「天から降って来たパン」

及川 信

ヨハネによる福音書 6章41節〜51節

 

ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。預言者の書に、『彼らは皆、神によって教えられる』と書いてある。父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。父を見た者は一人もいない。神のもとから来た者だけが父を見たのである。はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」



「ヨハネ受難曲」いかにして宣べ伝えたらよいのか?

 昨日、ヨハネ福音書の連続講解説教を始めた頃から、いつかちゃんと聴いておきたいと願っていたバッハの『ヨハネ受難曲』を聴く機会が与えられました。この受難曲は、解説にも記されていたことですが、キリストの受難の嘆きを復活の喜びが包むような雰囲気を持った曲でした。心打たれた所はいくつもありましたが、特に第二部のピラトの裁判の場面に出てくるコラールの言葉を、ご紹介しておきたいと思います。

「永久にいます偉大なる王よ
いかにしてその真理(まこと)を
世に宣べ伝えたらよいか
私には分かりません。」


 心から同感します。御言を読んで示された真理を、どうやって語ったらよいのか。それは、人間的には克服できない困難な課題として、毎週私たち説教者の前に立ち塞がることですが、とにかく、今日も神様ご自身が、その困難を乗り越えさせてくださることを信じて、前進するしかありません。

人の生と死 肉と霊

 先週の特別伝道礼拝では「あなたはどこにいるのか」という神様の語りかけ、呼びかけの言葉を聴きました。エデンの園の中に、神様は食べることが出来る実をならせる木をいくつも生やし、同時に、園の中央には、決して食べてはならない善悪の知識の木を生やした上で、アダムにこう命ぜられたのでした。

「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。」

 先週も言いましたように、「食べる」か「食べないか」が問題なのですが、もっと深い問題は「食べなさい」「食べてはならない」という命令を発する神様を信じて、その言葉に従うか否かなのです。そのことが生と死を分けていく。祝福と呪いを分けていく。人は食べなければ死ぬし、しかし、食べてはならないものを食べれば死ぬ。むしろ、「食べるな」と命ぜられた言葉に従って、食べないことによって生きるとも言えます。
ここで言う「生きる」とか「死ぬ」ということもまた、単純に肉体の生と死のことではありません。何故なら、アダムもエバも、「食べると必ず死んでしまう」と言われた木の実を食べた時に、肉体という意味では即座に死んだわけではないからです。この問題をどう考えるかについて、今もって定説があるわけではありません。この時に、人間に死が入ってきたのであって、この時即座に死ななくても「人は必ず死ぬ」存在になったのだとも考えられますし、神様の御心はあくまでも人を生かすためなのだから、「必ず死ぬ」と仰ってはいても、人間の悔い改めを待ってくださっているのだとも考えられる。しかしまた、人間の生死は肉体の生死ということだけではない。彼らは、神様の命令に背いた時に、神様との霊的な関係を失うという意味でたしかに死んだのだとも考えられる。
しばらくこの線で考えていきますけれど、神様は、人間を地の塵から造られただけでなく、その鼻から命の息を吹き入れ、そのことによって人は生きた者となったのです。この息は動物に与えられたものではなく、人間に対してだけ与えられたものです。ここに出てくる「息」(ギリシャ語でプノエー)は、新約聖書においては、十字架の死と復活を経たイエス様が天に上げられて以後、聖霊が下るのを祈りつつ待っていた弟子たちに聖霊が降る場面、ペンテコステの場面に出てきます。

