「あの男はどこにいるのか」

及川 信

ヨハネによる福音書 7章10節〜24節

 

しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた。祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。群衆の間では、イエスのことがいろいろとささやかれていた。「良い人だ」と言う者もいれば、「いや、群衆を惑わしている」と言う者もいた。しかし、ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった。



  複雑な人間、もっと複雑なイエス様

 私たち人間というものは、本音と建前とか、表向きの顔と裏の顔、あるいは外面と内面を持っています。一見するとこう見える、第一印象ではこう見えるという人が、付き合ってみると、実は全然違う人であることはいくらでもあることです。そして、長く付き合っていたって、全くその人の本質が見えない、分からないという場合もある。それは、その人のほうに原因がある、たとえば本質をいつも隠しているという場合がありますけれど、逆に、見ている方の人があまりに鈍感で、本質を見抜けないという場合もあります。人間というものは実に複雑なものですし、その複雑な人間同士の関係はさらに複雑です。
 ヨハネ福音書に描かれるイエス様も実に複雑な方です。なにしろ、イエス様は「独り子なる神」と言われる方なのです。「神であって人ではない」のではなく、「人であって神ではない」のでもない。「神であって人、人であって神」なのです。そして、その方は「世の罪を取り除く神の小羊」と呼ばれ、「メシア」とも「イスラエルの王」とも呼ばれ、ご自身では天から降って来た「人の子」とおっしゃり、神を「父」とお呼びになる。この方はどなたなのか?!誰なのか?!これがこの福音書を貫く大問題で、その問題を巡って人々は混乱している。それが、今日の箇所でも明らかです。私も、また私の説教を聴く皆さんも、この福音書を読みながら混乱してしまうのです。でも、そういう経験をすることが、聖書を読むということなのであって、何処を読んでも理路整然とイエス様について説明が出来るなんてことは本来あり得ないし、あったとしても、そこに描き出されるのはイエス様でも何でもなく、説明をしている人間が作り出したイエス像に過ぎません。だから、私としては今日もこのヨハネ福音書において描かれ、証しされているイエス様を見つめ、証しをしたいと願いつつ、ひたすら聖書を読む以外にはありません。

二重性 兄弟たち

 今日は一〇節から二四節まで行くつもりだったのですが、一三節までに絞ります。

 七章から一二章までが大きな段落であり、その中で七章八章がエルサレム、それも神殿の境内を舞台にした一つの出来事であることは先週語りました。季節は秋、仮庵の祭です。その祭にイエス様が行くか行かないか、それが事の発端です。

 イエス様の兄弟たちは、イエス様に向かってこう言いました。

「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」

   今日は「二重性」ということを何度も言うと思いますが、たとえば「兄弟たち」という言葉、ここでは明らかに、イエス様の肉の兄弟を表す言葉として使われています。でも、この「兄弟たち」という言葉は、この福音書の後半では「弟子たち」の意味で使われるのです。主にある兄弟姉妹、神を父とする神の家族としての兄弟たちの意味で、この言葉が使われます。そして、六章の終わりでは、イエス様のことを少しも理解できず、むしろ反発し、亡き者としようとするのは、イエス様の敵対する「ユダヤ人」(ユダヤ教当局者)だけでなく、弟子たちもまた同様であることが告げられていました。その流れで言いますと、ここに出てくる兄弟たちの言葉は、イエス様の本質を全く理解していない不信仰の言葉なのだけれど、その無理解や不信仰は、実は弟子たち、つまり教会に生きる私たちにもあることなのではないか。そういう問いが、ここに隠されているようにも思います。「兄弟たち」という言葉の中に既にそういう二重性がある。

