ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」
このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。
「ユダヤ人」のつぶやき
七月はヨハネ福音書の説教から離れて、四回連続でアブラハム物語の最後の部分を読んできました。八月はヨハネ福音書に戻ります。アブラハム物語の主題の一つは、彼の子孫が世界中に広がるという神様の約束にあります。そして、「肉の子孫」という意味では、ユダヤ人がまさにアブラハムの子孫なのです。しかし、そのユダヤ人が、神の許から降り、民族としてはユダヤ人の一人として生まれたイエス様の言葉に躓いている。受け入れることが出来ず、むしろ厳しく拒絶をしている。それが五千人のパンの奇跡から始まった六章の中盤に記されていたことです。四一節以下を少し飛ばしながら読んでおきたいと思います。
ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め、こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。わたしをお遣わしになった父が引き寄せてくださらなければ、だれもわたしのもとへ来ることはできない。わたしはその人を終わりの日に復活させる。・・・父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとに来る。・・・はっきり言っておく。信じる者は永遠の命を得ている。わたしは命のパンである。
イエス様は天から、つまり、神の許から降って来た命のパンである。この方を信じることがパンを食べることであり、そのことで人は生きる。それも永遠の命を生きる。その命は肉体の死を越えて、終わりの日の復活に繋がる命である。そういう福音が、ここで語られています。
しかし、あまりに当然のことだと私は思いますが、アブラハムの子孫であるユダヤ人は、その言葉の意味が分かりません。彼らは、肉眼で見えることしか見えないし、地上的なレベルでしか言葉を聞けないのです。イエス様の地上における姿はただの男であり、両親もおり、兄弟姉妹もいる。出自において皆と変わることがない一人の人間、一人の男です。彼らは、この男の潜在的な力に驚嘆し、メシアではないか、ユダヤ人の王としてローマ帝国に対抗してくれる存在なのではないか?!という期待は寄せました。イエス様が奇跡的な方法で分けてくれたパンでお腹が一杯になったからです。でも、イエス様はそこで群衆のお腹を満腹させることを目的としておられたのではありませんし、彼らが望むようなメシアであることを示したかったのでもないし、ユダヤ人の王になるためのアッピールをしたのでもないのです。しかし、彼らユダヤ人には、その見えない意図は分からない。その理由は色々とあると思いますけれど、今日そのことを深く追求する必要はないと思います。
「弟子たち」とは?
何故なら、今日の箇所における登場人物は「ユダヤ人」ではなく、「弟子たち」なのですが、彼らもまたユダヤ人と同じ反応を示すからです。ここに出てくる「弟子たち」、彼らも民族的にはアブラハムの子孫であるユダヤ人なのですけれど、ヨハネ福音書に出てくる「ユダヤ人」は多くの場合、イエス様の活動を警戒した当時のユダヤ教の当局者であると同時に、紀元一世紀後半から新しく自己を確立し始めたユダヤ教徒を意味し、同じように次第に自己を確立し、勢力を拡大し始めたキリスト教会を敵視する人々を意味しています。民族としてのユダヤ人ではないのです。ですから、ここに出てくる「弟子たち」も、ガリラヤ地方を伝道しているイエス様に従っていた人々であると同時に、イエス様が十字架にかかって死に復活して後、天に上げられて以降にイエス様を信じたキリスト教徒であり、キリスト教会のことなのです。つまり、聖霊の導きの中でイエス様への信仰を告白し、洗礼を受けた人々のことです。
他の福音書もそうなのですけれど、特にこのヨハネ福音書は、イエス様が肉体をもって生きておられた時のことを書いている体裁を取っているのですが、実はその中に、この福音書が書かれている時代のユダヤ教会とキリスト教会の関係とか、ローマ帝国内におけるユダヤ人や、その中のユダヤ教徒とキリスト教徒が置かれている状況を書き込んでいるのです。そのことを踏まえた上で、今日の箇所に入っていきます。
「私たち」とは?
