「しるしを見るとは?」

及川 信

ヨハネによる福音書 6章 1節〜15節

 

その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。大勢の群衆が後を追った。イエスが病人たちになさったしるしを見たからである。イエスは山に登り、弟子たちと一緒にそこにお座りになった。ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた。イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそ五千人であった。さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。



  「しるしを見て信じる」とは?

今日でこの箇所の三回目の説教となります。今日は、これまで触れてこなかった言葉を通して、これまでとは違う角度から説教を始めます。それは、礼拝が持っている危険性、あるいは私たち人間が持ちがちな信仰の危険性についてです。
 今日は「しるしを見る」というこの段落の最初と最後に出てくる言葉を巡って、メッセージを聴き取っていきたいと思っています。わたしがこの「しるしを見る」という言葉を聞いてまず思い出すのは、二章二三節以下の言葉です。ここにも、六章と同じく、「過越祭」という神の民イスラエル誕生にとって決定的な救いの出来事を記念する祭りの名前が出てきます。イエス様は、この過越祭(近くも含めて)においていつも決定的な御業をなさいます。二章一三節以下では、イスラエルの宗教の中心である神殿を「壊してみるがよい」とあまりに過激にして大胆なことを仰り、その後、恐らくエルサレムで病人の癒しなどをなさったのだろうと思います。そのしるしを見て、人々がイエス様を信じた、とそこには記されています。しかし、その直後に、こう書かれているのです。

「しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。」

 この悲しむべき事態が、今日の箇所にも起こっているのだと思います。人々は、イエス様のしるしを見て信じ、イエス様の所に集まってきた。イエス様は、その人々を見つめ、パンを与えることを通して豊かにもてなしてくださった。そこで、人々はさらに強くイエス様を信じた。でも、そこで人々が見たものは、イエス様が見て欲しいものとは全く違っていたのです。

群衆が見たもの、信じた者

群衆は、イエス様がなさったしるしを見て、「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言いました。これはモーセのような救済者という意味です。エジプトの圧政からイスラエルの民を救い出し、水も食べ物もない荒野を放浪する時には、岩から水を出してくれ、彼が祈ると天からマンナとよばれる食べ物が降ってきた。そして、彼を通して神の言を聞くことが出来た。そういう偉大な救済者が、いつか再び到来する。それがモーセその人に与えられていた神様の約束です。「その約束が今こそ実現している。」群衆はそう思った。
そして、当時のイスラエルの民、ユダヤ人はローマ帝国の皇帝による圧政の下で苦しめられていました。彼らの悲願は、ローマ皇帝の支配から解放されて、ユダヤ人の独立国を樹立することです。その王国の王こそ、彼らにとってはメシア(キリスト)なのです。群衆は、病を癒し、大群衆をパンで養うことができるこの方こそ、神が約束した偉大な預言者であり王となるべき人であると確信し、イエス様を王に担ぎ出そうとしたのです。
 今は統一地方選挙の真最中です。それぞれの自治体の首長に立候補する方たちの選挙公約の多くは雇用の拡大による暮らしの向上、医療、福祉の充実などです。聖書の言葉で言えば、パンを与えることと病気の癒しです。ここでイエス様の周りに集まった群衆は、イエス様のことを待ちに待った実力をもった政治家だと思い、この勢いを買って、一気に大統領選に担ぎ出す。そういう動きを見せたということです。しかし、人の心の中を知っているイエス様は、その動きを察知して、今度は「ひとりで山に退かれ」ました。

イエスが見て欲しいもの

 その翌日、群衆は、いなくなってしまったイエス様を必死になって探し出したのですが、その群衆に向かって、人の心の中に何があるかをすべてご存知のイエス様は、こう仰った。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」

 ここにも「しるしを見る」という言葉が出てきます。でも、ここでは今までの意味とは違っています。今までは、表面的な現象を見ることであり、そのしるしを見て信じる信仰とは非常に浅はかな、いわゆる現世利益信仰でした。しかし、イエス様が「しるしを見る」と仰るとき、それは全く違う意味であることは言うまでもありません。群衆は、パンの「しるしを見て」、イエス様はこの世の王になる方だと思った。そういう意味でイエス様を信じたのです。しかし、イエス様がそこで見て欲しかったものは、全く違うことでした。それは何なのか?今日の問題は、そこにあります。

ティベリアス湖とは?

