「イエスはパンを取り・・U」

及川 信

ヨハネによる福音書 6章 1節〜15節

 

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。・・・・さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。



 先週は、様々な要因で説教時間を二〇分に限定したので、通常の講解説教が出来ませんでした。しかし、一つのことは語りました。それは、ヨハネ福音書六章に記されている出来事やイエス様の言葉は、今日の礼拝においても起こっている出来事であり、今日の礼拝の中で語られる御言、神の言なのだということです。そして、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」というイエス様の言葉に出てくる「パン」とは、実はイエス様ご自身であり、私たちは今、聖餐を通してそのパンを頂いているということを示されたのでした。このパンは六章後半では、イエス様の「肉」とも言われますし、そこでは肉を裂く時に出る「血」という言葉も出てきて、いよいよ聖餐の食卓との関連が深まってきます。

五章と六章の関係

 ヨハネ福音書は一つの単元が非常に長い上に、一つの言葉や一つの情景が重層的なものだから、一つの単元を表面的に読んでいるだけではどうにもなりません。御言が何を語り、何を描き出しているのかが分かるということ自体がまさに恵みだし、神様の御業であり、それもまた奇跡だと私は思いますけれど、私たちとしては毎週毎週の礼拝において、またそれに備える日々の中で、目を凝らし、耳を澄まし、手で触り、鼻で嗅ぎ、口で食べ、五感すべてで神様の恵みを感じ取り、また五感すべてを使って恵みの応答としての讃美を献げ、献身してまいりたいと願っています。
 今日は、最初に旧約聖書との関係に触れ、次第にヨハネ福音書独自の世界に入っていきたいと願っています。そして、来週は説教題にも記しておきましたが「しるしを見る」ことに関してメッセージを聴いていくことになります。

 その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。

 五章のエルサレムにおける奇跡と、それに続く、ユダヤ人との厳しい問答の後に、舞台はいきなりガリラヤ湖に飛びます。そのことを不審に思って、六章は元来はガリラヤが舞台であった四章に続いていたのだと考える学者もいますが、私は五章の後に六章が続いていることに必然性を感じます。五章における奇跡(それをここでは「しるし」と呼んでいるのですが)、三十八年間も病に倒れていた人を癒す奇跡と、その後に続くイエス様の長い証言は、結局、「イエス様とは一体誰であるか」を啓示しているものです。その最初に奇跡があり次に証言があるという構造は六章も同じです。そして、五章の後半に出てくる言葉は、「聖書」(私たちにとっての「旧約聖書」)という言葉であり、また旧約聖書を代表する「モーセ」という人物の名です。イエス様は、こう仰っています。

「聖書はわたしについて証しをするものだ」「あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

 その言葉を受けて六章があるのです。空間的な舞台としては、いきなりガリラヤに飛びますけれども、ここでのイエス様は、モーセがシナイ山に登って神様と出会い、律法(十戒)を授かったように、山に登ります。そして、十戒を契約内容として、神様とイスラエルの民が契約を結んだ後、モーセとイスラエルの長老がシナイ山で神を見ながら食事をしたように、ここにも食事の場面があります。そういう意味では、イエス様はまさにモーセの位置に立っておられると言ってよいのです。しかし、一六節以下の湖の上を歩く場面で明らかになることですが、イエス様は単なるモーセの再来ではなく、モーセが、つまり旧約聖書が証しをしている、あるいは預言をしているお方なのです。
 それはどういう方かと言うと、この福音書の序章である一章一七節の言葉で言えば、「わたしたちは皆、この方の満ち溢れる豊かさの中から恵みの上に恵みを受けた。律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」ということです。つまり、イエス様は第二のモーセとか、モーセの再来というだけではなく、「独り子なる神」として、恵みと真理を与える方であり、神を示す唯一のお方なのです。そのことが、ガリラヤ湖の上を歩きつつ、「私である」(エゴウ エイミー)とお語りになったイエス様の姿に鮮明に現れて行くことになるのです。

