「生きた水は川のように」

及川 信

ヨハネによる福音書 7章37節〜39節

 

 

祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。

 舞台は神殿 時は祭りの終わりの日

「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。」

 この言葉が七章の頂点です。この言葉が発せられた時は、祭りが最高潮に達する日であり、場所は神殿の境内です。巡礼者でごった返している。その時と場において、イエス様が立ち上がり大声で叫ばれた言葉、それは

「渇いている人は誰でも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 七章の舞台は神殿です。そして、時は仮庵の祭りの終わりの日です。この場と時は非常に重要です。しかし、七章には、この神殿の中でどのようにして仮庵の祭りが祝われているかは少しも記されない。記されているのは、イエス様とユダヤ人たちとの対話であり、イエス様の話を聴いたユダヤ人の中での分裂、イエス様が誰であるかに関する見解の相違です。それは、この後も続きます。

 仮庵の祭りとは

 今日は、七章には記されていない仮庵の祭りがどんな祭りであったかということから始めます。
 仮庵の祭りは、イスラエルがかつてエジプトを脱出して以後、四十年間も荒野を放浪した史実を想起する祭りであることはこれまでにも何回か言ってきました。彼らはその時、天幕を張りながら荒野を移動していました。粗末な仮の小屋を建ててそこに一週間寝泊りすることで天幕生活を想起するのですが、荒野放浪時にイスラエルを支えたのは、会見の幕屋にある契約の箱、十戒の板が納められている契約の箱において神様が臨在してくださっているという事実です。神様が自分たちの只中に生きて下さっている。その事実が彼らの支えでした。そして、同時に、天から与えられるパン(マンナ)が彼らの肉体を支えたのです。しかし、パンと同時に、肉体にとって必要なのは水です。水なき荒野において、神様は岩から水を出すという奇跡を通して彼らの命を養い続けてくださったのです。そのことを記念し、感謝する祭り、それが仮庵の祭りです。
 しかし、イスラエルの荒野放浪時代が終わり、彼らの多くが農耕民として生き始めた時に、この祭りは秋に行われる収穫感謝祭の要素を取り入れ、同時に雨乞いの祭りという要素も入ってきました。雨季と乾季しかないパレスチナ地方において、雨季に降る雨はまさに命綱です。冷凍保存など考えようもない時代です。その年に雨が降って穀物が出来るか出来ないかはまさに死活問題であり、神様に雨を降らしてくださるように求める祈りは切実なものでした。
 以上のことから分かりますように、この祭りで決定的な役割を果たすのは水です。祭りの最終日、祭司は金の器をもってシロアの池に水を汲みに行きます。祭司の後には、仮庵を作る材料である棕櫚の木の枝や収穫の実りであるレモンの木の枝を両手に持って掲げた群衆がついて行きます。その時、彼らはイザヤ書一二章にある言葉、「主よ、わたしはあなたに感謝します。主こそわたしの力、わたしの歌、わたしの救いとなってくださった」という言葉を暗誦するのです。何故なら、その後に続く言葉は、「あなたたちは喜びの内に救いの泉から水を汲む」とあるからです。これは終末の日にやってくる救いを祝う言葉なのです。それから行列は、水を汲んだ祭司を先頭にして口々に詩編の言葉、「ハレルヤ、主を褒め称えよ」と歌いながら神殿に帰ってくる。そして、「どうか主よ、わたしたちに救いを(ホサナ)。どうか主よ、わたしたちに栄を」と叫びながら祭壇の周りを七回まわる。その上で、祭司が、汲んで来た水を祭壇の西の隅に設けてある銀のじょうろに注ぐのです。その水は地下の淵に達して、それが巡って天から雨を降らせると信じられていたのです。
この仮庵の祭りはイエス様が肉体をもって地上を生きておられた当時、過越祭に並ぶ大きな祭りであったようですが、その華やかさと賑わいという意味では、最大のものだったと言われています。

大声で叫ばれるイエス

 その「祭りが最も盛大に祝われる終わりの日」に、群衆による讃美と歓呼の声が満ち溢れている神殿の境内で、イエス様が立ち上がり、大声で叫ぶ。その光景を思い浮かべてください。
 仮庵の祭りは、水を求める祭りです。水とは人が生きていく上でなくてならぬものです。昔も今も、水は農産物を豊かに実らせるためになくてはならぬものであり、農産物は人間が生きていく上で、その肉体を養う上でなくてはならぬものです。だから人は、「神様、水を与えてください。あなただけがその水を与えてくださるお方です」と讃美しつつ祈る。これが祭りというものです。その祭りの最高潮の時に、つまり、祭司が泉から汲んで来た水を、祭壇の端のじょうろに注ぎ入れる時、群衆の高揚が最高度に達するその時、イエス様は、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と叫ばれたのです。それは、人が生きていく上でなくてならぬ水は、今目の前で祭司が汲んだり注いだりしている水ではないし、空から雨となって降ってくる水でもないのだという宣言です。主イエスは神殿の真ん中で、祭りが最高潮に達したその時、神殿で行われる水の祭りを、その根底から否定されたのです。それは、まさにイエス様にとって命がけのことであることは言うまでもありません。靖国神社の真ん中で、人でごったがえす八月十五日に、『英霊』によって国が守られたのではないというようなことを大声で叫べば、直ちに捕えられて、時代が時代ならば、命の危険だってあるでしょう。イエス様も、この時「下役」と呼ばれる神殿警護隊によって逮捕される危険性の中にあったのです。しかし、それは次週以降の問題です。

 「その人」とは?