 六章一節は、こういう言葉です。

「その後、イエスはガリラヤ湖、すなわちティベリアス湖の向こう岸に渡られた。」

 ここで一般にガリラヤ湖と呼ばれている湖が、わざわざ「ティベリアス湖」と言い換えられています。これはヨハネ福音書独特の言い方です。この「ティベリアス」という名前は二三節に、「ほかの小舟が数そうティベリアスから・・近づいてきた」とあることから分かりますように、ガリラヤ湖沿岸の一つの町の名前です。そして、ティベリアスとは、当時のローマ皇帝の名前なのです。あのアウグストゥスの後継者です。ユダヤ人の当時の王、ヘロデ大王の息子の一人が、ローマ皇帝に媚を売るために建てた豪華な宮殿やローマ式の神殿がある町、それがティベリアスです。つまり、ローマ皇帝の権力、その支配の象徴のような町です。ユダヤ人の多くにとっては、実に不愉快にして、けしからん町の名前であることは言うまでもありません。
 しかし、だからこそ、ヨハネ福音書の記者は、敢えて、その名をここに書き記している。当時の全世界の王はローマ帝国の皇帝であることを意識させているのです。そして、この段落における一つのテーマは、この世の支配者、王は誰かという問題であることは明らかです。群衆は、イエス様こそ、ローマ皇帝の支配から解放した上に、有り余るパンを与えてくれ、豊かな生活を保障してくれる王になれる人だと期待していました。しかし、イエス様が与えたいものは、朽ちる食物ではないし、単なる肉体の癒しでもありません。イエス様が与える癒しは、単なる病気の治癒ではなく、永遠の命を与えようとする御業だし、イエス様が与えるパンもまた永遠の命のしるしなのです。しかし、当時の群衆の誰も、そのしるしの中に、イエス様が見て欲しいものを見ることが出来ませんでした。そして、それは今も、少しも変わることのない人間の現実でしょう。

ヨハネ福音書六章 その書き出しと結末

 このヨハネ福音書六章一節から一五節までの出来事は、六章の終わりの七一節になってようやく結末を迎えます。その結末を迎える過程において、イエス様は自分を王にしようと必死になっている群集に向かって、「あのパンは、天からのパンであり、そのパンは私の肉であり、その肉と肉が裂かれる時に流される血を飲まなければ、誰も永遠の命に生きることは出来ない」と宣言されました。しかし、こんな言葉を、誰も理解できないし、まして信じるなんてことは出来ませんでした。それは昔も今も同じなのです。
先ほどまで「まさにこの人こそ、世に来られる預言者である」と言って、イエス様を「王にしよう」としていた人々はもちろんのこと、弟子たち(イエス様の支持者たちという意味で「十二弟子」ではない)ですら、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聴いていられようか」と言って離れ去っねになるほどだったのです。そして、イエス様は「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ」とまで仰り、イスカリオテのユダの裏切りが預言される。それが六章の終わり方です。
 書き出しは、ローマ皇帝の支配をも打ち破る王の登場を予感させるものだったのに、あれよあれよと言う間に、イエス様の周りには十二人しか残っておらず、その中の一人は、既にイエス様を裏切ろうとしているという記述で終わる。それはまさに急転直下の出来事であり、表面的な意味で言えば大成功から、無残な失敗に終わってしまったと言って良い現実が、そこにはあるのです。
イエス様がなさったこと、なさっていることが何であるかが、イエス様の言葉を通して次第に明らかにされるに連れて、実は、私たち人間は躓き始め、不平不満を言い出し、最後には怒りをもって離れていく。それは昔も今も変わることのない現実です。何故なら、イエス様は、私たちが求める救済者ではないからです。私たちは朽ちるパンをいつも求める人間です。イエス様が、そのパンを与える方であり、病を癒してくださる方である限り、支持をし、おこぼれを貰おうとしてついてまわるけれど、「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命を得るために働きなさい」などと言われると、もうついていこうとは思わない。願っていることは目先の利益、地上の富、人からの誉れであって、神からの恵み、神からの誉れではないのです。これは他人事ではありません。