 しかし、さらに言いますと、ここで兄弟たちが言っていることの大切な点は、「公にすべきことをひそかにしない方がよい」ということです。彼らは最後に「自分を世にはっきり示しなさい」と言っている。この言葉自体は、決して間違っていることではありません。この「自分をはっきり示す」とは「自分を現す」「啓示する」という言葉です。そして、その言葉は、最後に触れることになる一七章のイエス様の祈りの中で、「世から選び出してわたしに与えて下さった人々に、わたしは御名(神)を現しました」という形で出てきますし、復活したイエス様が弟子たちに「ご自身を現す」という形で出てきます。ですから、非常に大切な言葉だし、イエス様がこれからなさることを予め言っている言葉なのです。そういう言葉を「兄弟たち」は発している。彼らは無理解、不信仰なのだけれど、彼らの言葉が、実は彼らの意図をはるかに越えた、神様の意図、神様が定めた「時」を指し示す言葉になっている。今は、まだその時ではないことを彼らは知らず、イエス様だけが知っているのだけれど、イエス様はいつか公に、ご自身が誰であるかをお示しになる。ご自身を現す時が来る。そのことを彼らの言葉は、彼らの意図せぬ形で語っている。そういう二重性がここにはあるのです。

公に(公然と) ひそかに(隠れて)

 そして、「公に」と「ひそかに」という言葉が、先週と今日の箇所におけるキーワードですけれど、この言葉は他のところでは「公然と」と訳されており、「ひそかに」は今日の箇所では「隠れるようにして」と訳されています。この二つの言葉も二重の意味というか、二つの全く異なる次元を持つ言葉なのです。そして、その次元が分からないと、イエス様が誰であるか、少なくとも私たちにとって誰であるかが分かりません。

 ここで兄弟たちが語っている「公に知らせる」「はっきり示す」とは、肉眼の目に見える形で、イエス様が偉大な人間であること、奇跡を起こすことが出来るし、多くの人々の心をつかむことが出来る人間、今で言う「カリスマ的存在」であることを、広く多くの人に知らせるべきだという意味だと思います。人目につかない田舎町でこそこそとやっていないで都に出よう。それも仮庵の祭という過越しの祭りに並ぶ大きな祭りで公に自分を示せば、すぐにでもトップに登りつめることが出来る。そういう意図をもって、彼らは「ここを去ってユダヤに行きなさい」と言っているのです。

 しかし、イエス様は二度、それも少しニュアンスを変えながら、「わたしの時はまだ来ていない」とおっしゃって、兄弟の求めを断ります。「しかし、兄弟たちが祭りに上って行ったとき、イエス御自身も、人目を避け、隠れるようにして上って行かれた」のです。

こういう書き方だと、イエス様ご自身が一生懸命に身を隠しているかのような印象を持たされます。でも、私はそうではないと思います。イエス様は、兄弟の願いではなく、神様の意思に従って正々堂々と、公然とエルサレムの祭りに上っていかれた。その姿は誰でも目で見ることは出来た。でも、イエス様がエルサレムにおける仮庵の祭りに行かれることの中に何があるのかは、誰の目にも隠されていた。見えなかった。そういうことが、ここで言われているのだと思うのです。

七章一節からの表向きの文脈は、こういうことです。ユダヤ地方にはイエス様を殺そうとするユダヤ人がいたので、イエス様は「ユダヤを巡ろうとは思われ」ず、ユダヤに行きなさいという兄弟の促しを断っている。それは、一面では、まだ殺される時ではないということを現しています。しかし、実際には、イエス様は兄弟の促しとは別に、神様の促しに従ってユダヤの地、エルサレムに上っていかれる。その地には「あの男はどこにいるのか」と言って探し回り、見つけ出したら捕まえてやろう、ことと場合によっては殺してしまおうと思っている人々がいる。だから、イエス様は人目を避けているように見える。そして、エルサレムの群衆たちは、イエス様が誰であるか分からず、漠然と「よい人だ」とか「いや、群衆を惑わしている」とか噂をしているのだけれど、彼らは、イエス様を殺そうとしている「ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった」のです。

しかし、それに対してイエス様は、「祭りも既に半ばになったころ」、多くの人の目につく「神殿の境内に上って行って、教え始められた」のです。まさに公然と活動をし始めた。だからこそ、二五節以下で、エルサレムの人々の中には驚いてこう言う者たちが出てきた。

