「あなたたちが救われるために U」

及川 信

ヨハネによる福音書 5章31節〜47節

 

「もし、わたしが自分自身について証しをするなら、その証しは真実ではない。わたしについて証しをなさる方は別におられる。そして、その方がわたしについてなさる証しは真実であることを、わたしは知っている.あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。しかし、わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある。父がわたしに成し遂げるようにお与えになった業、つまり、わたしが行っている業そのものが、父がわたしをお遣わしになったことを証ししている。また、わたしをお遣わしになった父が、わたしについて証しをしてくださる。あなたたちは、まだ父のお声を聞いたこともなければ、お姿を見たこともない。また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。
それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」

人間の証しは不要?必要?

今日も先週と同じ箇所の御言に耳を傾けたいと思います。先週、少し触れてはあるのですが、全体の焦点がぼけると思って、あまり深めなかった問題が一つあるからです。それは、人間の「証し」についてです。

  あなたたちはヨハネのもとへ人を送ったが、彼は真理について証しをした。わたしは、人間による証しは受けない。しかし、あなたたちが救われるために、これらのことを言っておく。ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。

ここでイエス様は、洗礼者ヨハネは「真理について証しをした」と言いながら、「わたしは、人間による証しを受けない」と仰っている。その直後に続く言葉も、同じ構造のように思います。ヨハネは「燃えて輝くともし火であった」が、「わたしにはヨハネの証しにまさる証しがある」。この言葉は、一体、何を語らんとしているのか?
人間の証しというものは、所詮、人間の証しですから、一面的なものであり、また一時的なものであることは否めません。イエス様が、「わたしは人間の証しは受けない」と仰る時、それは、人間存在そのものが持っている限界性というものがあるからだと思います。そして、イエス様が神と等しい神の子、メシアであることは、人間に証明されなければならないことではない。父に与えられた私の業、父ご自身、そして聖書の言葉が証しするのだと仰る。
けれども、その業を人間たちに分かるように証言するのも、その証言が読める形にされた聖書も、現実には人間の口や手による業なのです。誰かが語り、誰かが聴き、そして誰かが書いている。弟子たちは、イエス様の言葉と業、何よりも十字架の死と復活の出来事とその意味を証しするために、聖霊を注がれて全世界に派遣されたのです。キリスト教(会)は、聖霊に導かれた彼らの証しによって誕生したのだし、その証しは他の人々によって書き記され、今も私たちによって読まれ、信じられ、そして、私たちもまたキリストの証しをする者として用いられ、遣わされているのです。そして、この私たち人間の証しを通して、新たにキリストを信じ、洗礼を受ける人が出てくるのです。この現実を、どう捉えるべきなのか?今日は、この件について、御言に聴いていきたいと思います。

御言に聴くこと・見えること

今、私は「御言に聴く」と言いました。別に珍しい言葉ではありません。説教の中でしょっちゅう使っている言葉ですし、説教が出来上がっていく過程というのは、耳を澄まして御言に聴いている過程ですし、こうやって語っている時もそれは同じです。皆さんが、説教を聴くということも、説教の中に神ご自身、キリストご自身の御言を聴いている、あるいは聴こうとしているのです。
このことを考える上で、詩篇四〇編は実に示唆的だと思いますので、今日は初めに詩編の言葉を読んでいきます。七節にこうあります。

「あなたはいけにえも、穀物の供え物も望まず/焼き尽くす供え物も/罪の代償の供え物も求めず/ただ、わたしの耳を開いてくださいました。」

 主なる神様は、実は、律法に記されているような供え物を求めることはなかった。「ただ、わたしの耳を開いてくださった。」つまり、神様が求めておられることは、神様の声を聴くことだったのです。そのことだけを神様は求めておられた。何故なら、すべてはそこに始まるからです。
 少し乱暴な言葉ですが、日本語には「耳をかっぽじってよく聞け」という言葉があります。耳があっても、そこに垢が詰まっていればよく聞こえない。だから、その垢を掘り出さないといけない。ここで神様が、「わたしの耳を開いてくださった」という言葉は、直訳すると、「わたしの耳を掘って下さった」なのです。つまり、神様は、人間の声ではない神様の声を聴こえる耳を新たに掘ってくださった。そしてその上で、語りかけてくださる。ご自身の声を聴いて欲しい、その言葉を聴いて欲しいからです。そこからしか、救いは始まらないからです。パウロも、ローマの信徒への手紙の中で、「実に信仰は聴くことに始まる」と言っている通りなのです。信仰による救いは、神の言を神の言として聴くことから始まります。
 八節以下は、こういう言葉です。

そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。
わたしの神よ、御旨を行うことをわたしは望み/あなたの教えを胸に刻み
大いなる集会で正しく良い知らせを伝え/決して唇を閉じません。主よ、あなたはそれをご存じです。
恵みの御業を心に秘めておくことなく/大いなる集会であなたの真実と救いを語り/慈しみとまことを隠さずに語りました。


 神様に耳を開いてもらった、掘ってもらったこの人は、「ご覧下さい。わたしは来ております」と、神様に語りかけます。「大いなる集会」とあります。これは、私たちキリスト者にとってはイースターのような年に一回のお祭りのような礼拝を考えたらよいのかもしれません。彼は今、そういう場に来ている。神様に耳を掘ってもらうまでは、礼拝には来ていなかったのでしょう。その彼が今、何のために大いなる集会に来ているのかと言えば、神様の「真実と救いを語り、慈しみとまことを隠さずに語る」ためです。「正しく良い知らせを伝え、決して唇を閉じない」で語るためなのです。
 耳を掘られた彼は、今、神様の真実と救い、慈しみとまこと、正しく良い知らせを多くの人々に語る者となっている。何故、そういうことが起こったのかと言えば、耳が開かれた彼は、目も開かれたからです。あるいは目で読むことを通して、神の言を聴くことが出来るようになったからです。

「御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは巻物に記されております。」

 「わたしのことは巻物に記されています。」(「巻物に記されていることは、私のことです。」)
そういうことが分かった。神様に耳を開いて頂いたら、耳を新たに掘って頂いたら、巻物、つまり聖書には、自分のことが書かれていることが分かってきた。見えてきた。そういうことでしょう。私たちは誰だって自分には関心があります。昔に生きていた人たちのことが書かれていると思って読んでいる間は、まだまだ聖書を読んでいるということにはなりません。それは所詮他人事ですから、幾ら読んでも、精々、人生の教訓を得る程度のことです。しかし、「ここには自分がいる、自分のことが書かれているのだ」と分かってくると、そんなに呑気な読み方は出来ません。
 それでは、神様に耳を掘って貰ってから聖書の中に見えてきた彼自身の姿とは、どういうものであったのか?一三節一四節を読みます。

悪はわたしにからみつき、数えきれません。わたしは自分の罪に捕えられ/何も見えなくなりました。その数は髪の毛よりも多く/わたしは心挫けています。
主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください。


 耳を開いて頂いたお陰で御言の中に自分の姿が見えてくるようになる時、そこに見えてきたのは、悪に絡め取られ、罪に捕らわれた惨めな自分の姿だったのです。この詩人がここで語っていることは、私には何の注釈も必要ありません。そのままよく分かります。まさに、ここに私がいます。神様の声が聞こえる耳を与えられた時、普段は見ないし、見えないし、見ようともしていない自分の惨めな姿が見えてくる。それはそのまま分かります。皆さんの中にも、「全くその通り」と、お分かりになる方が何人もおられるはずです。
 そういう自分の姿が、御言によって描き出され、その姿が見えるからこそ、「主よ、走り寄ってわたしを救ってください。主よ、急いでわたしを助けてください」という礼拝における祈りに導かれるのです。自分が惨めな罪人、滅び行く罪人であることが分からなければ、救いを求めて礼拝に集い、祈ることなど、誰もしないし、する必要を感じないでしょう。彼もまた、この時に初めて、救いを求めて祈ることをしたのです。

主こそ聞いて下さるお方

そのことを承知した上で、この詩の冒頭の言葉を読んでみたいと思います。

主にのみ、わたしは望みをおいていた。主は耳を傾けて、叫びを聞いてくださった。

 主は、彼の祈りに耳を傾け、その救いを求める叫びを聞いてくださったのです。続けて、こうあります。

滅びの穴、泥沼からわたしを引き上げ/わたしの足を岩の上に立たせ/しっかりと歩ませ
わたしの口に新しい歌を/わたしたちの神への賛美を授けてくださった。
人はこぞって主を仰ぎ見/主を畏れ敬い、主に依り頼む。