惨めな大人たち

私は子供の頃、テレビでアメリカの西部劇とかギャング映画とかをよく観ていました。そして、子供ながらに大人っておかしいな?と思っていました。悪者は、金銀財宝があれば一生安泰だ、遊んで暮らせると思っている。だけれど、実際に命がけの強盗をして金銀財宝を手に入れると、幸せなのはその日の晩の馬鹿騒ぎの時だけで、次の日からは、金に溺れて身を持ち崩してしまったり、誰かが奪いに来るのじゃないかと怯え始めたり、実は前よりも惨めな人生が待っていたりする。また、追いかけてきた保安官に殺されそうになると、命だけは助けてくれ、と懇願したりする。金がなければ生きていけないと思っていたはずなのに、殺されそうになった時に初めて、金など何の意味もないことに気づく。また、仲間と共に金を奪い取った途端に仲間割れとか裏切りとかが起こる。あるいは、愛し合っていた夫婦が手に入れた金を巡ってギクシャクし始めて結局別れてしまったりする。金を持つことで、それまでの自分を支えていた大事な交わりが壊れていく。彼らは、本当に必要だと思っていたものを手にした途端に、実はそんなものが必要であったわけではないことを知らされる。あるいは、必要だと思っていたものを手にした途端に、それまで自分を支え生かしていたものが壊れていくことに気づかされる。そういう滑稽にして惨めな大人たちの様をテレビで見る一方で、日曜日の教会学校では、「この水を飲む者は、また渇く」とか「朽ちる食べ物のためではなく、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい」なんて不思議な言葉も聞いていましたから、自ずと、人間は何のために生きるのだろう、人間が生きるために本当に必要なものは何なのだろうと、私は私なりに考え始めたことを思い出します。しかし、いくら考えても、そして「ああいう大人にはならないぞ」と思ったとしても、自分がやってきたことは、滑稽にして惨めな大人たちのやっていることなのです。もちろん、強盗を働いて大金を手にしたなんてことはありませんが、でも、本当に必要でないものを欲しがって空しくなるということは、繰り返してきました。
 五月には、大学・短大・中高一貫女子高と、三回もキャンパス礼拝で語る機会が与えられます。私はそういう機会を有り難く思いますけれど、でも物凄くしんどい思いもします。会ったこともない人たちに、それも自ら望んで礼拝に出ているわけでもない若者たちに、極めて短時間、一〇分程度で福音を語る。失敗が許されない点では、毎週の礼拝説教も同じですけれども、学校礼拝の説教を準備することは、毎週の説教準備とはまた違った大変さがあります。また、実際の礼拝の一月も前に、聖書の箇所や讃美歌、そして説教題を知らせなければならないというのも、私にはしんどいことです。つい先日も、半ばヤケクソになってある中高一貫女子高の担当者に聖書箇所と讃美歌をファックスで知らせました。それは、ローマの信徒の手紙に記されているパウロの言葉です。

「わたしは、自分のしていることが分かりません。自分の望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。・・善をなそうという意思はありますが、それを実行できないからです。・・わたしの五体には、もう一つの法則があって、心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」