「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した。」

 この「激しい『風』」が「息」と同じ言葉です。この場合の「風」は、言うまでもなく「聖霊」という意味です。肉体の死を恐れ、ただ肉体を生き延びさせることを選び、主イエスを裏切る罪の中に死んでいた弟子たちを、天から降って来た激しい風、聖霊、命の息が甦らせ、新しい命を与える。そして、そのようにして「生きた者となった」彼らが、聖霊の導きの中でイエス様の十字架の死と復活の事実が何のためであったかを語り始める、説教をし始める。永久にいます偉大なる王の真理を世に語り始める。その言葉を聞いて信じる者たちが誕生する。そのようにして、キリスト教会は誕生したのだし、今も、その事情は同じです。今日も、私は聖霊の注ぎの中で御言の語りかけを聴き取り、新たにされ、キリストの福音を語るのだし、その福音を聞いて信仰を新たにし、また新たに信仰を与えられる人間が誕生する。そういう聖霊によって与えられる命を生きることこそ、実は人間の命の本質なのです。

次元の違い 「分かる」ことを巡って

 今日のヨハネ福音書におけるイエス様の言葉を理解するためには、人間の命の肉体性と霊性の両方を踏まえておかないと、どうにもなりません。人はパンを食べて生きているだけではない。食物を食べて肉体が生きているだけが人間の命ではない。神の口から出る一つ一つの言葉を聞いて生きる。その言葉を命の糧として聴き、信じ、受け入れて生きる。そこには神様との繋がり、神様との交わりを生きる霊的な命があります。その命は、肉体が死んでも死なないのです。何故なら、その命は、私たちのために天から降り、私たちと神様の交わりを壊していた罪を十字架の死によって取り除き、三日目に復活をし、聖霊を与えて下さったイエス・キリストによって与えられた命であり、イエス・キリストに繋がって生きる命だからです。だから、この命は最早、肉体の死によって滅ぼされる命ではなく、永遠の命なのです。
 しかし、こういうことは、人が人に言って分からせることが出来るはずもなく、そこで「分かる」ということと、「本当に分かる」ということの次元が全く違う場合も少なくありません。イエス様の言っていることが根本的に分からない人々のことが、この福音書では「ユダヤ人」という形で登場しますが、私たちは肉において地上を生きている限り、基本的にはいつもでこの「ユダヤ人」と同じなのです。彼らは、イエス様が何を言っているか、あらゆる意味で分かりません。イエス様が、「わたしは天から降って来たパンである」と言われても、何がなんだか分からない。彼らは、「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして『わたしは天から降って来た』などと言うのか」といぶかしがり、つぶやくだけなのです。彼らにしては、自分たちと同じ人間、それも田舎の庶民出身に過ぎないこの男が、なにをとち狂ったことを言っているんだ!ということでしょう。そして、それは全く無理のない話です。この言葉が、イエス様が肉において生きていた時代の言葉だとすれば、彼らがそう思うのは全く無理もない話しです。

福音書の意図 信じる

しかし、この福音書は、かつて私たちと同じ肉体をもって地上を生きておられた歴史的な存在としてのイエス様の言動を客観的に記録する意図をもって書かれたのではありません。この福音書は、冒頭にも言いましたように、イエス様が十字架の死から復活し、今も生きており、語りかけて来られるという圧倒的な事実を証言しているのだし、その証言を通して、イエス様を神の子、キリストと信じることが出来るようにという意図をもって書かれたのです。それは、この福音書の二〇章の最後を読めば明らかです。そこには、こう記されています。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

