「訴えるのは誰?」

及川 信

ヨハネによる福音書 5章41節〜47節

 

「わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」



はじめに

 今日の箇所は、前回で終わるつもりだったのですが、前回は「誉れ」「栄光」に関することだけで終わり、「あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ」以降に関して全く触れることが出来ませんでした。今日は、その言葉に集中します。しかし、そのために、五章全体を少しだけ振り返っておく必要があります。
  五章を振り返って

事の発端は、エルサレムにおけるユダヤ人の祭りの日、それも安息日に、イエス様が三十八年間も病気で苦しんでいた人に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」と語りかけ、その病人が「すぐに良くなって、床を担いで歩きだし」たことにあります。安息日に床を担いで歩くことは、当時のユダヤ人の律法解釈によれば、一つの労働であり、安息日に労働をしてはならないことになっていたのです。それ故に、イエス様は律法違反を促す罪人として当時のユダヤ人たちに訴えられた。(現実に法廷に訴えられたわけではありませんが。)
 一九節以下のイエス様の言葉は、その訴えに対する自己弁明、自己証言なのですけれど、今日の箇所になると、イエス様を罪人として訴えているユダヤ人たちこそが、実は訴えられるべき罪人なのだということになっています。こういう事態は、しかし、当時の彼らだけに起こることではなく、現代の私たちキリスト者にも起こることなのではないか?そのことが、今日の問題です。

モーセとは

「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。」

 ここに出てくる「モーセ」とは、言うまでもなく、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出し、シナイ山で「十戒」を初めとする律法を神様から授かった人物です。このモーセがいなければイスラエルの民は誕生しなかったと言ってもよいのですから、世界史上の大人物です。ですから、いつしか旧約聖書はモーセが書いたということになってきました。少なくとも、創世記から申命記までの五つの書物は「モーセ五書」と呼ばれています。この部分は私たちキリスト者が「旧約聖書」と呼ぶ書物の中では「律法」と呼ばれる部分です。この律法が旧約聖書の土台、ユダヤ教の根幹になります。ですから、イエス様が「モーセ」と仰る場合に、それはモーセ個人であると同時に、モーセが書いた書物全体、あるいはモーセの律法すべてを意味しているのです。

アブラハムへの約束 子孫

 私たちキリスト者の正典は、週報の裏面に掲載されている「日本基督教団信仰告白」にありますように、「旧新約聖書」です。旧約聖書だけでも新約聖書だけでもありません。両方を読んでいないと教会の信仰はバランスを失います。ここ数年は、月に一回創世記のアブラハム物語を読んでおり、修養会とそれに続く各分団の学びでは出エジプト記を学び続けています。
その旧約聖書には主に「イスラエル」として登場し、新約聖書では「ユダヤ人」と呼ばれる人々は、一応アブラハムの子孫ということになっています。その意味は、血筋の面と信仰の面の両方を含みます。そして、アブラハム物語の主題は、神の約束と約束を信じる信仰と言って良いでしょう。その約束とは、彼の子孫にカナンの地〈現在のパレスチナ地方、ヨルダン川西側から地中海までの地〉を与えるというものです。この約束が、現在も尚世界における大問題であるパレスチナ問題の根底にあります。絶望的と思われるほどに根深い、ユダヤ人とパレスチナ人、また他のアラブ人との間の敵意と憎しみの溝は、この約束に起因します。
このアブラハムを「信仰の父」としているのは、ユダヤ教徒だけでなく、ユダヤ教から分離していったキリスト教徒もそうだし、さらに旧約聖書との連続性をもっているイスラム教徒もまた同じなのです。こういうところがこの問題をさらに複雑にし、また深刻にするのです。モーセが書いたとされる創世記を読んでいると、アブラハムと妻サラとの間に生まれた子はイサク一人で、彼が祝福と約束を受け継いでいくことになります。けれども、アブラハムの子としては他にエジプト出身のハガルという女性との間に生まれたイシュマエルがおり、彼の子孫はエジプト地方、つまり、アフリカからチグリス・ユーフラテス川のあるメドポタミア地方にかけて広大な地域に広がっていくのです。また、サラが死んでしまった後、アブラハムはケトラという女性との間に六人の子を産みます。そして、その子孫は、アラビア半島に広がっていきます。つまり、アラブ人になっていく。ですから、モーセが書いたとされる創世記が描いていることは、当時知られている全世界にアブラハムの子孫が散らばっているということです。そのようにして、「あなたの子孫は天の星のようになる」というアブラハムに対する約束は、傍系においても実現していくのです。しかし、アブラハムの流れをくむ子孫同士は、その当時から互いに仲が良くないので、離れて暮らしている。聖書に記されているそういう現実が、数千年を経た今も、形を変えて現在の中東の世界に存在しているのです。そして、あの地域が安定しないと世界は安定しないでしょう。
すべての人間が、地上のパラダイスを求めているのに、現実は、どこにもパラダイスなどはなく、どこもかしこも人間同士の血なまぐさい争いにまみれている。その代表的な地域が、皮肉にも約束の地カナン、パレスチナ、イスラエル。この六十年間、絶えず戦争と紛争と自爆テロと、暗殺と虐殺によって、異母兄弟同士の血が流されている地なのです。

