「何のために働くのか」

及川 信

ヨハネによる福音書 6章22節〜33節

 

その翌日、湖の向こう岸に残っていた群衆は、そこには小舟が一そうしかなかったこと、また、イエスは弟子たちと一緒に舟に乗り込まれず、弟子たちだけが出かけたことに気づいた。ところが、ほかの小舟が数そうティベリアスから、主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所へ近づいて来た。群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」(二二節〜二九節)



今に生き、語りかけてくるイエス様

 今日は、焦点を二六節から二九節に絞ります。来週は今日の箇所を含めて三十五節あたりまで進めると思います。
 ここで、主イエスは、前の日のパンの奇跡を体験して、その興奮冷めやらぬまま主イエスを追い求めて来た人々に対して、こう仰っています。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」

 こういう主イエスの言葉を、私たちはどの立場で読み、あるいは聴くのか?この言葉を、二千年前に肉体をもって生きておられた主イエスが、その主イエスの目の前にいるユダヤ人の群集に向けての言葉だと受け取るのなら、それは遠い昔のことであり、私たちにとっては他人事です。しかし、ヨハネ福音書で語っているイエス様というのは、過去に生きていたイエス様の姿を一方で取りながら、他方では、この福音書が書かれた時点、ヨハネが属する教会において生きておられるイエス様、つまり聖霊において生き、語りかけ、その御業をなしているイエス様なのです。つまり、教会の中に生き、そして教会を通して、世に救いをもたらすイエス様の言葉を、私たちは今日も読んでいる、聴いているということになります。イエス様は今も、聖書を通して語っているし、今日の説教を通しても語りかけてきます。イエス様は今日も生きて私たちに語りかけ、私たちの信仰を新たにし、私たちを生かしてくださっている。それも永遠の命に生かしてくださっている。その恵みの事実を、今日も新たに確認し、新たに感謝と讃美を捧げたいと願っています。

  二つの食べ物

「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」

 不思議な言葉です。誰が聞いたって意味は分かりません。当時の人々も、現代の私たちも、ここでイエス様が何を仰っているのか、すぐには分かりません。
 ここに「朽ちる食べ物」とあります。「朽ちる」は、アポリューミという言葉です。この言葉は、他の箇所では「滅びる」「無駄になる」「失う」と訳される、実に含蓄の深い言葉です。つまり、単に食物が腐るということ、あるいは放っておけばいつかは腐ってしまうパンとか魚を意味しているだけではありません。そういう食物を一方で意味しつつ、その食物を生きる糧として求め、食べて生きる人間、またその人生そのものをも、この言葉は象徴しているのです。
 イエス様の言葉を聴いても、その意味が分からない人々は、当然のことながら、質問します。

「神の業を行うためには、何をしたらよいのでしょうか。」

 永遠の命に至る食べ物のために働くとは、つまり、神の業を行うということなのだろう。そうであるとすれば、その神の業を行うために、何をしたらよいのか?彼らは、そう尋ねたのです。これは当然の問いです。
 この問題を考える前に、「いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食物」と訳されている言葉について少し触れておきます。この言葉は、「永遠の命に留まり(繋がる)続ける食物」とも訳される言葉です。この「留まる」とか「繋がる」を意味する「メノー」という大事な言葉がここに出てきます。この言葉は、有名なイエス様の言葉「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」に出て来る「繋がる」です。 ぶどうの木と枝とは、一体の関係です。一つの命に結ばれているのです。だから枝は生きているのだし、実を結ぶことが出来るのです。枝は何もしない。でも、命の源である木に繋がっていることだけで大きな実を結ぶことになるのです。木の幹から命を育む栄養がくるからです。そういうことを暗示する言葉を、主イエスはここでお使いになっています。

