ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」
祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
時の切迫と招き
お気づきの方も多いかと思いますが、今日から礼拝招詞の言葉を変えました。約三ヶ月に一回変えています。今日から十二月三〇日まで毎週聴くことになる招きの言葉は、「娘シオンよ、大いに踊れ。見よ、あなたの王が来る」(ゼカリア書九章九節)というゼカリアの預言の言葉です。招詞は、この教会では今の所、牧師が考えて選ぶことになっていますが、今回は、エゼキエルの預言、「わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って生きよ」(エゼキエル書一八章三二節)のどちらにしようか迷いました。今日のヨハネ福音書との関連を考えると、エゼキエルの言葉の方が近いかなとも思いましたが、来るべきクリスマスに備えるという意味ではゼカリアがよいと思い、そちらを選びました。しかし、何故この二つの御言の間で迷ったかというと、両方とも「時の切迫」と悔い改めと信仰への「招き」に関する言葉だからです。神に遣わされた王の裁きが近づいている。その裁きの前に悔い改めよ、王を迎え入れる備えをせよ、悔い改めて新たに生きよと招いている点で共通しているのです。今日のヨハネ福音書における御言も、そういう「時の切迫」と「招き」に深く関係しています。
どこから来て、どこへ行く?
先日の青学短大の授業で、人は何のために生きているか、また聖書で言うところの罪人とは何であるかについて学生達と話していると、ある学生が、「人は死に向かって生きている」と言いました。そして、その日の授業感想文の中で、ある学生は「『人は死ぬために生きている』とある本で読んだが、その意味はどういう意味なのか分からない。先生はどう思うか?」という質問を書いてくれました。その日の授業では、「聖書の中の罪人とは、いわゆる犯罪人のことではないし、悪人という意味でもない。迷子という意味合いが強い言葉だ。自分がどこから来てどこへ行くのかが分からない。自分が今何処にいるのかが分からない状態を罪と言うのだ。つまり、自分が何者であるか分からない状態を罪と言う」と説明もしたので、そのことに関して彼女らは色々と考えているわけです。もちろん、私も未だに考えています。何のために生きているのか、死に向かって、また死ぬために生きているとすれば、その生には何の意味があるのか?人間は、どこから来て、どこへ向かって生きているのか?私は何者なのか?
ヨハネ福音書の特色と説教の構造
この問題を考えることと、ヨハネ福音書の七章の御言を読むこととは深い関連があります。例によって、今日もたくさん聖書を読みます。それはヨハネ福音書の構造が過去現在未来を重ねて書いており、また天と地という空間も重なるような仕方で書かれているので、その構造を理解した上で、正しくメッセージを聴き取るためには、どうしてもあちらこちらを読みながら、一つずつ整理をしていかないとならないのです。少なくとも、私にはそういう手間が必要です。そして、私は自分が聖書を読みながら知らされたこと、聞こえてきたこと、見えてきたことを、この礼拝の時間の中で、またこの礼拝堂の中で、皆さんと一緒に知らされたい、聴きたい、見たいと願うものですから、ある意味で、説教が出来上がっていく過程を、そのまま語るという方式を取ります。そういう方式を取る牧師はあまりいないかもしれませんが、連続講解説教とはそういうものだと私は思っているので、一緒に聖書を目で読む読まないは別にして、とにかく私が読むいくつもの御言を聴き続けてください。聖霊の導きを祈り求めながら聴き続けてください。そして、その後に、聖餐に与ってください。そうすれば、きっと聴こえる人には聴こえるし、見える人には見えるはずです。
前回までの復習
今、イエス様はユダヤ人にとってあらゆる意味で中心地であるエルサレムの神殿の中にいます。時は仮庵の祭りの最中です。私たちも今礼拝堂の中におり、神を崇め祭る礼拝の最中です。仮庵の祭りとは、イスラエルの荒野放浪時代、神様が命の水を与えてくださり、苦しい旅路を導き続け、ついに約束の地に迎え入れてくださったことを感謝し、讃美する祭りなのです。ですから、その祭りでは水がふんだんに使われます。そのことが、三七節以下のイエス様の言葉、祭りが最も盛大に祝われる日に「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と大声で言われた言葉の背景にあるのです。そして、この言葉に、私たちも最後は行き着くことになるはずです。