彼の祈り、叫びを聴き取ってくださった主は、彼をその「滅びの穴」「泥沼」から引き上げ、岩の上にしっかりと立たせ、しっかりと歩ませて下さったのです。つまり、真っ当な人生を新たに歩ませてくださった。しかし、それは単に社会復帰させたとか、真人間に帰したということではなく、口に新しい歌、神への賛美を授けて下さるということなのです。神様は悔い改める罪人を決して見捨てず、救い出してくださるという「正しく良い知らせ」、福音を証言する者と造り替えられ、「人がこぞって主を仰ぎ見、主を畏れ敬い、主に依り頼む」ために証しする者として、泥沼に陥っていた彼が派遣されるのです。このように罪を赦された喜び、かくまで神に愛されている喜びは、一人心の中に閉じ込めておけるようなものではないし、神様も、そんなことをお望みではありません。神様は、耳を開いて御言を聞かせ、信仰を与えて救い出した者を通して、ご自身の御救いの御業、その言葉を証しさせようとなさるのです。

  サマリアの女において起こったこと

ヨハネ福音書に戻ります。今日の箇所で直接名前が出ているのは洗礼者ヨハネであり、彼の証言がもっている真理性と同時に限界性が、今日の問題です。ヨハネに関しては、先週、ちょっと触れていますから、今日は、彼とは対極に位置する人間の証言に関して語らせて頂きたいと思います。それは、あのサマリアの女と、彼女の証言についてです。
 洗礼者ヨハネは、当時の誰もが認める尊敬すべき義人です。そして、男性です。当時、神様のことを伝えるのは男性の役割とされていました。祭司も律法学者も皆男性です。女性は神の言である律法を学ぶことさえ許されていませんでした。しかし、ヨハネ福音書ではイエス様のことを、最初に「メシアではないか」と証言したのは女であり、それも様々な意味で神様とは最も遠い女性、悪が絡みつき、罪に支配されていた女なのです。
当時のユダヤ人にしてみれば、「サマリア人」というだけで神に見捨てられ、裁かれるべき汚れた罪人ということになっていましたが、そのサマリア人の中でも、人々から疎んじられていた女が四章に登場します。彼女は、これまでに五回も別々の男性と結婚と離婚を繰り返し、今も新たな男と同棲をしているのです。その心はまさに愛に飢え渇いてカラカラの状態だったと思います。
 その女が、人気のない真昼間に井戸に水を汲みにやって来ます。その井戸の近くには、咽喉が渇いているイエス様が人が来るのを待っていました。そして、イエス様が、「女に水を下さい」と語りかけることから、イエス様と女との対話が始まっていきます。咽喉が渇いているイエス様と心が渇いている女が対話をしていく内に、この女は、自分の人生のすべてが見通されていることを、イエス様の言葉を通して知っていくのです。四〇編を残した詩人が、巻物の言葉の中に自分の姿を発見したように、彼女は主イエスの言葉の中に罪に支配されている自分自身を見出していくのです。そして、自分が実は「滅びの穴」「泥沼」に落ちていることを知らされていく。そして、その「滅びの穴」「泥沼」から救い出し、岩の上にしっかりと立たせ、しっかりと歩ませるために来て下さるメシア、救い主はこの方なのかもしれないと思い始めた。その彼女に向かって、イエス様が「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と宣言をされた。その時、彼女は、イエス様を信じました。その直後に、彼女は、これまでは会うことすら避けていた町の人々のところに恐らくは走って行って、町の人々に向かってこう言ったのです。

「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」

女の証言で起こったこと

 すると、何が起こったのか。

「さて、その町の多くのサマリア人は、『この方が、わたしの行ったことをすべて言い当てました』と証言した女の言葉によって、イエスを信じた。」

  あのふしだらな女が、そしてそのことを隠しながら生きていた女が、今や、そのことを隠すこともなく、「この方がメシア、キリストかもしれない、是非、見に来て欲しい、会って欲しい」と言っている言葉を聞いて、町の人たちは、女の言葉によってイエス様を信じたのです。この時の女の姿と、その口から溢れ出て来る救われた喜びと讃美に満ちた言葉は、イエス様がキリストであることを証しているのだし、その証しを聞いて信じた人々がいるのです。これが、人間の証しによる伝道なのです。こういうことが、キリストが伝わっていくことにおいて必要なのです。
 しかし、それだけでは十分ではない。完全ではありません。ここに留まっているなら、それは本物の信仰にはなりません。その先を読むと、そのことが分かります。

「そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。『わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。』」

