「あなたたちが救われるために」

及川 信

ヨハネによる福音書 5章31節〜47節

 

もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

(五章三一節〜四〇節)

  キリスト者=聖書を読む人々

 「キリスト者とは何であるか」という問いに対する一つの答え、それは「聖書を読む人間たちである」と言って間違いありません。しかし、私たちは聖書を興味本位で読むとか、教養を身につけるために読むのではなく、私たちを生かす神の言であると信じて読むのです。イエス様は、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きるのである」と仰いました。聖書の言葉は、神の口から出てきた、また今も出てきている神の言であると信じて、命のパンとして聖書を読む、それが私たちキリスト者です。それはどういうことか?と言うと、新約聖書の福音書に限らず、旧新約聖書は私たちの救い主であるイエス・キリストを証している書物であると信じて読むということです。『日本基督教団信仰告白』には、「旧新約聖書は、神の霊感によりてなり、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり」とあります。旧新約聖書は聖霊によって書かれ、キリストを証していると信じて読まないと、聖書はいくら読んでも実は全く分かりません。聖書の言葉の中にキリストの姿が見えてくる、その声が聞こえてくるということがないと、「聖書を読んでいる」と言っても、それはただ目で追っているだけのことです。そうであれば、それは他の書物とさして変るものではありません。しかし、聖書を読んで、そこにキリストの姿を見、その声を聴くためには、聖霊の導きが絶対に必要です。パウロは、コリントの信徒への手紙の中で、「霊によらなければ、誰も『イエスは主である』とは言えない」と言っていますし、ルカ福音書においては、イエス様自身が「聖霊を求めなさい」と言っておられます。ヨハネ福音書の後半は聖霊に満ち溢れています。聖霊が降らない限り、イエス様の言葉はわからないとイエス様が何度も仰っています。霊感によって書かれた聖書は、聖霊の導きによって読まないと分からないのです。説教を作り、語ることも、また説教を聴くことも、すべて聖霊の導きの中で与えられる信仰の業なのであり、そのこと抜きには、何を語り、何を聞いても、ただの人間の言葉に過ぎません。精々、多少賢くなった程度のことしかありません。しかし、この世の賢さと救いは全く関係がないことです。

 証し 証言 信仰

 今日は、主に三一節から四〇節の御言に耳を傾けていきたいと願っています。ここには、「証し」「証しする」また「証しをなさる方」という言葉が繰り返し出てきます。また「真実」という言葉も出てきます。この「証し」とか「真実」という言葉は、「信じる」「愛する」と並んでヨハネ福音書では非常に大切な言葉です。この福音書の最後を読めば、それは一目瞭然です。そこには、こうあるからです。

「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。」

 この福音書そのものが証しであり、その証しは真実であるというのです。それでは、この福音書は何を証しし、何のために書かれたかというと、もう一つの締めくくりの言葉である二〇章三一節にこうあります。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシア(キリスト)であると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

 この福音書は、イエスという地上を生きたこともある人間が、実は神の「子」であり、メシア(キリスト)救い主であることを証しているのであり、その証は真実なものである。この証しを読んだ人間が、イエスは神の子メシアであると信じ、命を受けるために書かれたのだと、執筆の目的が明確に記されています。ですから、この信仰に至らなければこの福音書を読んだことにはならないのです。真実な証を信じる。あるいはこの福音書の証が真実であると信じる。それが命を受けることである。これは、既に肉体としては命をもって生きている人間に語りかけられている言葉ですから、この「命」とは、肉体の命のことではなく、パンで生きる命ではなく神の言で生きる命、霊的な命であり、今日の箇所にも出てくる言葉で言えば、「永遠の命」のことです。そういうことを踏まえた上で、今日の箇所に戻ります。

  自己証言は真実か?

