「まことの食べ物・まことの飲み物」

及川 信

ヨハネによる福音書 6章41節〜59節

 

わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。

(五一節〜五九節)

真理の啓示と離反

「わたしは天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。」
 この言葉を、先週の説教の最後に読みました。今日は、その続きの言葉から始めます。
「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
 今日の箇所で、思えば四月のイースター礼拝から読み始めた六章が一つの決着を迎えます。イエス様が五つのパンを取り、感謝の祈りを唱えて、男だけでも五千人もいた大群衆のすべてに分け与え、残ったパンくずを集めると十二籠になったという不思議な出来事が、一体何を指し示した徴なのか、そのことが今日の箇所ではっきりするのです。そして、そのことがはっきりすると、それまでイエス様を王様にしようとまで言って群がっていた人々はもちろん、それまでは主イエスの弟子として従っていた人々も、「実にひどい話だ」と言いながら主イエスの許を去っていく。ここに出てくる「弟子たち」とは、恐らくこの福音書が書かれた当時、ヨハネの教会に属していたキリスト者たちの姿の投影だと思います。つまり、一旦信仰を持ったキリスト者たちが教会から離れていく。イエス様の許から去っていく。そういう現実があったのです。それが次回以降の問題となります。

神の御心は変わらない 生かす

 今日もまた、与えられている御言の深さや広さを捉えきれませんし、ましてどう語ったらよいか分からぬ思いなのですが、六章を読んできて思うことは、イエス様をこの世に派遣された神様の願いは終始一貫しているということです。それは、私たちが生きるということ、神様の側から言えば、私たちを生かすということです。最初の人間アダムをお造りになった時から、それはもう終始一貫している。神様は私たちに命を与え、その命を生かそうとしておられるのです。そして、ヨハネ福音書で鮮明にされていることは、その「生きる」とはただ単に肉の次元で生きることに留まらず、霊の次元で生きるということです。その霊の命を与えるために、神は独り子であるイエス様をお遣わしになったのですし、遣わされたイエス様はただひたすらに父の御心、その意志を行っておられるのです。主イエスご自身が、三八節以下でこう仰っています。

「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

ここを含めて五九節までの間に「永遠の命」「永遠に生きる」という言葉は六回、「終わりの日に復活させる」は四回出てきます。つまり、このことがパンの奇跡が指し示していた事柄なのです。しかし、この永遠の命はすべての人間に自動的に与えられるのではなく、「子を見て信じる者」に与えられることです。五二節以下では、その「信じる」ことが、「食べる」こと、「飲む」こととして出てきています。

肉を食べ、血を飲むこと

  しかし、「ユダヤ人」は、ここでイエス様が何をおっしゃっているのかが分かりません。彼らはここでも「どうして、この人は自分の肉を我々に食べさせることが出来るのか」と議論を始めます。この場合の「ユダヤ人」は、先週も言いましたように、必ずしも民族としてのユダヤ人に限定されるべきではなく、五一節に出てくる「世」と同じで、イエス様によって永遠の命が提供されているのに、どう受け取ったらよいか分からず、むしろ「実にひどい話だ」とか「荒唐無稽な話だ。そんなこと誰が信じられようか」と鼻でせせら笑いながらイエス様を馬鹿にし、罵倒し、無視する私たち人間(罪人)の代表者です。しかし、今日の箇所においては、そういう側面と同時に、旧約聖書の伝統に生きているユダヤ人を考慮することも大事だと思います。
「人の肉を食べる」とか、「人の血を飲む」という言葉は、私たち日本人が聞いてもギョッとするものです。しかし、ユダヤ人にしてみると、人の肉を食べるとは、ある人を憎んで殺すということを意味します。たとえば詩編二七編にはこういう言葉があります。