前回は、エルサレムの人々が、イエス様の出所由来に関して話題にし、イエスというあの男こそ待ち望まれていたメシア(救い主)ではないか、でもメシアであるとすれば、どこから来たかを我々が知っているということは変ではないか、メシアはどこから来たか分からないからこそメシアなのではないか、と言い合っている場面でした。そういう人々に対して、イエス様はご自分が「ガリラヤから」きた人間ではなく、「天から」遣わされた存在だとお答えになったのでした。それはつまり、イエス様は、彼らユダヤ人が考えているような人間としてのメシアではなく、神の独り子、独り子なる神としてのメシアであるという宣言です。
その場にいた人々は、当然の事ながら、イエス様の言葉の意味が分かりませんでしたが、自分達が言っていることをその根本において否定されたということはよく分かったのです。そして、神に選ばれたユダヤ人としてのプライドが傷つけられ、激しく怒り、イエス様を捕まえようとした。しかし、イエス様の「時がまだ来ていなかった」が故に、誰もイエス様を捕らえることは出来なかった。そういうことが記されていました。
イエスが迫ってくる 態度決定が迫られる
しかし、前回は触れませんでしたが、エルサレムにもイエス様を信じる人々がいたとあります。しかし、彼らはイエス様がなさる「しるし」を見て信じているのであって、それは二章の段階で既に記されていたように、その人々の信仰をイエス様は少しも信頼されませんでした。彼らの信仰とは所詮、利己的なもの、現世利益的なものに過ぎないからです。しかし、イエス様については二つの態度があり、人々の中で対立が起こっていたということはある意味で大事なことです。イエス様は、間近に迫ってくると、否応なく私たちの態度決定を迫ってくる存在なのです。悔い改めてイエス様を信じるのか、悔い改めを拒絶して信じないのか。王として迎えてひれ伏すのか、拒絶して殺そうとするのか。そのどちらかしかないのです。自分はどちらでもない、中間だということは、主観的にはあり得る態度ですが、実際には、それは信じていないという現実であることに変わりはないからです。
どこに帰る(行く)のか?
この福音書が書かれた当時(一世紀後半)、ユダヤ人の中で権力を握っていたファリサイ派が登場します。人々の中に、内容はどうであれ、イエス様を信じる者がいるということは、イエス様を排除しようとする彼らにとっては由々しき事態ですから、彼らは早めに手を打とうと思って即座に下役たちを遣わしました。
そういう状況の中で、イエス様はこうおっしゃったのです。
「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。」
これまで、イエス様は何度もご自身のことを「遣わされた者」と定義して、その方の許から来たとおっしゃってきました。でも、今日の箇所で初めて「自分をお遣わしになった方のもとへ帰る(行く・ギリシア語ではヒュパゴウ)」と言われます。それは、いつのことかと言うと、「今しばらくの、あなたたちと共にいる」時を経た後のことです。「僅かな時の間、共にいるが、その後」、イエス様は、ご自身をお遣わしになった方、つまり、神の許に行くのです。そして、その時は近い。いつまでも地上に、今のような形で一緒にいるわけではない、今暫くの間だけいる。そういうことです。
そして、「共にいる」とか、「お遣わしになった方のもとへ帰る」「わたしのいる所にあなたがたは来ることができない」というのは場所、空間を意味します。つまり、ここでイエス様がおられる時と場が問題になっている。そして、その時と場を、人はイエス様と共有することが出来るのか否か、イエス様といつまでも共にいることが出来るのか否か、イエス様のいる所に共にいることが出来るか否か。それが、私たちにとっての救いの問題なのです。
しかし、イエス様の目の前にいたユダヤ人たちは、そのことを理解しませんし、それはまた現代の日本人だって同じことです。
主イエスはこう言われます。
「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない。」
この「捜す」という言葉はギリシア語ではゼーテオーと言います。「求める」「欲する」という意味もありヨハネ福音書では大事な所で頻出する言葉ですけれど、特に七章では実に十一回も出てきます。人々がイエス様を色々な意味で捜している、求めている、その一方でイエス様はご自分を遣わした神の栄光を求めている。そういう形で何度も出てくるのです。
今、「色々な意味で」と言いました。これがまたヨハネ的なのですけれど、たとえば七章一一節でユダヤ人は、イエス様を捕らえて殺してしまおうと思い「あの男はどこにいるのか」と言って捜しています。しかし、今日の箇所ではそういう意味だけではなく、むしろユダヤ人が救い主としてのイエス様を捜し求める時には最早手遅れになってしまうのだという意味で、「捜す」という言葉が使われています。イエス様を殺そうと思って捜す人々が、実は自分でも気づかぬ心の奥底で、命を求めて救い主を捜す。無意識のレベルで救いを求めて捜すことになる。そういう含蓄がこの言葉の中にはあります。