中渋谷教会ではあまり聞かない言葉ですが、教会ではしばしば「信仰の証しをする」という言葉が使われます。自分に与えられた信仰的経験を自分の言葉で証しすることです。そういう「証し」という意味がここにはあります。しかし、同時に、これは裁判において使われる言葉なのです。裁判では、容疑者に対して、訴えられている罪を本当に犯したのかどうか尋問し、弁明する機会、自分のために証言する機会が与えられます。そして、その上で、その証言が真実であるかどうかが、様々な証拠や複数の証人たちの証言によって吟味されていきます。
しかし、何故、ここでこういう言葉が沢山出てくるかと言えば、主イエスは今、当時のユダヤ人たちに尋問され、裁かれる立場にあるからです。主イエスが安息日に病人を癒して、当時の律法に違反をした犯罪者と見られているからですし、さらに「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」と言って、「御自分を神と等しい者とされたから」です。それは、神は唯一の神であり、目には見えない方であることが信仰の核心であったユダヤ人にとっては、許し難い犯罪的言動です。ですから、当時のユダヤ人は、迫害を加え、さらに犯罪者として死刑にしようと狙うようになったのです。そういう状況のもとで、主イエスが長い弁明、自己証言をしている。それが一九節からの流れです。
 先日、『それでも僕はやってない』という映画を観ました。それは、満員電車の中で女子中学生に痴漢をしたということで訴えられてしまった青年の物語です。実際には多くの男性が痴漢ということをやっているから、こういうことも起こってしまうのですが、本当にやっていないのに、勘違いをされて訴えられ、「やってない」と幾ら言っても聞き入れられず、結局裁判にまでなってしまう。そういうケースも稀にある。そのケースを取り上げた映画です。この青年は、痴漢をしていない。それなのに、そのことを証明できないのです。警察も検事も裁判官も、やったことに決め付けていて、彼の弁明、無実であるという証言を聞いても、信じてくれない。弁護士は信じてくれて、一生懸命に弁護してくれるのだけれど、裁判官は痴漢をされたと涙ながらに訴える少女の言葉にこそ真実があると信じていく。そして、ついに有罪の判決が下されるのです。映画では、この青年の隣に立っていた人物がやったのではないかということを匂わせますが、やっていないことを知っている唯一の人間である容疑者の証言が信じられず、結局、有罪判決が下るという不条理に焦点を当てていました。
 この映画を見たある人が、私の息子でもある、その人の息子に、「あなた電車に乗るときは、両手を上にあげて、後ろ向きに乗らなきゃ絶対に駄目よ。とんでもないことになるんだから」と言っていましたが、最初から両手をあげて後ろ向きに電車に乗るというのも、相当に怪しい挙動ですから、そういうこともしない方がよいと私は思います。とにかく、自分以外に自分の無実を証明できないという現実の中で、どうやって自分の証言が真実であることを証明するか。これは極めて困難な問題です。

 イエス様に関する証言 1 人による証言

イエス様が、真実であると証言をしなければならないことは、ご自分が神と等しい者であることであり、神の子であり、神から遣わされたメシアであるということです。これもまた、実に困難な課題です。
 イエス様は、こう仰います。

「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている。」

 犯罪を犯した容疑をかけられている者が、自分は無実だと証言するのは当たり前のことであり、それを真実な証として鵜呑みにすることは出来ないことは当然です。だから、他の証人が必要なのです。そこで起こったことを知っている、あるいは容疑をかけられている人間がどういう人間であるかをよく知っている人の証言、証が必要なのです。当時の裁判においては、少なくとも二人または三人の証人の証言が必要でした。しかし、これは今でも同じですが、証人は所詮、人間です。弱さを抱え、利害も絡み、記憶も定かではない人間です。ですから、所詮、人間の裁きというのは、限界があるのです。けれども、その限界の中でも、知っていることを語る証人と、その証言が無意味かと言えば、そんなことはありません。この点については、また来週、触れることになると思います。
 主イエスは、ここで私には真実な証言をする方が、私以外におられる、と仰っている。それは誰で、どんな証言であるかは、後で出てきます。そこに行く前に、主イエスはこう仰るのです。

「あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」

 このヨハネとはイエス様の先駆者である洗礼者(バプテスマの)ヨハネのことです。一章を読み返してくだされば分かりますが、彼は当時、非常に大きな影響力を持った人物でした。そこで、ユダヤ教の権威者は、ひょっとしたら彼がメシアなのかもしれないと疑い、あるいは期待もして、人を派遣して尋問しました。しかし、彼は自分の後から来て、聖霊によって人に洗礼を授け、新しい命を与える方こそ、その方であることを一筋に証言しました。その証言は真理でした。真実の証言なのです。けれども、その証言者は光ではなく、光を指し示すともし火です。世の初めから暗闇の中に輝く命の光を指し示すともし火であり、光が来ればその使命が終わり、消えるものなのです。当時のユダヤ人たちは、ある時期、そのヨハネのもとに続々と押しかけ、その証言を聞き、水の洗礼を受けました。それが「しばらくの間その光りのもとで喜び楽しもうとした」ということです。でも、その証言を通して光のもとに来た人間は、ごくごく少数でした。そして、ヨハネの証言は、「彼は真理について証しをした」「ともし火であった」「喜び楽しもうとした」とすべて過去形で記されていますように、もう過去のものなのです。彼の証言は真理だったけれど、それは永遠に続く証言ではなかった。しかし、イエス様が神の子でありメシアであるということは、永遠の事実です。世の初めから世の終わりまで続く永遠の真理です。その永遠の真理を永遠に証言することは、人間に出来ることではありません。そういう意味で、イエス様は「わたしは人間による証は受けない」と仰っているのだと、私は思います。