 イエス様は神の子でありメシア(キリスト=救い主)であると信じることが出来るために、そして信じた者がその信仰によって新しい命を受けて新たに生きるために書かれた。福音書が書かれた意図と目的は、ここに明白なのです。イエスという名の偉大な人物が過去に生きていましたということを伝えたいのではなく、この方は十字架の死と復活を通して、神の子キリストであることが明らかとなり、この方を「昔いまし、今いまし、永久にいます主」であることを信じることが出来るようにという意図をもって書かれたのです。
 しかし、イエス様を神の子キリスト、主と信じる信仰は、この福音書を読めば誰でも自動的に与えられるものではありません。イエス様がおっしゃる如く、イエス様を「お遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない」のです。信仰そのものが、神様の恵み、選びによって与えられる賜物なのです。そして、今日、この言葉を礼拝で読んでいる、また説教を通して聞いているということ自体が、既に、私たちが恵みの選びの中に置かれていることを意味するでしょうし、その「選び」、それは「招き」と言い換えてもおかしくないのですけれど、その招きにどう応えるかが問われているのです。
 しかし、私たちは、自分の頭で考えている限り、つまり、自分の理性で把握しようとしている限り、この時のユダヤ人と同じ反応を示す以外にはない。これもまた事実です。「何故、この人はこんなことを言えるのか?同じ人間のはずではないか?どうして信じられようか?」
 パウロという人が、コリントの信徒への手紙の中で、誰も自分の知恵によって神を知るには至らない。それはしかし、神の知恵にかなっている。そこで神は、人間の説教という愚かな手段によって信じる者を救うのである、と言っています。人間の知恵による理解とか知性による認識とかで神を把握しようとすること自体が、実は、蛇の策略にひっかかっていることだし、神よりも上に立とうとする迷妄の中に入り、自ら死を招くことなのです。私たちには、信じるか信じないか、それしか残されていないのです。そして、信じないことには深く知っていくことも出来ないし、より深い次元の理解に達することも出来ないのです。愛とか信仰とか望みというのは、そういうものなのです。イエス様は、「いつも新たに信じる者となりなさい」と招いておられる。心を開き、「信じる者とならせてください」と祈りをもって読んだり、聞いたりしないと、私たちはいつまでも疑いの中につぶやき続けるしかありませんし、その低いレベルに留まるしかないのです。しかし、それはまことにつまらないことです。

  「信じる」ことと「永遠の命」

「父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。」  「わたしのもとへ来る」とは、「わたしを信じる」ということです。その後に、イエス様はこうおっしゃいます。

「はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。」

 神様の招きに応えてイエス様を「信じる者は永遠の命を得ている」ということです。何故なら、イエス様は「天から降ってきたパンであり、これを食べる者は死なない」からです。イエス様は、さらにこう言われる。

「わたしは天から降ってきた生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 来週は月の第一週ですから、聖餐礼拝です。主イエスの肉であるパンと血であるぶどう酒を頂く礼拝です。その日に五一節以下の御言を聴けることを、私は今から楽しみにしているのですけれど、私たちは聖餐・主の食卓によってパンを頂きます。その時、私たちは主イエスの命を頂いているのです。今生きておられる主イエスの命を頂いている。それはマジックのような話ではなく、信仰による事実です。神様の招きに応えて、主イエスを神の子キリストと信じる信仰を告白したものは、霊と水による洗礼を受けます。そして、洗礼を受けて初めて、主の食卓に与かり、パンを頂くことができる。神様によって与えられた信仰抜きに、そしてその信仰の徴である洗礼を抜きにパンを頂くことはできませんし、たとえ間違って食べてしまうことがあっても、それはただの一切れのパンに過ぎません。でも、信仰をもってそのパンを頂くとき、私たちは聖霊によって主に結ばれて、新たな命が与えられ、新たに生かされる恵みを頂くのです。その命は、十字架の死を経て復活された主イエスにつながる命であるが故に、永遠の命であり、決して死ぬことのない命なのです。

死を待つ病室とキリスト者の葬儀

 今日、中渋谷教会の会報七月号が発行され、会員の皆さん方のボックスに入っています。その中で、KTさんが、義理のお姉さんであるKKさんの埋骨に関してお書きになった文章が掲載されています。その中で、KKさんがホスピスに入って死の準備をしておられた時に、しばしばおっしゃっていた言葉が紹介されています。私自身も何度もお聞きした言葉ですが、それはこういうものです。

「自分はイエス・キリストを信じているから、自分の死後に必ずお迎えするはずのイエス・キリストの再臨の時には、自分もキリストと共に永遠に生きる希望を持っているので、この地上の生を終えることは大したことではない。」