過越祭 神の小羊

 今日の箇所には「過越祭が近づいていた」とわざわざ記されています。過越祭の起源は、紀元前十三世紀頃だと思われますけれども、エジプトの奴隷となっていたイスラエルの民を、神がモーセを用いて、エジプトから脱出させるエジプト脱出前夜に、イスラエルの民すべてに食べるようにと神様が命じた食事です。その食事において、なくてならぬものは小羊です。小羊を屠って、その小羊の血をイスラエルの家の鴨居に塗るようにと、神様は命ぜられました。何故なら、その血がイスラエルの徴となり、その徴によって、イスラエルの罪は贖われて、その命が救われるからです。小羊の血が塗られていないエジプトの家には、罪に対する裁きとして死の使いが入り込み、その家で生まれた初子が死んでしまう。そういう滅びと救いを分けるのが、過越しの食事で屠られる小羊の血なのです。小羊の血を塗り、その肉を食べることで、イスラエルは救い出され、そして神の民となっていく。その救いの出来事を決して忘れず、絶えず新たに神の民として生きるために、過越祭はユダヤ人の間では最も大事な祭りとして千年以上にわたって盛大に祝われてきたのだし、今でもユダヤ人の間では祝われているのです。恐らく、現在も残っているという意味では、世界最古の祭りだと思います。
 先ほど、この福音書の序文を読み、その中にイエス様は「独り子なる神」であるというヨハネ独特の表現がありました。その序文に続く本文の中で、イエス様を呼ぶ呼び方として最初に出てくる言葉もまたヨハネ福音書独特の言葉ですけれども、それは「神の小羊」というものです。イエス様の先駆者であるバプテスマのヨハネが、イエス様に出会った瞬間に、彼は、こう叫びました。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

 これは、あの過越祭でその肉を裂かれ、血を流してイスラエルの罪を贖い、死の滅びから救い出した小羊のことです。しかし、イエス様は、単に一つの民ではなく「世」、世界中の民の罪を取り除くために犠牲となる小羊なのだ、とヨハネは証言しているのです。イエス様の十字架の死は、ユダヤ人の過越祭の中で起こった出来事であり、ヨハネ福音書の十字架の場面は、様々な形で過越祭の小羊としてイエス様の肉が裂かれ、血が流されていることを証ししています。そのことを通して、イエス様はまさに世の罪を取り除いて下さいました。その救いの出来事を、私たちは受難週礼拝と復活節礼拝として記憶し続け、祝い続けているのです。



 その過越祭が近づいたある日、ガリラヤ湖を囲む一つの山に登られました。山は旧約聖書の中では神様との出会いの場であり、また礼拝の場です。その山にイエス様は登り、弟子たちと一緒にお座りになった。そのイエス様を目指して、大勢の群衆が続々と集まってきているのです。既になされたイエス様の奇跡、しるしを見たり聞いたりして、イエス様に会いたい、その言葉を聞きたいと願って集まってくるのです。ここには、明らかに「祭り」、つまり神様を礼拝するために人々が集まってきている光景が描かれているのです。
 中渋谷教会では、司式者、説教者、奏楽者が、礼拝開始十分前に講壇の後ろで準備祈祷した後に、説教者と司式者は皆さんと向かい合って講壇の上に座って、礼拝開始の時を待ちます。私が一番緊張する時ですが、その時は皆さんが続々と会堂に入ってこられる姿を見る時でもあります。いつも言いますように、多くの方が、あの坂を登り、さらに階段やエレベーターを使って、この丘の上の教会の二階にある礼拝堂に、やっとの思いで入ってこられる。そして、静かに祈りつつ礼拝に備えておられる。そういうお姿を見るときに、しばしば、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ、すべての福音書に書かれている、この五千人の給食の場面を思い出します。
多くの方が、イエス様の御言を求めて、命の糧を求めて、集まってくる。教会の礼拝の中でしか与えられないものを求めて集まってくる。イエス様に会いたくてやって来る。そういう姿を見ながら、私は牧師として、説教者、また司式者として、イエス様が与えたいと願っておられる糧をちゃんと受け取り、またそれを分け与える使命を果たすことが出来るのか?!そう思って、緊張します。もちろん、説教は、準備不足の不安な状態では決して出来ないので、「これ以上のものは今の自分には出来ない」と思える所まで準備しないと、とてもその緊張に耐えることは出来ません。でも、説教は努力の結果出来るものではなく、恵みとして与えられるもので、その恵みは、説教を準備しているある瞬間に与えられますけれど、語りながら与えられることもあり、どれだけ準備しても、これから何が起こるか分からないという緊張はあります。
しかし、一人また一人と礼拝堂に人が入って来られるのを見ることは、大きな喜びでもあります。さあ、一緒に礼拝をしましょう。イエス様からの恵みと真理をたっぷりと頂きましょう。そして、イエス様を思い切り讃美しましょう。さあ、お祭りを始めましょう、という一種の高揚感を感じるのも、この時です。
 この六章一節から四節までには、これから礼拝が始まる、盛大なお祭りが始まる、神様との出会いと交わりの時が始まるのだという一種の緊張感と高揚感が漲っている感じがします。

目を上げて見る

 五節には、イエス様は、ご自身の許に集まってくる群衆を「目を上げて見た」と記されています。
「イエスは目を上げ、大勢の群衆がご自分の方へ来るのを見て、フィリポに、『この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか』」とお尋ねになった。しかし、それは弟子を試みるための質問であって、イエス様自身は、これから「ご自分では何をしようとしているか知っておられた」のです。この点は先週語りましたから繰り返しません。一二節に飛びます。

「人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、『少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい』と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。」