 今日は、三八節三九節の言葉に集中して行きます。実は、この言葉に関しては古代から現代まで解釈が分かれています。私たちが今礼拝で使っている『新共同訳聖書』では、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と訳されています。ここで「内」と訳されたコイリアスという言葉は、内臓の一つである胃とか下腹部全体、あるいは子宮という意味を持った言葉です。つまり、肉体の内部のことなのです。古代ヘブライ人は、そこに心が宿ると考えていて、人間の内面の最も奥底という意味にもなるのです。いずれにしろ、生きた水が川となって流れ出てくる場所は、イエス様を信じたキリスト者ということになります。そして、そのように解釈することが、古代からの主流であると言って良いようです。
しかし、ここに出てくる「生きた水」とは、聖霊のことであると三九節には言われています。そうであるとすると、「聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という場合の「その人」とは、何よりもイエス・キリストその方であるということになります。今日の箇所は、一貫してイエス様の宣言、自分が何者であるかの宣言なのですから、そう解釈する方がよいとある人々は言います。こういう二つの解釈がある。
 実に面白いなと思います。先ほども言いましたように、七章は、イエス様が神殿に登場して以来、ユダヤ人の間でイエス様が誰であるかについて見解が分かれていく様がこれでもかこれでもかと書かれている所です。「メシアだ」と言う人がいるし、「そんなことあり得ない」と言う人もいるし、イエス様を捕まえて殺そうとする人々もいる。イエス様が誰であるかについて混乱するユダヤ人を描いている七章が最高潮に達したところで発せられたイエス様の言葉を巡って、古代から現代に至るまでキリスト教会の中でも解釈が真っ二つに分かれているのです。もちろん、ユダヤ人の解釈が分かれているという意味でキリスト教会の解釈が分かれている訳ではなく、私たちはいずれにしろ、イエス様をメシア、キリストと信じているのですが、「その人」とはイエス・キリストのことか、イエス・キリストを信じる者のことかで解釈が分かれるのです。
 この二つの解釈には、言うまでもなく、それぞれに聖書的な根拠があります。私たちが「渇く」と聞いて真っ先に思い浮かべるのは四章のサマリアの女の話でしょう。そこでイエス様は五人の男との結婚と離婚を繰り返し、今は新たな男と同棲をしつつ真実の愛に飢え渇いている女に向かって、井戸の辺で「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る」とおっしゃいました。彼女は、この後の主イエスとの対話の中で、主イエスこそキリストであると信じる信仰を与えられていきます。そして、彼女はサマリアの人々に伝道までするのです。そういう意味では、永遠の命に至る水は、彼女の中で湧き出ただけでなく、さらに外に向かって流れ出たと言える。ある人々は、この出来事を根拠にして、今日の箇所も同じことを言っているのだと解釈します。しかし、私は最終的にはそういうことが言えるとしても、いきなりそう言ってしまうのは少し乱暴ではないかと思うのです。
 私は、説教の最初の方で、イエス様が語っている場所が神殿であり、語っている時が祭りであることは大事なことだと言いました。今日の箇所は、その線で解釈を進め、メッセージを聴き取るべきではないかと思います。

   時に関して

最初に、「時」に関して見ていきます。三七節に、「終わりの日に」とあります。これは時を限定した言葉です。この「終わりの日に」という言葉は、この福音書に七回出てきます。その内の四回は六章ですけれど、六章においてはすべて「終わりの日に」イエス様を信じる者を「復活させる」ことが父なる神様の御心だという形で出てくるのです。そういう点から考えると「祭りの終わりの日」というのも単に祭りの最終日ということではなく、実に意味深長な言葉であることになります。そして、一一章のラザロの復活の記事では、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言うマルタに向かって、イエス様が「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と言う。あの場面で出てきます。つまり、「終わりの日」という将来に起こる出来事は、実は今この時に起こることでもある。ここで現在の時と未来の時が重なります。
最後は、一二章四八節ですけれど、そこでは、イエス様の言葉を受け入れない者は、終わりの日に、イエス様の言葉そのものによって裁かれると言われています。イエス様がお語りになっている言葉は父なる神が語るように命じておられる言葉であり、その言葉にこそ永遠の命があることが、終わりの日には明らかになるのです。その言葉を拒絶する者は永遠の命を与えられない。天国に生きることが出来ない。そのことが明らかになるのは終わりの日です。しかし、イエス様の言葉を受け入れるか否かは今現在の現実です。