「さいなむ者が迫り/わたしの肉を食い尽くそうとするが/わたしを苦しめるその敵こそ、かえって/よろめき倒れるであろう。」

 肉を食うとは、こういう敵意や憎しみで人を殺すことを表すのです。
また、血を飲むということは、ユダヤ人には、動物の血ですら厳しく禁じられていることです。ユダヤ人は、動物を食べるときも、血を全部抜いて、パサパサの肉を食べるのです。血は命であって、それは神に属するものだからです。これに関して、レビ記一七章一〇節以下の、神様の言葉を読んでおこうと思います。

「イスラエルの家の者であれ、彼らのもとに寄留する者であれ、血を食べる者があるならば、わたしは血を食べる者にわたしの顔を向けて、民の中から必ず彼を断つ。生き物の命は血の中にあるからである。わたしが血をあなたたちに与えたのは、祭壇の上であなたたちの命の贖いの儀式をするためである。血はその中の命によって贖いをするのである。」

 イエス様が「わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」とおっしゃるとき、また「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない」とおっしゃるとき、そこに主イエスの十字架の死が暗示されていることは、今読んだ詩編やレビ記の言葉からも分かります。主イエスは、私たち日本人が好む言葉で言えば「畳の上で死んだ」わけではありません。悟りを開き、天寿を全うし、弟子たちに「自分たちもこのように生き、また死にたい」と思われた御釈迦さんのように美しく死んだわけではないのです。当初、「この方こそ来るべき預言者だ」と思い、主イエスを自分たちの王に祭り上げようとした多くの人々は、今日の箇所あたりから離反を始め、弟子たちたちの多くも離反し始め、残った十二人の弟子の一人が裏切り、最期の時は、ヨハネ福音書だけに出てくる一人の匿名の弟子以外は皆逃げてしまったのです。つまり、すべての人間の敵意と憎しみ、また裏切り、離反、無力の中に十字架に磔にされ、そこで肉が裂かれ、血を流しつつ死んでいかれたのです。しかし、その血、その血の中にある命によって、主イエスは私たちの罪を贖ってくださった。あの十字架の上で裂かれた肉と流された血によって、私たち罪人の死すべき命が贖われた。罪が赦され、新たに造り直される儀式が捧げられた。十字架はその贖いの儀式を神の御子が、ご自身を犠牲として捧げて下さった祭壇なのです。

誰のため、何のため?

 この十字架で捧げられた肉と血、それは誰のため、何のために捧げられたかと言うと、結局、ユダヤ人のためだし、世のため、また弟子たちのためです。つまり、イエス様のお語りになることの意味が分からず、自分たちの思い通りにならない存在であることが分かり、さらに自分たちの肉の欲望を満たすことを妨げる方であると分かれば殺してしまおうとするユダヤ人や世の人間、つまり、私たちのどうしようもなく愚かしい罪を赦し、その罪の結果としての死、裁きとしての死を、神の独り子であるイエス様が身代わりに味わってくださり、私たちに新しい命を与えるために、イエス様は十字架の上にご自身の肉を献げ、そしてそこで血を流してくださったのです。
 なんということか!?と思います。イエス様はご自分を理解し、信じ、愛する者たちのために自分の命を捧げたのではなく、ご自分のことを理解せず、信じず、愛さない。むしろ、憎む者たちを愛し、その者たちの罪が赦されるために、生きながらにして肉が裂かれ、血を流して殺されるという想像を絶する痛ましい死を味わってくださったのです。そして、その肉こそが、罪の世を新たに生かす肉であり、この肉を食べることが新しい命を与えられて、永遠に生きることに繋がるのです。
 私たちに残されたことは、その恵みの事実を信じるか否かだけなのです。信じる者は、人の子の肉を食べ、その血を飲むことによって生きます。ただその信仰と食べ飲むことによって命を与えられ、生きるのです。その命は肉体の命ではなく霊の命であるが故に永遠の命なのです。

