「この人は誰か?」

及川 信

ヨハネによる福音書 7章25節〜31節

 

 

 さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」人々はイエスを捕らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。しかし、群衆の中にはイエスを信じる者が大勢いて、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」と言った。



学生の質問

 先週の火曜日から、青山学院女子短期大学の講義が始まりました。前期は一年生に創世記の天地創造物語やアダムとエバの話を必死に語りかけ、最後の方はがっぷりよつに組む相撲のような感じになりましたけれど、幸か不幸か、約四ヶ月で前期は終わりました。後期は二年生にマルコによる福音書を通して、イエス様と出会うとはどういうことかを突き詰めていきたいと願っています。初日はアンケートをとったり、「授業中には私語をしないで下さい」というお願いをした上で、マルコ福音書一章一節と十字架の場面の説明をしました。マルコ福音書の書き出しは、「神の子イエス・キリストの福音の初め」というものです。最初に、「神の子」という称号がもっている政治的、宗教的な意味を考えました。たとえば、当時のユダヤ人を支配していたローマ帝国の皇帝は、自らを「神の子」と呼ばせていたとか、日本の天皇という呼び方も、天=神に起源を持った存在ということを意味する。皇太子は、そういう意味では「神の子」ということになるとか、ある時期の中国の王は「天帝」と呼ばれていたとか、色々な事例を挙げた上で、「この福音書は十字架につけられたイエスという名の人物を『神の子』と呼んでいる。それも、イエスを十字架に磔にしたローマの百人隊長が、つまりローマの皇帝を『神の子』として敬い、絶対服従を誓っていた軍人が、自分が磔にした十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と嘆きつつ死んだ男に向かって「本当に、この人は神の子だった」と言ったと書いてある。その事実は何を意味するのか?『神の子』とは何なのか?この授業では、そのことを課題として取り組んでいく」と言って終わりました。
私は、授業の度に感想レポートを提出してもらい、数人分を抜粋したプリントを次の授業で配り、提出された感想や質問に応えながらその日の授業に入るようにしています。
 今回は、こういう質問がありました。
「キリストは、普通の日本人は『神』だと思っていると思うけれど、『神の子』なんですか?」
つまり、キリストは神なんですか、人なんですか?どっちなんですか?という問いです。教会の礼拝に来ているキリスト者という意味で「普通の日本人」ではない皆さんは、こういう質問をされたらどうお答えになるのでしょうか?
 また、私が旧約聖書と新約聖書の違いを説明し、同時にキリスト暦(西暦)では紀元前(BC・ビフォー・クライスト)と紀元後(AD・アンノドミニ、主の日々、主の支配)をキリストの誕生によって分けているという話の中で、キリストが「生まれた」という言葉と同時にキリストが「来た」、それが決定的な出来事だったので、その出来事の前と後で歴史が区切られたのだという説明をしたのです。すると、一人の学生が、「先生は、『生まれた』という言葉と同時に『来た』という言葉も使った。その意味の違いを知りたい」と書いてきました。
 こういう質問を受けると、私の血は俄かに騒ぎ立ち、猛然とやる気が起こります。何故なら、この二つの質問は、今日の説教題である『この人は誰か?』に関する疑問であり、聖書の証言に対して真正面から向き合った疑問だからです。そして、その疑問は、今の私にとっても、常に新鮮な疑問なのです。「神の子」、イエス・キリストとは誰か?これが今日の私たちの課題でもあります。

エルサレムの状況

さて、エルサレムの人々の中には次のように言う者たちがいた。「これは、人々が殺そうとねらっている者ではないか。あんなに公然と話しているのに、何も言われない。議員たちは、この人がメシアだということを、本当に認めたのではなかろうか。」