ところで、弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」
ユダヤ人たちが「つぶやいた」のと同じように、弟子たちが「つぶやいて」います。これは驚くべき記述と言えばまさにそうですけれど、当然の記述と言えばまさにそうだとも言えるでしょう。
私が説教の原稿を作成する際に、非常に気をつけることの一つに人称の問題があります。たとえば、今「私」と言いましたが、この「私」とはどういう私なのか?人間としての私、日本人としての私、今の時代を生きている、あるいは東京のそれも渋谷という都心に生きている都会人としての私、中渋谷教会の一員としての私、男としての私、牧師としての私、夫としての私、親としての私などなど、「私」と一言で言っても実に多くの「私」がいるのです。何気なく「私」という言葉を使っていますけれど、そこには無限の広がりがあります。先ほどの「私が説教の原稿を作成する際に、非常に気をつけることの一つに人称の問題があります」という場合の「私」は「牧師としての私」あるいはより厳密に言うと「説教者としての私」という意味での「私」です。
この「私」よりもさらに難しいのは、説教の中で使う「私たち」です。私が「私たち」と無前提に言う場合、それがどういう「私たち」なのかは、文脈の中で決まってくるのですけれど、「日本人としての私たち」とか「中渋谷教会に集う私たち」なのか、その中でも特に洗礼を受けて信徒となりさらに会員となっている「私たち」なのか、その点についてはしばしば厳密に規定をしている場合があります。「私たちキリスト者」とか「私たちこの礼拝堂に集められている者たち」とか、「洗礼を授けられて聖餐に与かる者とされている私たち」とか言う場合がそれです。そして、そういう場合、明らかに、「キリスト者」と「それ以外の人々」を区別しているわけですし、また「信仰を与えられる以前の私たち」と「今の私たち」を明確に区別しているのです。信仰を与えられているか否か、信仰を生きているか否か、これは様々な面で決定的な違いですから、そこに区別があることは当然のことなのです。信仰をもっていようがいまいが大した違いがないというのなら話は別ですが、聖書に記されている信仰の有無は、生と死を分けるものだし、救いと滅びを分けるものです。それは人生においては、深い喜びと空虚を分けるものです。少なくとも、私にとっては、信仰を与えられていなければ、空しさの中に沈みこんでいくしかありません。信仰を与えられる以前は、生きることの空しさに押しつぶされまいと、これまた空しい享楽や刺激を求めて辛うじて生きる以外に術はなかったし、その術さえ空しいと思って、死の闇の包まれているしかなかったし、今だって、もし信仰を失えば、あっと言う間にそうなることは実感として分かります。
「けれども、そういう私たちが」つまづく
けれども、そういう私が、あるいは私たちが、毎週、聖書の御言を読み、また聴きながら、また聖餐の糧に与かりつつ、心も体もその言葉を受け容れて、生きているのか?!と問われるとすれば、先ほどの司式者の祈りにもありましたように、相変わらず肉の思いの中で日々の生活を生きているとしか言い様がない現実を抱えている。これもまた否定しようがない事実なのです。私たちは、あからさまには「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」とは言わないでしょう。でも、実際には何も聞いていなかったり、聞いても少しも理解していなかったり、理解するからこそ心ひそかに拒絶していたりする場合も多いのです。いずれにしろ、それは「聞いていられようか」ということなのです。そして、その欺瞞とか偽善に、私たち自身が気づいていない。そういう場合も多い。そのことに「気づいて」いるのは主イエスなのです。
イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。」
「つぶやき」、それはユダヤ人たちの専売特許ではないし、未信者の専売特許でもないのです。すべての人間が、なんの区別もなく、陥る現象です。次に出てくる言葉は「つまずき」です。この言葉はマタイやマルコ福音書ではしばしば使われますが、ヨハネ福音書では二箇所だけにしか出てこない言葉で、弟子たちに限定されている言葉です。そして、ある辞書によると、この言葉は「ある人に罪を犯させる原因」とか「ある人が信仰を失う原因」という意味であると説明されています。この場合の「罪」とは社会的な悪事とか犯罪ということではなく、「神の愛を信じない」「信仰を捨てる」、そういう意味です。