「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。」

 つまり、「議員たち」(ユダヤ教当局者・「ユダヤ人」)に捕えられて殺されることをイエス様が恐れているのなら、あくまでも人目を避けて行動するはずなのですが、イエス様は公然と語られます。公に、ご自身が誰であるかを語り始めるのです。

 そのことによって、イエス様を敵視する人々は、これから幾度もイエス様を捕まえて殺そうとする。でも、それが出来ない。まだイエス様の時が来ていないからです。

 そして八章の最後の言葉はこういうものです。

イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

この八章の終わりの「身を隠して神殿の境内から出て行かれた」が、今日の箇所の「人目を避け、隠れるようにして上って行かれた」に対応していることは言うまでもありません。この二つの文章が、仮庵の祭、また神殿境内におけるイエス様とユダヤ人やその他の人々との一連のやり取りを囲む大枠になっているのです。そして、その枠の中の最後の言葉は「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」です。ここでイエス様は「自分は人間ではなく、神である」とおっしゃっている。それも「はっきりと」、「公然と」です。だからこそ、人々は神を冒涜する輩としてイエス様を聖なる処刑である石打の刑で殺そうとしたのです。でも、イエス様はそこでも身を隠されました。エルサレムにおける祭りに上るときも隠れていたし、祭が終わるときも隠れていたのです。まだ人々には、イエス様の姿、その本質は見えていないのです。

実際には、隠れるところなど何もない神殿の境内で、今まで目の前で話している人が突然身を隠すというのも、具体的な情景としては思い描けないことですが、ここでもイエス様の本質は誰にも見えず、また神様が定めた時が来ていない以上、人間がイエス様を殺そうと思っても、絶対に殺すことが出来ないという現実が語られているのだと、思います。

捜す どこにいるのか?

そういうことであるとすると、「あの男はどこにいるのか」という言葉も、実に含蓄の深い言葉であることが分かってくるのではないでしょうか。 この言葉の表面的な意味は、イエス様を見つけ次第、捕まえて殺すという意味です。でも、果たしてそれだけなのでしょうか?イエス様がどこにいるのか、という問いは、この福音書においては非常に根源的な問いなのです。

一一節をもう一度読みます。

祭りのときユダヤ人たちはイエスを捜し、「あの男はどこにいるのか」と言っていた。

 ここで「捜す」という言葉が出てきます。ゼーテオーという言葉です。ある辞書によれば、これは「見出そうとして捜し求める」という意味で、その深い次元では、救い主を捜し求めているという意味になのです。イエス様が「どこにいるのか」ということも、表面的な意味では、たとえば神殿の境内の中にいるのか、それとも境内の外にいるのかという意味ですけれど、実は、イエス様とは一体誰なのか、神様との関係ではどこに位置しているのか。そのことを知りたい。そういう問いなのです。

 この「捜す」と「どこにいるのか」という二つの言葉は、一章において出てきます。それも、弟子たちとイエス様が出会う場面です。その場面は、イエス様の先駆者である洗礼者(バプテスマ)ヨハネが彼の二人の弟子たちに向かって、イエス様を証言する所から始まります。一章三五節。

その翌日、また、ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ(『先生』という意味)どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア(『油を注がれた者』という意味)に出会った」と言った。

 ここでイエス様が、後ろからついてくるヨハネの弟子たちに、「何を求めているのか」と尋ねている言葉が、今日の箇所では「捜している」と訳された言葉と同じです。彼らは元々救いを求めてバプテスマのヨハネの許に行った弟子たちです。その彼らに対して、ヨハネは、「救いをもたらすのは、私ではなくあの人だ。あの人こそ、世の罪を取り除く神の小羊だ。あなたたちが見るべきはあの人だ」と指差したのです。お師匠さんの言葉を聴いて、彼らは、イエス様の後に従い始めた。そういう彼らに、イエス様が「何を求めているのか」と問う。「何を捜しているのか?誰に会いたいと願っているのか」という問いです。彼らは答えます。「先生、どこに泊まっておられるのですか。」これも表面的には「先生の今晩のお宿はどこですか」と言っているわけですが、さらに奥の次元では、「先生、あなたはどなたなのですか」「救い主、メシアなのですか」という問いなのです。神様との関係において、どこに立っておられる方なのかという問いだからです。

