「正しい裁きをしなさい」

及川 信

ヨハネによる福音書 7章10節〜24節

 

祭りも既に半ばになったころ、イエスは神殿の境内に上って行って、教え始められた。ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言うと、イエスは答えて言われた。「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。モーセはあなたたちに律法を与えたではないか。ところが、あなたたちはだれもその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか。」群衆が答えた。「あなたは悪霊に取りつかれている。だれがあなたを殺そうというのか。」イエスは答えて言われた。「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている。しかし、モーセはあなたたちに割礼を命じた。――もっとも、これはモーセからではなく、族長たちから始まったのだが――だから、あなたたちは安息日にも割礼を施している。モーセの律法を破らないようにと、人は安息日であっても割礼を受けるのに、わたしが安息日に全身をいやしたからといって腹を立てるのか。うわべだけで裁くのをやめ、正しい裁きをしなさい。」

(一四節〜二四節)

イエス・キリストと出会う喜びと驚き

 イエス・キリストと出会った時の驚き、それをどういうふうにして言葉にしたらよいのか分からない。それが、私が毎週味わう苦悩であり、喜びです。聖書を読んでいて御言の光に照らされてくると、自分自身の浅ましさ、醜さがはっきりと見えてきます。それは苦しいことです。しかし、そのこと抜きに、イエス様と出会うことは出来ない。そして、イエス様と出会う時、その語りかけが本当に分かる時、聞こえる時、その姿が見える時、それはただひれ伏して感謝し、讃美する以外にない。それはどんな喜びとも、比較にならない喜びであり、何よりも驚きです。洗礼を受ける決心をせざるを得なかった三十年前のあの時から、私にとっては、その驚きを語ることが生きるということだし、今も、そうなのだと思います。「こんな方が実際に地球上に生きていたのだ。そして、今も生きているのだ!」ただ、そのことだけ知らせたい、語りたい。それ以外に、心底から燃えるような思いになれるものはありません。
しかし、人間はそういう思いだけで生きているはずもなく、暗い衝動に突き動かされて、自らを汚し、他人を汚し、神を汚しつつ、それでも自分は正しいのだと言い張りながら生きている。そのように生きている人間たちが、今日の箇所にも出てきます。私たち人間は、自分の正しさを主張しながらイエス・キリストを抹殺している。殺している。十字架に架けている。しかし、そういう私たちに、今日もイエス様は深く、厳しく、熱く、語りかけてくる。そのイエス様と、今日も皆さんと共に出会いたいと心から願っています。そして、驚きと感謝をもって礼拝したいと願っています。

この男は一体何者か?

秋に祝われる仮庵の祭りの半ばに、イエス様はいよいよ神殿の境内に上り、教え初められました。

ユダヤ人たちが驚いて、「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているのだろう」と言った。

当時のユダヤ人にとっての「学問」は、ラビと呼ばれる律法の教師から聖書を学ぶことです。そして、「学問をしたわけでもないのに」という言葉は、「ラビの学校で学んだこともないのに」「誰の弟子になったわけでもない」という意味です。イエス様はガリラヤという田舎出身であり、権威ある学者の下で聖書(私たちが言うところの旧約聖書)を学んだ実績など全くありません。しかしそれなのに、他のどんな学者にも感じられない圧倒的な権威をもって聖書に記されている神の言を教えている。そのことに人々は腰を抜かさんばかりに驚いている。この男は一体何者なのか?!それが、今日の箇所においても問題です。

