「わたしだ。恐れることはない。」

及川 信

ヨハネによる福音書 6章16節〜21節

 

夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。



イエス様との出会い方

ヨハネ福音書は、そのすべてを通して、「イエス様とは誰であるか」を証言しているものです。そして、このヨハネ福音書の背景にあるのは旧約聖書であり、当時のユダヤ教です。今日の箇所を正しく理解するためには、旧約聖書の何箇所も開く必要がありますし、ヨハネ独特の言葉遣いを理解するために、ヨハネ福音書もあちこち開かないと分かりません。そのように聖書の世界をあちこち旅をしつつ行き詰まっていく。迷っていく。いくら捜し求めても、イエス様の姿が見えてこない。でも、ある時、イエス様の方が、私たちを捜し求めて、近づいてきて、見つけてくださる。そのようにして、イエス様が分かる。理解させられる。その時、私たちは信仰と讃美、服従と前進へと促されるのだと思います。

前後の文脈から見えること

 今日の箇所は、イエス様が五つのパンと二匹の魚を男だけで五千人に分け与えたという「しるし」と、そのパンとは何であるかを説き明かすイエス様の説教の間に置かれています。二二節以降には再び群衆が登場しますが、今日の箇所には多分十二人(六章七〇節)の弟子とイエス様だけが登場しています。ここで起こっていることは何であり、この箇所のメッセージは何なのか?それが問題です。
「イエス様は五つのパンを大群衆に分け与えるという奇跡を起こすことが出来るだけじゃなくて、水の上だって歩くという奇跡だって起こすことがお出来になるんだ。この方を信じて、ついていけば、私たちの人生にもきっと素晴らしい奇跡が起こる。たとえ飢え渇くような状況に陥っても、暴風の中に小舟が漂っているという絶体絶命な状況に陥っても、きっと救い出してくださるんだ。」
しばしば、こういう感じのメッセージを読んだり、聴いたりすることがあります。でも、そうなんでしょうか?ここには、そういうことが語られているのか?私は違うと思います。ここで語られていることを、このように受け取ることは、パンを食べた後の群衆の態度と同じなのではないかと思います。彼らは、パンを食べた後、「イエス様こそ、あのモーセのような預言者、イスラエルをエジプトの奴隷状態から救い出した救済者、王のような預言者だ」と考えて、イエス様を王に祭り上げようとしました。しかし、イエス様は、その群衆の思いを知って、「ひとりで山に退かれた」のです。つまり、パンのしるしに対する彼らの受け止め方を拒絶されたのです。イエス様は、奇跡的な方法でパンを与えるから王なのではないし、水の上を歩くという奇跡を行うことが出来るから神様なのでもないのです。それでは、なにか?
今、モーセという名前を出しました。実は、五章の終わりからモーセの名前が出始めており、六章の四節には「ユダヤ人の祭りである過越祭が近づいていた」とある。この過越祭の起源は、紀元前一三〇〇年頃に、神がモーセを用いて、イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から救い出す前の晩に遡ります。その夜、イスラエルの民は神様の命令に従って、小羊の血をそれぞれの家の鴨居に塗り、その小羊の肉を食べました。そのことが神の民の徴、罪を贖われた救いの徴となったのです。それ以外のエジプトの家は、神様に逆らい、悔い改めることをしないエジプト王(ファラオ)の罪に対する裁き、初子の死という裁きを受けることになりました。ここに生と死、祝福と呪いという決定的な分離が起こり、イスラエルは祝福の生へと招かれ、その小羊の血を鴨居に塗り、その肉を食べることで、神様の招きに応えたのです。この救いの出来事を決して忘れない。そして、絶えず新たに神の招きに応え、救いに与かる。それが彼らイスラエルの末裔であるユダヤ人が、過越祭を守ることの意味です。主イエスの時代、ユダヤ人はローマ帝国の支配下にいたのですが、祭りを守る度に、神から救済者が派遣され、そのメシアがローマの支配から脱却させユダヤ人の王国を建設してくれることを待ち望んだのです。
 主イエスが、ガリラヤ湖の畔で五千人にパンを分け与えた姿は、エジプト脱出後の荒野放浪時代にモーセの祈りによって天からマンナが降ってきたことを思い起こさせる出来事でした。その出来事を体験した人々は、過越祭を迎える時期の高揚感の中で、イエス様こそ待ち望んでいたモーセのような救済者、王であると確信し、祭り上げようとした。しかし、イエス様は、その群衆が行動を起こす前に山に身を隠された。それが今日の箇所の直前の状況です。本文に入ります。

