「与えるということ」

及川 信

ヨハネによる福音書 6章34節〜40節

 

そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」



「与える」(ディドーミ)という言葉

 今日は説教題にあるように「与える」という言葉(ディドーミ)からメッセージを聴きとって行きたいと願っています。しかし、それは非常に複雑な課題であることは一目瞭然です。今日は、六章において「与える」(ディドーミ)という言葉が、どこでどのように出ているかをプリントにしてお渡ししてあります。新共同訳聖書では、すべてが「与える」と訳されている訳ではなく、「食べさせてください」「食べさせる」あるいは「お許し」とか、翻訳では「与える」という言葉が使われていることが分からない箇所がありますけれど、合計すると十一回出てきます。
 その主語は何であり目的語、つまり誰に何を与えるのか、また何のために与えるのか、さらに、それは過去のことか現在のことかなどなどを詳細に調べていき、さらにヨハネ福音書の全体の中で、この言葉がどのように使われているかを調べていかないと、この言葉に関して正確なことは言えません。しかし、それは一回の説教の課題としては大きすぎるので、今日はかなり話を限定します。しかし、ある面では広がっていきますし、矛盾したようなことを言うことになると思いますが、聖書が言っていることはそういうことだと思いますので、とにかく、ご一緒に読んでいきたいと思います。
 この「与える」という言葉の解釈が難しくなる原因の一つは、主語や目的語が多様であり、さらにその意味も重層的であるということです。父なる神様が主語である場合、それは天からのパンを「あなたがた」に与えるという意味で出てきます。しかし、ここでの「あなたがた」とは、文脈上は荒野放浪時代のイスラエルの民のはずで、事実、イエス様に質問した人々は、「先祖は荒野でマンナを食べた」と言っているのです。だから、「あなたがた」とイエス様が仰ること自体が、過去と現在が少なくとも二重に重ねられているということです。つまり、マンナの出来事は過去のことだが、天からのパンは現在のこと、そして、そのパンを与えられる「あながたは」とは、肉をもって生きていた当時のイエス様の目の前にいるユダヤ人でありつつも、それは同時に、ヨハネがこの福音書を書いている時代に同じ礼拝堂にいてイエス様の言葉を聞いているユダヤ人たちであり、さらにそれは今、この礼拝堂でイエス様の言葉を聞いている私たちのことなのです。そういう意味で、「あなたがた」という言葉が使われ、そして、「与える」という現在形の言葉が使われている。

「天からのパン」は目的語?主語?

 そのことを踏まえた上で、次の問題に移ります。三二節で「わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる」という場合、与え手は父であり、受け手は人間であり、与えられるものはパンということになります。ここだけを読むならば、パンは、ただ与えられる物質と言ってもよいはずです。でも、その直後に、イエス様はこう仰っています。

「神のパンは、天から降って来て世に命を与えるものである。」

 こうなりますと、パンは神様によって人々に与えられる「物質」であるだけでなく、パン自身が意志を持って行動する生きた存在だということになります。パンそのものが「与える」という動作の主語だからです。そして、「与える」という動詞の目的語の一つは「世」であり、もう一つは「命」です。
 つまり、父が与える「天からのパン」とは、パン自らが天から降って来て、世に命を与えるパンだということになります。そして、その続きの三五節で、「わたしが命のパンである」とイエス様が仰ることによって、そのパンが何であるか、あるいは誰であるかが明確にされます。そして、この「わたしが命のパンである」という言葉によって、「神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである」という言葉の意味が分かるのです。つまり、このパンとは創造の時に既に神と共にあり、神であった言としての独り子が、肉をもって世に到来し、世の人々に命を与えるということなのだと分かってくる。