信じることは食べること、飲むこと

 人が主イエスの十字架の死と復活は我が救いのためであったと心に信じ、口で告白をする時、教会では洗礼式を執行します。その洗礼式において受洗志願者に誓約をしていただきます。その中に、「あなたは今後、主の聖餐を重んじて誠実にこれに与かる」ことを約束するかという言葉があります。信仰を告白して洗礼を受けるということは、礼拝において聖餐に与かる。聖餐を受けることだということです。私たちは誰でもこの誓約をして洗礼を授けられ、キリスト者になったはずです。つまり、キリスト者の命にとって無くてならぬものが聖餐なのです。十字架上で裂かれた主イエスの肉、流された主イエスの血、主イエスの愛、主イエスの命を感謝をもって頂く。そのことをしなければ、私たちキリスト者の命は生きないのです。「聖餐になんて与からなくたって、別にどうということはない。毎日三食食べて健康だし、十分生きている」というのは、肉の次元の命です。しかし、私たちはその肉の次元で生きることにおいて犯してしまった罪、犯している罪を赦して頂き、そして新たに清い命を与えて頂かなければキリスト者として霊的な命、つまり永遠の命を生きることは出来ないのです。
 私たちキリスト者がキリスト者として生きるために必須なものは三つあります。まずは、命の言葉としての御言です。聖書と説教の言葉です。聖書、そして説教から神の言を聴き取り、信じ受け入れるためには聖霊の導きが必要です。聖霊こそ私たちに命を与える息吹だし、父なる神様やイエス様と私たちを繋ぐ命綱です。聖霊抜きに私たちと神様は交わりをもてません。説教も祈りも讃美も、聖霊の執り成しが無ければ空しい独り言に過ぎません。そして、三つ目は、目に見え、手で触れ、口で食べることが出来る聖餐です。言葉は耳で聴くもの、霊は心で感じるもの、聖餐は見て、触れて、食べるものです。この三つのものが一つとなって、私たちに罪の赦しが与えられ、新しい命が与えられるというキリストの福音が告げられ、信じられ、そして実際に与えられているのです。今日は、その三つがそろう聖餐礼拝なのであり、私たちはこの礼拝を通して永遠の命が与えられるのです。