複数の業 単数の業

 しかし、そんなことは、聞いている人間はもちろん、また読んでいる私たちも、その時は分からない。だから、「神の業を行うためには何をしたらよいでしょうか」と尋ねざるを得ないのですが、実はこれが愚問なのです。
 日本語には複数形とか男性形とかの区別がないので文字を読んだだけでは分からないのですけれど、二八節の「神の業」、つまり当時のユダヤ人の群衆が問うている「神の業」は複数形で書かれています。つまり、神様に喜んでいただける業は沢山あるという考えが背景にあるのです。当時のユダヤ人の信仰で言えば、生活の隅々まで規定をしていた律法の数々を行うことこそ、神の業を行うことであったのです。私たちだって同じでしょう。神様は、いくつもの善い業を喜んでくださるに違いない。そう考えていくつもの善行を積み重ねる。そのようにして天国へ登っていける。キリスト教も、そういう教えを宣べ伝えていたこともあったし、うっかりすると、今でもそうである場合も少なくないのかもしれません。
 しかし、イエス様は、ここで正反対のこと、あるいは全く異なる次元の返答をしておられます。

「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」

 ユダヤ人に限らず、私たち人間は目に見えることを重視します。最近流行の言葉で言えば、成果主義は分かりやすいのです。多くの善い業をすれば神様から評価してもらえる。そう思っている場合が多い。でも、神様が願っていることは、愛だけ。全身全霊を傾けた愛だけを求めている。子を愛する親が求めているのは、子の愛だけです。世間的にどうであれ、愛し合って生きていくことが出来るか否かが決定的な問題でしょう。世間的には出世した。でも親子関係はすっかり疎遠になった、むしろ崩壊したというのでは、産んだ意味も生まれた意味も見出すことは難しいのではないでしょうか。人間として生まれた、命を与えられたことの意味は、創造主なる神様に愛され、その神様を愛することに尽きるのです。今日の箇所の言葉で言えば、神がお遣わしになった者を信じること。それが神様を愛することだし、実は、それが神の業、永遠の命に至る、その命に留まるための唯一の業なのです。

信じるとは

 ここで「信じる」とは、対象を客観的に見て信じるということではなく、夫婦の愛のように、互いに一つの交わりに入るような意味で信じるということです。ギリシャ語では「信じる」という言葉の後に「エイス」(英語で言えばinto)という前置詞がついています。枝が木と離れていれば、枝と木は別々の存在ですが、木に繋がった時には、枝でありつつ最早木とは切り離すことが出来ない木の一部になります。枝は、木の幹の中に食い込んでいる。入っている。だから、木によって命を与えられ、その命の実を結んでいくことが出来るのです。善い行いという実だって、木に繋がっているから初めて結ぶことが出来るのです。善い行いをしたから木に繋がっているのではない。その順序は決して逆ではないのです。
それと同じように、イエス・キリストを信じるキリスト者とは、その信仰においてキリストと結ばれ、キリストの一部になる。そのキリストの生きた枝として留まり続けること。それが私たちの信仰生活なのだし、その信仰生活を続けさせてくださるのは、聖霊です。そして、『日本基督教団信仰告白』の言葉で言えば、その「聖霊は我らを潔めて義の果を結ばしめ、その御業を成就したもう」のです。つまり、私たちに愛の業を与え、終わりの日にはキリストと同じ復活を与えてくださるのです。そのことは、午後の墓前礼拝で語ります。

恵み

 先ほど読んだ洗礼式の「式文」の中で、「神」とか「キリスト」を除いて、最も多く出て来る言葉は「恵み」という言葉です。
「天の父、み恵みによって、この姉妹を今まで守り導き、ここにあなたの子として生涯を送る志を起こさせて下さいましたことを感謝します。」
「恵みが増し加わるために、罪に留まるべきであろうか。」
「神は恵みをもて我らを選び、ただキリストを信じる信仰により、我らを義としたまふ。」
「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり。」
「恵みをもって姉妹を強め、信仰より信仰に進ませ、御国の世嗣としてとこしえの命に至らせてください。」
「恵み深い父、聖霊によってこの姉妹を新しく生まれさせ、これを神の子とし、キリストの教会の生きた枝としてくださったことを感謝いたします。」
 洗礼式には最初から最後まで、キリストを通して現され、与えられ続けている「恵み」に対する讃美と感謝が溢れているのです。信仰を与えてくださるのも神の恵み、教会の生きた枝として下さるのも神の恵み、信仰から信仰へと進ませ、御国の世嗣、とこしえの命(永遠の命)へ至らせてくださる、つまり、留まらせてくださるのも聖霊を通して与えられる恵みです。どうぞその恵みを与え続け、導いてください。そういう祈りもここには満ち溢れている。
 そして、そのことが分かった上で、二七節を読むと、そこで主イエスが何を仰っているかが、初めて分かるように思います。