いずれにしろ、彼らイエス様を拒絶し、排除するユダヤ人はイエス様がこれから行く所に行くことは出来ないのです。そして、イエス様のいる所に一緒にいることは出来なくなる。自ら求めている救いから排除してしまうことになる。
ユダヤ人達は、互いにこう言いました。
「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。『あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない』と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」
ここで彼らが思っていることは、全く的外れというか、イエス様が仰っていることとは全く次元が違うことです。彼らは、イエス様がこの地上のどこかへ行くのだと思っている。実際、「どこへ行くつもりか」の「行く」は「旅行する」という意味をもった言葉です。イエス様は「わたしをお遣わしになった方のもとへ帰る(行く)」とおっしゃっているのに、彼らは、ギリシア人が住んでいる外国にでも行って自分の教えを宣べ伝えようとでもしているのか?!としか捉えられない。つまり、ユダヤ人の中心であるエルサレム神殿からまさに都落ちをして外国人のもとへ行って、自分の教えを広めようとでもしているのか・・ということです。ギリシア人に代表される外国人、異邦人というのは当時のユダヤ人にとっては神に見捨てられた民であり、罪の中に死ぬべき人々以外の何者でもないのです。そういう所へいくメシア候補もまた、惨めなドサ周りをしたあげくに死んでいくだけ。そんな所に、私たちがメシアを捜しにいくとでも思っているのだろうか?彼らの疑問は、そういうレベルのものなのです。しかし、余計なことかもしれませんが、皮肉なことに、イエス様がメシアであることは、後にギリシア人に代表される異邦人の間に宣べ伝えられていくことになり、彼らの頓珍漢な言葉が実現していくことになります。しかし、この時のイエス様は、外国に行くなどとおっしゃっているわけではありません。
「今しばらく」とは?
今日の問題は、イエス様がおっしゃる「今しばらく」(僅かな時の間)とは、どういう意味であり、イエス様を捜しても見つけることが出来ず、イエス様がいる所に行くことも出来ないとはどういう意味かです。この言葉は、これからも出てきます。
八章二一節以下を少し飛ばして読みたいと思います。そこでも、人々はイエス様を捕らえようとしたが、イエス様の時が来ていなかったが故に捕らえることが出来なかったとあります。そして、その時にイエス様はこうおっしゃるのです。
「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」・・・「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」
ここには「去って行く」とありますが、それは今日の箇所に出てくる「帰る(行く・ヒュパゴウ)」と同じ言葉で、主イエスをお遣わしになった神の許へ帰る、行くということです。しかし、ユダヤ人はここでもそのことを理解できない。理解できないままに、イエス様を殺そうと求めつつ、しかし、無自覚のレベルでは救いを求めてイエス様を捜す。でも、彼らには見つけることが出来ない。そして、イエス様のいる所に来ることが出来ない。結果、どうなるか?罪の内に死ぬのです。どこから来て、どこへ行くのか分からない迷子を続けて、結局、死ぬのです。イエス様が神の許から来た神、「わたしはある」(エゴ・エイミ)と宣言できる唯一の方であることを信じることが出来ないならば、信じないままであるなら、人は何のために生まれてきたのか、何のために死ぬのかも分からぬまま、何処から来てどこへ行くのかも分からぬまま、罪の内に死ぬ以外にない。イエス様は、実に厳しくその事実を告げる・・・・。何故か?!死んで欲しくないからです。エゼキエルが語るように、神は誰の死も望んでおられないからです。すべての者が悔い改めて、罪の赦しの中に新しく生きて欲しいからです。イエス様を神が遣わした王、十字架につけられた真の神の子として信じて、罪の赦しの中を新たに生きて欲しいからです。だから、厳然たる事実を冷徹に告げる。救いたいから。
しかし、考えてみれば、福音書の表面的な文脈においては、イエス様はまだ十字架に掛かる以前なのですから、私が今言ったような意味でイエス様を信じるということはあり得ないわけです。そこで、「今しばらく」という言葉を考えなければいけません。この言葉は、一二章三五節に出てきます。その直前に、主イエスは「人の子は上げられねばならない」と、十字架に上げられ、死人の中から上げられ、天に上げられることによって神の栄光を現わすとお告げになりました。しかし、群集はその意味が分かりません。その群集に対して、
イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
光は主イエスご自身であり、主イエスがもたらす人の命、永遠の命の象徴だし、暗闇はその反対に罪であり、その結果としての死の象徴です。光があるのは「いましばらく」の間であって永遠に、今のようにあるわけではない。光ある今、イエス様を信じないならば、人は自分がどこから来てどこへ行くのか、自分が何者であるのかが分からぬまま、暗闇の中で死んでしまう。罪の中に死んでしまう。そうなる前に、光の子となるために光を信じなさい。生きなさい、と主イエスはおっしゃっているのです。この問題をもう少し考えていきます。
この福音書は、イエス様が肉をもって生きていた過去のことを語りながら、福音書が書かれている時代に生きる人々にとって現在進行形のことを書いており、さらに後世、この福音書を読む人々にとっての現在進行形のことを書いており、さらに終末というか、私たちの死後において起こることをも書いている書物です。それも時間の中で起こる事柄と同時に空間の中で起こる事柄として書いている書物です。
ヨハネ福音書における最後の晩餐は、イエス様が弟子の足を洗ったというあの木曜日の晩の食事です。その食事の最後に、ユダが裏切るために部屋を出て行きます。その時、主イエスは、弟子たちに「今や、人の子は栄光を受けた」とおっしゃってから、こう告げられました。一三章三三節を読みます。
「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」
ユダの裏切りが実行に移される今、そのことをイエス様が承認した時点で、イエス様は実質上、栄光をお受けになったのです。つまり、もう十字架の死が確定したのです。その死によって人の罪を赦すという神の栄光が救われたのです。この直後にイエス様は逮捕されます。これまで何度もイエスを捕らえようとして出来なかったユダヤ人達が、イエス様を逮捕することに成功する。というより、イエス様自身が「わたしである」(エゴ・エイミ)と言って自ら逮捕されて十字架に向かわれる。その十字架の死の姿の中に、実は神の姿が、独り子を信じる者を一人も残らず救い給う神の姿、悔い改める罪人を救うために独り子をすら惜しまずに与えて下さる神の姿が、完全に現われるのです。
イエスが帰る(行く)場所
しかしもちろん、そんなことはこの時点の弟子たちには分かりません。ペトロは、「主よ、どこへ行かれるのですか」と尋ねます。するとイエス様はこうお答えになりました。
「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」
この後、ペトロは「あなたのためなら命を捨てます」と言うのですが、主イエスは、彼がイエス様を「三度知らないと言うだろう」と預言をされるのです。
その上で、裏切り、逃げるしかない弱い弟子たち、何か恐ろしい事態が近づいていることを感じ取って心を騒がせている弟子たちに向かってこうおっしゃるのです。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」
先週、私は、私たち人間というのは、イエス様を求めつつ実は拒絶する。そういう矛盾した存在だと言いました。今日の箇所では、その反対のこと、イエス様を殺そうとしつつ実は捜すという人間の本質が鋭く抉り出されています。これが罪に支配されている人間の本質なのです。イエス様を王として迎え入れて従うことは拒絶するのですが、創造主なる父なる神との交わりを失った惨めな被造物として、父を捜し求めているのです。父に抱きしめられる救いを求めている。弟子のトマスもまたそういう一人です。彼は復活の主イエスの体を見るまでは復活を信じないと断言していた人物ですが、イエス様に対して、悔いくず折れるようにして「わが主、わが神よ」と告白をした最初の人物となります。その彼がこの時は「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか」と言っている。父なる神の許に至る道を私たちは知らない、知りようがないではないですか?!と訴えているのです。私たちもまた、トマスと同じ問いを持つ人間です。イエス様はその問いに対してこうお答えになります。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことは出来ない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」
「知る」とか「見る」というのは、どういう現実であり、どうすれば、そういうことが起こるのか?