「見る」こと、「信じる」こと

 しかし、今、「明確になる」とか「分かる」とか言いました。でもそれは理性として話の構造が分かるというだけのことで、それが分かったからどうした!?ということです。それが分かったから、今日から希望をもって生きていけるとか、いきる意味や目標が見つかったとか、そういうことではありません。つまり、イエス様の言葉の論理構造が分かったところで、そのことで命が与えられることになっていないのならば、それは何の意味もないことです。つまり、実は何も分かっていないのです。
 イエス様は、続けてこう仰います。

「わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。」

 この場合の「見る」とはどういうことなのか。そして、「信じる」とはどういうことなのか?
この問答の前日に、主イエスが男だけで五千人の群衆に僅かのパンと魚を分け与えて満腹させるということがありました。その時、「人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られる預言者である』と言った」とあります。そして、イエス様を「王」にしようとしたのです。つまり、彼らは僅かなパンと魚を無限大に増やすことが出来る人こそ自分たちの王に相応しいと思った。あるいは、そう信じた。そのように、「しるしを見た」のです。
 でも、その翌日、彼らがイエス様を捜し求めて来た時、イエス様はこう仰いました。

「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜し求めているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。」

 ここに六章では初めて「与える」という言葉が、永遠の命に至る食べ物を与えるという形で出てきます。そして、その食べ物とは、以前語りましたように、イエス様を信じる信仰のことでした。その信仰がすべての鍵を握っているのです。その信仰を持たずに、しるしを見ても、そこで見るべきものと見ることが出来ないのです。だから。イエス様は、あなたがたは「しるしを見ていない」と仰る。つまり、イエス様が見て欲しいと願ったようには見ていないのです。だから、「見る」ということも、単純なことではありません。私たち人間が「見る」こと、見て理解すること、理解したと思っていることは、イエス様からしてみれば、何も見ていないし、何も理解していないし、分かっていないということがある。その分かれ目に、信仰があるのです。
主イエスは、こう仰います。

「あなたがたわたしを見ているのに、信じない。」

 この「あなたがた」は、今ここにいる私たちのことでもあるのですが、だとすると私たちは今、イエス様を見ているのか、見ているのに信じないのか、見て信じているのか。見るとはどういうことであり、信じるとはどういうことなのか。