イエス様に関する証言 2 神様の自己証言(顕現)

 主イエスは、こう続けられます。

「しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証している。」

 この言葉には、また最後に帰ってきますが、ここで主イエスが仰っていることの一つは、イエス様が神の独り子であり、神に遣わされたメシアであることは、神ご自身が証しするのであって、他の何者の証も必要としないということです。これは考えてみれば当然のことです。
聖書の中で、神様が人に現れるとき、その人に向かって、「今、お前に語り掛けておられるのは神様だよ」と言う人など一切出てきません。アブラハムに神様が現れる時、ハガルに現れる時、ヤコブに、またモーセに現れる時、他の誰かがいて、「今お前に語りかけてきているのは神だよ」なんて言う人はいない。神様が語りかけて来た時は、その言、声を聞いた人間には、それが神の言、声が神のものであることは明らかなことだからです。神様は、ご自分が神であることを証明する他の誰かを必要としないのです。
私の場合は、何故か何処から見ても牧師には見えないらしい。以前、私が説教の中で、私が結婚相手の父親と初めて会った時に、その父親が「ひょっとしたらあんたは人を騙すことを商売にしており、ヤクザじゃあるまいな」と尋問した話した時、ある長老は、「父上にはたしかにそう見えたのではないか?そして、そう見える理由が先生の側にあったのではないか?」と、礼拝の後、わざわざ私に言いに来られました。その時は思わず「そんなことあるわけないでしょ?!」と否定したのですが、よく考えてみると、たしかにそうかもしれないと思います。私は幸か不幸か、「牧師です」と言っても、未だにすぐには信じてもらえません。本当に信じてもらえない場合、私は中渋谷教会の何方かを連れてきて、「この人は、こう見えても、一応牧師です」と証言してもらわなければならないのです。でも、神様はそんな必要はないし、神様の子であるイエス様も、そんな必要はないのです。何故なら、イエス様の業は、神様の業だからです。
 イエス様は二一節で、こう語っておられました。

「すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。」

 これは直接には、三十八年間も病で臥せていた人を立ち上がらせたことを指しています。あそこで起こったことは、単なる病人の癒しではなく、新しい命を与えるということです。そして、それこそ、祝福に満ちた安息日でなされるべき神様の御業なのです。それは、分かるものには分かる。けれど、分からない者には分からないのです。それが、真理なのです。霊的な現実というのは、信仰をもっていない人間には、幾ら見ても分からないし、幾ら聞いても分からないものなのです。1+1が2であるという真理とは全く違う真理が、そこにはあるのです。