 七章の初めに、イエス様を殺そうとする者たちがユダヤ地方にいることが記されていました。そのユダヤ地方の中心がエルサレムであることは言うまでもありません。そして、イエス様は「仮庵(かりいお)の祭り」というユダヤ人にとって最も華々しい祭りに合わせて、エルサレムに上ってこられました。しかし、「祭りのとき、ユダヤ人はイエスを捜し、『あの男はどこにいるのか』と言っていた」とありますように、ユダヤ教当局者は、イエス様を見つけ次第、捕まえて、場合によっては殺してしまおうと探し回っている。だから、エルサレムの人々は、その「ユダヤ人たちを恐れて、イエスについて公然と語る者はいなかった」のです。誰もが、ひそひそと噂をしているのです。それがこの時のエルサレムの状況です。
 その後、イエス様は神殿に入って教え始められました。神殿の中で神の言を人々に教えるというのは、権威あるラビ(教師)にだけ許されていたことです。しかし、イエス様は学問などをしたことがないのです。それなのに、その教えはどのラビのものよりも権威あるものであって、人々はそのことにまず驚きました。
そして、今は、その教えの内容にではなく、何故あれほどまでに公然と語ることが出来るのか?に関しての驚きと疑問が広がっているのです。ユダヤ人の中心、聖なる神殿の中で、あれほどまでに大胆に語ることが出来るのは、もしかしたら、ユダヤ人社会の権力者である議員たちが、この男をメシアであると認めたからではないのか?!そういう疑問が生じた。それは、ある意味当然でしょう。しかし、三十二節を見れば分かりますように、彼らは依然としてイエス様に対する警戒心を解いているわけではないし、「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」という人々のささやきを耳にして、下役たちをイエス逮捕のために派遣することになります。今日の箇所は、そういう状況下でなされたすれ違いの対話だと思います。
 メシアとは、この当時のユダヤ人にとっては王のことであり、それはローマ帝国の支配を打ち破って、ユダヤ人の王国を打ち立てる存在のことです。そういう意味で、「ユダヤ人の王」メシアが登場することを最も恐れ、警戒しているのはローマ帝国です。しかし、そのローマを最も恐れ、警戒しているのが、ユダヤ人社会を支配している議員(ファリサイ派、祭司長たち)たちです。彼らは、自分たちの権威に全く従うことがないイエス様のことを、人々がメシアであると信じるようなことになったら、反乱が起こり、その反乱を鎮圧するためにローマが出て来る。そのことを恐れて、人々に対しても思想、言論の弾圧をしている。だから、誰もイエス様に関して公然と語らず、ただ噂話が囁きとして流布している。それなのに、当のイエス様自身が、多くの人々が集まる神殿の中で、公然と神の言を教えている。これは一体どういうことか?何故、イエスを捕えようとしていた当局者は黙っているのか?それが彼らの疑問です。

二つのメシア論

 しかし、こういう政治的社会的状況から出てくる疑問だけがここにあるわけではありません。メシアとはどういう存在であるかという宗教的な疑問がここにはあるのです。

「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ。」

 今日の午後には決着が着く自民党の総裁選では、候補者の家柄がやたらと取りざたされていました。またよく知りませんが、有名な料理研究家の家柄が詐称されたものだったとかと報じられてもいます。数年前は、皇族の分家を名乗る夫婦の詐欺事件があったりもしましたが、ある人の氏素性がどういうものであるか?それが明らかであるか、不明であるか?不明であったとしても、それはどういう意味で不明なのか?そういうことが、世間では結構、関心の的になります。
 この時代、メシアに関して、二つのメシア論があったのです。一つは、この先の四〇節以下に出てきます。そこでは、群衆の一部の人が「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると聖書に書いてあるではないか」と言っています。つまり、「メシアはダビデの子であり、ベツレヘムで生まれる」という預言に基づいたメシア論、あるいはメシア像がここにはあります。そして、マタイによる福音書は、イエス様の誕生の次第を、一面から言えば、この預言が実現したという形で描いていることはご承知の通りです。
しかし、その一方で、メシアというのは、到来するまでその出自が分からない。神秘の存在なのだ。どこそこ出身だとか、誰の子だとか、そういう氏素性がはっきりしない。だからこそメシアなのだ。そういう、ユダヤ教黙示文学に基づくメシア論がありました。今日の箇所に出てくる、「しかし、わたしたちは、この人がどこの出身かを知っている。メシアが来られるときは、どこから来られるのか、だれも知らないはずだ」とは、そちらのメシア論に立った発言です。
 こういうメシアは、古代においては世界各地に存在します。日本などは二〇世紀になってから、天皇を天照大神の子孫であり現人神であるという伝説を作り上げたという意味では、実に稀有な国だと思いますし、それが「美しい国日本」の根幹をなしていると信じている議員たちが今も沢山いるのかもしれません。しかし、他方で、天皇という名や地位があるとしても、彼もまた一人の人間に過ぎないと思う人がおり、ごく少数かもしれませんが、私のように、彼もまた罪人の一人に過ぎないと思う人もいるでしょう。色々な天皇論が存在します。