伝道・紹介の意義と限界

 去年の四月に、(元)日本聾話学校校長であり、私にとっては若き日から恩師である川田殖先生が、サマリアの女とイエス様との出会いに関して、「真の礼拝」と題する説教をしてくださいました。今年の四月にも説教に来ていただくことになっています。川田先生は、『新約聖書における教会形成』という講演を、十二年前にこの中渋谷教会でなさった松永希久夫先生の大学時代の同級生でもあり親友です。松永先生は今は天にありますが、私もこの中渋谷教会も、このお二人の先生にお世話になり、今も説教や書籍を通してお導きを頂いていることはとても有り難いことです。私が毎月参加しているヨハネ研究会において、先日、川田先生はその日初めて参加した方に向かってこんなことを仰いました。
「牧師さんたちが、『伝道』と言っている言葉を、僕は『紹介』って言うんだ。イエス様を友達に紹介する。僕は、そういうことをやっているんだ。」
 その心は、紹介するところまでは私がやるし、やれるけれど、後は直接、あなた自身がイエス様の言葉を聴き、交わりを持って欲しい、ということだと思います。そして、その時先生は、「もし、あなたが僕を信じてくれればさ、僕が紹介したいっていうイエス様の話を聴こうと思ってくれるだろうけれど、僕とあなたがそんな信頼関係がないのに、紹介するって言ったって、そんなのヤーダって言われたって仕方ないことだよな」とか仰っていましたが、たしかにそうだと思います。

証し人の資格?

 しかし、それだけでもない、と思います。川田先生は、サマリアの女とは正反対で、むしろ洗礼者ヨハネみたいな人ですけれど、そういう尊敬すべき人の証しだけが用いられるわけではないと思うのです。今日、皆様には、松永先生の講演をまとめた本の一部を印刷してお配りしてあります。そこで語られている言葉は、牧師である私にも信徒である皆さんにも耳の痛い、しかし、深い慰めと勧告の言葉だと思います。講演の文体を保っているので、読みやすい反面、文章としては崩れているところがありますけれども、お読みします。

説教で牧師が言葉で語ったことが本当に真理なのか、命があるのかということを、世の人々は見ています。どこで「あの言葉は生命力がある真理なのだ」と悟るかと言うと、信徒の人が、その御言によって生かされて生活をしている姿を見た時なのです。建前と本音が分かれていないということが分かった時に、世の人々はキリスト教とは凄いものだと説得されます。承認せざるを得ないわけです。けれども、牧師先生は立派なことを仰っているけれども、牧師先生の生活を見ていると、どうもあれは建前と本音が違っているというのでは駄目です。それからもっと駄目なのは、信徒の人たちが礼拝に通っているのに、どうしてあのような生活が出来るのだろう?という分裂とか乖離があると、なかなか周囲の人たちは説得されません。家族の中でも、いや家族だからこそ生活を見られていますから、信仰と生活が分裂していれば、誰も教会に行きたいとは思わないわけです。言行一致は難しい。牧師もそうだし、信徒もそうです。その難しさは百も承知です。
私は決して聖人君子にならねばならないとか、倫理的に完全な生活をしなければならないとか、そういうことを言っているのではありません。ですけれども、「あなたも知っているように、自分はこんなに欠陥があり、その人生もボロボロだ。怒りやすいとか、意志が弱いとか、いろいろある。でも、そんな私でも毎日曜日礼拝に行って、そのことによって漸く感謝と讃美をもって日々を送らせて頂いているのだ。」「ああ、そう言われてみれば、そうね」と言ってもらえる。そういう説得力ですよね。「この人は何も持っていない。だけれども、信仰を取り去ったら本当に何もかもなくなってしまう。」そういう説得力でよい。そういう形で、一週間の生活が説教の真理性、福音、神の愛の真理性を証しするのです。つまり、説教で語られている罪の赦しだとか、新しい命の造り替えという宣言が嘘ではないということが人々に分かってもらえるのです。教会の人たちが説教に参加するというのは、そのことが一番大事です。説教について注文する必要もありませんし、今日は良かったとか、あそこが良かったとか応答する必要もありません。ですけれども、一週間の生活の中で、その説教に応えて生かされているということは必要です。
 もちろん、そこで私が考えているのは完全な生活ということではありません。死に物狂いにならざるを得ない痛みとか悲しみを抱えつつ、しかもそれだからこそ信仰を求めて葛藤している、そういう姿です。それがまた次の日曜日の礼拝を求める真剣さを生み出します。ですから、そういうダイナミックな信仰生活。非常にひらったい言い方をすれば、日曜日の朝一回礼拝をサボったら物凄く大きな損をした。一回説教を聴かなかったら、物凄いロスをした。もったいないことをした。そういう感覚が教会に出てきたら、それはしめたものだと思います。そういう生きた生活と礼拝、そして説教との関係ですね。「まあ、あの先生の話なら五十二回のうちに十回くらい聞いておけばいいや」ということでは、説教と教会員の関係が出来ているとは言えません。