何のための命

 その命は、どういう命、どのように生きる命なのか。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」

 食べるのだから、イエス様が私たちの中に入ってくると即物的には考えがちですが、実際には、私たちがイエス様の内にいるという現実が起こる。イエス様の内にいる。これは具体的にはどういうことなのか?霊において私たちはイエス様に包まれている。そうだとも言えるでしょう。でも、私はもう少し具体的に考えたいと思うのです。
 五七節で、イエス様は、「生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」とおっしゃっています。「生きる」という言葉が、ここでも強調されていることは明らかです。父なる神様が生きておられる。その生きておられる父がイエス様をお遣わしになっているからイエス様も生きているのです。そのイエス様が生きているという現実、それは肉をもってイエス様が生きて、語っておられた時の現実だけでなく、十字架の死と復活を経た後の現実であり、それは今、この礼拝堂における現実です。今日もイエス様は、聖書の言葉を通して、そして説教を通して語りかけ、聖霊を注ぎかけ、さらに「これはあなた方のために裂かれたわたしの体である」「これはあなた方のために流されたわたしの血である」と言って、ご自身の愛を、その命を与えようとして下さっている。そのことを具体的な徴を通して知ることが出来るのは、主が復活された日曜日に、時を同じくしてそれぞれの場で礼拝を捧げている私たちです。
 私たち人間は誰もが不完全な存在ですから、過失をたくさん犯します。そして、そこで生じる人間関係の破綻とか傷に悩みながら生きているものです。それが嫌なら、人間とは付き合わなければ良いのですが、なかなかそういうわけにはいかない。歯車が合っている時は良いのですが、一旦何かの調子でずれると、なかなか合わないので、接触すればするほどギクシャクする。そういうことを公私共々に経験しながら生きている。それが私たち人間の現実でしょう。時間が解決してくれる場合もあれば、永遠に解決しない関係もある。
 しかし、普通はそういう関係になった場合は、もう二度と会わないということでよいわけですが、教会においては、なかなかそういうわけにもいかない。礼拝に行けば必ずそこで会いたくなくても会うことになる。それが嫌なら行かなければよいということですが、それでは洗礼を授けて頂いたときの約束、主の聖餐を重んじるという約束を破ることになり、イエス様との交わりを自ら捨て、キリスト者の命を捨てるという最悪の事態を自ら招くことになります。そして、そうなってしまう場合もなかにはあります。まさにそういう関係性の破綻こそが私たちの罪の現実なわけで、私たちはその罪によって神様との交わりを失い、人との交わりを失っているのですが、なんとなく表面的に繕い、葉っぱで色々と隠しながら、また悪いのは人のせい、蛇のせい、神様のせいにしながら生きています。
 そういう私たちのまことに憐れむべき現実によって、最も心痛め、また怒られるのは生きておられる神ご自身なのですけれど、その神様が私たちのために為さったことが、御子を天から降って来た命のパンとして世に遣わすということです。そして、御子は、そのパンをどのようにして私たちに与えて下さるかと言えば、ご自身の肉をあの十字架の上に生きている内に磔にさせるままにする、血の贖いの儀式の祭壇である十字架にご自身の血を流すということを通してなのです。その贖いを抜きにしては、罪によって破綻した神様との関係、そして人間同士の関係は繋がっていかないのです。人の子として天から降り、そして天に上げられていくイエス様の引き裂かれた体によってしか、引き裂かれた神と人、人と人は繋がり得ないのです。そして、その繋がりは、これから与かる聖餐の食卓を通して与えられるのです。

派遣されて生きるキリスト者

これから、私たち洗礼を受けたキリスト者は皆、聖餐に与かります。自分の罪を悔い改めて与からねばなりません。主イエスの赦しを信じて食べるのです。そして、それはまた同時に、主イエスに赦されたように赦しに生きるために食べるということです。主イエスに自分の罪を赦していただいたことを本当に感謝するなら、自分もまた赦せぬ人を赦すべきです。そして、主イエスは私たちがそのような赦しに生きるためにこそ、自らの肉を裂かれ血が流される十字架に掛かってくださったのです。
 「父がわたしをお遣わしになった」とあります。この言葉はどこに出てくるかと言えば、二〇章で、復活の主イエスが弟子たちの前に現れてくださった時です。そこで主イエスは、主イエスを裏切って逃げ、生ける屍になってしまった弟子たちにこうおっしゃいました。

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

   父・イエス様の関係が、そのままイエス様・私たちの関係に移されるのです。そして、六章では「わたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」とおっしゃっていました。その言葉の具体的な意味は、やはり二〇章で明らかになります。弟子たちを遣わすと語りかけられた後、主イエスは弟子たちに「息を吹きかけて」こう言われました。

「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。」

 聖霊が注がれる礼拝において、イエス様の聖餐に与かって生きるとは、イエス様を食べて、イエス様によって生きるということです。この「よって」は、「ために」とも訳せる言葉で、そちらを採ると、イエス様を食べることで生き、イエス様のために生きていくキリスト者とは、自分が赦されたように赦しに生きる以外にはないということになります。イエス様によって生きるも、イエス様のために生きるも、その内容は与えられた愛、与えられた赦し、与えられた命を、人に与えるために生きるということなのです。そのキリスト者の人生の土台になるのが聖餐です。この聖餐を共に頂くとき、今赦し合えない関係を生きている者同士が、主イエスに在って、繋ぎとめられるのです。即座に愛し合い、赦し合えるわけではないでしょう。でも、愛し合う関係、赦し合う関係になれる可能性は、イエス様にそれぞれが繋がっているしかない、その内に留まっているしかないのです。
 「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」という言葉は、直訳すれば「私の中に留まっている」ですし、一五章に出てくる有名な言葉、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしに繋がっていなさい。わたしもあなたがたに繋がっている」とギリシャ語では全く同じなのです。この「留まっている」「繋がっている」は内面的なことに留まらず、キリストの体なる教会、聖霊の宮なる教会に繋がり、この交わりの内に留まり、命の言葉、命の息吹なる聖霊、そして命の糧である聖餐を頂きながら生きるということ、つまり教会生活を続けるということです。そのことの中でこそ、主に赦されるのですし、主による赦しに向かって生きることが出来るのです。具体的な教会生活を続けること以外に、神様との和解の希望も人との和解の希望もないのです。そして、その希望がないのなら、終わりの日の復活を望みとすることも出来ないでしょう。