イスラエルとは

創世記の続きの出エジプト記に記されている、イスラエルの脱出の時の模様はこういうものです。

「イスラエルの人々はラメセスからスコトに向けて出発した。一行は、妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。そのほか、種々雑多な人々もこれに加わった。」

 ここで言われていることは、エジプトを脱出して律法を授かった神の民イスラエルは、アブラハム、イサク、ヤコブという直系の子孫だけでなく、他の民族や人種の人々が混じっているということです。つまり、イスラエルとは純粋な血族集団としての民族ではなく、最初から信仰を同じくする一つの共同体なのです。その共同体が、乳と蜜の流れる地、約束のパラダイスを目指して旅を続ける。それが出エジプト記の内容です。しかし、その旅の目的は、彼らがパラダイスに入ることではなく、全世界がパラダイスになることなのです。つまり、律法を通して神の御心を知らされた彼らの礼拝生活を通して、全世界の民が神の律法を知り、神を礼拝する民となっていくこと。それが目的なのです。神様は、神の民イスラエルを通して、罪の中に落ちてしまった世界の民を救い出そうとされたのです。

律法の核心

その神様が、彼らイスラエルに与えた律法は数え切れないほど沢山ありますけれど、二つの言葉に纏められます。それは「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である、あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命記六章五節)であり、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」(レビ記一九章一八節)という言葉です。これが、アブラハムの子孫と神を信じてエジプトを脱出した種々雑多な民に与えた律法であり、彼らを通して全世界のすべての民に与えたいと願っている律法です。内容は愛です。
天地の創造主であり命の創造主である神様を、全身全霊を傾けて愛し、その神に愛されている者同士として、互いに愛し合う。これが律法の内容です。このモーセの律法に記されている神の御心を生きるところに、神の民の使命があるのです。
 しかし、現実の問題として、神の民イスラエルと敵対する勢力は地上に幾つもありましたし、荒野放浪時はもちろんのこと、約束の地に定着するためにも、いくつもの戦争をしなければなりませんでした。そして、旧約聖書の神もまたご自身に敵対する者との戦争を条件付きで許可しています。しかし、時が満ちて、神がこの世に遣わした神の子イエス・キリストは、神の御言として「剣を捨てよ。剣を持つものは剣によって滅びる」と仰り、完全な戦争放棄を命じられました。にも拘らず、今も戦争が続き、その多くにキリスト教徒も関っている現実をどう考えるのか、その現実を神様はどう見ておられるのか?その問題も、今日与えられているイエス様の言葉と深く関係します。

