「私たちは何を求めているのか」

及川 信

ヨハネによる福音書 5章41節〜47節

 

わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」



誉れ 愛 信仰 永遠の命

 ヨハネ福音書の五章を読み続けています。今日は四一節以下です。
今日の箇所から新しい主題が始まります。それは「誉れ」(「栄誉」「名誉」)という主題です。しかし、今日の箇所はイエス様の説教の一部なので、その直前の箇所と切っても切れない関係にあることもまた事実です。そこにあった主題は「父がお遣わしになった者を信じる」信仰であり、その方を証しする「聖書の言葉」と「永遠の命」です。三八節からご一緒に読み直しておきたいと思います。

「また、あなたたちは、自分の内に父のお言葉をとどめていない。父がお遣わしになった者を、あなたたちは信じないからである。あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」


 問題は、愛であり信仰、愛すること愛されること、信じることです。イエス様は誰よりも父なる神から愛されており、そして父を愛しておられます。それはこれまで読んできたところから明らかなことです。でも、そのイエス様を罪人であると決めつけ、裁こうとしているユダヤ人は、神様を愛していないし、実は信じていない。イエス様は、そう仰っている。何故なら、彼らは神様の誉れではなく、人からの誉を求めているからです。そういうものを求めている限り、神様を信じること、愛することは出来ないのです。そして、そうである限り、彼らが求めている永遠の命を得ることも出来ない。イエス様は実に単刀直入にこう仰っている。これが、御自分を迫害し、殺そうと狙っている当時のユダヤ人に対する言葉なのです。
しかし、これは他人事ではありません。神への愛に生きることなく、神からの誉れではなく、人からの誉れを求め、ただひたすら自己愛に生きる人間は、誰でもここに登場する「あなたたち」なのであり、当時のユダヤ人と同じであり、実はイエス様を心の中で抹殺している、殺している者なのですから。そのように聖書を読めない、あるいは読まないとしたら、それは聖書の文字を読んでいるだけであり、ここにイエス様の語りかけを聞いていることにはならず、それは、聖書を読んでいることにはならないのです。

自分で思っていることと現実は違う

 ここに登場する「あなたたち」、つまり当時のユダヤ人たちは、自分たちこそ世界中で一番神様を愛し、信じている、いや、世界の中で神様を愛し信じているのは自分たちだけだと思っている人たちです。何故なら、彼らは聖書を持っている。もっと具体的に言えばモーセが書いた律法を持っているからです。その律法には神の言葉が記されており、その言葉の中に永遠の命があると信じて、彼らは日夜聖書を研究し、律法を解釈し、その解釈に従った生活をしている。その研究と解釈と生活のすべてが神への愛の証しであり、信仰の証しであると、彼らは信じているのです。しかし、彼らは聖書の文字を読んで解釈しているけれども、聖書が証しているものが何であるかについては全く無理解なのです。けれども、そのことに自分たちは気づいていない。
 こういう誤解とか錯覚は、様々な所で起こっていることだと思います。たとえば、自分は子供を愛していると親は思っている。この子を一番知っているのは自分だし、愛しているのは自分だと思っている。そして、その子に様々な期待をし、様々な習い事をさせていく。「すべてはこの子の為」と思ってやっている。でもそれは、親の完全なる独りよがりで、子への愛でも何でもなく、子を利用した自己愛であることは幾らでもあります。そういう親は、子供たちが発する言葉の背後にある心の声を聞かず、顔の表情の陰に隠されている心の顔を見つめていないのです。そういう親の子供に対する愛とユダヤ人、また私たちの神様に対する愛は似ていることがしばしばあります。