 下は十二歳の女の子が百名以上もいる礼拝で読むべき言葉かどうか知りませんが、もうヤケクソですから、大人の自分の現実をぶつけるほかないと思って選びました。ここには、心で望んでいること、切に求めている善をなすことが出来ない肉体を抱えている人間の惨めさが語られています。何故、人間は惨めなのか?それは、人間が罪の法則に捕らわれているからだ、とパウロは言います。つまり、罪こそが私たち人間を支配している王様なのだということです。「自分の人生、自分の命、どう生きようが自分の勝手だろう」と私たちは思っている。実は、私たちがそう思っていること自体が、罪の思う壺なのです。私たちは本来、神様に造られ、生かされているのですから、神様から与えられた命、その人生を、神様の御心にしたがって生きるところにこそ、本当の喜び、平安、幸せがあるのですけれど、罪はその逆のところに、喜び、平安、幸せがあると思わせます。だから、その罪が私たちの上に君臨する王である限り、私たちは馬鹿騒ぎの中で喜んだ後に、心の飢え渇きにのた打ち回ることになるのです。そして、その苦しみを他人にも味わわせたくなって、他人を死の道連れにしていくことになる。最近、国の内外で銃を使って人を殺して自分のことも殺してしまう人も、ちょっと前に連続した家庭内における殺人事件の当事者たちも、皆、自分が本当に望んでいることではなく、「憎んでいることを」してしまっているのです。「こんなはずじゃなかった・・」と呻かざるを得ないことをしてしまい、自分が何故こんなことをしてしまったのか、本当のところは分からない。それが人間です。私たちは罪の僕、罪という王様に支配された奴隷であり、自由意志など、その王の力の前では全く無力なものなのです。この惨めさから救い出してくださるお方は誰か?!この痛切な叫びをあげた後で、パウロは「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と、主イエス・キリストによって救われた喜びを証ししているのです。

王とは?

 ヨハネ福音書に戻りますが、先週、イエス様が誰であるかを示す呼び名の一つは「世の罪を取り除く神の小羊」であると言いました。これは最初に出てくる呼び名は、「あなたはイスラエルの王です」というものです。
 イエス様が、私たち一人一人の罪が赦されるために十字架に掛かって死なねばならない犠牲の小羊であることは、過越祭の中で執行された十字架刑において明らかにされた事実ですが、王であるということは、いつどこで明らかにされたのでしょうか?
この福音書を最初から最後まで何度も読んでいると、そうだったのか?!と思わされることがいくつもありますが、今日の説教の主題である「しるしを見る」ことと「王」に関することも、そのうちの一つです。「見る」という言葉は、この福音書の最初から最後まで何度も出てきます。しかし、「王」という言葉は、イエス様の生涯の最初と、半ばのティベリアス湖における出来事と、主イエスの地上の生涯の最後に集中的に出てきます。
 地上の生涯の最後とは、言うまでもなく、十字架に磔にされて殺される時です。その時、イエス様は、ローマの皇帝ティベリアスの部下である総督ピラトによる裁きの座に立たされます。何故かと言えば、かつてイエス様のことを自分たちの「王」にしようとしたユダヤ人によって、「この男は、ユダヤ人の王であると自称し、ローマ皇帝に反逆した犯罪人です。こういう者はローマの法によって死罪にすべきではないでしょうか」と訴えられたからです。民衆にしてみれば、イエス様は、自分たちが求めている生活の豊かさや医療の充実を与えてくれなくなった裏切り者、あるいは役に立たなくなった者であり、権力者たちにとっては、自分たちの既得権益の牙城である神殿を徹底的に破壊する危険人物であったからです。彼らは、目先の自分の利益、肉を養う富と地位を求めているだけの大人です。そして、それをもたらしてくれる王を求めている。
そういう彼ら、そういう私たちを支配している王、目には見えないけれど、実在しているものは、パウロの言葉によれば、「罪の法則」です。罪こそが、私たちを支配している王です。だから、私たちは、気がつくと、本当に欲しいものではないものを求めて、必死になってしまうのです。そして、本当に欲しいものを失ってしまう。朽ち果てるものを、永遠かのように思い込み、空しく滅びの中に落ちていってしまうのです。

ピラト イエス ユダヤ人

 暫く、当時の全世界の王であるローマ皇帝ティベリアスの代理者ピラトとイエス様の問答、そして、ピラトとユダヤ人との問答を見ていきたいと思います。
ピラトは、イエス様に問います。
「お前がユダヤ人の王なのか。」
「わたしの国は、この世には属していない。」
「それでは、やはり王なのか。」
「わたしが王だとは、あなたが言っていることだ。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」
「真理とは何か。」