「パラダイス・ナウ」「約束の旅路」

 三月はいつも心の中で、今日のイエス様の言葉を考え続けていたのですけれど、そのことと深く関係する二つの映画を観ることが出来ました。一つは、パレスチナ人の監督が作った『パラダイス・ナウ』(楽園の今)という映画です。(恵比寿の写真美術館で上映されています。)これは、パレスチナ人のどこにでもいる普通の青年が、何故自爆テロのようなことをしなくてはならないかが、実に抑制の効いたタッチで描かれている素晴らしいものでした。父祖アブラハムに約束された地であり、モーセに率いられた民にとっては「乳と蜜の流れるパラダイス」であるべき土地の現在の状態は、異母兄弟であるユダヤ人とパレスチナ・アラブ人と、宗教的にも兄弟関係にあるユダヤ教徒とイスラム教徒が、互いに蛇蝎の如くに憎み合い、殺し合っているというものです。それも、互いに神の名を語り、神の命令として敵を殺しているのだと言い張りながらです。そのやるせなさ、空しさ、悲しみが、その映画を観ると胸に迫ってきます。
 もう一つの映画は岩波ホールで上映されている『約束の旅路』というものです。これは一九八〇年代にイスラエル政府が秘密裏に実行した「モーセ作戦」という史実を土台にした映画です。驚くべきことに、エチオピアの奥地には、自分たちはあのソロモン王とシバの女王の間に生まれた子孫であると信じ、旧約時代から今まで人里離れた山村でひっそりとモーセの律法を守って生活をしてきた人々がいたのです。彼らは、数千年もの間、いつの日か、神様の導きによって約束の地イスラエルに帰還できるという希望を捨てなかった。その世代を越えた希望が、世界各地からのユダヤ人の帰還を促していた当時のイスラエル政府の政策によって叶うことになったのです。それはまさに現代の出エジプトとも言うべき出来事でしょう。しかし、その作戦は実に多くの人々の犠牲をもたらしたのですが、生き延びた人が漸くにして着いた「乳と蜜の流れる地、パラダイス」で待ち受けていたのは、白人のユダヤ人による人種差別でした。そして、それと同時に、イスラエルは、彼らが思い描いていたような理想的な宗教国家ではないという幻滅もあった。そこはまさに混沌とした国であり、様々な肌の色、目の色のユダヤ人同士が、また宗教的なユダヤ人と非宗教的なユダヤ人とが厳しく対立し、また国としてはパレスチナ人や周辺のアラブ諸国と厳しく対立している国だったのです。
 神様がアブラハムの子孫に与えると約束したカナンの地、現在のイスラエル共和国がある地は、アジア、アフリカ、ヨーロッパを繋ぐ地域であり、長い長い歴史の中で、いくつもの支配者が登場しては消えつつ、その呼ばれ方も変ってきました。しかし、その中心にある町の名はこの三千年間変っていません。それはエルサレムです。ヘブライ語で『神の平和』という意味です。そのエルサレムがユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地となり、ユダヤ人とパレスチナ人が、互いに被害者意識を持ちつつ、傷つけ合い殺し合っている世界で最も危険な町なのです。それも双方が一つの神の名(アッラーもヤハウェもアラビア語とヘブライ語の違いだけですから)のもとに、それぞれの律法に適っている、神の御心に従っていると主張し合いながら、神の子同士が、兄弟同士が殺し合っている。お互いに、自分にとっての平和を求めてです。自分を愛するように隣人を愛することが、神を愛することになるという律法の核心は、どこにも見えません。

モーセが書いたこと

     主イエスは、ご自分のことを神の律法に違反している罪人として訴えるユダヤ人にこう告げられました。

「わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。」

 モーセは、何を書いたのでしょうか?神様から何を啓示されたのでしょうか?それは、神様が天地を造ったということです。その天地は素晴らしく良いものだったということです。そして、神様はご自身の像に似せて人を造ったということです。それは人であって、そこにはユダヤ人とかアラブ人とか、白人とか黒人とか黄色人とかいう区別はありません。すべての人間が神の似姿を持っているのです。そして、神様はその人間に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」という祝福を与えてくださり、神様が造った世界を管理するようにと命ぜられたのです。人を殺したり、動物を殺したり、自然を破壊したりすることを命じられたのではありません。そして、神様は七日目にすべての仕事を離れて安息なさいました。そして、その日を祝福し、聖別されました。それは祝福の日です。すべての被造物が自分自身を神様の御手に委ね、その御手の中に安心して過ごす日です。深い意味で人間性を回復し、世界が神のものであることを認め、自分自身も神のものであることを承認し、確信し、深い安らぎの中で神様の愛を、その御業を賛美する日なのです。そういう日を、神様は定めてくださったのです。そういう日が、人間が人間として生きるために必要だからです。またその日は、また世界の完成の日でもあります。いつの日か、世界は祝福によって完成する。その希望を新たにするのも安息日です。
神様は、モーセを通して「安息日を心に留め、これを聖別せよ」と命ぜられました。続けて、こう仰っています。

「六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」

   この安息日には、家の主人も奴隷も、男も女も、親も子も、動物も、外国人も、皆、平等に神に造られ愛されている人間として、自分で自分の命を養うための労働から解放されて、神を礼拝し、そして、神の愛を存分に受けて互いに愛し合う人間として生きる。ただそのことのために、神はモーセを通してイスラエルの民に安息日の律法を与えたのです。