「永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」

「永遠の命に至る食べ物のために働く」
こと、それが、イエス様の「与える食べ物なのだ」と、イエス様は仰っている。普通は働いて食べ物を得るわけですが、ここでは「働くこと」「神の業をすること」が「食べ物」、それもイエス様が「与える食べ物だ」と、イエス様は仰る。そして、その神の業(複数形)を行うとは、どういうことかという質問に、「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業(単数形)である」と仰る。つまり、「神に遣わされた私を信じること。それが神の業であり、それこそ永遠の命に至る食べ物のために働くことであり、その働き、その業は私が与えるものなのだ」と仰っているのです。簡単に言えば、イエス様を信じる信仰は、イエス様が与えるものだということです。私たちはこの与えられた信仰によってイエス・キリストと繋がり、そして繋がり続けることを通して永遠の命に生かされ四九節の言葉で言えば、「終わりの日の復活」という実を結ぶに至るのです。その終わりの日の復活に至らせる信仰も、実は、イエス様ご自身が与えてくださるものなのです。だから恵みなのです。
 宗教改革者のルターという人は、しばしば自分を「神の乞食」にたとえたそうです。乞食というのは、たとえば空き缶とか古新聞を集めて少しでも金を稼いで生きていこうとする人、あるいはそのように生きていける人ではありません。路上に座って、道行く人の憐れみにすがる、「お恵みを下さい」と言って、手を差し出している、あるいは土下座している人のことです。今日一日の生きる糧は、その恵みによって与えられたものだけ。その糧で生きる。ただそれだけで生きる。それが乞食です。
 神の乞食とは、神様が私たちの救いのために与えてくださったイエス様を信じる信仰だけで、今日一日を生きる人間のことです。そして、その信仰はイエス様が与えてくださったのです。私たちのために十字架にかかって死んでくださった救い主も、その救い主を信じる信仰も与えられたもの、恵みとして与えられたものなのです。何もかも神様から、イエス様から与えられたもの、自分で努力して獲得したものなどないのです。だから恵み、だから感謝するほかにないし、だから讃美するほかにないのです。そして、これからもその恵みの中に生かしてくださいと祈るほかにない。

恵みによって与えられる信仰

 中渋谷教会「会報」の四月号には、受難節、復活節に信仰告白や受洗されたお二人の方の証しが掲載されています。その中でAさんは、こう書いています。

「わたしは自分で勝手におかしてきた大きな間違いに目を開かれました。また信仰は私の中の事柄と思って独りよがりに思っていたのですが、教会というイエス・キリストの大きな家族の中でなければ生きていくことが出来ないと分かったのです。」

 間違いに目を開かせたのもイエス様だし、信仰は教会という家族の中でしか生きていくことが出来ないと分からせてくださったのも、今に生きるイエス様です。
また、Tさんは、こう証しをしています。人生のいくつもの苦難を経験した後でのことですが、

「わたしは再び両親に誘われ、この中渋谷教会を訪れました。そこでイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと復活により、私たちは希望が与えられていることを聞き、癒される思いがしました。私のように望みが持てない状況であっても希望が与えられていることを悲しみの中で聞きました。このことばは以前にも聞いていたに違いありません。でも、その時初めて聞くような衝撃と新鮮さで私の心に響きました。そして、イエス・キリストを信じて信仰の歩みをしてゆきたいと思うようになりました。」

   「時が満ちる」と言いますが、その「時」に、神様はTさんを再び教会に招き、そして、それまで塞がっていた耳を開いてくださいました。同じメッセージを聞いていても、それが聞こえる時と聞こえない時があります。聞こえる時を与えてくださったのはイエス様です。
 今日、洗礼を受けたYさんは、試問会で、こう証しをしました。

「小さい頃から聞いていたはずの、十字架による罪の赦しをずっと忘れていたのです。生まれ変わってから赦しを得るのではなく、赦されて生まれ変わることが出来るのだということを忘れていたのです。私はクリスチャンというのは、何か劇的な出来事があって、受洗するものだと訳もなく思っていました。思っていたのとは違うけれど、これが私と神様との出会いで、私が受洗を決意した理由です。」

