「わたしが命のパンである」
そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」ペンテコステ礼拝 今日はペンテコステ礼拝です。主イエスが復活されて五十日目(ペンテコステの意味)に聖霊が天から降り、それまで沈黙していた弟子たちが、十字架に磔にされて殺されたイエス様が三日目に甦り、罪の赦しと新しい命が与えられたという福音を説教し、多くの人々がその説教を通して主イエス・キリストを信じ、教会が誕生したことを記念する礼拝です。 今、「聖霊が天から降る」と言いました。この「天から降る」という言葉は、三三節から五八節までに七回も出てくる重要な言葉です。六章においては、最初に「神のパンは、天から降って来て、世に命を与える」と出てきますが、そのパンは即ちイエス様ご自身のことであると言明され、わたしが天から降ってきたのは、自分の意志を行うためではない」と言い換えられていきます。この「神のパン」「わたし」としてのイエス様、それは少なくともこの福音書が書かれた時代においては、肉体としては生きていない、聖霊として教会の中に生きており、そして教会を通して世の中に生きておられるイエス様です。イエス様は今、聖霊において生きておられ、その生けるキリストの体が教会です。私たちキリスト者一人一人はその体の一部なのです。目とか鼻とか口として、体に加えていただいている。先週の言葉で言えば、イエス様を信じる信仰において一本の枝として木に繋がらせて頂いている。私たちは、ただそのことによって生きているキリスト者なのです。今日は、先週読み始めた二二節から三五節までにします。 何を求めて主イエスの許に来るのか 前日に、男だけで五千人の大群衆に五つのパンと二匹の魚を分け与えるというとんでもない御業をなさったイエス様を、群衆は捜し求めます。それは、もう一度、パンを腹一杯食べたいという即物的な願いを満たしたいのではなくて、こういう奇跡を行うことが出来る人間を自分たちユダヤ人の王として立てたいという欲求を満たすためだと思います。当時のユダヤ人はローマ帝国の皇帝ティベリアスの支配下に置かれており、宗教的、政治的自由は限定されていましたし、当然のことながら、重税を課されていました。そういう苦しい状況からの脱却が、一般民衆の願いであるのは当然です。 しかし、その当然の願いの中に大きな誤解があるのもまた当然です。二三節に、こうあります。 「主が感謝の祈りを唱えられた後に人々がパンを食べた場所。」 「主」という言葉自体、礼拝の対象としての主イエス・キリストを表す言葉ですけれど、「感謝の祈りを唱える」という言葉は、ギリシャ語ではユーカリステオーと言い、私たちが今日も感謝の内に守り祝う聖餐のことを「ユーカリスト」と言うのです。つまり、ヨハネ福音書は、前日の出来事を聖餐礼拝として捉えている。それも、罪人に罪の赦しを与えるため独り子なる神、主イエス・キリストがご自分の肉と血を分かち与える聖餐礼拝として捉えている。そのことは、先ほど読んでいただいた三四節に「飢えることがなく」だけでなく、飲み物を前提とした「渇くことがない」という言葉が出てくることによって明確になっていきますし、さらに五三節の「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」という主イエスの言葉において出来事の真相が明示されます。 人々は、そういう礼拝の場、つまり、自分たちの罪が赦され、新しい命を与えていただくための礼拝に来るはずなのです。しかし、彼らは全く違う目的でイエス様の所に来たのです。 群衆が求めているもの 彼らは既に対岸のカファルナウムに来ておられたイエス様を見つけ出すと、こう言いました。 「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか。」 ここには、明らかに彼らの不満の感情が表れています。ラビとは「先生」という意味ですが、宗教的な教師ですから、現代で言えば、牧師とか神父とか司祭とかいう意味でしょう。神の言を解釈し、人々に取り次ぐことが第一の使命の人間です。イエス様の弟子たちも、通常はイエス様のことをラビとか、「私の先生」という意味のラボニと呼んでいたようです。 しかし、弟子にしろ、弟子になる前から「先生、先生」と呼びたがる人は、意外に勝手なもので、その先生が自分の思い通りに動いてくれないと文句をいうものです。何故、ここにいてくれなかったのか?!何で、こんなことをするのか?!私たちが願っていることと違うじゃないか?!そういう不平不満を心に抱き、それを口にするものです。学校だろうが教会だろうが、人間社会とはそういうものです。勝手な思い込みで所詮「人」に過ぎない者を無闇に敬愛したり、尊敬したりするものではないと、私自身はつくづく思います。