安息日の主の御業

 だから、主イエスがユダヤ人が神の御業を褒め称える祭りの日、それも安息日に、三十八年間も病に倒れていた人を起き上がらせたことは、まさに安息日の神の業なのです。この御業に与った人も、その御業を見た人も、神の愛と救いを賛美すべきなのです。しかし、ユダヤ人たちは、病を癒したり、癒された人間が床を担いで歩くことは、モーセの律法に違反した行為であると訴えている。死んだような人間に命の祝福を与え、本当の意味での安息日を与えておられるのはイエス様なのに、アブラハムの子孫であることを誇りとし、モーセの弟子であることを自負しているユダヤ人は、「いかなる仕事もしてはならない」という字面に捕らわれて、律法の本質、核心が見えず、イエス様を神の戒めに背く罪人だと訴えている。この滑稽さ、この恐るべき危険、この惨めなほど哀れな罪、それは、実はユダヤ人が頼りにしているモーセの律法そのものが赤裸々に暴露していることなのです。「そのことに気づきなさい。」主イエスは、そう仰っている。しかし、誰も気づかないのです。今もってユダヤ人は気づかない。アラブ人も気づかない。そして、全世界のキリスト者もしばしば同じなのではないか。  今でもユダヤ教徒の一部の人々は、この時のユダヤ人と同じです。彼らはイエスをユダヤ教の裏切り者だと思っていますし、キリスト教徒を敵視しています。その理由の一つはキリスト教徒が二千年にわたって「キリストを殺したのはユダヤ人だ」と言って、ユダヤ人を敵視し、迫害してきたことにあります。そして、キリスト教徒は、イスラム教徒も敵に回してずっと戦い続け、イスラム教徒もキリスト教徒とずっと戦い続けています。しかし、その三つの宗教の土台になっている律法には、「我らの神、主は唯一の主である、あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である」という神様の命令が書かれているのです。それなのに、何故、私たち人間は、今でも憎み合い、殺し合うことを止めることが出来ないのでしょうか?

キリストの律法

 私たちはキリスト教徒、キリスト者ですから、旧約聖書と共に新約聖書の言葉を読みつつ生きる民です。イエス様が「モーセはわたしについて書いている」からだと仰っているし、新約聖書はそのイエス様ご自身の言葉だからです。そのイエス様がこう仰っているのです。(マタイによる福音書五章からの抜粋)

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」 「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。 しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。・・・あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。」

 これがキリスト者に与えられているキリストの律法です。私たちが頼りにしているのはモーセではなく、モーセの律法を完成させたイエス・キリストです。しかし、モーセを頼りとしているユダヤ人たちと私たちキリスト者の一体どこが違うのか?と思います。私たちもまた、イエス様を訴えているユダヤ人同様に、腹の底では神様からの誉れよりも人からの誉れ、天国に行くことよりもこの世での名誉を求めているくせに、自分の価値観に過ぎないものを唯一の神への信仰だと思い込み、聖書を自分の都合の好いように解釈し、自分に敵対する者を神に敵対する者であるかのように決め付け、神の名によって人を罪人扱いにして、罰してもよいのだと思い込む。その心理構造は全く同じだと思います。

訴えるのは誰?

 だから、私たちを訴えるのは、私たちが頼りにしているキリストご自身だと思います。キリストの律法によれば、「馬鹿」とか「愚か者」と口にするだけで、それは裁かれる罪なのだし、心で情欲を抱くだけで、それも裁かれるべき罪なのです。その罪が自分にあることを知ること。自分が惨めな罪人であると知ること。私たちの救いは、ただそこからしか始まらないと思います。自分の罪を知らなければ、救いを求めることもしないのですから。
 私たちは、自分では自分の罪をどうすることも出来ません。罪を支配することは出来ないし、罪に勝利することも出来ません。罪に勝つことが出来るのは、キリストだけです。イエス・キリストは、すべての罪人の罪に対する裁きを身代わりに受けて十字架にかかって死んでくださり、その死から復活されました。そこに罪と死に対するキリストの勝利があります。そのキリストを信じる時、私たちの罪は赦され、私たちも罪の勝利に与って、愛と赦しの律法に従って生きることが出来るのです。それはいつも一瞬一瞬の出来事であって、一瞬で愛から憎しみに落ちることだってあるし、一瞬で憎しみから解放されて赦すことが出来るときもあるのです。それは皆さんもいつだって経験していることのはずです。
しかし、キリストは一瞬一瞬変わるわけではありません。いつだって、罪に敗れてしまう惨めな罪人である私たちが、その罪を悔い改め、赦しを乞うなら、赦してくださるのです。