つまり、弟子たちはユダヤ人とは違って「わたしは天から降って来たパンである」というイエス様の言葉を一旦は信じた人々、イエス様こそ命のパンであると信じた人々であり、さらには五二節以下にあるイエス様の言葉、「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」という言葉を信じ、聖餐の食卓に与かっていた人々のことなのです。しかし、その彼らの中に、「信じない者たちもいる」のです。そして、その中にさらに裏切る者もいることをイエス様はご存知であり、さらにそのことを指摘されるのです。
「私たち」、つまり、この礼拝堂に集められ、イエス様の言葉を聞き、聖餐に与かる「私たち」が、このイエス様の言葉によって、実は「信じる者」と「信じない者」とに分けられていくのです。
闇の中に光が突入してくれば、そこに闇と光の区別が出来ます。天国が地上に突入してくれば、そこに入る者と入らない者との間に区別ができます。しかし、その区別は人間の目に見える形ではっきり見える場合と、目に見える形では見えない場合もあります。
信じない者 裏切る者
八月は、私たち日本人にとっては戦争について深く考え、また祈りを合わせる季節だと思いますが、たとえば先の戦争中、キリスト教は敵性宗教と見做され迫害の対象でした。日本の場合は、すべての諸教派が一つの団体に纏められ礼拝の前には国民儀礼として皇居にむかって拝礼(宮城遥拝)することが求められ、キリストへの忠誠よりも前に天皇への忠誠を尽くすことを求められました。その国家による統制に対してどのように対処するかは、ある意味では個々の教会に委ねられましたし、また個々の牧師や信徒の問題でもありました。そして、多くは少なくとも表立っては抵抗しなかったし、ある人々はむしろ積極的に国家の政策に協力したのです。しかし、その一方で、ホーリネス系の教会の牧師の中から殉教する牧師たちが出ました。しかし、当時の日本基督教団は、その教派をトカゲの尻尾きりのように扱いましたし、同じ教派の牧師や信徒の中でも、いわゆる転んでしまった人々もおり、また形だけは礼拝を守りつつ、実は国策に順応してしまった人々もいます。密告したり、告げ口したりして自分に対する迫害を避けた人々も当然いたでしょう。戦後、そういう事実が次第に明らかにされ、殉教者を出した教派はそのことで深く傷つき、互いに裏切り者扱いをして責め合ったり、自分たちを見捨てた他の教派を責めたりという悲しい歴史があります。日本のキリスト教会もまた全体としては戦争責任に対してはきちんと総括できないまま現在に至っていると言ってもおかしくないのです。(『信徒の友』という雑誌の八月号に関東教区が教団の戦争協力に関する「罪責告白文」を「草案」として掲載しているというのがその実情の一端を表してもいます。)
またドイツにおいては、ナチスの台頭と共に、ドイツ的キリスト教という運動が起こりました。日本でも神社参拝や天皇崇拝とキリスト教信仰は矛盾しないのだという日本的キリスト教がその時代には趨勢を占めていたのですけれど、ドイツにおいてもゲルマン民族の優位性をキリスト教が保証するという今になれば滑稽としか言い様がない空気が全国を覆ったと言われています。もちろん、そのことに対する抵抗運動もありましたが、大きな勢力にはならなかったのです。戦後のドイツは東西に分割され、社会主義政権の独裁政治下に置かれた東ドイツのキリスト教会は一貫して迫害の対象でした。これはキリスト教会に限ったことではないのですが、すべての市民が、秘密警察による監視下に置かれ、密告が奨励されていました。少しでも反体制的な思想をもっているとか、そういう運動に関ったと疑われれば、当局による尋問が行われ、そこで自白しないと、また仲間あるいは疑わしい人間の名前を密告しないと刑罰を受けるということがしばしばあった。その実体が東西の壁が崩壊して以後の情報公開によって次々と明らかにされていきました。自分が誰のどのような密告によって逮捕され尋問されたのか、調べたいと思えば、その資料を見ることが出来るのです。そういう時代になって、自分を密告したのは仲間であったはずの牧師であったことが分かったとか、同じ教会の親しい間柄の信徒が密告者であることが分かったとか、そういう痛ましいことがあるのです。
日本においてもドイツにおいても、迫害の中で教会生活を目に見える形で止めた人もいますが、目に見える形では継続しつつ、内面においては密告者になったり、転向者になったりした人もいるのです。誰がどうであるか本当に知っているのはイエス様だけなのです。
イエス様の時代 紀元一世紀末の教会
イエス様が神の国をもたらすために宣教を開始された当初、人々は熱狂的にその活動を歓迎しましたが、その一方で、イエス様のことを警戒した人々がいます。もちろん、ユダヤ教の当局者は警戒しましたし、監視を始めました。また民衆の中でも、「あの男は気が狂っている」と言って嘲笑する人々もたくさんいた。だからイエス様の家族、母親や兄弟たちがイエス様を捕まえて家に連れ戻そうとしたこともあるのです。そして、結局、イエス様は熱狂してイエス様を迎えていた群衆に捨てられ、弟子の一人に裏切られ、他の者たちには見捨てられ、ユダヤ教当局に死刑宣告され、ローマ当局に死刑を執行され、神にも見捨てられて死んでいかれたのです。