 今日の説教のために、色々とノートを取り始めていた時に、この会報が出来上がってきて、いつものように自分が書いたもの以外を早速読んだのですが、その時に、今日の主イエスのお言葉が、「全部、分かった」と思いました。
 KKさんは、「主われを愛す」という素朴な讃美歌を愛しておられました。この讃美歌は、ゴスペル歌手である永野貴志子さんをお招きしての婦人会修養会においても、いくつものアレンジで繰り返し歌いましたし、今日の午後の全体交流会においても練習します。それはこういう詞の歌です。

「主我を愛す、主は強ければ、我弱くとも恐れはあらじ。我が罪のため、さかえを捨てて、天よりくだり、十字架につけり、御国の門を、開きて我を、招きたまえり、いさみてのぼらん、我が主イエス、我が主イエス、我が主イエス、我を愛す。」

私たち洗礼を受けたキリスト者は、主イエスの十字架の死によって罪を洗い清められ、以後、復活の命に生かされているのです。その命は、肉体の生死を越えたものであり、肉体が死んだ後、主イエスがおっしゃるごとく、世の終わりの日に復活させられるのです。新しい体を与えられ、天上の主と直接見(まみ)えることが出来るのです。これが主イエスの約束です。そして、私たちは聖霊を注がれ、命の息を吹き入れられて、この約束を信じる者とされたのです。だから、私たちは既にその信仰において「永遠の命を得ている」のだし、主イエスが、「食べなさい」と命じてくださる命のパンを食べているのだから、「死なない」のです。
私は牧師ですから、死を待つ以外にない病室に信者の方をお訪ねすることがこれまでも何度もありましたし、牧師である限り、これからもあるでしょう。そして、いつか私もそういう病室に寝ることになるのかもしれません。そういう病室は、まさに死の支配の中にあるはずなのです。抵抗しようもない力で死が待ち受けている。何をしようが、その死を回避することができない。そういう病室に入ることは、どうしようもなく気が重いことです。慰める言葉など、まだ生きていく希望を持てる私の中にありようはずもないからです。だから、『聖書』を持って入るしかない。そういう私が、死の時を待っている信者の方にむしろ励まされることがしばしばありますし、共に聖書の言葉を読んで祈るときに、そして、教会から携えてきたパンとぶどう酒を分かち合うときに、えもいえぬ希望に包まれることがあります。死の力に支配されているように思えた病室が、十字架と復活の主イエスを礼拝する礼拝堂になり、その時、その病室は復活の主イエスの命に満ち溢れて、命に包まれたものになるのです。今しばらく肉体においては生きていくであろう者も、肉体においてはじきに死ぬほかにない者も、霊において今も生きている主イエスにおいて、一つに結ばれて生かされていることが分かるのです。そして、共々に、「昔いまし、今いまし、永久にいます」主イエスを、神の子キリストと信じて、賛美できるのです。これが恵みによって選ばれ、信仰を与えられた者、イエス様の所に来て、イエス様という生きたパンを食べることが出来る者の霊的な現実なのです。
だから、私たちキリスト者の葬儀は、「三途の川を渡らせて成仏させる」ために盛大にやる必要はありません。葬儀があろうとなかろうと、イエス様への信仰を生きることが出来た人間の救いは、既に与えられていることだからです。私たちが、葬儀をするのは、亡くなった方の救いのためではなく、既に与えられている救いを宣言し、地上に残されたご遺族を慰めるためです。
昨日の朝刊に、先日フランスの映画祭でグランプリをとった「殯(もがり)の森」という映画に関する記事が出ていました。「殯」というのは、古く古事記や日本書紀に出てくる言葉だそうですが、それは敬う人の死を惜しみ、偲ぶ時間、あるいはその場所の意味だそうです。そして、その儀式は、死者の霊が、祟らないように鎮魂するために行ったそうです。しかし、次第に仏教の影響で火葬が広がり、死と葬り、喪に服する期間が短くなって、廃れていった。現代は、人が死ぬとあっと言う間に葬儀が行われ、火葬もされて、遺族は取り残されてしまい、死を受け入れることが出来ず、また愛する者を失った悲しみと、喪失感から抜け出すことが出来ない。そして、最近は葬儀社が企画するグリーフワーク(悲しみを癒すための集まり・「千の風」という歌を歌ったりする企画もあるようですが)に参加する人々が増えてきたそうです。
