このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」
すると、イエスは言われた。「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた。(六章六六節〜七一節)
このヨハネ福音書の六章を読み始めたのが四月のイースター礼拝で、今日で十一回目となります。今日で漸く六章全体を読み終えることになります。今日は、六六節以下の御言に聴きたいと願っていますけれど、そのためにも、六章全体の流れを理解しておく必要があります。
六章の舞台はガリラヤ地方です。この場合の「ガリラヤ地方」というのはエルサレムがある「ユダヤ地方」に対する言い方です。「辺境の地」「田舎」という、ちょっとネガティヴな意味を伴う言葉ですけれど、イエス様の育った故郷であり、ヨハネ福音書においては「ユダヤ地方」に比べるとイエス様に対して好意的な地域という感じで出てくる場所なのです。それは次回読みます七章の一節を見れば一目瞭然です。そこにはこうあります。
「その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうと狙っていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。」
そういう「ガリラヤ」では、男だけで五千人という大群衆がイエス様の周りに集まってきたのです。女性や子供らを合わせると一万五千人とか二万人になる大群衆です。彼らは、これまでにイエス様が病人や障害者を癒されたことを見て、イエス様に対して様々な期待を抱いていた人々です。この方こそユダヤ人の王になる方かもしれない。宗教的な救済者かもしれない。(この二つは当時のユダヤ人にとって切り離せないものですが・・・)偉大なミラクルワーカー(奇跡行為者・病気治癒者)かもしれない。この方に頼めば無病息災、商売繁盛間違いなし・・・そういう様々な期待を持った人々が集まってきた。そして、イエス様は少年がもっていた五つのパンと二匹の魚でもってすべての人間を満腹させるという奇跡を起こされました。イエス様が「パンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与える」という場面は、後のキリスト教会の聖餐式(主の晩餐)を彷彿とさせる場面なのですけれど、人々はただ空腹を満たすパンを不思議な仕方で貰ったという受け止め方をし、「この人こそ、世に来られる預言者である」と言い、「王」として祭り上げようとした。それが六章前半の展開です。
しかし、イエス様が病人を癒すのも、パンを分け与えるのも、実はすべて、私たち人間の罪を赦し、永遠の命を与えるという神の救いの御業なのです。その御業を行うことによって、イエス様が神から遣わされた唯一のお方、神と等しいお方であることをお示しになっているのですが、人々はそのことが分かりません。ある意味、分かるはずもないのです。
次の場面は、イエス様が夜の闇の中、暴風によって荒れ狂うガリラヤ湖の上を歩いて弟子たちに近づいて来るという場面ですが、イエス様は恐怖のどん底に落とされている弟子たちに向かって「わたしだ。恐れることはない」と仰いました。「恐れるな」は、神様が現れる時に使われる言葉ですし、「わたしだ」はギリシャ語では「エゴー・エイミ」であり、モーセに現れた神様の名前なのです。イエス様はここで、ご自身において旧約聖書以来の神が現れていること、生きて働いておられることを、イエス様こそ救いの神であることを弟子たちにお示しになったのです。しかし、弟子がどう思ったかは、ここには何も書かれていません。
二二節以降は、イエス様を追い求めて湖の対岸にまで集まってきた人々とイエス様との対話です。この対話の中で、パンの奇跡が何であったかが次第に明らかになり、ついには、イエス様ご自身が命のパンであり、そのパンを「食べる」とはイエス様を「信じる」ことであり、その信仰において人の罪は赦されて永遠の命を生きることが出来るのだという福音が語られるのです。
しかし、その福音が語られ、イエス様が誰であるかが明らかになるに従って、イエス様の周囲から人々が離れ去っていくのです。六章の登場人物は、当初「大勢の群衆」だったのが、いつの間にか「ユダヤ人」となり、六〇節以下では「弟子たち」となっています。そして、最後にはたった「十二人」だけが残ったことになっている。二万人が十二人になっている。
その「十二人」を代表する形で、弟子のペトロによる信仰告白がなされています。それはイエス様によって「選ばれた」、ごく少数の人間による告白です。その告白が、前半に出てきた大群衆による浅はかな告白と対比されていることは明らかです。しかし、その選ばれた人間の中に、イエス様から離れて行くだけではなく、裏切る人間、悪魔がいるという事実がイエス様ご自身によって語られることで六章が終わるのです。これは一体どういうことか?!