 「泊まる」とは「留まる」とか「繋がる」という意味の言葉です。後に、イエス様は「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。わたしに繋がっていなさい」と弟子たちにおっしゃいますが、その「繋がる」が、ここでは文脈上「泊まる」と訳されているのです。イエス様は誰のところに泊まっている方なのか?誰に繋がっている方なのか?それがこの時の弟子たちには問題でした。イエス様は、「来なさい。そうすれば分かる」とおっしゃった。「来なさい。そうすれば見る」とも訳せます。この言葉に従って、彼らはイエス様がどこに泊まっておられるかを「見た」のです。そして、その日はイエス様の「もとに泊まった」。その翌日、二人のうちの一人であるアンデレは、兄弟シモン・ペトロに出会って、「わたしたちはメシアに出会った」と証言することになります。つまり、イエス様は神様から遣わされたメシア、救い主であることが分かったということです。そして、それはどのようにして分かったかと言えば、洗礼者ヨハネの証言を聴いて、イエス様に従い、さらにイエス様の言葉に従い、イエス様のもとに泊まった、繋がった、留まったからです。彼は、そのことを通してイエス様をメシア(キリスト)と告白する証言者になったのです。

敵対者も被造物なるが故に

 しかし、今日の箇所で「あの男はどこにいるのか」と捜し求めている「ユダヤ人」たちは、一章に出てくる二人の弟子たちとは、やはり違います。弟子たちは、自覚的に救いを求めています。でも、「ユダヤ人」たちは、イエス様を殺そうと思って捜しているのです。表面的には全く逆の目的を持っているのです。でも、果たしてそれだけなのだろうかという疑問を、私は感じます。

ある学者が、このユダヤ人たちについて、こういうことを言っていました。ちょっと難しい言葉なので、私なりの言葉に言い換えるとこうなります。

“彼らユダヤ人は、肉体をもって生きているイエスを捜している。でもこの箇所の一つの主題は「隠れている」ということである。そのことをここに当て嵌めると、彼らは実は肉体で生きているイエス以上のものを捜し求めているのだ。イエスは肉の次元ではなく、霊の次元において本来の姿を現す。彼らが、心の奥底で無意識の内に求めているのは、霊において生きる救い主なのである。ここには、彼らの意に反して救い主を求めるという意味合いが含まれている。”

 こう語る学者は、その直前にはこう言っています。

「イエスのみが永遠の命を与え得るという真理を、彼らは否定し、消し去ることが出来ない。また、彼らが神の被造物であることから、それは不可能なのである。」

「彼らが神の被造物であることから、それは不可能なのである。」私は、この言葉を読んだときに深く同感しました。私たち人間は皆、誰もが、一人の例外もなく、神様の被造物なのです。生まれたばかりの赤ん坊は、親を求めて泣くのですが、母親の胸に抱かれて、子宮の中で聴いていた母親の血流の音が聞こえると安心して泣き止むということを随分前NHKの番組で見たことがあります。私たち被造物は、この世に生を与えられた時からずっと自分の命の創造主を求めているのです。その方と出会い、その方の胸に抱かれるまでは、いつも心の奥底に不安と恐れを抱えているし、飢えと渇きを感じているのです。私がしばしば引用するアウグスティヌスの言葉にありますように、私たち被造物は、創造主である父なる神の御腕に抱かれた時に初めて、まことの平安、安らぎを与えられるのです。その時まで、私たちはこの世の荒野を命の水を求めて、行き先も見えない苦しい旅を続ける以外にありません。

祭(礼拝)の中で注がれる霊(水)

 先週の説教の中で語ったことは、仮庵の祭りとは命を生かす水をふんだんに使う祭りであり、その祭が最高潮に達したときに、イエス様が「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と叫ばれたということです。そして、この水は、聖霊のことであり、その聖霊はイエス様が十字架で死に、復活されて以後、注がれる霊のことです。この霊が注がれる時、私たちはイエス様が誰であるかが初めて分かるのです。この方こそ、罪の故に創造主なる神と出会うことが出来ず、交わりを持つことが出来ない私たちのために、ご自身の命をあの十字架に捧げて、私たちの罪を取り除いてくださった神の小羊であることは、聖霊の注ぎの中で初めて知ることが出来るのです。そして、この小羊を通して、私たちは初めて父なる神の胸に抱かれて、真の平安を、うるおいを与えられるのです。

