝、復活の主イエスが釘跡の残る両手を広げて「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださるこの礼拝において、私たちは初めて互いの罪を主によって赦し合うことが出来るからです。礼拝において、主のなさることを見、その声を聴く中で、私たちは自分に与えられている罪の赦しという恵み、その愛を信じ、その信仰において、初めて互いに赦し合い、愛し合うことが出来るからです。この礼拝においてだけ、私たちは神の子として生きる希望があります。
いつの日か、パウロがフィリピの信徒への手紙の中で言うごとく、「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえる」日が来ます。それこそが、世の終わりの日、救いが完成する日、最も大いなる驚くべき御業がなされる日です。その日に向かって、私たちは今日からの歩みを始めることが出来るのです。なんと幸いなことでしょうか。主に感謝し、讃美しましょう。
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