 皆さんは、私が語る説教についてどう思っていらっしゃるのかなんて、怖くて訊けませんが、私としては、“信仰を取ったらあの人は何もなくなる。あるいは、もっともっと酷い、とんでもない人間になってしまう。あんな人でも、信仰があるから、まだあの程度の悪さで済んでいる。そういう証し、あるいは説得力もある。”これは、大きな慰めです。この慰めに甘えてはいけないと思いますが、でも、これが私を含めてある種の人々の現実です。もちろん、ヨハネのような、あるいは川田先生のような、本当に心から尊敬する人格者がイエス様を証し、紹介するということは大事です。そういう人がいなければ困ります。だからイエス様は、ちゃんとそういう人を選び立てるのです。でも、私のように、ちょっと道を踏み外して牧師になってしまい、人を騙すヤクザに見間違えられながらも、「こういう人間を愛し、赦し、生かしてくださるイエス様がおられる」ことを恥じも外聞もなく証しする以外に心が燃えることがないという人間だって、イエス様はお立てになります。サマリアの女のように、そのあまりの変り様を通して、多くの人々を一気にイエス様に紹介する役割を担わされるような人もいます。あるいは、三十年、四十年、五十年という地道な夫婦の生活の中で伴侶にキリストを紹介し続け、ついに夫が教会の礼拝に通い始めるということも現実に起こっています。それぞれのタイプの人々が、神様に耳を開かれる中で、御言を通して自分の罪を知り、十字架の赦し、復活の命を知り、イエス様を信じる信仰を与えられ、何らかの意味で証しをする人間に造り替えられていくのです。これは否定し様のない現実です。ここにいる私たち一人一人がそのことの証人です。

最終的な証は神ご自身がなさること

証し人の種類というか、タイプは色々だし、その方法も色々です。でも、結局、最後はイエス様に紹介した人が、イエス様の言葉を直接聴いてもらうしかないことにおいては同じです。神様に、耳をかっぽじって頂くしかないのです。そして、聖霊に導かれて人間が書いた聖書の言葉、聖霊に導かれて人間が語る説教の言葉、聖霊に導かれた人間の証しの中に、神の言を聴き、神の子イエス様の招きの声を聴き、その声に応答することが出来るか否か。その人の救いは、そこに掛かっています。
先週の礼拝を通して、一人の方が、洗礼を受ける決心が与えられました。その二週前の礼拝後にも、一人の方が洗礼を受ける決心を、言ってこられました。私がその時に特別な説教を語ったわけではありません。礼拝で読まれ、説き明かされる聖書の言葉を、聖霊の導きの中で耳が開かれて聴くことが出来た人には信仰が与えられるのだし、その信仰が新たにされるのです。そうでない人には、ただの人間が喋っているだけのことです。しかし、聖霊によってイエス・キリストを信じる信仰を与えられた者は、最早、黙ってはいられません。この「正しく良い知らせ」を伝える唇を閉じることが出来なくなるのです。神様の真実と救い、慈しみとまことを語らざるを得なくなる。あるいは、新しい歌、讃美の歌をもって神様を褒め称えざるを得なくなるのです。私たちの礼拝は、そういう意味で、私たちに与えられた最大の証しの場であり時なのです。

礼拝こそ証し

松永先生が、講演の中で何度も語っている聖書の言葉は、私も礼拝について語るときに必ず引用する言葉ですが、コリントの信徒への手紙に出てくる言葉です。

皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、「まことに、神はあなたがたの内におられます」と皆の前で言い表すことになるでしょう。

 礼拝で読まれる聖書、祈られる言葉、説教、讃美歌、それがすべて預言であり、神の言です。その神の言は、私たちに罪を知らせ、そして救いを知らせる唯一の言葉です。今日もこの言葉を聴き、神様の御前にひれ伏し、讃美することが出来ますように。そして、神様から一切を任されて、私たちの罪を背負って十字架において裁かれ、復活されたこの「イエス様こそキリストです。さあこの方に会いに来てください、この方の言葉を聞いてください」と証しするために、今日から始まる一週間の歩みに踏み出しましょう。そのことに献身するなら、私たちはそれぞれ手や足や耳や口として用いられ、一つのキリストの体を証言する者とされるのです。なんと幸いな人生でしょうか。
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