神と出会う時の恐れ

夕方になったので、弟子たちは湖畔へ下りて行った。そして、舟に乗り、湖の向こう岸のカファルナウムに行こうとした。既に暗くなっていたが、イエスはまだ彼らのところには来ておられなかった。強い風が吹いて、湖は荒れ始めた。二十五ないし三十スタディオンばかり漕ぎ出したころ、イエスが湖の上を歩いて舟に近づいて来られるのを見て、彼らは恐れた。イエスは言われた。「わたしだ。恐れることはない。」  イエス様が暴風吹きすさび波逆巻く湖の上を歩いて来るという出来事は、マルコ福音書にもマタイ福音書にもパンの奇跡と並んで出てきます。マルコやマタイ福音書の方では、弟子たちが嵐を恐れている姿や、イエス様が嵐や波を静める姿が描かれ、また弟子たちの不信仰や無理解が強調されています。でも、ヨハネ福音書ではそういう描写はなく、極めてシンプルな形になっています。劇的な要素はむしろ削り取られている。奇跡伝承というものは、一時的に時代が下れば下るほど尾ひれがついて誇張されて伝わっていくものです。しかし、最も遅い時代に書かれたヨハネ福音書のほうが、むしろシンプルになっている。それは一つのこと、イエス様は誰であるかという問題に集中しているからです。

「わたしだ。恐れることはない。」

 すべては、この言葉のためにあります。ヨハネ福音書においては、弟子たちは嵐の故に自分たちの舟が転覆してしまうことを恐れているのでもないし、自分たちに近づいてくる人影を幽霊と見間違えて恐れているのでもありません。湖の上を歩いて自分たちの方に「近づいて来られる」方がイエス様であることを「見て」、「恐れた」のです。それはどういうことか?
 この「恐れる」という言葉には、「恐怖」と同時に「畏怖」という意味があります。神様を前にした時の人間が抱く根源的感覚は恐怖でもあり畏怖です。私たちは誰でも、自分で意識していようがいまいが罪人です。その罪人にとって最も恐ろしい存在は、聖なる神様であるのは当然のことです。罪に汚れた人間は、聖なる神の光に照らされるときに、己の汚れを嫌と言うほど知らされますし、その栄光の輝きを前に顔を上げ得ません。神を見た者は死ぬ。それが旧約聖書の常識、旧約聖書における信仰だし、そういう信仰がない人間も、実際に神に出会う瞬間が与えられる時には、ここで弟子たちが感じた恐れを感じるほかにありません。そんなことはあり得ない!と言える人は、まだそういう神様との出会いの経験がないというだけのことです。

わたしだ エゴ エイミ

 「わたしだ」は、ギリシャ語ではエゴ エイミであり、英語で言えばアイ アムです。この福音書では、この後、「わたしは命のパンである」とか、「わたしは道であり真理であり命である」とか「わたしは良い羊飼いである」とか、アイ アムの後に続く言葉が沢山出てきます。すべてイエス様が誰であるか、どういうお方であるかをご自分で告げる言葉です。それらの言葉の根源に、アイ アムの後に何もつかない「わたしである」という言葉があるのです。
 この言葉の背景に旧約聖書があることを言うまでもありません。聖書に親しんでいる方が、すぐに思い起こすのは、神様が初めてモーセに出会った場面だと思います。そこでモーセが神様に名前を尋ねます。神様は、こうお答えになりました。