そのイエス様が復活して天に上り、今は聖霊において生きておられることを信じるということは、迫害の中を生きることを意味します。ヨハネ福音書が書かれた時代、それはキリスト教がユダヤ教から完全に異端宣言をされた時代だと言われています。一世紀末の時代は、ユダヤ教はローマ帝国によるエルサレム神殿破壊をもたらしたメシア宗教的要素を切り落としていく時代です。メシア待望は民族意識を高め、異民族支配に対して激しく抵抗する運動を生み出し、結果、滅亡への道を走る以外にないからです。そして、その流れの中でメシア宗教(キリスト宗教)そのものであるキリスト教を異端として完全に排除する。それは、「キリスト教徒はユダヤ人にあらず、非国民である」という宣言と同じです。キリスト(メシア)信仰を持っている者はユダヤ人の会堂から追放する、ユダヤ社会から追放するということです。つまり、イエスこそ待ち望まれていた救い主、人の子であると信じ、その信仰を公に言い表す者はユダヤ人社会の中では生きていけない。法的保護の対象から外す。そういうことです。そういう時代の中で、この福音書は、イエス様の言葉として、「わたしは天から降って来たパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。信じる者は永遠の命を得ている。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである」と告げるのです。それは、迫害の中で殺されても生きる命があるという宣言です。そして、教会の中にも「信じない者たちもいる」と告げる。
実際、それまでユダヤ教の一派の創始者のような形でイエス様を信じていた人々は、イエス様が誰であるかが次第に明らかになるにつれて「つまずいて」行き、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」のです。これは肉において生きておられたイエス様が活動していた時の現実でありつつ、同時に、イエス様が霊において生きておられることを信じることで生きている一世紀末のキリスト教会の現実なのです。そして、それは今の教会の現実でもあります。日本のクリスチャンの平均寿命は二・七年だという統計があるそうですから。洗礼を受けたクリスチャンが、様々な理由で三年もしない内に教会生活をやめてしまう。世の中に帰ってしまう。そういう現実が確かにあるのです。
人の子が上がるとは
そういう現実の中で、イエス様は「人の子がもといた所に上るのを見るならば・・」と意味深な発言をしておられます。実際に、この文章は途中で終わっていて、「見るならば」「なおさら躓くだろう」と続くのか、「そこで初めて信じることが出来るだろう」と続くのか解釈が分かれます。「もといた所に上る」という現実が何を意味するのかということと、「見る」とは何を意味するのかによって、色々な解釈が出てくる素地があるのです。その点について詳しく説明することはしませんが、私は、「見るならば信じることが出来るだろう」という立場に立ちたいと思います。
「人の子がもといた所」とは、言うまでもなく天ですけれど、そこに「上る」という言葉は三章一二節以下に出てきます。
わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ここで明らかに告げられていることは、イエス様は天から降ってきて天に上げられるお方であるということです。しかし、その天に上げられる道は十字架の道なのです。モーセによって荒れ野で上げられた蛇とは、人々の罪の償いの象徴だからです。イエス様は、すべての人間の罪を償うために十字架に上げられ、そして、復活をして天に上げられたのです。そのことによって、イエス様を神の独り子と信じる者が皆、永遠の命を得ることが出来る道を開いてくださったのです。
人の子を見るとは
また「見る」という言葉に関しては、六章の三六節三七節と四〇節を読まないわけにはいきません。そこにはこうあります。
しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。
わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。
「子を見て信じる」ということは、二重の意味で難しいことですし、ある意味、人間には不可能なことだと思います。イエス様が肉体をもって生きていた時、そのイエス様を見て、この方こそ世の罪を取り除く神の小羊と信じる、あるいは荒れ野でモーセが上げた蛇が象徴している存在であると信じるということは不可能なことだったと思います。当時のユダヤ人たちが、「これはヨセフの息子ではないか」と言ったように、偉大な人間、人とは違う人間ということは分かったとしても、神と等しいお方であると分かる、信じる、ということは不可能なことだと思います。肉体を見ているのですから。