 小さい頃から聞いていたことが何であったかを知らせてくださるのは、イエス様です。

献身は誰がしているのか

 私たちキリスト者は皆それぞれに、イエス様が信仰を与え続けてくださるという恵みの継続の中で生きているのです。
 先日、ある讃美集会に出かけたのですが、その集会の間中、今日の礼拝で語ることになる御言や歌う讃美歌のことがずっと心の中に浮かんでいました。そして、自分のこれまでの歩みを振り返り、また心の中で祈りつつ、分かったことがあります。
洗礼式でいつも歌うのは一九九番です。その四節にはこうあります。

「うまれかわりし よろこびは
なにになぞらえ たぐうべき
わが身もたまも みなささげ
御名をたたえて 日を過ごさん」


   ここには献身の誓いがあります。三十年前に私が洗礼を受けた時も、この歌を歌いました。
説教の後に歌うのは、三三八番です。

「主よ今ここに 誓いを立て
僕となりて  仕えまつる
世にある限り このこころを
つねにかわらず もたせたまえ」


讃美集会の間中、これらの讃美歌を思い起こしながら、自分が洗礼を受けた日から、今日までの現実を思い起こしていました。それはローマの信徒への手紙五章の最後の言葉の通りの現実です。

「罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ち溢れました。こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。」

 若くして受洗した私の場合は、洗礼を受けて以後の方がはるかに鮮明に罪を犯し、その罪を増し加える歩みをしてきました。でも、その私が今でもここに立っている。この礼拝堂にいる。毎週毎週、礼拝を与えられている。礼拝することが許されている。そして、御言を語っている。何故か。罪が増したところに、恵みがさらに満ち溢れたからです。主イエス・キリストが、罪を犯す私を激しく苦しみつつも尚赦して下さってきたからです。お見捨てになっていないからです。その愛を疑って、敢えて罪を犯し、反抗し、逃亡してきたのに、それでもイエス様は追いかけ続けてくださったし、また帰るのを待ち続けてくださった。私が離れても、イエス様が離れていないのです。私が拒絶していても、イエス様は、尚も受け容れてくださっている。イエス様は、私を愛して、私の中に入り、一体となって生きてくださっているのです。そして、今でも永遠の命に導いてくださっています。
一九九番や三三八番を歌うたびに、私たちは「わが身も魂もみなささげる」という献身の誓いをしているのだし、「終わりまで仕えまつらん」「しもべとなりて仕えまつる」と誓っています。でも、私たちは必ずその誓いを破るのです。悲しいかな、そうなのです。でも、洗礼式の時に、イエス様こそ誓ってくださっていたのだと分かりました。身も魂もみな十字架に捧げて私を愛し、終わりまで私を愛し、礼拝毎に僕のように私の前に跪いて、私の足の汚れを洗い清めてくださり続けているのはイエス様です。イエス様こそ、仕え続けてくださっているのです。今日、この礼拝堂にいる皆さんは、このイエス様の招きによって礼拝堂に入ってきているのだし、今、皆さんの足の汚れをイエス様が洗い清めてくださっているのです。そして、与え続けてくださっている。イエス様を信じる信仰を、罪の赦しという恵みを。
 洗礼を受けて、今ここに招かれている人々、電話で礼拝に参加している人々、時を同じくして家で祈りを捧げている人々、そのすべての人々は、今日も永遠の命に至る食べ物のために働いている人々です。イエス様が、与える食べ物を食べながら生きている人々です。なんと幸いなことでしょうか?この食べ物は朽ちません。滅びません。失われません。だから、私たちも朽ちない命を生きることが出来ます。私たちは滅びません。私たちは神の前から失われません。そして、この働きを続けることが出来る、この食べ物を食べ続けることが出来る、この信仰を生きるという唯一の業を継続できる。それもすべて恵みです。恵みによって与えられていることです。
 そのことを今日新たに確認し感謝し、そして心新たに、身も魂もささげて仕えまつり、終わりまで僕として仕えまつるという信仰と愛の告白を讃美と共に捧げたいと思います。そして、まだ信仰を与えられていない方たちが、主によって信仰を与えられ、身も魂も捧げて愛してくださる主イエスを愛する生活を始めることが出来ますように祈りたいと思います。
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