神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」

 この「わたしはある」が、「わたしである」と同じです。エゴ エイミです。イエス様は、夜の闇の中で荒れ狂う湖の上を弟子たちのところまで歩いてきて、そして弟子に向かってエゴ エイミと仰っている。それはイエス様自身による神宣言です。私は神だ、あのモーセに現れ、イスラエルを神の民として誕生させたあの神だ、という宣言がここにあるのです。
この「わたしはある」という言葉は、元々「存在している」「生きている」という意味の言葉ですから、ありとあるすべての存在、生きとし生けるすべての存在の根源としての神を現します。つまり、天地を造られた主です。
 創世記の書き出しは、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」というものですが、最後の言葉は、「暴風が水の上を吹きすさんでいた」とも訳される言葉です。こういう混沌、闇、荒れ狂う海(原始の海)が支配している世界に向かって、神様が「光あれ」という言葉を投げかけることから世界の秩序が造り出されていき、さらにすべての生物が造り出されていく。それが、創世記の語り出しです。
この天地の造り主なる神が、モーセに「エゴ エイミ」「わたしはある」「わたしである」と現れた神様なのです。
ヨハネ福音書の書き出しは、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」というものであり、この「言」とは、後で明らかになるように、神の独り子である神です。ひとたびこの地上に肉体をもって現れたイエス・キリストのことです。そのキリストは、実は創造の最初から神と共にあり、神であり、万物はこの言なるキリストによって造られ、存在させられているのだ。だから、この方こそ混沌の闇の中に輝いている命の光である、と証言しているのです。
ヨハネ福音書の書き出しが創世記の書き出しを意識したものであることは明らかです。そして、「暗闇が光を理解しない」とは、「暗闇は光に勝利できない」とも訳し得る言葉であり、創世記と同じように、闇に対する命の光の勝利が高らかに告げられているのです。
ですから、イエス様が暗闇に包まれ、暴風吹きすさび、波逆巻く湖の上に立って弟子たちに「エゴ エイミ」と告げたということは、「死の闇の中に命の光をもたらす天地創造の神こそ、実は私なのだ」と宣言されたということです。

肉(人)となった神

しかし、この宣言は、明らかに旧約聖書のそれとは異なる側面を持っています。ヨハネ福音書一章一四節や一八節には、こういう言葉があります。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。」
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」


天地をお造りになった神、モーセに現れた神、荒野でマンナを与え、道をふさぐ海を真二つに分けて、海の中に道を作って下さった神は、肉を持っていません。肉体をもって人の目に見える形で生きておられる神ではないのです。しかし、この時のイエス様は、弟子たちの目に見える形で、つまり肉の姿をもって、「わたしである」と宣言しておられる。これが旧約聖書における神と新約聖書における神との決定的な違いです。同じ神様なのだけれど、この時だけは独り子なる神は肉となり、つまり、人間となって、この世に宿られました。そして、父はこの子を通してご自身を現されたのです。ですから、子のなすこと、語ることはすべて父のなすことであり、語ることなのです。そういう意味で、神の独り子であるイエス・キリストは神の体現者、「わたしである」と言える唯一のお方なのです。
しかし、その独り子なる神がなぜ肉を持つ必要があったのか、何故、肉をもって人間の間に宿る必要があるのか、あったのか。何故、そのようにして、私たち人間のところに「近づいて来」なければならなかったのか。この問題は、これからも何度も語ることになるのですけれど、そのことが今日の最大の問題なのです。

夕方 暗闇

今日の箇所に出てくる言葉をそれぞれ調べていくと、いくつも興味深いことが分かってきます。今日は、二つの言葉に限ります。それは「夕方」という言葉と、「暗くなっていた」という言葉です。「夕方」も「暗い」という言葉も、実は主イエスの復活の場面で出てきます。特に「夕方」の方は、六章一六節と二〇章一九節にだけ出てくる言葉なのです。
最初に「暗い」という言葉の方を見ておきたいと思います。この言葉はスコティアという言葉ですけれど、他の箇所では非常に神学的な意味で「暗闇」と訳されています。「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった(勝利できなかった)」というときの「暗闇」です。
大半は、主イエスご自身の言葉の中で出てくるのですが、八章一二節には、こうあります。

イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

 そして、この言葉の少し先で、主イエスはこう仰っています。

「あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

 主イエスに「従う者」とは「信じる者」と同じことです。主イエスという光、この世の暗闇の中に輝く光を信じる者は、命の光を持って生きることが出来る。しかし、信じない者はこの世の罪の内に死ぬことになる。暗闇に呑み込まれてしまう。そう仰るのです。
「わたしはある」という神が人間に出会う時は、いつもその神を信じるか信じないかが問われるし、その信じるか信じないかが、光と闇、生と死を分けることになるのです。だから、神との出会いは恐ろしいことなのです。
 しかし、イエス様がここで、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と仰るとき、それはある種の必然として死ぬ者は勝手に死ねと、冷徹に言い放っているのかと言えば、そうではありません。
 「わたしはある」エゴ エイミと言いつつご自身を現される神様は、何のために人間と出会おうとされるのかと言えば、単に信仰と不信仰を峻別し、不信仰の者を死に渡すためではないのです。
その点については、イザヤ書四三章二五節の言葉を読みたいと思います。神様が選んだイスラエルの民が、神様を敬わず、背きの罪を犯して、その罪を指摘し、悔い改めを求めても、悔い改めることもしないことに嘆き、また怒りを発せられます。しかし、その直後に主はこう叫ばれるのです。

「わたし、このわたしは、わたし自身のために/あなたの背きの罪をぬぐい/あなたの罪を思い出さないことにする。」

 ここで神様は「わたしだ、わたしだ」「エゴ エイミ エゴ エイミ」と絶叫しておられるのです。「あなたの背きの罪をぬぐう、赦す神は私だ。私をおいて他にない。」そう絶叫しておられるのです。
 信じる者は生きる。信じない者は死ぬ。罪を悔い改めない者は死ぬ。それは宿命だ。自業自得だ。必然だというのではなく、私を信じない者の罪、背く者の罪を私が、私自身のために赦す。それが私だ。エゴ エイミの神、「わたしはある」という神様は、こう叫ばれた。これは本当に驚くべきことです。
 そして、その叫びの延長線上に、主イエスは肉をとられた。人となられた。そして、その主イエスが「わたしはある」と宣言され、私を信じる者は命の光を持つと仰った。この「わたし」とはどういう「わたし」なのか。
 スコティアという言葉が、「暗い」という翻訳で出てくるのは、先ほども言いましたように、今日の湖の場面と主イエスの復活の場面だけです。そこには、こうあります。
「週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。」
 湖の場面では夕方、既に暗くなっていたのですが、こちらでは早朝、まだ暗いうちの出来事です。その暗闇の中で、主イエスが十字架の死から復活しているという出来事が明らかになっていきます。
 そして、「夕方」という言葉が、もう一度出てくるのは、主イエスが復活された週の初めの日の「夕方」の出来事を告げる場面です。

「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、『あなたがたに平和があるように』と言われた。そう言って、手とわき腹をお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。」

 夕方の暗闇の中、そして嵐の湖の波に揺られて、どうにもならない弟子たちに「近づいて来て」、「わたしだ」「わたしはある」と出会って下さったイエス様は、週の初めの日の明け方、まだ闇が覆っている時に真っ暗な墓の中で復活をし、その日の夕方、戸も窓も締め切って罪と死の闇の中に包まれている弟子たちにその姿を現して、「平和があるように」と語りかけてくださいました。そのイエス様の姿を見た弟子たちは、湖の時とは違って、「恐れた」のではなく、「喜んだ」とあります。