ヨハネ福音書の一つの特色は、光と闇、命と死、信仰と不信仰という相反するものの対比と区別にあることは、今まで読んできてお分かりだと思います。この六章においても、ある意味ではその特色が出ているのです。しかし、ことはそう単純ではありません。
「信じることがないユダヤ人」と「信じている弟子たち」という対比が鮮明に出ているのなら、分かりやすいのですけれども、信じているはずの弟子たちが、次第に「つぶやき」始めたユダヤ人と同様に「つぶやき」始めるのです。そして、イエス様の許から離れ去って行ってしまう。「ユダヤ人」と「弟子」の区別はあるのだけれど、実際には同じ行動を取っていくことになる。
さらにその「弟子」の中でも特別な存在として、いきなり「十二人」が登場します。その十二人を代表する形でペトロが信仰告白をするのですが、その「十二人」の「中の一人は悪魔だ」と言われてしまう。読者には、ここでユダの裏切りが予告されていますけれど、言われた十二人にとっては、それが誰であるかはずっと分からぬままなのです。そういう緊張をはらむ集団として、十二弟子はその後も存在することになります。
つまり、不信仰な「群衆」「ユダヤ人」と信仰深い「弟子たち」とか、途中で信仰を捨てた「多くの弟子たち」と最後まで信仰を持っていた「十二人の弟子たち」というような単純な分け方が出来ないのです。それは、どんな人間も不信仰なのだし、あるいはそうなる可能性を秘めているということであり、それはまさに教会の現実そのものです。「あの人の信仰は堅いから、生涯変わることがないだろう」というような楽観主義は、ここには微塵もありません。
前回、私は説教の中で、信仰をもったキリスト者を指して「私たち」と言う場合があると言いました。その場合、「私たち」とはキリスト信仰を持っていない他の人々、世の人々と自分たちを区別する言葉です。しかし、問題はそう簡単ではなく、その「私たち」の中にも信仰を捨てる、教会から離れて、もといた世の中に帰って行く者たちが沢山出てくる現実があるということです。「まさかあの人が」という人が、意外にも消えているものです。それが六六節までに語られている現実です。
六七節以降に入ります。ここで、十二人の弟子たちがいきなり登場します。他の福音書では、十二弟子の名前があげられており、弟子としての任命の記事がありますけれど、ヨハネ福音書にはありません。ここで分かるのは、その十二人の中にペトロがおり、イスカリオテのユダがいるということだけです。ヨハネ福音書では、この二人が十二弟子を代表していると言って良いかもしれません。
その「十二人」に向かってイエス様は「あなたがたも離れて行きたいか」と問いかけます。この問いは、今日もこの礼拝堂に集まっている私たちキリスト者に向けての問いとして受け止めるべきものです。何故なら、今も言いましたように、この礼拝堂に集まってこないキリスト者は沢山いるからです。そして、私たちの誰かが、今後そういう人間の一人にならないとも限らないからです。だからイエス様は残った弟子たちに向かって、「あなたがたはよくぞ残ってくれた。あなたがたこそ、本当の弟子だ」とは仰らず、「あなたがたも離れて行きたいか」と問うのです。
イエス様は優しいお方だとか、慈しみ深いお方だとかよく聞きますし、たしかにそうなのですけれど、非常に厳しいお方です。絶えず新たに、私たちキリスト者の信仰を問うのです。しばしば、この場面は、他の福音書におけるペトロのキリスト告白の場面と比べられます。人々はイエス様のことをエレミヤの再来だとか、バプテスマのヨハネの生まれ変わりだと言っている。イエス様は、そういう状況の中で弟子たちに尋ねました。「あなたがたは私を何者だと言うのか。」ヨハネ福音書においては、その問いが「あなたがたも離れて行きたいか」なのです。それは、「私以外に、あなたがたが従うべき存在はいるのか?」という問いだからです。その問いに対して、ペトロは、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています」という信仰告白で応答します。ギリシャ語では弟子たちが「離れ去る」という言葉と同じ言葉がここでも使われていて、「私たちは決してあなたから離れ去りはしません」という愛を告白しているのです。イエス様こそが永遠の命の言葉を持っているのであり、その命の言葉から離れ去ってしまえば、自分たちに待っているのは死の滅びだけだからです。ここには、二度も「わたしたち」という一人称複数形が出てくることからも分かりますように、この告白はペトロ個人の告白であると同時に、十二弟子全員の告白であり、さらにこの福音書が書かれた時代の教会の信仰告白であるに違いありません。