そういう敬愛とか尊敬は、えてしてその人自身の欲求や願望の反映に過ぎない場合が多いので、少しでも裏切られると、無用に傷つく。自分で勝手に尊敬し、自分で勝手に傷ついている。そういうことが、私たちの場合は、よくあります。 人間関係の中でそういうことを繰り返すのは、人間の愚かさと言って笑って受け容れることが出来ればよいかもしれません。でも、主イエスに対する身勝手な誤解を繰り返すとなると、それは単なる「愚かさ」ではなく、「愚かな罪」になるのではないでしょうか。群衆は、彼らが待ち望んでいた預言者、王、ラビのイメージにイエス様を当てはめようとしました。そして、そのイメージどおりに動くことを期待したのです。そして、その限りにおいて、主イエスを全面的に支持しようとしていました。しかし、主イエスは、彼らの身勝手な期待の中に収まる存在ではありません。その結果、どうなったかと言えば、弟子たちの多くが、「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」と言って、イエス様から離れ去って行ったのです。後に残されたのは十二弟子だけです。そして、その十二弟子の一人は、イエス様によって「悪魔だ」とさえ言われるのです。それが、大群衆が集まる場面から始まる六章の結末なのです。 主イエスは、この世の支配者のように人間の支持や賛同をお求めになりません。主イエスが天から降ってきたのは、この世の人々の意志や願望に従って生きるためではなく、お遣わしになった方、つまり父なる神様の御心を行うためなのです。しかし、この世の人間の願いと天の神の願い、それは表面的な次元においては真っ向から対立するのですが、しかし、実は、最も深い次元においては、合致するものでもあると思います。神様は私たちを救いたいと願い、私たちは救われたいと願っているからです。 二四節に、群衆は「イエスを捜し求めて来た」とあります。「捜し求める」(ゼーテオー)も「来る」(エルコマイ)も大事な言葉です。「捜し求める」は、メシア・救い主を捜し求めるという意味で使われる言葉だし、イエス様の所に「来る」ことは、イエス様を「信じる」ことと同じです。群衆はここで、主が感謝の祈りを唱えられた後にパンを分けてくださった場所にイエス様を捜し求め、そこにおられないと知ると、湖の対岸カファルナウム(それは五九節によれば「会堂」であったようですが)にまで来ている。何故か。彼らなりの救いを求めているからです。彼らの王を求めているのです。私たちは誰でも私たちを救ってくださる王、主と呼ぶべき方を心の奥底で求めています。意識していようといまいと、絶対的な存在を求め、救済者を求めているのです。しかし、その「救い」が何であるかについて思い違いをしている。そして、王とは誰で、何であるかを思い違いしているのです。神様の願いと私たちの願いは、その点で合致しない。そして、それ故に、私たちは心の奥底で求めている救いを手にすることが出来ないのです。 主イエスが与えようとするもの イエス様はおっしゃいます。 「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。」 ここで「パンを食べて満腹した」と記されている言葉は、動物が餌を食べて満腹する時にも使われる言葉です。ローマ皇帝の仕事は、パンと娯楽を大衆に与えることであり、それさえ与えていれば王位は安泰でした。それは今に至るまで変わることのない事実です。 しかし、イエス様は、そういうパンを与えるこの世の王ではありません。イエス様は、私たちに「永遠の命に至る食べ物」を与える王なのです。人々は、永遠の命に至る業は何かと問います。どんなことをすれば永遠の命を得ることが出来るのか、と。あるいは、いくつの業をすればよいのか、と。しかし、イエス様は「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である」とお答えになりました。彼らは、問います。 「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」 「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と問う人間は、信じるためには「何をしてくれるのか」と問う人間でもあるのです。つまり、行い、業によって評価を求めようとする人間は、神様もその行い、業で評価しようとするものです。「これだけのことをしました。だから私を救ってください」と言う人間は、「これだけのことをしてみせてくれれば、あなたを信じてあげる」と言うのです。 彼らの言葉の背後には、出エジプト記の荒野放浪時のマンナの奇跡があることは明らかです。