神殿の中で大声で語られること

 それはとにかくとして、今日の箇所では、氏素性が分かっているメシアはメシアではないのではないかという疑問を持っている人が登場しているわけです。

「すると、神殿の境内で教えていたイエスは、大声で言われた。」

   イエス様が神殿の中で教えているという舞台設定は既に一四節にあるのに、ここで改めて「神殿の境内で(中で)教えていたイエスは、大声で言われた」と書かれていますが、これは大事なことです。たとえば、私は今、当時で言えば神殿の中、礼拝堂の中で、この礼拝堂に礼拝をするために集まってこられた皆さんの前に立っています。そして、普段は出さないかなり大きな声で話しています。説教をしているのです。礼拝に集まって来た人々に、神様の言葉を伝えるということをしている。それは、誰でもが出来ることではありません。この教会で言えば、長老会が認めた人だけが出来ることだし、しなければならないことです。そして、説教とは、この礼拝の日、礼拝堂の中ですることであって、他の日、他の所ですることではありません。そして、説教は、この時この場で語るべきことだけを語っているのです。そして、それはただ教えを語るということではない。聖書に関する知識を語っているわけでもないからです。私は一つの事実だけを語るために、ここに立っている。いや立たされているのです。私の意志で立っているのではなく、私を立たせる方の意志に基づいて立っているのです。
 イエス様も、この時、ただ一つの事実だけを大声でお語りになっています。

「あなたたちはわたしのことを知っており、また、どこの出身かも知っている。わたしは自分勝手に来たのではない。」

 面白い言葉です。エルサレムの人々は、イエス様のことを「知っている」とイエス様はおっしゃっているのか、それとも「知らない」とおっしゃっているのか、一読しただけではよく分かりません。
この点については、四世紀に生きたアウグスティヌスという人の説明が、言い得て妙な説明だと思うので、少し私の言葉で補足しながら引用します。

「ここでイエスは、エルサレムの人々に向かって『あなたがたはわたしの出身地を知っており、わたしの出身地を知ってはいない』と言っている。人間性において知り得ることは知っている。しかし、神性(神の性質)においては何も知らない。」

 彼はこう言っています。彼らはイエスの「出身地を知っており、出身地を知らない。」イエス様は、まさにそういうことをおっしゃっていると、私も思います。ここで「出身地」と訳されている言葉は、実は「どこから来たか」という言葉です。人々は、「私たちはイエスという男がどこから来たか知っているけれど、イエスという男が本当にメシアであればどこから来たかなんて誰も知らないはずだ」と言っている。それに対して、イエス様は「たしかにあなたたちは私がガリラヤから来た、ガリラヤ出身だと知っている。しかし、実は、私がどこから来たのかを知らない」とおっしゃっているのです。そして、「わたしは自分勝手に来たのではない」という言葉は、「自分自身から来たのではない」が直訳です。「どこから」と「自分自身から」という言葉は、ヨハネ福音書においては、極めて大事な言葉です。それは、イエス様が誰であるかを示す一つのキーワードだからです。

メシアはどこから来るのか

 前回ご一緒に読んだ箇所において、イエス様は、自分の栄光を求めて自分から語る(自分勝手に語る)者は不義に満ちているが、自分を遣わした方の栄光を求めて語らされるままに語る者は真実であり、不義がないという趣旨のことをおっしゃっていました。そして、それはご自分のことでした。
 今日の箇所では「わたしは自分勝手(自分自身から)に来たのではない。わたしをお遣わしになった方は真実であるが、あなたたちはその方を知らない。わたしはその方を知っている。わたしはその方のもとから来た者であり、その方がわたしをお遣わしになったのである。」とおっしゃっている。つまり、イエス様は神様から遣わされて来た。そして、その神様は真実な方であり、イエス様だけが、その神様を知っているとおっしゃっているのです。エルサレムの人々、つまり唯一の神を信じているユダヤ教の信者であり、同時にそれは、自分に不利益になることは決して公然とは口にしない人間ということでもありますけれど、そういう人間は、イエス様を遣わした神、真実な方を知らないということです。ここで「知る」とは、ただ認識として知るという意味ではなく、交わりをもって生きているということです。そして、このイエス様の言葉がまさに決定的な言葉なのです。
 メシアというのは、当時の人々にとっては、神様の使いです。そして、それは人間であることが前提です。氏素性が分からなくても、それはメシアとして登場する時まで出自などが全く知られていないということなのであって、あくまで人間なのです。人間としての王、支配者です。
しかし、ここでイエス様がおっしゃっていることは、ご自分は人間であって人間ではないということです。「わたしは、たしかに目に見える形ではガリラヤ地方のナザレの出身であり、一人の男であるけれど、その本来の出自は全く違う。真実な(「真理」とも訳される言葉)神である。その神を知っているのは、今、私だけであり、私だけが神からの言葉をそのまま語り、神の業をそのままなしているのである。そういう意味で神と一体の交わりをしているのである。」そうおっしゃっているのです。これが決定的な言葉なのです。