見ること、聞くこと、真似ること

 イエス様は、一九節や三〇節で、「子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない」と仰り、「わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く」と仰っています。イエス様は、いつでも父親のやることを見、また聞いている。そして、その真意を理解し、神様がなさりたいように、その業を地上でなしておられるのです。それはまさに見よう見まねで父とそっくり同じ言葉と業を、イエス様がなしておられるということです。このイエス様を、聖書(この場合は旧約聖書)は証しているのですから、このイエス様を神が遣わした神の子、メシア・キリストと信じることが、実は神を愛し、神を信じることなのです。しかし、ユダヤ人は、それが出来ない。そして、実は私たちも、愛している、信じていると言いながら、実は愛してもいないし、信じてもいないことが多いのです。それは私たちの現実の行い、その業を見れば明らかなことです。私たちは、イエス様のようには生きていません。父の心、子知らず、というか、私たちの普段の生活は父のみ顔を見ていなし、その声に耳を傾けていないからです。
 ご覧になった方もおられると思いますが、数日前に歌舞伎役者の襲名興行に関するテレビ番組がありました。あの世界はまさに父子相伝で、子供はただひたすらに父親の一挙手一投足を間近で見、そして聞きながら、その家に伝わる芸風を自分自身の体に染み込ませていくのです。そのことを抜きに、歌舞伎の脚本を読んだり、文献を読んだところで、何の意味もありません。物心ついたときから、父のやることなすことを細大漏らさず聴き取り、観察しながら、見よう見まねで覚えていく以外に、家を継ぎ、名を継いでいくことはできません。そして、子が本当に父親の芸を受け継ぐために必要なのは、父親の愛と子の愛です。親子が互いに本当に愛し合っていること、そして信頼し合っていること、そのこと抜きに親の動作が子の身体に染み込むことも、その教えが子の心に染み込むこともないのです。
 しかし、ユダヤ人は、イエス様がそうしているように、常に神様を見つめ、耳を傾け、神様がなさるように自分もするということではなく、ただ聖書の言葉を読み、言葉を研究し、自分勝手に解釈をし、それを生活の中に勝手にあてはめて、表面的に実行しているだけ。形式的な、そして偽善的な信仰生活をしているだけなのです。私たちのマンネリな信仰生活もしばしば同じです。一応、聖書の言葉を読む、一応お祈りの時間も取る。でも、それが終われば、この世の人として普通に生きているだけ。

私たちが求めているもの

 イエス様は、その彼らに、そして私たちにこう語りかけます。

「わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」

 この世では「有名になると、突然、親戚や友人が増える」と言われます。つまり、栄誉や富を求める人々が有名人の周りに群がってきて、前々から親しかったような振りをする。
この後の六章では、イエス様においても、そういうことが起こってことが記されています。イエス様が、今日の箇所にも登場するモーセの生まれ変わりのように、五つのパンと二匹の魚をなんと五千人もの大群衆が満腹するように分けるという奇跡を起こすのです。その奇跡を体験した人は、モーセ時代の荒野のマナの奇跡を思い起こし、いつの日か、モーセのような預言者がメシアとして立てられるという神様の言葉を思い起こし、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言って、イエス様を王にしようとしました。しかし、イエス様はそのことを知って、「一人で山に退かれた」のです。イエス様は、人からの誉れ、名誉を受けないお方、ただひたすらに唯一の神、父からの誉れ、栄光だけをお求めになるお方だからです。
ある人が「この世における自己の名声、これほど魅惑に満ちたものはないのである」と言っていました。これは所謂有名人になりたいという欲求の強さを言っているだけではありません。私たちのごく普通の日常生活においても、身近な人からお世辞でもよいから誉めてもらいたい。これは私たちの誰もが持っている偽らざる思いです。
先日の全員協議会でも、私の尊敬する長老たちが担当の事柄に関して報告や提言をして下さったのですが、お二人の男性長老は私同様に、一緒に住む「ある人」が自分の語ることについて何と言うかを非常に気にしていらして、尊敬すべき長老も家では違うのだなと思って、私は随分慰められましたけれど、ごく身近な関係の中での名声というか、誉れ、誉め言葉、これは良くも悪くも私たちにとって大きな意味を持つことは事実です。
パスカルという思想家は、こういうことを言っています。

「人間の生活は、果てしなく続く騙し合いに過ぎない。人間は互いに騙し合い、互いにお世辞を言い合っているだけのことである。」
「人間は自分自身においても、他人に対しても、猫を被った。嘘つきの、偽善者に過ぎない。」