食べ物も水もない荒野をイスラエルの民が約束の地を目指して行進する時、飢え渇いた群衆はモーセに向かって、「こんなことならエジプトで死んでいたほうがよかった・・」と言って詰め寄ります。その時、主なる神様がモーセにこう仰いました。 「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。」 これをマンナ(マナ)とイスラエルの民は呼びました。当時のユダヤ教においては、モーセが行ったことは来るべきメシアが皆行うと信じられていました。ですから、この時の群衆は、イエス様がその第二のモーセとしてのメシア・救い主である証拠、しるしを見せてくれと言っているのです。 しかし、ここでもイエス様は「はっきり言っておく」(アーメン、アーメン、レゴウ、ヒューミーン)と宣言しつつ、こう仰った。 「モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 これもまた不思議にして深い言葉です。前半で主イエスが仰っている一つのことは、「天からのパンの与え手はモーセではなく、父なる神だ」ということです。ですから、人々がモーセとイエス様を比較すること自体が誤解なのです。何故なら、イエス様自身が「天から降って来たパン」だからです。 ですから、この言葉は「モーセは天(・・)から(・・・・)の(・・)パン(・・・)を与えたわけではない」という意味にもなります。ここで旧約聖書の「天からのパン」と新約聖書の「天からのパン」の決定的な違いが明らかになってくるのです。旧約では、天からのパンは肉体が食べるパンです。もちろん、旧約においても「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出るひとつひとつの言葉によって生きる」という信仰が不可欠です。人間を、食べて排泄して生きる肉体的な存在とは見ていない。神様との愛と信頼の関係を持つことで初めて人は人として生きることが出来る存在として見ている。それは確実なことです。しかし、そうではあっても、この荒野放浪時代に与えられた「天からのパン」は肉体を養うパンです。しかし、イエス様自身が「天からのパン」であるとするならば、モーセが天からのパンを与えたはずはありません。 過去と現在 この言葉でもう一つ注目しておかなければならないのは、過去形と現在形の違いです。主イエスは「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」と仰っている。「お与えになる」も「降って来る」も「与えるものである」も皆、現在形です。しかし、モーセが天からのパンを与えた(とユダヤ人が考えている出来事)のは過去の出来事です。かつて起こった出来事です。ある意味では、もう二度と同じことは起きません。前日のパンの奇跡は、彼らがどう思っていようとも、それは過去の荒野における出来事の再現ではなく、全く新しい出来事なのであり、それは今も絶えず新しく起こり続けている出来事なのだ、と主イエスは仰っているのです。この時の群衆に仰っているだけでなく、今日ここに集まっている私たちに対して仰っているのです。 「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」 そう聞けば、誰だって、そのパンが欲しくなるのは当然です。彼らは叫びます。あの愛に飢え渇いていたサマリアの女が「主よ、その水を下さい」と叫んだように、彼らは叫びます。 「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください。」 イエス様は、こう言われます。 「わたしが命のパンである。私のもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 あなたはどこにいるのか 今日、皆様の週報ボックスに六月十七日の特別伝道礼拝のチラシが入っています。今年の説教題は、「あなたはどこにいるのか」です。でも、これは「今年も」と言うべきなのです。私は伝道委員長から、「そろそろ特別伝道礼拝の聖書の箇所と説教題を決めてください」と言われるのが毎年恐怖なのですが、今年もその恐怖の瞬間が来て、一週間ほど悶々と悩みました。そして、悩んだ結果、例によって苦し紛れというか、ヤケクソになって決めました。でも、決めた後、「これは既に特別伝道礼拝で語った主題なんじゃないか」と思い、粟野さんに尋ねたら「聴いたことない」と仰るし、事務机の引き出しに入っている過去二−三年の行事報告を見てもやっていないので、やっていないのかな?と思っていました。でも、先週出来上がった真っ赤な表紙の二〇〇六年度総会資料を見たら、去年の特伝の主題なのです。私の健忘症もここまで来たか?と愕然としましたが、語った本人も覚えていないし、聴いた方も恐らく内容は覚えていないし、毎回、語ることは違うのだし、「まあ、いいか」と今は思っています。