神と等しい方としてのメシア

ずっと礼拝に来ていらっしゃる方は、ここで四章の言葉を思い出されるのではないでしょうか。四章には、イエス様に対するユダヤ人の警戒心や敵意が殺意にまでなったことが記されていました。その時も、イエス様の言葉が決定的な言葉だったのです。四章で、安息日に病人を癒すという律法違反をされた後、イエス様はこうおっしゃいました。

「わたしの父は今もなお働いておられる。だから私も働くのだ。」

 この言葉が決定的なのです。何故なら、

「このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうと狙うようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、ご自身を神と等しい者とされたからである。」

 問題はここです。今日の箇所でも、イエス様はご自身のことを、ただ一人の真実な方である神から遣わされた者であると言い、神の許から来て、神と一つの交わりの中を生きている真実な存在であると証言しておられる。つまり、ご自身は神と等しい方であると証言しておられるのです。それも大声で。神殿の中で。祭りの最中に。
そして、この事実こそが、今日の礼拝の中で証言され、信じられなければならない唯一の事実なのです。この事実が告げられ、信じられる時に、はじめて神の栄光が称えられるのです。礼拝が霊と真理による礼拝となる。そして、私たちが、この証言を聞いて信じ、礼拝を捧げることができる時、私たちは初めて、イエス様を通して、神様との交わりの中に生きることが出来るようになるのです。しかし、それはどういうことか?
 人々は、このご自身を神と等しい者とするイエス様の言葉を聞いて、イエス様を捕えようとしたけれど、この時はまだ手をかける者はいませんでした。「イエスの時がまだ来ていなかったから」です。しかし、その時は来るのです。イエス様が神の御心のままに御業を成し遂げる時が来るのです。イエス様ご自身が、「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とおっしゃる時が来るのです。つまり、イエス様が十字架に磔にされて死ぬ時が来る。

メシアにおいて現れる神の栄光 恵み 真理

 このヨハネ福音書は、マルコ福音書と同様に、最初に結論を言っている福音書です。イエス様は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」と言われる存在です。神と共にある存在という意味では神ではないけれど、しかし、神なのです。そして、この「言」は歴史上のある一時期、肉体をとってこの世に現れました。そのことについて一章一四節はこう語っています。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」


 イエス様は、神の独り子である神、神の子にして神なのです。その方は今、父なる神のふところにおられる。しかし、その方が歴史上一回だけ、神様とはどういうお方であるかをはっきりとお示しになった。それがあの十字架の死なのです。神は、独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るために、その独り子をお与えになったほどに、世(私たち罪人)を愛される神であることを、あのイエス様の十字架の死において現されたのです。そこに神の栄光が現れ、私たちの罪を赦してくださる恵みが現れ、そして、神の真実、真理が現れているのです。独り子なる神様は、ついにこの十字架の上に派遣されたのです。私たちの罪を赦し、私たちに永遠の命を与えるために、ついに人間による裁きを身に受けて磔にされて死んでくださったのです。でも、実はそこにこそ、神様の裁き、正しい裁き、罪人を赦すために、罪無き神の子を罪人の代わりに処刑するという裁きが貫徹されているのです。ここに神の栄光、恵み、真理が完璧な形で現れており、礼拝堂の中で証言されるべき唯一の事実は、このことです。

証言者(目撃者)

 この福音書は、バプテスマのヨハネの証言が、その最初から何度も出てきます。彼についてはこう言われています。

「神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しするために来た。光について証しするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。」