 ピラトは困惑して、群衆の前に出てきてこう叫びます。
「あの男には何の罪も見出せない。ところで、過越祭には誰か一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放して欲しいか。」
群衆は強盗であったバラバという男の釈放を求めます。
 さらに困ったピラトは、イエス様を捕らえて鞭で打ちます。イエス様の背中は肉が裂けて血が吹き出てきたはずです。そのイエス様に、ピラトの兵士たちは、茨の冠を被せ、紫の服を着せて、「ユダヤ人の王、万歳」と嘲った上でビンタを食らわせました。そのイエス様のあまりに惨めな姿を、ユダヤ人に見せれば、ユダヤ人も、もうそれでよいと思うだろうと考えていたピラトは、
「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見出せないわけが分かるだろう」と言って、血まみれのイエス様を群衆の前に引き出して「見よ、この男だ」と叫びました。彼は、何とかしてイエス様を釈放したかったのです。しかし、群衆はこう叫びました。
「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、皇帝に背いています。」
ピラトは、過越祭において小羊が屠られる時刻に、もちろん、そんなことは知らないままに、もう一度「見よ、あなたたちの王だ」と叫びます。群衆は叫びます。
「殺せ、殺せ、十字架につけろ。」
「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか。」

すると、神の民ユダヤ人の信仰を代表している祭司長たちが、
「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」
と答えるのです。
この祭司長たちの答えが決定打となって、イエス様はついにピラトによって「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」という罪状書きを掲げられて、十字架の上で処刑されました。ユダヤ人は、「この男は『ユダヤ人の王』と自称したと書いてほしい」と言いますが、ピラトは受け容れず、イエス様は「ユダヤ人の王」という嘲りと侮蔑に満ちた罪状書きが掲げられた十字架の上で、息を引き取られるのです。

人間の業の中で成し遂げられる神の業

しかし、その時、イエス様は「成し遂げられた」と仰った。つまり、この死を通して、神様の御業が成し遂げられたのだ、と仰ったのです。
 今読んでお分かりのように、ここには何度も「見よ」という言葉と「王」という言葉が出てきます。しかし、ここで見るように指し示されている「王」とは、この世の王であるローマ皇帝の権力によってなぶり者にされて血まみれになっている男であり、無力に処刑されていく惨めな人間です。しかし、その十字架で処刑されて死んでいく「この男を見よ」「この男を見よ」叫び、その人間に「王」という称号を貼りつけたのは、ユダヤ人からしてみれば異教徒であり、そのことの故に神に見捨てられているローマ人のピラトなのです。その一方で、自分たちは神の民であることを自負しており、ただ神にだけ従うべきユダヤ人が、「パンと娯楽を民衆に与える」ことが最大の仕事であったローマの皇帝を、自分たちの唯一の王であると告白しているのです。この世の権力者の象徴であるピラトが、何も分からずに「この男を見よ」「この男こそ、あなたたちの王だ」と絶叫しており、神の民ユダヤ人は、そのかつては「王」に担ぎ上げようとした男を「殺せ、殺せ、十字架につけよ。私たちの王はローマの皇帝である」と絶叫している。そして、ピラトは、その声に負けて、何の罪も見出せない男を処刑してしまう。何たる皮肉、何たる悲劇かと思います。
しかし、その人間の業、人間の罪の業、罪が支配している罪人の悲劇的な業を通して、実は神の御業が成し遂げられているのです。私たちは、十字架の死というしるしの中に、そのことを見ることが出来るでしょうか。