その時代、キリスト教会はユダヤ教から追放され、迫害を受ける集団でした。そして、ユダヤ教からの追放はローマ帝国の中で迫害を受ける危険性を含むものであり、その危険性は次第に現実となっていったのです。イエス様が肉体をもって地上を生きておられた時も、最初は多くの支持者や支援者、信奉者がいたはずですが、そういう人々はイエス様が自分たちが願っているような人間ではないと分かってくるについて離れ去っていきましたし、最後にはひいきの引き倒しみたいになってもいったのです。それと同じようなことが、この福音書が書かれた一世紀末のキリスト教会にも起こっている。その現実を、この福音書は描いているのだし、それはまたいつの時代の教会においても起こる現実であることに変わりはありません。
イエス様は、ペトロの信仰告白を聞いても、「よくぞ言ってくれた。さすが私が選んだ十二人だけのことはある」とは仰いません。ここでもイエス様は、ある意味では極めて冷徹にこう仰いました。
「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」
ヨハネ福音書は、読者にだけ、この悪魔はユダであることを知らせています。ですから、少しだけ触れておきます。しかし、ユダに関しては、ヨハネ福音書にはこれからも何度も出てきますし、ある面ではいくら考えても分からないのだと思います。しかし、だからと言って、何も考えないことが正しいとも思えませんから、御言から離れない形で少し考えておこうと思います。
六四節に、「イエスは最初から信じない者たちが誰であるか、また、ご自分を裏切る者が誰であるかを知っておられたのである」とあります。こういう言葉から、いくつもの疑問が生じてきます。私の中に思い浮かぶものを順不同に上げて見ますが、最初から裏切る者だと分かっていてイエス様はユダを選んだのか?という問いが生じます。そうであるならば、ユダは神様の御心を行うための悲劇的な道具なのか?そうであるなら、ユダは裏切り者ではなく、神の忠実な僕ということにはならないか?あるいは、ユダは最初から裏切る気があったのか?途中から、サタンが入って彼はそのように仕向けられたのか?すると、悪いのはユダではなくて、サタン、悪魔なのか?そもそも「裏切る」とはどういうことなのか?多くの群衆と同じように、ユダの方がむしろイエス様に裏切られたと思ったのではないか?少し視点を変えて、イエスの十字架はユダにとっても贖いになるのか?ユダは自殺したとされているが、それは永遠の滅びを意味するのか?イエスは、陰府にまで降り、そこで獄に捕らわれている霊どもに説教をされたとあるが、その陰府にユダはいたのか?などなど、その他にもいくつもの疑問が生じます。
最近、『ユダによる福音書』という書物が発見されたというニュースが駆け巡って、その福音書に関する様々な書物が相次いで出版されていますけれど、裏切り者のユダに関しては初代教会の時代から現代に至るまで、人々の関心は尽きることはありません。彼ほど憎まれている人間もいないのですが、彼ほど同情されている人間もいない。その存在や役割の謎が、今もって人々の関心を惹く理由でしょうが、ある書物には、ユダに関してこういうことが書かれていました。
「『分かり過ぎる』よりは、我々に意味不明の謎のままであることを、・・・容認することのほうが余程ましである。・・答えられない問いについては、・・・間違った解答よりは無解答の方がましなのである。」