 イエス様に関する証言3 聖書による証言

 主イエスは、続けてこう仰います。

「また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

ここでイエス様は、神様は「聖書」を通して、イエス様こそ神様が遣わした神の子、メシアであることを証しをしている、証言しているのだと、仰っているのです。
 私は珍しく、先週の半ばに「会報」二月号の巻頭言を書くことが出来ました。それは、「聖書を読む」ということに関する文章です。聖書を読む、それも教会の礼拝で、主にある兄弟姉妹と一緒に読む。説教とは、そういう作業だと思います。それまでの人生経験のすべてを傾けて、また私が知り得る教会の現実、皆様の現実のすべてを背中に背負って、この現実に向かって、神様が何を語りかけてくださっているのかに一緒に耳を澄ませて聴く、神様が何をなさってくださっているのかを共に目を凝らして見る。それが説教を造っていくという業です。そこで聞こえたこと、見えたことを、語る。それが説教を語るということです。ですから、心身の労力を物凄く使いますけれども、使ったから聞こえるわけでも見えるわけでもないのです。努力は必要ですが、努力の結果、見えるわけでも、聞こえるわけでありません。それは、皆さんだって同じことで、説教の内容とか起承転結をすべて理解できるように聞けたとしても、イエス様の姿やその声が聞こえ、心からの神礼拝が出来るか出来ないかは、努力の問題ではなく、恵みの問題、聖霊の働きの問題なのです。知的な理解と霊的な理解は違います。霊的な理解、つまり信仰は神様が与えてくださる賜物です。
 ここに「聖書を研究している」という言葉があります。聖書は、いくら学問的に研究しても全く分かりません。所謂、聖書学者とか神学者という人たちが、実は聖書のことを全く分かっていないということは、残念ながら、そして当然のことながらよくあることです。
 今日の箇所を色々と調べていて(これが「研究する」という言葉ですが)面白い聖書の言葉を見出しました。それは、テモテへの手紙二の中のこういう言葉です。「愚かで無知な議論を避けなさい」とあり、その少し先に、「彼女たちは罪に満ち、様々の情欲に駆り立てられており、いつも学んでいながら、決して真理の認識に達することが出来ません」と書かれています。教会でも、よく「勉強」という言葉が使われます。「洗礼を受ける前にもっと勉強しないと受けることが出来ない」とか、「信者になったのに、こんな無知なままでは恥ずかしい、もっと聖書を勉強しないと・・」「あなたは随分勉強していらして、お偉いわね」とか言う方がいます。たしかに、聖書をよく読んで、色々なことを学び知ることはある意味で有益です。そして、実際、そのことは楽しいことです。でも、どんなに勉強したって、「真理の認識」になど達しないことを、私は良く知っています。残念なことに、勉強好きの人に限って、自分の罪を知らないことが多いものです。罪の認識がない。聖書を読んで、そこに自分の罪深さが描かれていることが分からないのならば、そして、その自分の罪を赦すために神様がイエス様を通して何をして下さったか、そして、今も何をしてくださっているかが分からないのであれば、下手に勉強しない方が余程良いと、私は思います。勉強して知識が増えれば増えるほど、罪の認識と救いの喜びという真理の認識から遠くなるようなら、勉強などしないほうが余程ましです。
当時のユダヤ人には、「聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究し」、その研究が進んでいる人が立派な信仰者であると自他共に認めるという愚かしい風潮があったのです。その場合の「研究」というのは、結局、四一節以下にありますように、「人からの誉れ」を求めるためにやっていることであり、それこそが「様々な情欲」の一つであり、典型的な罪の姿なのです。
 聖書は、イエス様が罪に死んだ人間に新しい命、永遠の命を与えることが出来る神の子・キリストであることを証言するものです。その証言を聴き取らないで、文字の意味や時代背景などを丹念に調べてみたところで、何の意味もない。イエス様の言葉で言えば、それは「ぶよ一匹さえも漉して除くが、ラクダは飲み込んでいる」ということです。枝葉末節に拘泥し、本質を見落としているのです。

 愛の交わりの中で通じる言葉

 イエス様は、一九節では「はっきり言っておく。子は父のなさることを見なければ、自分からは何事も出来ない」と仰り、三〇節では「わたしは自分では何もできない。ただ父から聞くままに裁く」と仰っています。つまり、イエス様は、父を見、そしてその声を聞くことが出来るのです。そして、父は子を愛し、子は父を愛するが故に、父のなさることをそのままなし、父のお語りになることを聞き、すべて聞いたままに実行なされる。イエス様は父を心から愛しているから父の心がすべてよく分かる。だから、父も一切を子であるイエス様に委ねて、その御業をなさしめておられるのです。だから、私たちが子を見ることが父を見ることになり、子の声を聞くことが父の声を聴くことになるのです。しかし、子であるイエス様の声を聞くために何が必要であるかと言えば、それは信じることなのです。信じる、それは愛するということであり、一体の交わりを生きることです。その交わりの中でしか、私たちはイエス様の姿を見たり、聞いたりすることは出来ません。
 しかし、私たちは「父の声を聞いたこともなければ、お姿も見たこともない」のです。それが既に死んでいるということです。神様の像に象って造られ、神様を愛し、その言を聴き、食べながら生きるのが本来の人間なのに、私たちは最早、父の顔を見ることなく、その声を聴くこともなく、ただパンこそが命を養うものであるかのように誤解をして肉体だけで生きている。様々な情欲に堕ちて、罪の中を、ただ肉体が死ぬまで生きている。神様が遣わしたイエス様を信じないで、イエス様を愛さないで生きている人間は、神様の言葉を聞けない人間であり、その意味で、死んでいるのです。言葉を目では読めるし、耳の鼓膜では聞こえるし、内容も理解を出来る。けれども、実は本質的なことは何も聞こえていない。何も分かっていない。そういうことがあります。それはイエス様を愛していない、信じていないからです。その交わりの中で生きておらず、自分で自分を生かそう、守ろうとしているからです。
 これも以前お話ししたことがあるのですが、もう何年も前のことですが、一緒に暮らしているある人と絶えず諍いがあって、私としてはとにかく男というものはどれほど身勝手で愚かな存在であるかと非難と攻撃をされているという被害者意識があり、同時に、非常に強く自己防衛意識を持っていた時期があります。相手は相手で、私が少しも様々に差別されてきた女性としての自分の訴えを聞いてくれないという怒りや不満があった。そういう関係の時に、相手の方が、切々と自分の気持ちを言葉で訴えてきたのです。私は、その言葉をほぼ正確に反復した上で、「あなたの言うことは聞いて、よく分かった」と言った。すると、相手の方は「あなたが私の言うことを『よく分かった』と言ったその言葉で、あなたが私の言っていることが少しも分かっていないということがよく分かった」と言った。私は、その時初めて、「ああ、そうなんだ。分かったと思ったけれど、実は全然分かっていなかった。言葉の辞書的な意味ではちゃんと理解はしたけれど、その言葉が実際何を言おうとしているのか、またその言葉を発している時のこの人の心の中はどういう状態なのかについては全く分からなかった。それは、何を言われても自分は正しいんだ、謝ったりするものか、譲歩しないぞと、心に決めていたからだ。そういう思いの中で、どんな言葉を聞いたって、実際、何も分からないんだ」と分かったのですが、そこでまた「分かった」と言うと、もっととんでもないことになるのは火を見るよりも明らかだと思って、何も分からない駄目な男の汚名を被ったまま、それからの数日間を過ごしたのです。でも、その時に言われたことは、今でもしばしば思い出します。