特別伝道礼拝に関しては、今日、ボックスに入っている「会報」の巻頭言にも書いておきましたから、お読みください。 それはとにかくとして、私が何故、「あなたはどこにいるのか」という言葉に今年も心を動かされたかと言うと、やはり私が絶えず道に迷っている人間だからです。道に迷うとは、聖書的に言うと罪に陥るということです。そして、「あなたはどこにいるのか」とは、罪を犯したアダムに向けて神様が呼びかけた最初の言葉です。その時、彼らは葉っぱの陰に隠れていました。こういう感じ。罪を犯すと隠れたいし、犯した事実を隠したい。こういう感じはよく分かります。罪を犯すということ、それは私たち人間の根源的な現実であり、罪を犯すと隠れたい、隠したいと思う。それもまた私たち人間の根源的な感覚だと思います。その問題を、今年も考えたいと思いました。 また、四月から毎週月曜日の午前、青山学院の短大において授業をしていますけれど、その授業では創世記一章の天地創造物語を扱っています。混沌とした闇の現実の中に神様が光を創造し、光と闇が区別されながら、今も闇が存在していることは何を表しているか。また、「夕となり朝となる」とはどういうことか。難しい言葉で言えば、空間と時間の中で織り成されていく神様と人間のドラマについての授業なのですけれど、最近の映画とかテレビのニュースとかを題材にしつつ、それはもう必死になって語っています。病気の妹ばっかり可愛がる父親の愛を求めて、堕ちるところまで堕ちてしまう姉に関する映画の話とか、自分の子供を捨ててしまう若い親たちの事件や、自分の親を殺してしまう子供の事件についても、しばしば話題にします。何故、こういう痛ましい事件が起こるのか?そのことを起こしてしまう人間の心の奥底に存在する深い闇について語ります。その闇の中に光が輝く時はくるのか?真っ暗な夕闇の後に、本当に朝は来るのか?その光とは何か?朝が来るとはどういうことか?神様は、そういう現実をどう見ているのか?その闇の現実を放置している神はそれでも愛の神なのか?全能の神なのか?そういう問題を十八歳から十九歳の娘さんたちに語りかけながら、心の中で「『あなたはどこにいるのか』と神様があなたに問いかけているんだよ」と語りかけています。この神様の問いの前に立って欲しい、そして、耳を傾けて欲しい。応えて欲しい。そう思って語っています。気を抜けば、すぐに私語が蔓延する教室なのですけれど、真剣に耳を傾けてくれる学生さんたちも何人もいて、その授業で考えさせられたことを一生懸命に考えて、考えたことを毎回書いてくれます。今度、その一部を皆さんにも読んでいただき、その中の一人でも二人でも、伝道礼拝に導かれるように祈りを合わせて頂きたいと願っています。皆さんが、お誘いする方も知らせてください。共に祈りつつ備えましょう。 私たちの社会は、今、非常に深く病んでいる。それは誰もが認めることです。母の胸に抱かれて安心して育つべき乳児の死体遺棄事件は、五月だけで六件もあるそうです。もちろん、これは発見された乳児の遺体であって、発見されていない乳児の遺体がまだまだあるのでしょう。つまり、自分が産んだ子を捨てた親がまだまだいる。その多くはまだ十代とか二十代前半の女性であり、その夫、あるいはつき合っている男性です。彼らもまた、実はその親から捨てられているのでしょう。精神的には捨てられた子供らが、大人になりきれぬままに肉体だけは大人になり、満たされない愛を求め合って子供が出来てしまい、どうすることも出来ずに産み、そしてどうすることも出来ずに捨ててしまう。 皆、帰る所がないのです。身も心もボロボロなのに、愛に飢え渇いているのに、その愛を与えてくれる存在がいないのでさまよっている。自分自身を大切に出来ない、捨てているのです。そして、人の命も捨てる。 今朝の新聞に、三〇年前には、刑務所を出所した後に「帰る所がない」と言った人は九パーセントだったのに、今は四〇パーセントの人が帰る所がないと言っている、と載っていました。つまり、帰って来いと言ってくれる家族がない。家族はいても、「帰ってくるな」と言われているのです。だからまた犯罪を犯して刑務所に帰ってくる。そこの方が、安心で気楽に過ごせるからです。 私たちに帰るところはあるのか 今の世の中には、本当に深い闇があります。愛したい、愛されたい。深く癒されたい、癒したい。でも、それが出来ない。してもらえない。そういう飢え渇きが満ち満ちています。 「私のもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 二四節で、群衆はイエス様を捜し求めてカファルナウムにまで来たとあります。彼らは彼らとしての飢え渇きを満たしてもらうためにイエス様の所に来たのです。でも、彼らが見ているイエス様は、イエス様ではないのです。