神と人、人と人を繋ぐ聖餐

 随分前にも語ったことがあると思いますが、『プレイス イン ザ ハート』というアメリカ映画があります。今から二〇年以上前につくられたものですけれど、一九三〇年代のアメリカ南部の小さな町の出来事が描かれた映画です。細かいことは全く忘れてしまいましたが、保安官だった夫が、酒に悪酔いしてしまった黒人青年に誤って銃で撃ち殺されてしまうという事件から話が始まります。その黒人青年は、裁判にかけられるわけでもなく、その次の日には、白人の男たちによってリンチにされ、車で引きずりまわされた挙句に首を吊って殺されてしまうのです。その他にも不倫をしている夫婦とか、決して和解出来ない関係を作り出し、死に別れ、生き別れする人間が何人も出てきます。しかし、その映画の最後の場面は、教会の礼拝の場面で、それも聖餐式の場面なのです。私たちの教会では、長老方がパンとぶどう酒をもって皆さんの所にもっていくやり方で配餐をしますが、その教会においては牧師が祝福した上でパンやぶどう酒のカップを載せた皿を最前列の人に渡します。そして、隣の人に「キリストの平和があるように」、つまり、「罪の赦しがあるように」と言いながらその皿を手渡すのです。その場面を見ていると、それは地上の教会の聖餐式でありつつ、映画の中では既に死んだ者とまだ生きている者が隣に座っていたりする。つまり、保安官を殺してしまった黒人青年と保安官、あるいは不倫によって心が通じなくなってしまった夫婦、もう二度と会わない形で別れた者たちが、その礼拝堂では隣に座っていて、「キリストの平和があるように」と言って、イエス様の肉と血を渡し、そして食べ、飲んでいるのです。それが聖餐の食卓を囲む礼拝堂、会堂の中で起こる現実です。そして、それこそが実は私たちが聖餐の食卓に与かるたびに面影を映し偲んでいる御国の現実です。イエス様の内にいる、とはそういう現実のことだと思います。
 ヨハネ福音書は、この段落の最後に、いつものように理性的に考えれば首を傾げたくなるようなト書きを書いています。

「これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。」

 これまでの話を冷静に見れば、イエス様をカファルナウムまで追い求めてきたのは、当初は男だけで五千人という大群衆でした。だとすれば、それは会堂などという小さな建物に入れるはずはありません。でも、いつしかイエス様と話しているのは「ユダヤ人」ということになっていたし、六〇節を見ると、何の説明もなく「弟子たち」になっていくのです。いつの間にか、私たちキリスト者の問題になっているのです。そして、場所も湖周辺の広場から、湖岸の町カファルナウムになり、最後はその町の会堂、つまり礼拝堂の中になっている。ある写本は、「安息日の会堂」となっているらしい。つまり、今日ここで捧げられる礼拝の中でイエス様が語っているという設定になっている。だから、わたしも最後にイエス様の言葉を読んで終わります。
 イエス様は、今日、この礼拝堂で、私たちに語りかけておられるのです。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」

 パンを食べて生きましょう。愛と赦しに生きていきましょう。
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