信仰と選び

この問題を考えるために、どうしても避けて通れないのが三七節です。

「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」

ここで「与える」という言葉の用法が、これまでとガラっと変わります。「与える」という動詞の主語はこれまでにも出てきた父(なる神)ですけれど、その目的語は、パンではなく人であり、人を与える対象がイエス様なのです。父が、人を、イエス様に、与える。こういう形です。これは一体どういう意味なのか?
「わたしの所に来る」とは、「わたしを信じる」と同じ意味であることは、先週語りました。ですから、父がイエス様に与えた者は皆、イエス様を信じるということになります。逆を言えば、父が与えない限り、誰もイエス様の所には来ない、信じない、ということでもあります。六五節のイエス様の言葉、「父からお許しがなければ(与えられていなければ)、だれもわたしのもとに来ることは出来ない」とは、そういう意味でしょう。
ここで語られていることは、「信仰は神様に選ばれた者が与えられる」ということです。自分で求めて、自分の力で獲得するものではないのです。神様に選ばれた者だけが、イエス様の所に来ることが出来るのです。誰がそのことのために選ばれており、誰が選ばれていないかは私たちには分かりません。そして、いつ何時、誰がどのような方法で神の呼びかけを聴き取るかも分かりません。神様の選びの理由も分からないし、呼びかける順序も分からない。何も分からない。しかし、どういう訳か、神様が私たち一人一人をイエス・キリストの体なる教会へと呼んで下さり、そして、聖書の言葉を聞かせ、説教を聞かせてくださり、己が罪を知り、その罪の贖い主であるイエス・キリストを信じる信仰を与えて下さった。だから、私たちは洗礼を受けることが出来、そのことの故に聖餐に与かることが出来る。この目に見える事実の背後に、神様の選びがあり、召しがあり、神様が私たちをイエス様に与えて下さったという出来事がある。そして、イエス様は今日も、神様によって与えられた私たちが、一人も失われないようにと、御言と聖餐の糧によって命を与えてくださっている。そして、そのことによって、私たちは生かされ、さらに終わりの日の復活を望み見つつ生きることが出来る。これが、今日もこの礼拝で起こっていることです。
私たちの信仰は、神様の恵みによって与えられたものです。だから、確かなものなのです。私たちの内には信仰の根拠などないのです。私たちが自らの意志で信じたのではありません。神様の私たちを救いたいという意思が先にあり、その意思に基づいて私たちが選ばれて、私たちは信仰を与えられているのです。ある牧師がこの箇所に関して、こう書いていました。
「ここでは信仰そのものが神の恵みであることが示される。ここでは信仰は神の選びの結果であり、逆に神の選びは信仰によって現実化することが明らかにされている。ここでは、群衆の不信仰は神の拒否への予定だということが言われているのではない。予定の教理の根本は、信仰とは信仰者自身の力ではなく、神の決意の実現であり、それ故に信仰は確かな根底をもっていることを示そうとするものである。」
私も、今日の箇所でイエス様が仰っていることは、そういうことだと思います。信仰は、神様が与えてくださるものであるが故に、信仰者は些かも誇るものを自らの内には持っていません。しかしまた。信仰は神様が与えてくださるものであるが故に、この世がどうなろうとも、私たち自身がどうなろうとも、いささかも揺らぐものではないのです。神様を起源とする信仰、希望、愛はいつまでも残るのです。そしてまた、神様の選び、その決意はいつ実現するか私たち人間には分からぬ故に、今この時、イエス様の言葉に躓き、イエス様から離れ去り、ついにはイエス様を殺すようなことをしてしまったとしても、その人々もまた、いつ何時、神の招きを聴き、イエス様の許に来る者とされるか分からないのです。

「世」に命を与えるとは

 「神のパンは、天から降って来て、世に命を与える。」

このことは、いつも現在形の事実です。神のパンは、神から派遣されると共に、自分の意志で天から降って来て、いつも新たに世に命を与えようとしているイエス様です。このイエス様は、過去の存在ではなく永遠に生き給うお方です。だから、いつでも世に命を与えるという御業をなして下さっているのです。
 しかし、このイエス様が降って来られた世とは一体どういう世で、世は降って来られたイエス様をどう迎えたのか、迎えているのか?
 この点については、ヨハネ福音書の一章九節以降を読むことが相応しいかと思います。そこでイエス・キリストは、命のパンではなく、万物を造った言として、また人間を照らす命の光として描かれていますが。

「その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。 言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 抽象的な言葉遣いで書かれていますから、肌身に感じにくいかもしれません。でも、ここに記されていることは、身の毛もよだつような恐ろしいことであり、痛ましいことです。最近の日本では、親が子を殺すとか、子どもが親を殺すという痛ましい事件が日常化しています。「世は言によって成ったが、世は言を認めなかった」とは、子どもが自分を産んでくれた親を認めず、むしろ拒絶するということです。それは、自分の命の源を殺すということです。しかし、そういうことをしている本人は、親から解放されたいと思い、自立をしようとしているのかもしれません。この親さえいなくなれば自分は自由になると思っているのかもしれない。でも、実は、そうすることで自分自身の命を自分で殺してしまっている。死の闇の中に投げ込んでいるのです。それと同じように、闇の世に生きる私たちは、せっかく命を与えようと降って来て下さったお方を拒絶してしまうことがある。
 しかし、その一方で言が、光が到来した時に、その言、光を受け入れる人間、信じる人間もいるのです。不思議なことに、その時に信じる者と、そうでない者が分かれていくのです。その事実の背後に、神の選びがある。それは明らかなことです。でも、それと同時に、私たち自身の決断もあるのではないでしょうか。