裁き主が裁かれることで造られる神の平和

 ルカによる福音書の十字架の場面を思い出してください。イエス様の隣で磔にされた一人の犯罪人は、イエス様を見ながら、救い主なら俺を救ってみろ、と罵りました。でも、もう一人はこう言ったのです。

「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください。」


 この犯罪人、まさに死に値する罪を犯して絶望の内に死ぬほかになかったその時に、主イエスと出会うことが出来、罪を悔い改め、赦しを乞い願った罪人に向かって、主イエスはこう仰いました。

「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。」

 楽園とはパラダイスという言葉です。約束のパラダイス。それは地上のどこかにあるのではありません。奪い合うような所ではないのです。エルサレム、神の平和とは、自分の罪を知り、そこからの救いを求め、永遠の命を求めて、神の子イエス・キリストのもとに来た人に与えられる平和なのです。だから、それはただこの十字架の下にある平和です。すべての人間が、この平和に与ることが出来るようにと、神様は律法を与え、安息日を与えられました。その律法の根底にあるのは愛であり、愛の究極は罪の赦しです。神はキリストを通してその律法を完成されたのです。だから、私たちが罪の赦しを求めてキリストを礼拝する時、誰でもその罪は赦され、その人間は神の像に新しく造り替えられ、全き祝福の中に平和を得ることが出来るのです。
 地上の教会は不完全だし、キリスト者は皆不完全だし、キリスト教という宗教そのものも不完全ですから、キリスト教の中ですら互いに不和対立があって一致できない現実があります。まして他宗教との対話や和解には、まだまだ何千年も時間が掛かるのかもしれません。でも、何かの宗教が唯一絶対なのではなく、何々教徒がいつも神の前に正しいのではなく、唯一の神と救い主イエス・キリストだけが絶対的な存在なのであり、いつの日か、すべての民が、この方を主と崇めて礼拝する日が来るのです。その日にパラダイスは完成する。現在の地上のパラダイスがいかに悲惨なものであっても、いつの日かキリストが勝利し、神の国を完成してくださるのです。

  終わりの日への希望

聖書は、その最終的なキリストの勝利を告げている書物です。だから、神の言として一点一画廃れることなく、世の終わりまで、私たち罪人を訴え、救いへと招く言葉として生き続けていくのです。  その言葉だけを頼みとして生きたマルティン・ルーサー・キング牧師という人は、白人キリスト教徒による激しい人種差別と非暴力による抵抗で戦いつつ、神から与えられた夢を語り続けて、殺されました。アメリカがベトナム戦争に突き進んでいった一九六〇年代後半のことです。
 キング牧師はこう言っています。

「私は今日、皆さんに申し上げたい。今日も明日もいろいろな困難や挫折に直面しているが、それでもなお私には夢がある。
それはいつの日かこの国が立ち上がり、その信条『私たちはこれらの真理を自明のことと考える。すなわち、すべての人間は平等に造られている・・』の真の意味を貫くことである。私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージアの赤土の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が、ともに兄弟愛のテーブルに着くことが出来ることである。
私たちが自由の鐘を鳴らせば、村という村、集落という集落から、また、州という州、町という町から自由の鐘を鳴らせば、その時には、黒人も白人も、ユダヤ人も異邦人も、プロテスタントもカトリックも、すべての神の子たちが手に手を取って、
『ついに自由になった!ついに自由になった!全能の神に感謝すべきかな。私たちはついに自由になった!』という、あの古い黒人霊歌を口ずさむことが出来るであろう。」


 私もその日が来ることを信じています。すべての人間が、神の子なのです。愛し合うべき神の子であり、兄弟なのです。この神の子たちが、地上の世界のあらる差異を越えて一つの愛の交わりに生きる日が来る。それがモーセを通して語られた約束なのだし、いつの日か、キリストが実現して下さることなのです。現実を見れば、絶望的ですが、キリストを見つめて、キリスト共に、倦まず弛まず、希望をもって歩み続けて行きましょう。私たちはモーセの語ったことも信じるし、キリストが語ったことも信じているのですから。
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