説教の始めの方で、兄弟たちが語る「はっきり示しなさい」という言葉が、一七章の祈りの中に出てくると言いました。一六章では、「真理の霊」としての聖霊が弟子たちには与えられ、その時、聖霊によって弟子たちは真理を悟ることになるとイエス様は約束されます。そして、一七章は、福音書の文脈上は十字架の死の前の祈りなのですが、実は初代教会の礼拝(祭り)に集う弟子たち(兄弟たち)のためにイエス様は祈っているのです。その父なる神への祈りの中で、イエス様はこうおっしゃっています。

「世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。」

 この「現す」が、「はっきり示す」と同じです。公に、公然と示すということです。しかし、すべての人々が、イエス様が誰であるかがはっきりと示され、イエス様を通して父なる神を知ることが出来るわけではありません。それが出来る人は、神様によって「世から選び出され」イエス様に「与えられた人々」です。神の恵みの選びによって教会の礼拝に招かれ、その礼拝(祭り)の中で真理の霊を与えられ、信仰を与えられた者だけがイエス・キリストを知り、イエス・キリストを通して父なる神を知り、信じ、愛するようになるのです。そして、今でもイエス様は、そういう者を一人また一人と生み出すために、生きて働いておられるのです。今日、この礼拝に集められている私たち一人一人全てが、そのイエス様の働き、招きによって、今、この礼拝を捧げている。与えられているのです。

イエス様の祈り 聖餐

  そして、イエス様は、聖霊によってイエス様を信じるようになった者たちのために、延々と祈ってくださいます。

「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」

 私たち洗礼を受けたキリスト者は、これから聖餐の食卓に与かります。主イエスの肉であるパンと血潮であるぶどう酒を頂く。私たち罪人が父を見出し、父に見出され、その御腕に抱かれるために裂かれた主イエスの肉と流された血潮を頂く。主イエスの愛、主イエスの命を頂くのです。これが、「この世に残っている」私たち主イエスの弟子たち、つまり主イエスの兄弟とされている者が、信仰を守られて生きる上で欠くべからざるものなのです。聖霊の注ぎの中に、このパンとぶどう酒を頂くことによって、私たちは主イエスと交わり、父なる神様と交わり、そして、私たち同士も一つの交わりをなるのです。主イエスが神様に向かって「聖なる父よ、わたしに与えて下さった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです」と祈ってくださいました。その祈りの中に守られて、私たちは今日も聖餐式を守り、祝います。その式の序文の中には、こういう言葉があります。

「キリストのからだと血とにあずかるとき、キリストはわたしたちのうちに親しく臨んでおられます。また、この恵みのしるしは、わたしたちすべてを主において一つにします。今、御霊の神に支えられて、この聖餐に与かり、ひたすら主に仕え、その戒めを守り、互いに愛し合いながら主の再び来たりたもう日を待ち望みたいと思います。」

 聖霊を受け入れ、この世から選び別たれ、信仰に生きる時、私たちはパンとぶどう酒の中に隠された形で存在する、十字架の主イエス、復活して今も私たちと共に生きてくださる主イエスの臨在する姿を見ることが出来るのです。そして、この主と共に、そして主において一つとされて、荒涼たる荒野の旅を、約束の御国を目指して歩むことが出来るのです。

「あの男はどこにいるのか」。

ここにいるのです。見える人には見える。その人は、「今日、私はメシアに出会った」と、会う人々に公然と証言できる人です。誰をも恐れず、この方こそ、神の小羊、私たちの救い主と証言できるその人は本当に幸いです。死をも恐れぬ平安が与えられているからです。そして、神様は今日、この礼拝堂にいるすべての人に、その平安を与えようとして下さっているのです。
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