 これは痛烈な言葉ですけれど、本当の言葉です。イエス様は、目の前のユダヤ人、そして、今ここにいる私たちに向かって、「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れを求めようとしないあなたがたたちには、どうして信じることができようか」と仰っているのです。私たちは、当時のユダヤ人同様、神を信じ、聖書を神の言と信じて生きているキリスト者です。でも、それは建前というか、一応そういうことになっているというだけであって、実際には、そのことすら人からの誉め言葉をもらう手段になっている場合があります。「クリスチャン」という言葉の前には、皮肉が込められる場合もありますが、しばしば「敬虔な」という修飾句がつきます。ああ見えても「敬虔なクリスチャン」である。ヤクザのように見えても「牧師」である。そういう立場、身分、肩書きを互いに誉め合って、そして誰も誉めてくれない場合は、自分で自分を誉めて満足している嘘つきの偽善者になっている場合がある。私たちが、神様への愛と信仰において語ること、行うこと、そのすべてが実は人に聞かせるため、人に見せるためのものになっている場合がある。そして、人からの誉れを受けたいと思っている。もし、そうであるなら、「どうして神を信じることができようか」と言われる外にないことです。
 以前、韓国の教会、そして牧師たちに関するかなり長い講演を聞いたことがあります。それは非常に優れた講演でしたけれど、その中にこういう件がありました。昔は若い女性が結婚相手に望む職業の中で、牧師などベスト30にも入らないものだったけれど、今では医者とか官僚とか社長とかに並ぶベスト5に入っている。何故なら、昔の牧師は貧乏な上に様々は迫害や差別、偏見の中に苦しみつつ生きている人間の代名詞だった。でも今は、多くの人々の尊敬を受け、経済的にも豊かになったからだそうです。牧師は苦しみの代名詞ではなく栄誉の代名詞になっているということでしょう。キリスト者、クリスチャンという称号もまた、一つの栄誉となる場合があります。栄誉というのは本当に大事なものなのです。でも問題は、その栄誉、誉れが、神からのものなのか、人からのものなのか、です。

人からの誉れ・神からの誉れ

 「誉れ」という言葉はギリシャ語ではドクサであり、それはしばしば「栄光」と訳され、ヨハネ福音書では非常に大切な言葉です。そして、人間が求める「誉れ」に関して、ヨハネ福音書一二章四三節には、こう記されています。

「とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。」

 ユダヤ人の地位ある人々の中にも、イエスを信じる者はいた。しかし、その信仰を公に口にすると、今持っている地位も名声も富も失ってしまう恐れがあった。だから、彼らは誰も、信仰の告白をしなかった。これは分かりすぎるほど分かることです。誰もこの議員たちを責める資格はないと思います。私たちは誰だって、基本的には彼らと同じです。だから気がつけば、人からの誉れを求めている。誰だって、今手に持っているものを失いたくはありません。

神の愛・神への愛・自身の中に持つこと

 そこで今日の箇所をもう一度振り返ってから、「栄光」に関して御言に聴いていきたいのですが、イエス様は「あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている」と仰いました。これは直訳すると、「あなたたちは自分自身の中に神の愛を持っていないことを、私は知っている」となります。「神への愛」と訳された言葉は「神の愛」とも訳される言葉であり、「ない」と訳された言葉は「持っていない」という意味です。
このイエス様のユダヤ人に対する言葉は、イエス様と全く逆のことを言っている言葉だと思います。イエス様の中には神の愛と神への愛しかない、その愛だけを持っている。つまり、父と子の愛の交わりだけがあり、その愛の交わりだけを持っている。「イエス・キリストのもの」として、イエス・キリストを真似て生きるキリスト者も、ただ父なる神への愛、父なる神の愛を持っているだけでよいのだし、そこにすべてが掛かっているのです。