七章と五章の比較

 七章は舞台が同じエルサレムである五章と文脈上も用語上も近い関係にあることは少し読み直せば分かります。
 今日は五章と七章を比較したノートをお配りしましたが、二一節には、「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは皆驚いている」とあります。これは少なくとも表面的な出来事として言えば、エルサレムのベトサダの池の辺で、イエス様が三十八年間も寝たきりだった病人を癒してしまったという圧倒的な御業を指しています。そして、この業が行われたのもまた、何の祭りであるか分かりませんが祭りの期間中のことであり、さらにその日は働いてはならないと律法で決められた安息日でした。しかし、イエス様は、安息日こそ罪の中に死んでいる人間に祝福がもたらされる日であるとして、人を新しく立ちあがらせたのです。しかし、それはユダヤ人にしてみると重大な律法違反でした。さらに、イエス様が「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ」とおっしゃって、「安息日を破るだけでなく、神をご自分の父と呼んで、ご自分を神と等しい者とされた」ことで、ユダヤ人たちはイエス様を殺そうと狙うようになったのです。それが七章の前提になっていることです。
もう少し五章と七章の比較を続けますが、五章では、ユダヤ人たちは互いに誉れを受けることを望んでいるのに、神からの誉れを求めようとしていない、とイエス様から非難されています。この「誉れ」は、今日の箇所では「栄光」と訳されている大事な言葉です。人間は自分の栄光を求める。しかし、イエス様は「自分をお遣わしになった方」、つまり父なる神の栄光だけを求められる。もう一つ言うと、この「自分をお遣わしになった方」という言葉は五章から一二章までに、実に十九回も出てくる大切な言葉です。そして、五章三十節以下で、イエス様は、自分の意志で裁かない。イエス様をお遣わしになった方の意志を行う。だからその裁きは正しいとおっしゃる。裏を返せば、神の意志を聞かずになされる裁きは正しくない、不義であるということです。また、イエス様が自分について証しをするなら、それは真実ではないが、神様がイエス様について証しをしてくださる証は真実であるとあります。今日の箇所では、「自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実であり、その人には不義はない」とあり、「裁き」とか「真実」という大切な言葉もまた五章と七章に共通しています。そして、五章では、イエス様のことを、律法を守らない罪人だと非難し、殺しても当然だと思い始めているユダヤ人が、七章ではイエス様によって「あなたたちは誰もその律法を守らない。なぜ、わたしを殺そうとするのか」と非難されている。つまり、神様がモーセを通して与えた律法の本質を理解せず、そのことの故に、自分では律法を守っているつもりでも、実際には守っていない人間が、どうして、神に遣わされ、神の意志だけを行っている存在を神の名によって裁くことができるのか。神によって裁かれるべきは、むしろあなたたちなのではないか?!と鋭く、また本質的な反問をされるのです。あなたたちの裁きは真実なのか?それこそ不義なのではないか。裁くなら、正しい裁きをしなさい、ということです。

イエス様を殺したい理由

 五章から問題になっていることは、イエス様が祭りの期間中の安息日に一人の重病人、決して治るはずのない病人を癒したことです。それはユダヤ人にとっては律法に違反する行為である。だから、この人は罪人である。ユダヤ人は、そう思っている。しかし、そういう罪人、つまり、律法の決まりを一つ違反した罪人を死刑にしていたらきりがありません。ユダヤ人が、イエス様をつけ狙っていた理由は別のところにあります。その一つは、妬みです。
イエス様の業が驚愕すべきことである。これは今日の箇所でも「わたしが一つの業を行ったというので、あなたたちは驚いている」とありますように、イエス様の「業」とイエス様の「教え」は、それぞれに、あるいは一体となって、人々を驚かすに足るものなのです。庶民の心が、この得体の知れない人物の方に行ってしまうのではないか、掠め取られてしまうのではないか、そういう恐れと妬みが、彼らユダヤ教の指導者層にはある。それは明らかです。
しかし、その庶民だって、結局は彼らと同じようにイエス様を殺す側に立つことになるのだし、一度はイエス様の弟子になった者たちですら、イエス様に躓いて立ち去っていったことは六章で既に知らされたことです。どうしてそういうことになるのか?
 それは、イエス様のことが誰も分からないからだと思います。私たちは分からないものを恐れます。さらに、イエス様の分からなさは、ある意味、破壊的なものなのです。新しいぶどう酒を古い皮袋に入れると、発酵して来た時に古い皮袋が破れてしまうように、イエス様を信じ自分の中に受け入れるということは、誰にとっても、古い自分が壊されていく、破られてしまうことを意味します。最近はよく「改革には痛みが伴う」と言われ「改革なくして成長なし」と言われます。それは両方とも正しいことだと思います。しかし、成長はしたくても痛みが伴うことは御免だというのが、私たち人間の心情です。まして、「新しく生きる」ということは、痛みが伴うとかいう中途半端なことではありません。「新しく生きる」という言葉は美しい言葉かもしれませんが、その前提は「古き自分は死ぬ」ということです。イエス様の教えと業とは、結局、古い命を殺して、その上で新しい命を与えることなのです。しかし、自分は正しく生きていると思っている人間は、死ななければならない理由が分かりません。だから、イエス様の、「あなたは罪人です。もう充分だ。さあ、罪に死になさい。古い命は死んで、私を受け容れ、新しく生まれ変わりなさい」という語りかけには堪えられません。新しくなるためには、己の罪を認め、悔い改める必要がありますが、罪を認めたくない者は、イエス様を殺したくなるのです。