そうだと思います。ユダのことは謎なのです。この謎は、少なくともこの六章の段階では、これ以上深め行くことはしないほうがよいと思います。この後もまた、何度もその謎に直面しますから。
しかし、ユダに限らず、十二人はイエス様が「選んだ」弟子であることは、イエス様自身が明言しておられることです。その「選んだ」弟子の一人は悪魔だと言われる。マルコやマタイ福音書では、キリスト告白をしたペトロその人がサタン(悪魔と基本的に同じ意味と考えてよいと思います)と呼ばれます。悪魔にしろ、サタンにしろ、それは恐るべき形相をした怪物ではなく、人間であり、その人間の自覚としては、イエス様を信じており、愛してもいる人間なのです。彼ら自身は、少なくとも自覚として、イエス様を裏切るつもりなど少しもないし、たとえ迫害されてもイエス様を見捨てて逃げるつもりなどないからです。
イエス様が弟子たちを「選ぶ」という言葉は一三章と一五章に出てきますけれど、一五章の一八説以下には、イエス様による「選び」と世からの「迫害」は切っても切れない関係にあることが明言されています。イエス様は、私たちキリスト者を世から選び分かたれて、神に属する者とされたからです。しかし、世の闇は神の光を嫌います。だから、イエス様を迫害し殺すのです。それと同じように、イエス様に選ばれて神に属する者となったキリスト者を迫害する。それは、当然のことなのです。信仰をもって世を生きることに何の困難も覚えないとしたら、それは信仰を生きていないのです。そういう迫害あるいは困難の中で、信仰を生きることは容易なことではありません。ですから六章の段階で、正しい信仰告白をしたペトロは、ここで悪魔とは呼ばれていませんが、イエス様が捕えられる時には、「あなたのことを知らないなどとは決して言いません」と言っていたのに、「あの人のことは知らない」と言って逃げてしまったのです。
そのことに関連して一六章の最後の言葉を読ませていただきたいと思います。ここにも弟子たちの信仰告白があり、その直後に、イエス様の冷徹な言葉が続きます。一六章二八節から読みます。
イエス様はこう仰います。
「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」
すると弟子たちは、こう答えます。
「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」
ここには見事な信仰告白があります。しかし、イエス様はこう言われるのです。
「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
六章の言葉といい、この言葉といい、イエス様はあくまでも厳しく、鋭く、深く、私たち人間の弱さ、したたかさ、あくどさ、惨めさを見ておられますし、それを一見辛らつにして冷徹な言葉で指摘をされます。でも、こういう言葉を発せられるイエス様のお心は一体どういうものなのだろうか?と思うのです。
たとえば、結婚式においては、新郎新婦が互いに愛を告白します。愛を告白しなければ結婚式は成り立ちません。でも、新郎でも新婦でも、相手の告白は今現在の心からの言葉であることは分かるけれど、その心はいつか変わり、あるいはその心の奥底にはその人自身も知らない別の思いがあり、この人はいつしか自分から離れ去っていくということまで見通すことが出来るなら、深く傷ついた心を抱えながら相手の目の前から離れ去っていくしかないのではないでしょうか。
先ほど引用したユダに関する本の中にこういう言葉がありました。「人間の行動はしばしば不可解だと我々には感じられる。その理由は、我々が他人の心を、(あるいはもっと現代的な言い方をすれば、他人の無意識を)覗くことが出来ないからである。心の奥底を見るのはただ神のみである。」