イエス様にとっての栄光

 今日の説教題は「私たちは何を求めているのか」にしましたけれど、それは「唯一の神からの誉れを求めようとしないあなたたち」という主イエスの言葉を聞いて、私たちはどうなのか?という問いを抱いたことによります。この言葉もまた、イエス様とまったく逆のことを言っていることは明らかです。イエス様は、ただひたすらに唯一の神からの誉れ、栄光だけを求めて生きておられるからです。そして、私たちもそうであるとすれば、その歩みは、どういうものであるべき、あるはずなのか?
 その点について、イエス様はこう教えてくださいます。一二章二三節以下をお読みします。ここは過ぎ越しの祭りを祝うためにエルサレムにやってきたギリシャ人が、イエス様に会いたいと願った箇所です。この箇所について今説明する時間はありません。とにかく、そのことを知った時、イエス様は、突然、こう仰ったのです。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」
「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」


 ここには繰り返し「栄光」という言葉が出てきます。そして、この「栄光」とは、一粒の麦が地に落ちて死ぬことなのです。つまり、イエス様が十字架にかかって死ぬこと。それは、ご自分を殺そうとする者、裏切る者、利用するだけの者、すべての罪人の罪の身代わりになって死ぬこと、神様の裁きを裁き主であるイエス様が受けて死ぬことなのです。その惨めな死、十字架にかけられて殺されることを、イエス様は「栄光を受ける」と仰っている。これが神の愛であり神への愛なのです。完全な自己犠牲の愛なのです。しかし、その愛を手に持つとき、ただその時にのみ、神様からの栄光を与えられるのです。何故なら、この時にのみ、神様の栄光を現すことが出来るからです。つまり、この十字架の死こそが、何よりも強い神の愛、神への愛を現すことだからです。

ペトロ

 少し個人的なお話をすることをお許し頂きたいのですが、私は、牧師になって二十年以上になりますから、もう何回説教を語らせて頂いたか分かりません。千回を越えるのだと思います。そして、その千回の中で、一体何回ペトロについて語ったか分かりません。牧師になる前に洗礼を受けてキリスト者になり、その時には、牧師になるしかないのだと覚悟を決めましたけれど、その覚悟を決めた後も、ずーーと、どこかで逃げ腰で、いつもどこかで嫌だ嫌だと思っている自分がいるのです。そういう私にとっては、ペトロという人は洗礼を受ける時も、それ以後も、最も近しい人の一人で、なんとも複雑な思いでペトロを愛し、また嫌っています。彼の中に、自分がいるからです。だから彼のことは何度語っても、身につまされます。
 彼は弟子たちを代表して信仰を告白した人です。そして、「他の人は知らないけれど、私に限っては、たとえあなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して言いません」と宣言した人です。彼はイエス様を愛していたのです。少なくとも、誰よりも深くイエス様を愛していると自分では思っていた。でも、イエス様は知っていました。イエス様だけは知っていたのです。彼自身の中にイエス様への愛がない、イエス様への愛を持っておらず、イエス様の愛もまだ持っていない、手にしていないということを。だから、イエス様は、「あなたは鶏が鳴く前に三度、私を知らないと言うだろう」と仰いました。
 そして、悲しいかな、そのイエス様の言葉は現実のものとなり、ペトロの言葉は現実のものとなりませんでした。彼は、死ぬのが怖くて、本当に三度もイエス様を知らないと言ってしまったのです。あのユダヤ人の議員と同じだったのです。これは私の姿です。
 水曜日の聖研祈祷会では、今週でヨハネ福音書の学びが終わります。先週読んだ箇所は、復活のイエス様がペトロに向かって、三度も同じ問いを発する箇所でした。これも身につまされる箇所です。