私たちの葬儀、それは愛する家族が死に飲み込まれてしまったと思わざるを得ないご遺族に、「あなたの家族は信仰によって救われているのですから、安心してください」と告げ、主イエスを信じることにおいて今も主イエスを通して繋がっていられることを告げるためにあるのです。
「あなたの家族は、信仰によって救われています。キリストがその救いのために十字架にかかって死んで下さったのです。そして、死を打ち破って甦り、天に昇って神の右に座しておられる。そして、今は聖霊において生きてくださっている。あなたのご家族は、その主イエスを信じて洗礼を受け、主イエスを礼拝し、聖餐のパンを食べていました。この地上にある時に、既に、復活の主イエスの命、永遠の命を生きていたのです。だから、肉体の死によって私たちが顔を見たり、体を触ったりという交わりはなくなったけれども、主イエス・キリストとこの方との交わりは死によってなくなったわけではありません。この方は、主の守りの中を生きているし、その体は終わりの日に主イエスによって復活させられます。だから、そのことを望みとして、慰めを受けて欲しい。そして、どうぞあなたも主イエスを信じて、主イエスによって与えられる永遠の命を生きて欲しい。どうぞあなたも礼拝に来て下さい。」
そう救いを宣言し、最大にして唯一の慰めの場である礼拝へとご遺族をお招きするのが、私たちの葬儀です。だから、KKさんも、「私のような者のために、お忙しい先生を煩わすのも、教会の方にわざわざお出で頂くのも申し訳ないんだけれど、でも伝道になると思うから、お葬式はやって頂きたいと思います。その時は、この讃美歌を歌ってください。この聖書を読んでください。この詩を式次第に印刷しておいて下さい」と、楽しそうにご希望を述べられました。私はKKさんと一緒に特別伝道礼拝に備えるような思いで、そのお言葉を聴き、葬儀に備えたのです。
こういう経験はKKさんとの間だけのことではありません。死を意識し、その死を迎える前に、お話しすることが出来た多くの方と、こういう会話をしつつ、信仰によって与えられている恵みを確認し、感謝し、賛美する経験を何度も与えられてきたし、これからもきっとそういう経験をさせていただけるでしょう。そして、私ももし死を待つ時を与えられれば、家族や葬儀の説教を依頼する牧師と、暫くの別離の悲しみと寂しさを抱えつつも、心楽しく自分の葬儀に関する希望を語りたいと思っています。そして、多くの方が礼拝堂に集まって、今生きておられる主イエスの恵みを心から賛美する葬儀礼拝を捧げる光景を思い浮かべて、感謝して死にたいと思います。

パンを食べて生きるとは永久に讃美に生きること

「わたしは天から降って来た、生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」

 ヨハネ受難曲は、こういうコラールで終わっています。
「ああ、天使らによりて
わが魂をば、御国に運ばせ
静けき臥所(ふしど)にわが身体(からだ)をば
憩わしめたまえ
甦りの日に、尽きぬ喜びをもて
主イエスのみ顔を仰がしめ給え
主イエスよ 我らは 御名をば
永久に讃めまつらん」


 神様の恵みによって、主イエスを神の子・キリストと信じる私たちは、昔も今も、そしてこれからもずっと肉体の死を越えて、主イエスの御名を讃めまつること、賛美することが出来るのです。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きるとは」このことです。なんと幸いなことでしょうか?!
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