イエス様を殺している二つの例

1 罪人の一人としてのイエス様?

  先日、全く驚くべき言葉を教会関係の印刷物で読みました。私と同業者の話をするのは気が重いのですけれど、ある教区の教会会議の席で、一人の牧師が「イエスもまた、私たちと同じ罪人の一人であったと思う」と言っていたというのです。現代の日本のキリスト教会において、聖餐式をすべての人に解放するという動きがあります。そういう動きの背景にあるのは、一種のヒューマニズムです。人間中心主義なのです。キリスト中心ではなく人間中心です。以前もお配りした「キリスト新聞」の記事にも出ていましたように、目黒の教会の役員の一人は、「教会に来た一人の子供が、何故、自分はパンを食べることが出来ないのか分からないと言って泣いた。イエス・キリストは幼子を招いた方ではないか。それなのに教会は、幼子を食卓から排除してしまった。それはイエス・キリストの御心に適うことではない。我々は、あの幼子の泣き声を聞いて私たちはそのことに気づいた。それ以後、すべての幼子、すべての来会者に主の食卓を提供するようになった・・・」と誇らしげに書いている。
 世の人々がイエス様について何を言ってもそれは構わないし、仕方ないと思います。世界の三大聖人とか三大賢人と数えたければ数えればよいでしょう。でも、「キリスト教会」の看板を掲げた教会の牧師が、教会の会議で「イエスもまた私たちと同じ罪人の一人であったと思う」ということを平然と言う。それは世の人が言っていることとは意味が全然違います。牧師とか長老、教会によっては役員とか執事とも呼ばれますけれど、そういう立場に立った人間はキリスト教会の信仰を代表している人間です。その言動は、特に公の席における言動は、教会の信仰に則ったものでなければなりません。それが嫌なら、牧師をやめれば良いし、キリスト者であることをやめれば良いのです。いや、やめなければならないのです。
牧師にとって説教とは、神の前で、神の言を語り、信仰を公に証しするものです。教会会議の場でいけしゃーしゃーと「イエスもまた、私たちと同じ罪人の一人であったと思う」と言ったということは、それがその牧師の信仰告白なのですから、公の礼拝における説教でも、同じ信仰を語っているに違いありません。たとえば、こんな風に語っているのかもしれない。

「皆さん、イエス・キリストは、私たちのために罪人になってくださったのです。そして、私たちと同じように罪を犯していたのです。神様の御心に反することを心に思ったり、実際に行ったりしたのです。だから、徴税人や娼婦たちの仲間になれたのです。このイエス様は、私たちがどんなに罪を犯しても、決してお見捨てになりません。イエス様も私たちと同じように罪を犯し、どうしても罪を犯してしまう人間の苦しみを共にして下さっているのです。どうです皆さん。本当に素晴らしい方ですね。ここまで私たちの苦しみや悲しみに寄り添ってくださる方はいないのです。この方の愛こそ真実なものであると信じましょう。イエス様は今日も私たち罪人とその歩みをともにしてくださるのです。これからの一週間、このイエス様と一緒に歩きましょう。罪を悔い改めるとか、そんなことは必要ないのです。イエス様は罪を犯す私たちをそのままに肯定し、受け容れてくださるのですから・・・・」