神と出会う時の喜び

 何故でしょうか?自分たちが裏切って見殺しにしてしまったお方が甦り、その裏切りの罪の象徴とでも言うべき掌の釘跡、槍で突き刺されたわき腹の生々しい傷跡、肉体に刻み付けられたその傷跡を見せたのに、弟子たちは復讐されるのではないかという恐怖や、罪の悔恨ではなく、それとは正反対の喜びを感じた。それは、イザヤ書にあったあの神、「わたしだ、わたしだ」と叫びつつ、信じない者の背きの罪をぬぐい、赦してくださる神様、罪の値である死を滅ぼし、死の闇の中に命の光をもたらしてくださる神様が、今、自分たちのところに来てくださったことを信じることが出来たからです。
世の荒波にもまれ、主イエスへの信仰を捨て、まさに罪の闇の中に沈没してしまった自分たち、肉体はまだ生きていても、罪の支配の中に死んでしまったこの自分たちの所に、十字架の死によって罪を赦し、復活によって新しい命を創造し、闇の中にあっても決して消えることのない命の光を与えてくださる独り子なる神が来てくださったことを、彼らは信じることが出来た。その喜びが、彼らを満たしたのです。その時、主イエスは、彼らに息を吹きかけ、「聖霊を受けなさい」と言いつつ、罪の赦しの福音を告げる者として、彼らを世に派遣されたのです。この独り子なる神は、信じる者を愛し、彼らのために死ぬ神ではなく、信じない者を愛し、その罪を赦し、信じる者へと造り替えて下さる神なのです。

主イエスを迎え入れる 聖霊を受ける

 六章において注目すべき描写は、最後に残されています。

「そこで、彼らはイエスを舟に迎え入れようとした。すると間もなく、舟は目指す地に着いた。」

 イエスを舟に「迎え入れる」。これは聖霊を「受ける」と同じ言葉です。「すると間もなく舟は目指す地に着いた。」風と波がおさまったかどうかは問題ではないのです。聖霊において生きておられるイエス様を受け容れるとき、イエス様の弟子たちは、つまり、私たちはどんな条件の中であっても目指す所に到達することが出来ます。私たちが目指す所、それはどこで、どのようにして到達できるのでしょうか。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

 この時、信じることが出来なかったトマスが、福音書本文の最後に、主イエスに向かって「わたしの主、わたしの神よ」と告白しています。
 復活して生きておられる主イエスを迎え入れることが出来たのです。信じることが出来たのです。そして、主イエスの最後の言葉は、「見ないのに信じる人は、幸いである」というものです。これは、最早肉眼で主イエスを見ることのない、私たちに向けての言葉です。
 私たちは聖霊において生きる主イエスを迎え入れるのです。舟は、ノアの箱舟以来、しばしば教会の比喩として登場します。その舟に聖霊において生きておられる主イエスを迎え入れる。「わたしはある」と宣言してくださる主イエスを迎え入れる。「わたしだ、わたしだ、信じない者たちの罪を赦すのは!」と叫びつつ、十字架に掛かって死んでくださった主イエスを迎え入れる。ただその時にのみ、私たちは目指すべき所、約束の地、天の父の住まいに辿り着くことが出来るのです。
 主イエスは、パンを増やすことが出来るから救い主なのでもないし、水の上を歩けるから神なのでもありません。この方についていけば、飢えることも渇くこともなく、絶体絶命のピンチの時も必ずその状況から脱出させてくださることを信じることが、私たちの信仰ではありません。主イエスは、ご自身の体をあの十字架の上に捧げ、復活をし、今も聖霊において私たちを導く、道であり、真理であり、命であることにおいてエゴ エイミであり、今も聖霊において私たちに近づき、語りかけてくださることにおいてエゴ エイミなのです。その「わたしだ」という神が、今日も、私たちの罪を赦し、新しく生かすために、「わたしを信じなさい」と語りかけつつ、私たちの所に来てくださっています。私たちは「恐れ」と共に、「喜び」をもって、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白し、主イエスを迎え入れたいと願います。そして、共々に主を証しし、罪の赦しの福音を宣べ伝えつつ、天の御国を目指して前進していきたいと思います。
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