 信じていなければ分からない

 言葉の中に、その言葉を発する人の心の声を聴き取ることが出来なければ、何も聞いちゃいない。そして、その声を聴き取るためには愛していなければならない。そうでないと、聞いた言葉が頭の中を通過するだけで、心の内に留まらないのです。イエス様は、こう仰っている。

「あなたたちは、自分の内に父のお言葉を留めていない。父がお遣わしになった者を信じないからである。」

 この場合の「信じる」は「愛する」と同じ意味です。信じていないのなら、愛していないのなら、聖書をいくら読み、研究し、理解したって、何の意味もありません。何にも分かっていないのです。イエス様を信じて、愛して、イエス様と結ばれて、愛の交わりの中に生きて、その腕の中に全身を委ねる中で、イエス様の言葉、聖書の言葉を聞かないと、神様の心について、何にも分からないのです。理解してやろう、そして、反論してやろうなんて思いで聴いていたって、全然だめです。
 しかし、私たちは気がつけば、そういう生意気な、不遜な態度で生きており、そのことの故に神様との交わりを失い、孤独の中に、ただ死ぬのを待っているだけなのです。そういう惨めな私たち、それでも「あなたたちが救われるために、言っておく」と、今日、イエス様が私たちに語りかけてくださっている言葉は、「父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証している」という言葉です。この証しが真実であると信じて欲しい、そして、命を得て欲しいと心から願って、イエス様は仰っているのです。この、父が成し遂げられるようにとイエス様に与えた業とは何か。それが最後の問題です。

 神の子・メシアの成し遂げられた業

 聖書をお持ちの方は、一九章二八節を開いていただきたいと思います。そこにはこうあります。

「この後、イエスは、すべてのことが成し遂げられたのを知り、『渇く』と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、『成し遂げられた』と言い、頭を垂れて息を引き取られた。」

 ここに「成し遂げられた」「実現した」という言葉が出てきます。この十字架の死、この十字架の死を通して、イエス様はついに私たちの罪を取り除き、私たちに新しい命を与えてくださったのです。このことこそが、神様がイエス様を遣わす目的であり、この業の中に神様の証、イエス様がご自身の子、神の子、キリスト(救い主)であるという証し、真実な証しがあります。それは、この文章を読むことを通して、私の為にイエス様が十字架にかかってくださっている姿を見ることが出来、その声を聞くことが出来、そこに神の姿と声を聴くことが出来る者にとっては、もう他のどんな証言も必要がない真実の証言です。
 聖書は信じないと分かりません。そして、信じるためには聖霊が必要です。今日読んだ聖書の言葉、今日語った説教が、私において起こったように、今日、皆さんにお一人一人にとって、神の言、神の声となり、この証言の中に神様の愛のお姿を見て信じることが出来ますように。そして、今日も新たな命を得ることが出来ますように、聖霊の導きを祈ります。
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