 我ながら慰めに満ちた説教だと思います。皆さんは、この説教がいかにオカシイかすぐお分かりになるでしょう?お分かりにならない人がいるとすれば、それは私の責任か、その方が、毎週説教の間は寝ているか、耳で聞いても心では少しも聞いていないか、どちらかです。私もそこまでは責任を負えません。そういう方はこの中渋谷教会には一人もいないことを信じますし、今後も一人も生み出すまいと私は堅く決意しますけれど、何故、こういうことを説教する牧師が誕生してしまうか、そして、その説教を聴きながら、それを信じてしまう信徒が誕生するか、それは痛いほど分かります。要するに、牧師も聖書をちゃんと読んでいないし、信徒も信じていないのです。パラパラとページをめくって、自分に都合のよい言葉だけを捜して、都合のよいように解釈して、妙に感動したり、それを喋ってひとり悦に入ったりしているだけなのです。
 私たちは人からの誉れを求めるものです。そして、自分の栄光を求める人間です。牧師とか、「先生、先生」と呼ばれる立場に立つ人間は、特にそういう傾向が強いし、また誘惑も多いものです。

2 現代人に受け容れられるメッセージ?

少し前に、アメリカの大統領選挙にも不気味な影響力を持ち始めたメガチャーチ(会員数が数万人とか数十万人という巨大な教会)の現実をリポートするテレビ番組を見ました。そのメガチャーチの中でも、飛ぶ鳥を落とす勢いの教会を一人で作り上げている若くてハンサムな牧師は、こう言っていました。
「人々はポジティヴなメッセージを求めています。やればできるんだと励まして欲しいのです。昔みたいに、苦虫を噛み潰したみたいな顔をして罪を指摘するなんてことをしていたら駄目なんです。もっと前向きなメッセージを伝えなければ、人々を教会に集めるなんてことは出来ませんよ。」
そういう言葉を聴きながら、私は「苦虫を噛み潰したような顔をして罪を指摘する牧師で悪うございました。たしかにおっしゃるとおり、私のような牧師がいる教会は、何年たっても飛躍的に信徒が増えるなんてことはございませんよ」と思いましたし、「たしかに罪の指摘だけしていればよいわけではない。でも、あんたのように人のニーズに応えればよいってわけじゃないでしょうに。私たち牧師は、人のニーズではなく、神のニード、唯一つの命令に応えるために立てられたんじゃないでしょうか」と心の内で反論していました。そして、人のニーズに見事に応えて人気絶頂、得意の絶頂になっているその牧師が気の毒だったし、憐れでした。もっと大きな驚きや喜びがあるのに、この人はそれを知らないと思ったからです。
 イエス様はこうおっしゃいます。

「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。しかし、自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」

「自分勝手に話す者は、自分の栄光を求める。」

五章や七章でイエス様がおっしゃっていることは、神への信仰が深いと自ら思っているユダヤ人が求めているものは神の栄光ではなく、実は自分の栄光であり、神からの栄光ではなく人間からの栄光であるということです。私たち、今日も熱心に礼拝に集まっている私たちキリスト者はどうなのでしょう?私たちの眼差しはどこに向かい、私たちは何を求めているのでしょうか?
 先程紹介した日本の牧師も、アメリカのメガチャーチの牧師も、「自分勝手に話している」と私は思います。聖書に書かれていないことをいかにも聖書に書かれていることであるかのように話している。そして、書かれていることを話していない。そして、彼らは、人からの誉れを求めている。人に受けようとしている。人に誉められようとしている。そういう人たちだと思います。だから、悲しいです。その気持ちは私も痛いほど分かります。