そして、イエス様の十字架の場面にも、「証し」という言葉が出てきます。もう時間がないので、詳しく説明することは出来ませんが、ここには名が記されていない目撃者が登場します。イエス様が「ユダヤ人の王」という罪状書きと共に十字架に架けられて、そこでどんな言葉をお語りになったか、そして、どのようにして息を引き取られたか、その時ユダヤ人たちはそこで何をしたか、そしてローマの兵隊たちが何をしたか、その一部始終を見た目撃者が出てきます。一九章三四節から読みます。

「しかし、兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た。それを目撃した者が証しており、その証は真実である。その者は、あなたがたにも信じさせるために、自分が真実を語っていることを知っている。」

 この場面の「血と水」が何であるか。その点については古来、様々な解釈があります。しかし、私はやはり「血」とは、私たち罪人の罪の贖いの血であり、「水」はこの福音書においては聖霊の象徴であると思います。神の独り子であるイエス・キリストの十字架の血で罪を贖われ、新たな命を与えてくださる聖霊を注がれた者は、見たことを証言する目撃者にされるのです。その言葉、そしてその業において。そのために派遣される、遣わされるのです。
 私たちは、今、この礼拝堂の中で、礼拝を捧げています。私は今、イエス様の血によって贖われ、聖霊を注がれた一人として、畏れ多くも、神様に遣わされた者としてここに立っています。そして、ただ一つのことを証言しています。「この十字架のイエス様こそ神の子であって神です。この方を信じる者は一人も残らず、永遠の命を与えられます。これこそ、真実な証しなのです。信じてください」と。私のこの証言は、聖書に記されていることをそのまま信じて、語っていることですから、真実な証言です。私は今、自分勝手に語っているのではなく、聖書を通して見たこと聞いたことを、そのまま語っているのですから、私どんな人間であったとしても、私が今語っている言葉は真実です。だから、信じてください。
信じた人にはキリストが「来る」のです。二千年前に肉をもって生まれたキリストが、今は霊において生きてくださるキリストが、その人のところに来るのです。それこそが、決定的なことです。その決定的なことが起こる時、私たちの古き人は死に、新しい人が生き始めるからです。それが、礼拝を通して私たちに与えられる祝福であり、祝福された者は、直ちに派遣されるのです。この礼拝堂の中で見たこと、聞いたことを証言するためにです。

祝福と派遣

ヨハネ福音書の本文の最後は、復活の主イエスが弟子たちに現れる場面です。その時、イエス様は、罪と死の闇に覆われて怖れと不安の中にうずくまっている弟子たちに向かって、「あなたがたに平和があるように」と語りかけられました。裏切った弟子たちにです。そして、「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」とおっしゃったのです。裏切った弟子たちにです。そして、彼らに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」と、裏切り者の弟子たちを罪の赦しと新しい命の福音の証言者として派遣されました。
私たちの礼拝の最後は、この事実に基づいて「祝福と派遣」で終わります。私たちは、主の日ごとの礼拝において、十字架の主イエスの血による贖いを受け、復活の主イエスによって聖霊を与えられ、新たにされて、罪の赦し、永遠の命を与えてくださる福音を証しするために派遣されるのです。私はこれから四ヶ月間、青学短大の授業において、若い人たちに精一杯の証しをしに行きますし、今週は高齢で体もかなり弱ってしまわれたESさんと聖餐の食卓を囲むために長老と共に訪問聖餐に伺います。また、TYさんという九十歳を越える会員の、生まれながらにダウン症という障害をもっておられる息子さんに会いに行く予定です。その息子さんは、肝臓癌で余命が幾許もないと医者に言われているそうなのですが、洗礼を受けたいという志を持っていると伺ったからです。皆さんも、それぞれに心や体に重荷背負って苦労しているご家族や知人がおられるはずです。そのお一人お一人に、十字架と復活の主イエス・キリストが、今日もあなたを愛し、あなたのために生きてくださっているという福音を告げるために祝福をもって派遣されるのです。皆さんお一人お一人も、それぞれに様々な重荷を背負っているからこそ、この礼拝堂に招かれたはずですが、そうであるからこそ知らされた主イエスの恵みと真理、そして栄光を身に帯びて、今日からの一週間の歩みを始めてください。主イエスは、必ずその歩みを共にし、導き、私たち一人一人の証しを真実なものとして下さいますから。
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