 これも実に不思議な言葉ですし、不思議な出来事です。しかし、ここを読んだ時に、私は、既に読んできたイエス様の言葉を思い起こしました。
 それは、イエス様がサマリアの女と出会った四章の言葉です。そこでは、パンではなく水が問題でした。しかし、そこでも「山」という言葉があり、イエス様は「この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と仰り、問題は礼拝であることが明言されています。そういう出会いの中で、心に渇きを覚えて愛を求めて放浪していた女は癒され、そして悔い改めに導かれ、イエス様のことを「メシア」であると信じたのです。そして、それまでは会うことすら避けていた町の人々に、メシアが到来したことを宣べ伝える者に変えられたのです。その女の言葉を聴いて、自分たちもメシアに会いたいと願って、サマリアの町の人々が続々とイエス様のもとにやって来る。その時、イエス様と弟子たちは、不思議な対話をしました。それは、こういうものです。四章三一節からお読みします。

その間に、弟子たちが「ラビ、食事をどうぞ」と勧めると、イエスは、「わたしにはあなたがたの知らない食べ物がある」と言われた。弟子たちは、「だれかが食べ物を持って来たのだろうか」と互いに言った。イエスは言われた。「わたしの食べ物とは、わたしをお遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである。あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈り入れる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。こうして、種を蒔く人も刈る人も、共に喜ぶのである。そこで、『一人が種を蒔き、別の人が刈り入れる』ということわざのとおりになる。あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている。」

   細かく復習する暇はありません。ここにはイエス様の「食べ物」という言葉があり、その「食べ物」とはイエス様を「お遣わしになった方の御心を行い、その業を成し遂げることである」とあります。この言葉は、後でもう一度出てきますから覚えておいて下さい。そして、その後にこう仰っています。

「目を上げて畑を見るがよい。」

 弟子たちの目の前に実際に畑があったかどうかは問題ではありません。ここでイエス様が仰っていることは、目の前には救いを求めている人が沢山いる、そういう人々が今、続々とイエス様の許に集まってきている、ということです。女の言葉を聞いて「メシアに会いたい。その言葉を聞きたい」と願い、町を出てイエス様の所に集まってきている多くの人々がいるということです。イエス様は、この人々のことを収穫間近の畑にたとえているのです。一番先に種を蒔いたのはイエス様です。いや、イエス様自身が、実は、一粒の種となって地に落ちてくださったのです。その一粒の種が地に落ちて死ぬことによって、百倍もの実を結ぶという恵みの奇跡が起こるのです。その恵みを刈り入れるのは弟子たちです。その業のために、イエス様は弟子たちを用いる。彼ら弟子たちは、「永遠の命に至る実を集め」るために用いられる。それは、彼ら自身が、イエス様を信じて従うことを通して、既に永遠の命を生きる者とされているからです。私たちも同じです。
 この四章に、今日の箇所に出てくる大切な三つの言葉が出ています。それは「目を上げて見る」「弟子たち」「集める」という言葉です。イエス様が目を上げてイエス様の所に集まってくる人々を見てくださる。そして、弟子たちにも、イエス様と同じように見るように促してくださるのです。私たちもイエス様の弟子、つまり、キリスト者になる前、最初に礼拝堂に入った時は、おずおずと、少しおびえながら、でも心の奥底にある飢えや渇きを癒してもらえるかもしれないという期待と不安を抱えつつ礼拝堂に入ってきたのではないでしょうか。そういう私たち一人一人を、イエス様は目を上げて見てくださいました。そして、永遠の命に至る種を私たちの心に蒔いてくださったのです。礼拝においてです。そして、その種は、礼拝を中心とする教会の交わりの中で成長し、ついに信仰を告白し、洗礼を受けるまでにされたのです。その時以来、私たちは「永遠の命」を生きる者とされた私たちは、たとえば先週、沢山礼拝に来た若い学生さんたちを、イエス様と同じように、目を上げてみる者とされているのです。イエス様によって蒔かれた種がいつか成長して、信仰を告白し、洗礼を受ける日が来ますようにという思いで見る者にされています。教会は、礼拝を通して、全世界の人々にイエス様の福音を宣べ伝え、父・子・聖霊の名によって洗礼を授けるために建てられているのだし、そして私たちイエス様の弟子は、そのことのために用いられるのです。「集める」とは、イエス様に会いたくて礼拝に集まってくる一人一人が、ちゃんとイエス様に出会えるように祈りつつ、様々な配慮をすることでしょう。私たち自身、そのような祈りの中に置かれ、様々な配慮に満ちた導きの中で信仰を告白し、洗礼を受けることが出来たのです。そのすべての根源が、神の小羊としてのキリストと出会い、交わりを持つ礼拝の中にあることは言うまでもありません。