預言者と偽預言者

 私がまだ神学校に入る前に、ある聖書研究会で集中的に読んだのはユダ王国が滅亡に向かっていく時代に立てられたエレミヤという預言者の言葉です。彼は、ハナンヤという名の偽預言者と戦ったし、また神様と戦った預言者です。ハナンヤは口を開けば「平安だ、平安だ」と告げる預言者でした。
「神様は、私たちを愛してくださっている。大丈夫だ。この国は滅びることなどない。神に守られているのだから。エルサレムは神聖不可侵な神の都だ。この都が神を知らぬ異邦人の手によって陥落させられるなんてことはあり得ない。神を信じなさい。そうすれば守られる。」
群衆は、熱狂的に喜びます。そして、恍惚として讃美歌を歌ったりして、ハナンヤに対して賛辞の言葉を送るのです。
でも、神様によって無理やり選び立てられたエレミヤは、神が語る言葉しか語れないのです。神様が言葉を与えて下さるときには語れるけれど、与えて下さらないときには語る言葉がない。そして、神様が与えてくださる言葉、それはいつも「災いだ、災いだ」という言葉なのです。
「このまま罪を犯していたならば、神は必ず裁きをもって臨まれる。悔い改めよ。背信の子らよ。罪を悔い改めて、主のもとに立ち帰れ。」
主が、こう語れと命じるのだから、彼はその通り叫ばざるを得ない。すると、彼が叫ぶたびに群衆は石を投げつけ、殺そうとするのです。王も迫害する。彼が神様の言葉を語れば語るほど、彼は殺される危険性が高くなっていく。
 エレミヤは神様に向かって叫びます。
「もう、あなたの言葉など語りたくありません。私はあなたの言葉が聞こえても黙ります。」
でも、彼はそのことにも激しく苦しむのです。そして、ついにこう告白をせざるを得ないのです。

「主の名を口にすまい/もうその名によって語るまい、と思っても/主の言葉は、わたしの心の中/骨の中に閉じ込められて/火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして/わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。」

 彼は、完全に主に負けて、死んで、そして新たに立ち上がって、また人々に殺されるために、神の言を語り続けることになりました。それが預言者というものです。そして、説教者というのは、本来、こういうものでなければならない。

神の言を語るということ

だから、私は神学校に行って、牧師になるなんて嫌で嫌で仕方なかったのです。エレミヤは、しょっちゅう、「だから私は預言者になるのは嫌だって言ったんです。こんなことなら生まれなければよかった」と嘆きながら神様に訴えました。そういう意味で、私にとっては本当に親しみやすい預言者です。私も嫌だったから。イザヤのように、「主よ、ここに私がいます。私を派遣してください」なんていう預言者もいますが、私には全く分かりません。でも、エレミヤのことはよく分かります。語りたい、でも語りたくない。語るときは必ず罪の指摘をせざるを得ない。でも、それは多くの人に歓迎されない。でも語らずに黙っていることは、私の場合は、「先生の説教は、罪のことばかり出てきて気分が暗くなる」と言われることよりも、もっと苦しいのです。
若い頃から生意気で、反抗的で、「人がなんと言ったって俺には関係ない」と嘯いている私だって、人の顔色は、ちょっとは気になります。でも、やっぱり、人がなんと言ったって、聖書に書いていないことは語ってはいけないでしょう。そして、聖書に書いてあることと正反対のことなど、決して語ってはいけないのです。イエス様の教え通りに生きることは出来ないとしても、だからと言って、イエス様を私たちと同じ罪人に引き摺り下ろして、「それが愛だ」なんて大嘘だけは絶対についてはならないのです。
私たち人間のニーズは、「なるべく痛みのないように自分をよい人間に造り替えてください」という虫のよいものです。そういうニーズに応えるために、牧師が説教する。「君ならできる。ユー キャン ドゥー イット」と励ます。それが人々から求められる牧師なのかもしれない。それこそ現代の世に受け容れられるキリスト教なのかもしれない。でも、問題は神様が何を語っているかであり、神様が受け入れてくださるかです。そして、私たちは自分ではどんなに頑張ったって生まれ変わることも、新しく生きることも出来ないのです。それが人間の力で出来るのなら、イエス様は十字架に掛かる必要はありません。そして、すべての福音書、すべての書簡に、イエス様の十字架のことは書かれており、また前提とされているのです。