しかし、今度は逆に、イエス様が十字架に上げられ、さらに復活して天に上げられて以後、「子を見て信じる」とか「人の子がもといた所に上るのを見る」とかいうことは、如何にして可能なのか?肉体としてイエス様が見える時にイエス様を神と等しい独り子であると信じることが不可能だったのに対して、今度は見えないのですから「見る」ということ自体が不可能なのです。私たちは誰も、当時のユダヤ人が見たようにイエス様を見ることは出来ません。しかし、この福音書はその現実を知りながら、「見る」ということを書いているのだし、その最後にはイエス様の言葉として「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」という言葉を書くのです。
聖餐
つまり、「見る」ことと「信じること」の関係は単純なものではないし、「見る」ということの意味内容もそんなに単純にして浅薄なものではないのです。この点についても詳しく語る時間はもうありませんが、今日は、洗礼を受けたキリスト者である私たちが、聖餐の食卓に与かる日です。この聖餐のことを私たちキリスト者は「目に見える徴」「目に見える御言」としばしば呼びます。私たちは、この食卓で配られるパンの中に、私たちの罪の贖いのために十字架につけられたイエス・キリストの体を見るからです。また、十字架の死から甦らされた復活のキリストの体を見ます。さらにこの食卓の中に、天上にあるイエス様が主人として私たちをもてなして下さる主の食卓の面影を映し偲びます。肉体で生きているイエス様を見ることは、私たちはありませんが、この食卓で配られるパンとぶどう酒を見ることによって、最後の晩餐の時のイエス様、十字架のイエス様、復活のイエス様、天上のイエス様を見るのです。そして、そのイエス様が肉体の命ではない命、霊の命、永遠の命を与えてくださることを信じる信仰が強められるのです。今日は、その聖餐に与かる日です。
信仰・聖霊・御言・命
しかし、人が見れば、ただの一切れのパンと小さなカップに入ったぶどう酒の中に、今言ったようなイエス様の様々な姿を見ることが出来る信仰とは、一体どのようにして与えられるのでしょうか。
イエス様は、これまでも再三、「父がわたしにお与えになる人は皆、私のところに来る(つまり、私を信じる)」とか「父から聞いて学んだ者は皆、わたしのもとへ来る」とおっしゃってきました。
そして、今日の箇所でも、そのことを繰り返して「『父からお許し(原語では「与える」と同じ)がなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ」と仰っています。宗教改革者のカルヴァンは、聖書に記されている言葉を信じる信仰を手にするために人間が出来ることは全くないと言った上で、こう言っています。「神はその聖霊によって、我々の中にこのような働きをなさるのである。」(『ジュネーヴ教会信仰問答』問三〇四)信仰は神様の賜物なのです。聖霊の賜物、プレゼントです。恵みなのです。ここには神の自由な選びがあります。私たちとしては、いつ何時働き給うか分からない聖霊に対して心を高く上げて備える以外にはないのです。信仰を与えてください。今日も新たにしてくださいと祈る以外にないのです。
先ほどは讃美歌の四九九番を歌いました。
「御霊よ、降りて むかしの如く
くすしき御業を 現したまえ。」
「御霊よ、降りて 恵みの雨に
かわける心を 潤したまえ」
「代々にいます みたまの神よ
今しもこの身に みちさせ給え」
私たちはこういう祈りをもって礼拝を迎えるしかないし、その祈りの中に御言を聴き、説き明かしとしての説教が与えられるのを待つしかないのです。そして、聖霊が注がれる中で御言が御言として、つまり、永遠の命を与えてくださる霊の言葉として聞こえて来る時に、これから歌います讃美(五〇一番)が心から湧き出て来るのです。
「いのちの御言 たえにくすし
見えざる御神の むねをしめし
つかえまつる みちをおしう」
「いのちの御言 たえなるかな
いのちの御言 くすしきかな」
今日聴くべき御言は、「命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である」です。この言葉は、肉、つまり知性とか理性とか感性とかいう人間的な能力で理解することも出来ませんし、まして信じることは出来ません。理解することも信じることも、聖霊によります。今日、聖霊の注ぎを受け容れてこの言葉を聞き信じることが出来た人は幸いです。その人は、これから与かる聖餐の中に主を見ることが出来るでしょう。そして、主の命に生かされることが出来るからです。
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