彼らが求めている救いがこの世のものだからです。物質的、肉体的なものだからです。彼らはまだ、自分が本当に何を求めているかを知らない。そのことを知るまで、彼らは食べては腹が減り、飲んでは咽喉が渇く食べ物と飲み物を求め続け、所詮は朽ち果てていく肉体を生かすほかにありません。でも、イエス様は、彼らを、そして私たちを愛してくださっているので、そういうものを与えることをなさらないのです。そういうものが、私たちの本当のニードではないからです。 私は、この箇所を読んでいて、ルカによる福音書に記されている放蕩息子と父の話が心に浮かんできました。あそこで弟息子は、父の家は自分の生きる場所ではないと感じて、父から貰える遺産をすべて金に換えて、家を出て行きました。世の巷にこそ、自分の命が輝く場所があると思ったからです。でも、そこにあったのは命の枯渇だけでした。世のすべての楽しみを味わった彼の心身はボロボロになっていきました。枯渇しきったのです。その時、彼に起こったことを聖書はこう告げています。 「彼は我に返った。」 そして、彼は父に対して、「わたしは天の父に対しても、またお父さんに対しても、罪を犯しました。もう、息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と言う決心をします。 そして、 「彼はそこを立ち、父親の許に行った。」 ここで息子が「我に返った」とは、「自分自身のところに来た」と書いてあります。そして、「父親の許に行った」とは、「彼自身の父親の許に来た」とも訳せます。「我に返る」とは「本来の自分に帰る」ことであり、それは「自分の父親の許に帰る」ことなのです。自分のところに返って来る息子を、父は彼がまだはるか遠くにいる時に既に見つけて、家の外に飛び出して、息子に向かって走りに走って抱き締め、そして接吻し、「この子は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」と言って大喜びで家に迎え入れて下さいました。この家の外に飛び出てきて、抱き締めて下さる父の姿とは、まさに天の住いから地上に降ってきて、私たち愛に飢え渇いた罪人を抱き締めてくださるイエス様の姿そのものです。 私たちの願い 神の願いの合致するところ 私たち人間が、心の奥底で捜し求めている救いは、このイエス様との出会いにおいて与えられるものです。説教の初めの方で、「私たちは誰でも私たちを救ってくださる王、主と呼ぶべき方を心の奥底で求めています。意識していようといまいと、絶対的な存在を求め、救済者を求めているのです。しかし、その『救い』が何であるかについて思い違いをしている」と言いました。そして、私たちが求めているものと、神様が求めているものは、正反対のようでありながら、実はその最も深い次元では合致しているのではないか、と言いました。 私たちは救いを求めています。そして、神様が求めてくださっているのも、私たちの救いです。でも、私たちは誰でも、本当の救いが何であるかを知るために時間が掛かります。そして、その時間の流れの中で罪を犯していきます。でも、罪の増し加わる時に恵みが増し加わるのです。そして、その恵みの故に、本当の救いとは罪が赦されることであると知らされたのです。そして、その罪の赦しは天の父から遣わされたイエス・キリストの十字架の贖いによって与えられていることを知らされたのです。 イエス様は、私たちの罪に対する神様の裁きを全身で受け止めて、十字架で処刑されました。そのイエス様を神様は死の中から甦らせ、今、主イエスは聖霊において生きておられ、そして、今日も私たちに語りかけてくださっているのです。 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」 これこそ、真の王、真の主であるお方の言葉であり、御業です。この王なるお方、私たちのために十字架に掛かって死に、甦り、今は聖霊において生き給う主なるイエス様こそ、私たちが心の奥底で捜し求めている救い主です。この方は、天から降って来て、私たちの命のパンとなり、私たちを永遠に生かそうとしてくださっているのですから。私たちは、自分自身の心の奥底にある求めに気づき、我に返ればよいのです。それは父の許に来ることですし、それは即ち主イエス・キリストの許に来ることです。我に返り、罪を悔い改め、主イエスの許に来た私たちを主イエスは抱き締めつつこう言ってくださいます。「さあわたしの肉を食べなさい。わたしの血を飲みなさい。わたしの命をかけた愛を信じなさい。そして、神の子となりなさい。」 なんという愛でしょうか。この愛を信じる時、私たちの根源的な飢え渇きは満たされるのです。信仰を告白し、洗礼を受けた者として、今日も新たな感謝と賛美をもって聖餐の食卓に与かりたいと思います。 |