イエス様とは誰であるか

 今日の箇所における問題もこれまで同様に、イエス様が誰であるかだと言いました。それはつまり、イエス様の教え、その業は神の教え、神の業であるかどうかという問題です。「平安だ」と叫ぶ預言と「災いだ」と叫ぶ預言の一体どちらが神の預言か人間には俄かには分からないように、イエス様が神から遣わされた神と等しい方なのか、いかがわしい宗教家なのか、三大聖人なのか、その見分け方が、人間には分からないのです。
 イエス様は、そのことに関してこう言われました。

「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである。この方の御心を行おうとする者は、わたしの教えが神から出たものか、わたしが勝手に話しているのか、分かるはずである。」

 面白い言葉です。私は何をおっしゃっているのかずっと分かりませんでした。今も「分かった」なんて言えるのかどうか分かりません。でも、イエス様はこういうことをおっしゃっているのではないかと思うのです。
「神の御心、それは愛である。そして、友のために自分の命を捨てること、それよりも大いなる愛はない。私はあなたがたを友と呼ぶ。あなたたちは、私を先生とか、主とか呼んでいる。でも、私は知っている。あなたたちは、その先生を裏切り、主を見捨てて逃げる。自分の命を捨てることはしない。あなたたちにとって一番大事なのは、自分の命なのだ。でも、私にとって一番大事なのは私を遣わした父なる神だ。神の栄光を現し、神の栄光を称えること。それが私にとって一番大事なことだ。その神の栄光を現すために、私はその御心を生きる。私は、私を裏切る友達であるあなたがたのために死ぬ。私を殺すあなたたちのために死ぬ。あなたたちを新しく生かすために。それが神の御心だから。私の死が、そのような力を発揮するのは、私には罪がないからである。私は、わたしを遣わしてくださった神から言われたままに語り、言われたままに業をする以外に何も出来ないし、何もしないし、する気もない。だから、私には罪がない。その罪がない私を罪人に仕立て上げて殺そうとするあなたたちの罪が赦される為に、私は代わりに裁かれて死ぬ。これが私をお遣わしになった方の御心だ。誰でも、その御心を行おうとしてみなさい。そうすれば分かる。そんなことは私以外に誰もできないことを。裏切る者を友と呼び、裏切る者の罪が赦される為に裁きを受けて死ぬなどということは、私以外には出来ない。それは少しでも御心を生きようとした人間でなければ分からない。自分の栄光を求め、人からの誉を求めているだけなのに、私や神の名を好き勝手に利用している人間には、決して分からないことなのだ。でも、私はそんな浅ましく、醜い人間の罪を背負って、神に裁かれて死ぬ。そこに神の栄光が現れるのだ。そして、それこそがうわべだけを見ただけでは分からない、神の正しい裁きなのだ。」
 イエス様は、そうおっしゃっていると思います。

「自分をお遣わしになった方の栄光を求める者は真実な人であり、その人には不義がない。」

 この言葉は三人称ですが、実はイエス様ご自身のことを語っている言葉だと思います。
神様の裁き、それは私たち罪人の罪を赦すために、罪なき神の独り子を罪人の身代わりに死刑にするということです。罪を犯していない方を、罪人の代わりに死刑にするというのは、人間が考える正義ではあり得ません。正しい人間を罪人の代わりに死刑にするなんてことは、やってはいけないことです。でも、それが神様の正しさ、義なのです。そして、愛なのです。ただ、その裁きによって、私たちの罪が赦され、私たちが新しく生きる道が開かれたからです。その道を、命を捨てて開いてくださったお方、この方こそ罪なき神の独り子主イエス・キリストです。このイエス・キリストを信じる者は救われるのです。これが、牧師である私の、聖書に基づく証です。だから、この証は真実です。信じてください。罪を悔い改め、主イエスを信じ、古き皮袋を捨て去り、新しい皮袋にイエス・キリストの命の水を一杯に入れて、今日からまた新しい一週間を歩き出しましょう。
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