罪の支配からの救いをもたらす王

 「すべては上流階級の奴らが悪い」と、二百発の銃弾を撃って三二人の青年を殺させた上に、一人の韓国人移民を自殺させるのも罪だし、一人の市長を逆恨みして殺して、自分も死のうと暴力団幹部に思わせるのも罪です。皆、自分で何をしているのか分からない。罪の法則に捕らわれて、心の奥底では、いったい誰が、この惨めな私を救ってくれるのかと、叫んでいるのです。しかし、自分では自分の心の中の叫びを聞くことが出来ないし、他の誰も聞いてはくれないのです。だから、私たちはどうしようもない孤独の中に落ちていく。そして、人を道連れにしてしまう。
しかし、イエス様だけは、その叫びを聴いて下さっているのです。イエス様は、「すべての人のことを知っておられ、人間について誰からも証ししてもらう必要がなく」「何が人間の中にあるかをよく知っておられる」のです。パンを配ったイエス様を王に仕立て上げようとする人間の心の中も、パンを配らなくなったイエス様を殺してしまおうとする人間の心の中も、よくご存知でした。既得権益を奪われる恐怖からイエス様を殺す人間の心の中も、自分の地位の安泰を図るために、イエス様には罪がないことを知りながら、処刑することを命じてしまう人間の心の中に何があるかも、イエス様は知っているのです。すべての人間は、自分でも意識できないその深みにおいては、この惨めな自分をいったい誰が救ってくれるのだろうか、と叫んでいるのです。その叫びを聴き、受け止めて、「私が救ってあげよう」と、言ってくださるのはイエス様だけだし、実際に救ってくださるのも、イエス様だけです。
 イエス様だけが、私たちすべての罪人の罪を背負って、あの十字架の上で、罪に対する裁きを受け、私たちを支配している罪と死に対する完全な勝利を宣言し、私たちに永遠の命を与えるという神の御業を成し遂げられたのです。私たちが成すべきは、ただこの十字架の主イエスこそ、私たちの真の王であることを信じることだけです。

ティベリアス湖の光景

ヨハネ福音書の最後の場面が、今日と同じティベリアス湖であることは、凄く深い意味があると思います。もう時間がないので手短に語りますが、弟子たちはティベリアス湖で魚の漁をしている。最初は上手く魚が獲れないのだけれど、そこに復活したイエス様が、現れて「舟の右側に網を打ちなさい」と命ぜられるのです。すると、百五十三匹の魚が網一杯に入った、と記されています。これもひとつのしるしです。ある人は、当時知られていた魚の種類が百五十三種類であったのではないかと推測しています。だから、この百五十三匹の魚とは全世界の人々の象徴ではないかと推測する。私もそう思う。私は心が熱くなりました。
ティベリアス湖とは当時のローマ皇帝の世界、ローマ帝国であり、当時はそれが全世界でした。その世界の中で、イエス様の弟子たち、つまり、教会はイエス様に励まされ、教えられながら漁をしているのです。すべての魚、すべての人間を救いに入れるためです。世界中の罪人、「いったい誰がこの惨めな私を救ってくれるのか」と、心の奥底で叫んでいる罪人が一人残らず救われていくのです。
この漁の後で、イエス様は弟子たちにパンを与えてくださいました。六章と同じく、二一章にもパンと魚が出てきます。ティベリアス湖で、イエス様の弟子たち、教会は今も人々を救い上げる漁をしており、そして、イエス様が与えてくださる永遠の命に至るパンを分かち合っている。それが教会の礼拝です。ティベリアス湖の漁と食事の光景は、今ここで捧げている礼拝の光景なのです。アウグストゥスやティベリアスが支配していたローマ帝国はとっくのとうに滅びてしまいました。でも、イエス様が王である教会は今も世界中で生きており、今もイエス様を王として崇め、讃美しています。そして、伝道を続けています。
私たちの救いのために十字架に掛かって死んでくださった王、この方こそ、今も生きて、信じる者たちを罪の法則から絶えず新たに救い出し、永遠の神の御国の住民として永遠に生かしてくださるお方です。私たちが見るべきは、そして、「見よ」と言うべきは、ただこのお方だけです。私たちは、そのように信仰と証しに生きる時に、いや生かされる時に、惨めな自分が救われたことを証し出来るのだし、その私たちがまたイエス様が私たちの王として今も生きておられることのしるしとなることが出来るのです。そのしるしを見て、この礼拝に導かれ、この礼拝の中で十字架のイエス様を見、復活のイエス様を見て、この方こそ、真の王であると信じる人々が出てくるのです。そのようにして、神の御業は今も成し遂げられているのです。イエス・キリストと父なる神は、まことに褒め称えられるべきお方です。
ヨハネ説教目次へ
礼拝案内へ