無駄にする、失う 滅びる

 今日の箇所では、イエス様は弟子たちに「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と仰いました。この「無駄になる」とは、アポリューミという言葉ですけれど、これはその先の二七節に出てきます。そこでイエス様は「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ人の子があなたがたに与える食べ物である」と仰いました。この「朽ちる」という言葉がアポリューミです。そして、その言葉は他の所では、「失う」という言葉であり、また「滅びる」とも言葉に訳されています。
 六章三八節からお読みします。

「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。」

 ここに、先ほど覚えておいて欲しいと言った言葉、「わたしをお遣わしになった方の御心を行う」という言葉が出てきます。イエス様の言動のすべては、父なる神様のご意思、その御心なのです。先ほどの箇所で、イエス様は、その父なる神様の御心を行い、その業を成し遂げることが、私の食べ物だ、私は御心を行うことによって生きている、と仰いました。そこにおいては、ユダヤ人が「神に見捨てられた民」として嫌っていたサマリア人に信仰を与えて、彼らに永遠の命を与えることが、御心を行うことだったのです。
それと同じく、今日の箇所でも、主イエスは、しるしを見て主イエスの許に集まってくる人々を「一人も失わないで」「少しも無駄にしないように」「終わりの日に復活させる」という神様の御心を行っておられるのです。
 もう一箇所だけ、アポリューミという言葉が出てくる箇所を読みたいと思います。それはもう何度も読んできた三章一六節です。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

  「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」。それが神の御心です。そして、この「一人も滅びないで」「一人も失わないで」と同じだし、「少しも無駄にしない」と同じ言葉です。

キリストが臨在する礼拝

神様は、今日も、私たち一人一人を礼拝堂に集めてくださいました。この礼拝堂にはイエス様が臨在しておられます。そして、イエス様が集まってきた私たちを、目を上げて見て下さり、一人も失わないように、一人も滅びないように、命のパンである言葉を与えて下さり、命のパンである聖餐を分け与えてくださり、そして、今日もご自身の命を与えてくださっているのです。過越しの小羊としてご自身の体を献げ、十字架の血によって罪を贖い、そして、今、復活節第二主日の今日の礼拝において、復活の命を与える聖霊を注いでくださっているのです。信仰によって、その霊の命を与えられた私たちは、その命を生き、命の与え手である独り子なる神、世の罪を取り除く神の小羊であるイエス様を賛美しつつ、証しをしつつ神様の御心を行う、その御業に参与する者とされるのです。なんと有り難いことかと思います。イエス様に出会うまでは、朽ちる食べ物のためにあくせく働き、所詮は朽ちていくだけの肉体を生かしていただけの私たちが、今や、永遠の命に生かされるのみならず、「永遠の命に至る実を集める」という神の御心を生きる者とされているのです。神の御心を行うことを食物として生きる者にされている。これこそ、恵みの上に更に受ける恵みです。

弟子としての私たち

先々週も先週も、信仰告白式、洗礼式を通して、新しい命を与えられた姉妹たちがいますし、今も五月に洗礼を受ける志を与えられて準備をしている姉妹もいます。皆、イエス様にお会いしたくてこの礼拝堂に集まり、イエス様が目を上げて見てくださり、そして、私たち弟子を通して集めて下さった一人一人であり、神様から失われないように、滅びないように、与えられた命を無駄にしないようにと救いへと導かれた一人一人です。私たち既にキリスト者にされた者たちも、一週毎に新しく招かれ、清められ、贖われ、満腹になって、御心を行う者として派遣されるのです。一人でも多くの人が、自分もイエス様に会いたいと願って、この山の上の礼拝堂にまで登ってくるようになるためです。

「さあ、目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。既に、刈りいれる人は報酬を受け、永遠の命に至る実を集めている。」「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい。」

   私は明日から青山学院の短大の講義に出かけます。及川信個人として行くのではなく、中渋谷教会の牧師として行きます。収穫を集めるためというよりも、種を蒔きにいくのだと思います。あるいは沖に漕ぎ出して網を下ろすために行く。先週の礼拝に来た学生の一人でも二人でも、また新たにキリスト教に触れる一人でも二人でも、その講義を通してどこかの教会の礼拝に導かれ、キリストに見つめられ、そして、信じる者が出ることを心から願って出かけます。皆さんもその業に連帯し、中渋谷教会の礼拝に導かれて来るかもしれない一人一人を、イエス様の眼差しで見つめ、その恵みを分かち合うために、働いてくださいますように。そして、その働きの第一のことは、私たち自身が毎週毎週、今日もイエス様に会いたい、今日もイエス様の言葉を聞きたい、イエス様の命を頂きたい、その十字架の死と復活を通して私の罪を取り除き、新たに生かして下さっているイエス様を讃美したいという切実な信仰をもって礼拝堂に集まってくることだと思います。その信仰に生きる姿、礼拝に結集する姿こそ、御心に適う姿なのです。
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