私たちが覗くことが出来ないのは、他人の無意識だけでなく、自分の無意識もです。自分では信じていると思っている、愛していると思っている。だけれど、無意識の部分では、愛してもいないし、信じてもいないということがあるのかもしれません。あるいは、他の人のことを愛しているということがあるかもしれない。そして、人間の行動の多くは、中でも決定的な行動は、しばしば心の奥底に隠されている無意識から出てくる行動なのです。魔が差したとか、自分でも自分が分からないとか言いますけれど、神様は、そしてイエス様は、人間が決して見ることが出来ない心の奥底を見ておられます。そこは、ある意味で見てはいけない、見ないほうがよい、どす黒い世界です。私たちの人間関係において人からの裏切りの行為を通して、その人の心の中にあるどす黒い暗部を見てしまった時、私たちは深く傷ついた上に、離れ去っていくしかありません。あるいは、自分の中のどす黒い部分がムクムクと起きてきて、三倍返しくらいの復讐をするしかないのです。いずれにしろ、その関係は破局します。
でも、イエス様は、その裏切り行為が目に見える形で起こるずっと前から、既に弟子たちの心の奥底にある、どす黒い闇を見てしまっているのだし、いつか彼らがその闇に支配されてご自分を裏切り、見捨て、離れ去っていくことが分かっているのです。六章の言葉も、一六章の言葉も、その事実を語っている言葉でしょう。
その上で、イエス様の心を思います。もとより、私たちにその心の奥底など窺い知ることなど出来ません。でも、イエス様の心の中に深い悲しみがあることは分かります。深い深い深い悲しみがあり、嘆きがあるでしょう。ご自身が神から遣わされたメシア、神の子、神の聖者であることを、その御業と言葉によって証しをしても、肉で生きている人間たちは全く理解出来ず、誤解し、つぶやき、つまずき、十二人を残して皆、離れ去って行ったのです。しかし、残った十二人は、イエス様が選んだ十二人なのですが、その内の一人はイエス様を裏切る悪魔であり、他の者も、イエス様を残して自分の家に帰ってしまう人間なのです。彼らの誰一人自分がそんな人間だなどと思ってもいないのです。でも、現実にそうなのです。そして、その現実をイエス様だけが知っている。そして、現実を知っているイエス様は、ご自分を裏切り、見捨てることになる弟子たちを裏切らないし、見捨てない。最後まで愛し通されるのです。
今日の箇所で「裏切る」と訳された言葉は、パラディドーミという言葉です。ヨハネ福音書においてユダに関して使われる時は必ず「裏切る」と訳されます。でも、この言葉は元来、善悪とは関係のない一つの動作として「引き渡す」という意味を持った言葉です。そして、この言葉は、ヨハネ福音書の終盤に何度も出てきます。イエス様をローマの極刑である十字架刑で殺したいユダヤ人が、イエス様をローマの総督ピラトに「引き渡す」。そういう場面で繰り返し使われる言葉が、このパラディドーミです。そして、ピラトは、イエス様を十字架につける理由を見出せなかったのですが、ユダヤ人の圧力に負け、「そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した」とあります。これが、ヨハネ福音書の本体において、人間が主語としてパラディドーミが使われる最後です。
その先のイエス様の十字架の死の場面は、こういうものです。
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。
イエス様の十字架の死は、聖書の言葉の実現、つまり神様の御心の実現です。イエス様が選んだ弟子の一人であるユダの裏切りも、他の弟子たちの逃亡も、神の選びの民であるユダヤ人が、自分たちの救いのために天から降って来られたイエス様を死刑にするために異邦人であるピラトの手に引き渡すのも、彼がイエス様を十字架につけるために再びユダヤ人の手に引き渡すのも、すべて神の御心の実現なのです。神の選びの民も異邦人同様に罪に堕ちた人間であり、イエス様が選んだ十二弟子もまた同様の罪人であることを明らかにし、そのすべての人間の罪を贖うために、神はその独り子をさえ惜しまずにお与えになったという神様の御心の実現なのです。