神の選び、私たちの決断

 三章一六節以下を読みます。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。」

 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」
とあります。この「世」とは、「命の光」を受け入れない世です。拒絶する世です。愚かと言えば余りに愚かな世であり、恐ろしいと言えば余りに恐ろしい世です。私たち罪人のことです。しかし、その「世」を、神は拒絶されない。むしろ、愛する。その愛の具体的なしるしが独り子を与えるということです。そして、この「与える」という言葉の具体的な内容は、独り子を十字架に磔にして殺すということなのです。この独り子を「殺す」ということも、一面から言えば、それは明らかに神様の行為です。神様が、神様を信じない、その愛を受け入れない不信仰な人間、神様に背き続ける人間の、その自ら滅びに向かっていく愚かな人間の罪を赦すために、罪なき神の小羊として独り子を犠牲とする。そういう神様による救済の行為です。しかし、目に見える形でイエス様を捕まえ、十字架に磔にして殺しているのは人間です。そこに人間の意志、あるいは決断があることは言うまでもありません。そこに人間の罪の究極の姿があるのです。自分自身の命の源を、そうとは知らずに、自分で殺してしまうという愚挙がある。その神様と人の両方の行為の中で、神様はご自身の子を殺す者どもを赦そうとし、自ら天から降り、ついには十字架の死というこの世のどん底まで降って来て、そこで罪の赦しを与えて下さったイエス様が、今日も「私を信じなさい。そして、パンを食べなさい」と語りかけてくださっているのです。その行為に、私たちがどう具体的に応答するのか?これは各自が今、問われていることだと思います。

招きへの応答としての信仰

 「信仰は神様が与えて下さるものだから、今、信仰を告白してないのは、自分のせいじゃない」と言えると言えば言えるのですが、しかし、それは礼拝の中で御言を聴いたことがない人の言い分であって、礼拝に来て御言を聴き続けている場合、そして、聖餐として配られるパンとぶどう酒を見続けている場合、それは聞けども聞かず、見れども見ず、悔い改めることのない愚かな民だ、と言って、主イエスの嘆きの対象になるのです。今日この礼拝堂にいるということ自体が、神様の招きの中にいるのだし、ある意味では神様の決意の中に置かれていると言えるのです。その招きに応えるか応えないか、それは私たちの決意に掛かっていると言えるのです。
 光が来るまでは、自分が闇の中にいるということすら分かりませんが、光が来た時には、それが分かるはずです。しかし、その上で、なお闇の中に留まり、光の許に来ないとすれば、それ自体が裁きになっていると、主イエスは仰います。神様は、自分を認めず、受け入れない、拒絶する私たちを、それでも愛し、最愛の独り子をさえ惜しまずに与えてくださっている。そういう重大な決意をもって私たちを愛し、招いてくださっています。そして、独り子なるイエス様も、もちろん、重大な決意をもって天から降り、ご自身を十字架につけて私たちの罪の贖いとなってくださったのです。そして、今日も新たに、「私を信じて欲しい。私の姿に現れている父なる神の愛を信じて、朽ちる命ではなく、朽ちない命、永遠の命を生き始めて欲しい。霊と水による洗礼を受け、パンとぶどう酒による聖餐を受け、永遠の命を私と共に生きて欲しい」と願い、語りかけ、招いてくださっているのです。
 信仰を与えられ、洗礼を受けているキリスト者は、今日新たにその招きに応え、悔い改めと感謝をもって聖餐に与かりましょう。そして、まだその招きに応えておられない方たちは、是非とも「主よ、どうぞ信仰を与えてください」と祈りつつ、その場にいて下さい。近い将来、配れるパンとぶどう酒の中に、私たちの罪の赦しのために裂かれたイエス・キリストの体と流された血を見ることが出来、そのイエス・キリストが今も生きて私たちに命を与えてくださっている姿を見て信じる信仰が与えられますように。そして、共々に聖餐に与かることが出来ますように、祈ります。
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