「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。

 この問答が、三度も繰り返されるのです。
 誰よりもイエス様を愛していると自負していたペトロは、誰よりも深くイエス様を裏切りました。ある意味では、ユダよりも深く裏切ったのです。でも、復活のイエス様は、そのペトロに現れ、彼の罪を赦し、新しく生きるために聖霊を注ぎかけ、罪の赦しの福音を宣べ伝える伝道者として造り替えてくださいました。その彼に、イエス様は問われる。「この人たち以上にわたしを愛するか」。「かつてと同じように、『たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないとは言いません』と言えるか?」そう問われたのではないでしょうか?ペトロは答えます。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」彼の中に愛があるのかないのか。彼がイエス様への愛を持っているのか、持っていないのか、イエス様の愛を持っているのか、持っていないのか、それは主イエスだけがご存知のことです。彼は、この時、そのことを知っていました。自分の愛が不確かなものでしかないことを知っていた。でも、それでも主はこの自分を愛してくださり、その致命的な裏切りの罪を赦してくださり、そして、尚も主を愛する者として立たせようとしてくださることを知っていた。彼としては、自分の愛の確かさではなく、この主の愛の確かさに立つ他になかったのだと思います。主イエスは、三度、主イエスを「知らない」と言ってしまったペトロに、三度、主イエスを「愛しています」と言う機会を与えて下さいました。三というのは完全数です。厳密に三という意味ではありません。「幾たびも」ということです。「幾たびも」主イエスを裏切ってしまうペトロに、幾たびも、「私を愛するか」と問いかけてくださる主イエスの愛がここにあります。そして、その主イエスの愛に縋るようにして、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることを、あなたはよくご存知です」と、すべてを主に明け渡して、愛を告白するペトロがここにいます。
彼はこのようにして伝道者になった後も、ガラテヤの信徒への手紙を見ると、エルサレムのユダヤ人が来るまでは、律法で禁じられていた異邦人との食事をしていたにもかかわらず、ユダヤ人たちが来た途端に非難されること恐れて、異邦人との食事を止めてしまうのです。そのことを、伝道者としては後輩のパウロから痛烈に非難をされる。そういう惨めな経験までする人です。どこまでも中途半端、どっちつかず。でも彼は、主から離れない。主が彼を手放さないからです。

私 私たちの栄光

私も、何度も主への愛を告白し、何度も裏切り、そして、毎週、それでも「私を愛するか」と主イエスから問われ、その度に、自分の中にはイエス様への愛がなかったことを思い知らされつつ、それでもイエス様の愛があり続けることを知らされてきました。イエス様への愛を持てない私を、イエス様の愛が持って下さる、手にしっかりと持っていて下さり、手放さない。イエス様のことを「知らない」と言い、逃げてしまう私を、イエス様は「お前のことなどもう知らない」と言って、手放さない、見捨てない。いつもいつも深い憐れみをもって追いかけ、手を伸ばし、捕まえてくださり、「あなたは私を愛するか。私はどんなことがあっても、あなたが何をしても、あなたを愛しているのだよ」と語りかけてくださり、「私を愛して欲しい。私の羊を飼って欲しい。私がその羊のために命を捨てた、その羊たちを飼って欲しい。私の命をかけた愛、一匹一匹の羊たちに永遠の命を与えるために十字架にかかって死んだ愛、そして、復活して今も共に生きている愛、そこに現れた神の栄光を語り伝えて欲しい。罪人のお前だから、そして、罪赦されているお前だから、私はその使命を与える」と、語りかけて下さる。
 その上で、主イエスはこう仰います。

「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

 「両手を伸ばし、他の人に帯を締められて、行きたくないところへ連れて行かれる」
とは、各地の教会へと主に命ぜられるままに伝道に行かねばならないということだし、それは同時に、所謂お縄をかけられること、つまり国家権力に従わず、この世の王に従わず、十字架のキリストに従う犯罪人として逮捕され、処刑されることを暗示する言葉です。だから、これは「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示す」言葉なのです。
 かつて、あのユダヤの議員のように、自分の不利益、最大の不利益である死を恐れ、「神からの誉れよりも、人間からの誉を」求めて、主イエスを三度も「知らない」と言ってしまったペトロを、イエス様は、愛し続け、語りかけ続け、その手にしっかりと持ってくださって、ついにその死の姿によって神の栄光を現すキリスト者、そして、伝道者に造り替えてくださったのです。このようにして、ペトロは、神からの誉れ、栄光を受ける者とされたのです。本当になんということか、と思います。私たちが求めるべきは、ただこの栄光なのではないでしょうか。
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