そして、御子・主イエス・キリストは、その御心をすべて「成し遂げられた」時に、頭を垂れて「息を引き取られた」。この「引き取られた」が、ヨハネ福音書本体において最後に出てくるパラディドーミです。そして、イエス様が主語としてこの言葉が使われるのはここだけです。ユダの裏切り(引き渡し)、ユダヤ人の引き渡し、ピラトの引き渡しという行為の連なりの中で、神の子が人間に殺されるという最悪の罪が犯されていくのに、実はそのすべてに神様の御心の実現があり、イエス様は、すべての人間のすべての罪を背負って十字架に磔にされて、最後はご自身の息を、その霊を、神様に引き渡されるのです。これが、肉体をもって生きておられたイエス様の最後の行為なのです。
私にとっては、このことこそ秘儀です。ユダのことも分かりませんけれども、このイエス様の十字架も分かりません。ここで「成し遂げ」られている神の御心の深さ、その心の奥底に何があるのか分かりません。ご自身の独り子を、ご自身の独り子を殺す罪人らの罪を赦すために十字架につけるという神様の心の奥底など、到底分かりません。そして、人間に殺されながら、そのことを御心の実現とされていた残酷な父なる神様に、ご自身の息を引き渡されたイエス様の心の奥底にあるものも分かりません。でも、そこには、私たち人間自身がどうすることも出来ない心の奥底にある罪の闇の中に突入してきて、その人間を死の滅びから救い出し、命の光の中に生かそうとしてくださる父なる神と独り子なるイエス様の燃え盛る愛の炎があるのだと感じます。そして、イエス様がご自身の霊を父なる神様に引き渡すという時、そこには私たち一人一人を、父なる神様に引き渡すための祈りがあるのだと感じます。私たちはこの十字架のイエス・キリストによって神様に引き渡されている。ただ、この十字架によって、私たちは神様の御手に引き渡されている・・・。
「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」
信仰を告白したペトロの心の奥底、この時はペトロと同じ信仰を生きていたのに裏切ることになるユダの心の奥底、彼ら自身気がつきもしない無意識の層までもイエス様はすべて見通しておられます。だから、「あなたがたも離れて行きたいか」と問われるのだと思います。イエス様は、いつか彼らが離れていくことを既にご存知なのです。そして、彼らの心の奥底にはそういう不信仰が、恐るべき背信の思いが、弱さが、ずるさが、悪魔が潜んでいるのだぞと警告しておられるのかもしれない。それは、即、私たちに対する警告でもあるでしょう。
しかし、イエス様は、そういうずるさ、弱さ、悪魔を抱えもっている弟子たちに対して、「わたしはもうあなたたちとは共に歩めない。私はあなたたちから離れて去っていく」とは仰らないのです。イエス様はこれからも、そういうずるさ、弱さ、悪魔を抱え持っている弟子たちを愛し続け、教え続けます。ガリラヤを歩き回るのです。そして、その歩みはユダヤのエルサレムに向かいます。
十二弟子と同じ私たちの心の奥底をイエス様はすべて見て知っておられます。それなのに、今日も私たちを見捨てず、深い悲しみと、しかし、それをはるかに上回る、燃え盛る愛をもって、「あなたがたも離れて行きたいか」と問われるのです。
「いえ、あなたから離れたいなどとは思いません。でも、気がつくと離れてしまっているのです。あなたを裏切りたいなどとは思いません。でも、気がつくと裏切ってしまっているのです。私はそういう人間です。恐るべき悪魔が私の内に生きているとしか言い様がありません。でも、気がつくと、あなたが私のために十字架にかかってくださっているのです。そして、気がつくと、あなたは私の側にいてくださって語りかけてくださるのです。私は何が何だか分かりません。何故、こんな私をあなたは見捨てずに愛してくださるのですか。分かりません。でも、これは事実です。私が相変わらず罪人であることも、あなたが相変わらず私を赦し、愛し、共に生きてくださることも事実です。あなたが私を選んでくださったからです。それが事実であることは知っています。あなたこそ活ける神、永遠の命を持ったお方です。私はあなたを信じます。あなた以外の誰のところにも行きません。」私は、そう応えるしかありません。
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