再び来るために行く
ある学者は、七章の解説の中で、「イエスは再び来るために行くのである」と言っていました。それは正しいと思います。今お読みした一四章でも、イエス様は場所を用意しに行き、また戻ってくるとおっしゃっています。そして、それは具体的にはどういう意味か。
一四章一五節以下のイエス様の言葉を読みます。
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」
イエス様が行った後、十字架に磔にされ、罪の贖いをして後、復活して天に上げられた後、真理の霊としての聖霊が神の許から弟子たちに遣わされる。この霊こそが今の教会の中で生きるイエス様であり、イエス様を信じる者たちと共に生きてくださるのです。パウロも、私たちは神の霊がその内に宿っている神の神殿であると言いましたが、それと同じことがここで言われているのです。私たちキリスト者は、聖霊を与えられてイエス様が今も生きておられる神であることを信じることが出来るようになったのだし、そのイエス様が私たちの内に生きてくださっている現実を見ることが出来るのだし、そして、イエス様を通して父なる神を見ることが出来るようにされているのです。
神を見る聖餐
私は、今日が聖餐礼拝であることをとても感謝しています。聖餐の食卓は見える御言と言われます。様々な意味でそうなのです。聖餐式の司式は、イエス様の代理者としての牧師が司ります。私は、皆さんの前でパンを裂くことはしませんが、裂かれたパンを渡す私の背後には、この礼拝堂の中に今生きておられるイエス様がおられるのだし、イエス様を信じて洗礼を受けた者だけが受け取るパンとぶどう酒は、イエス様が私たちの罪のために裂かれたその体であり、流された血潮なのです。信仰のない者にはただのパンだし、ぶどう酒に過ぎないものですけれど、信じる私たちにとっては、このパンとぶどう酒を頂くことを通して、イエス様が私たちの内に生きてくださることを実感することが出来るのです。さらに、私たちが讃美する讃美歌二〇五番にありますように、私たちは聖餐式に与るたびに、天の御国の面影をうつし偲ぶことが出来ます。父の家で、イエス様が家長として私たちを歓迎する食卓に着かせてくださる情景をはるかに見ることが出来るのです。すべては、神様の許から遣わされた真理の霊、今に生きるイエス・キリストの臨在の故なのです。ただ、この方を、罪と死に打ち勝って私たちに永遠の命を与えて下さる王であると信じる時に、私たちはイエス様と共に生きることが出来るのです。死に向かってでも、死ぬためにでもなく、父なる神に向かって、その父の家で生きる命に向かって、私たちが元々出てきた故郷に向かって生きることが出来るのです。
もう迷子ではない
仮庵の祭りは、飢えと渇きにさらされつつ、はるかに約束の地を目指して荒野を歩き続けた旅を、神様が常に共にして下さったことを感謝し讃美する祭りです。その祭りの最後に、イエス様は、大声でこう叫ばれたのです。
「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」
その後、こういう説明が続きます。
イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。
この福音書は、もちろん、イエス様が栄光を受けた後、降ってきた聖霊に満たされた人間が、一人でも多くの人が、イエス様を「わが主、わが神よ」と信じることが出来るようにと願って書いた福音書です。この福音書の証言そのものが聖霊の証言、今に生きるイエス・キリストの証言なのです。この証言を聴いてイエス様を信じることが出来た私たちは、何と幸いなことでしょうか。私たちは、聖霊の導きの中で、この聖書の言葉の中にイエス様を捜して見つけることが出来るし、聖餐の食卓においてイエス様を見ることが出来るし、そのパンとぶどう酒を食べることにおいてイエス様と一緒に生きることが出来る、イエス様のいる所に永遠にいることが出来るのです。私たちはもう迷子ではないし、これからどこに行くのかも分かっています。私たちは今や、「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることは出来ない」ではなく、「こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」と、イエス様に言っていただける者たちなのです。ただただ主の恵みの選びによるものです。ただただ主に感謝し、讃美をささげたいと思います。
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