 場に関して

 次に、場について見て行きます。今日の箇所で、イエス様は「聖書に書いてあるとおり」と言っておられます。その聖書とは基本的に旧約聖書のことだと言って良いでしょう。その旧約聖書の中のどの箇所をお読みすればよいのか、私は迷います。エゼキエル書にも神殿から水が湧き上がり、流れ出るという預言がありますし、詩編とか箴言とか、様々な箇所にイエス様の言葉の背景にある言葉があるからです。その中で、私は今日、ゼカリア書の言葉を選びたいと思います。何故なら、そこには場所と時(ある特定の日)の両方が緊密に結びついた預言があるからです。十四章七節以下を読みます。

しかし、ただひとつの日が来る。その日は、主にのみ知られている。そのときは昼もなければ、夜もなく/夕べになっても光がある。
その日、エルサレムから命の水が湧き出で/半分は東の海へ、半分は西の海へ向かい/夏も冬も流れ続ける。
主は地上をすべて治める王となられる。その日には、主は唯一の主となられ/その御名は唯一の御名となる。


 エルサレムとは神の都だし、そこで象徴されているのはエルサレム神殿であり、それは即ち天国の象徴ともなります。いつか到来する「ただ一つの日」、「主にのみ知られているその日」、「昼もなければ夜もなく、夕べになっても光がある」と言われる不思議な日、エルサレムから命の水が湧き出で、世界中を潤し、夏も冬も、つまり乾季も雨季もその水は流れ続けると、ゼカリアは預言します。その日、主は地上をすべて治める王となり、唯一の主となると言うのです。舞台は神の都エルサレムの神殿です。時は世の終わりの日です。その日、神殿から命の水が湧き出てくる。そして、主が唯一の主となられる。天国が完成する。ゼカリア書の最後の章に記された預言は、こういうものです。  ヨハネ福音書は、他の福音書とは様々な面で随分違うのですが、「水」がよく出てくることと、「神殿」がよく出てくることも特色の一つです。イエス様がなさった最初のしるしは、ユダヤ教の清めに使う水をぶどう酒にしてしまうということでした。そのぶどう酒には十字架の血や聖餐式のぶどう酒のイメージが重なります。また、ヨハネ福音書では、その最初のしるしをガリラヤのカナという町で行った直後にエルサレム神殿に行かれたことになっている。そして、他の福音書では一回しか神殿の記事がないのに、ヨハネ福音書では三回もエルサレム神殿に行かれたことになっています。そして、最初にエルサレム神殿に上って行かれた時に、イエス様は境内で商売をしている人を鞭で追い払うという非常に過激なことをされました。その時、ユダヤ人たちはイエス様に、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言いました。イエス様は即座にこうお答えになった。

「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」

 ここには、今日の箇所と同じように主イエスの宣言があります。主イエスが誰であるか、何のために地上に来られたかを明らかにする宣言がある。しかし、その宣言は、この段階では誰にも理解されない、理解し得ない宣言なのです。ユダヤ人は、「この神殿は四六年もかけて造られたのに???」と訝しがることしか出来ません。この宣言の後には、今日の箇所と同じように、但し書きがついています。それは、こういうものです。

イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちはイエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。

 神殿としてのイエスの体

 イエス様の体が神殿であることが分かる日が来る。それは、イエス様が十字架に磔にされて殺された後、復活される時です。その時のことを、イエス様はここでおっしゃっている。だから、その時その場にいた人々は弟子たちだって、何のことだかさっぱり分からなかったのです。それが分かったのは、イエス様が復活されて、彼らに現れた時です。そして、イエス様が十字架に磔にされた時、ローマの兵隊がイエス様のわき腹を槍で突き刺しました。その時、イエス様の体から「すぐ血と水が流れ出た」と記されています。最初のしるしにも水が出てきて、血の象徴であるぶどう酒が出てくる。イエス様が、十字架の上で血を流す。それは世の罪を取り除く過越の小羊として犠牲となって死ぬということです。そのイエス様の体から水が流れ出てくる、それは何を意味するのか?
 今日の箇所に帰ります。そこには、こうありました。

「聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 しかし、ここでも二章同様但し書きがある。それは、こういうものです。

「イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」

 ここでも将来起こるべきことを現在のこととして語るというヨハネ福音書独特のイエス様の姿があるわけですけれど、イエス様が栄光を受ける日が来るのです。それは、ゼカリア書に出てきた「ひとつの日」「夕べになっても光がある」と言われたあの日、神殿から命の水が世界中に流れ出るその日のことです。その日、主が唯一の主になるのです。その日が、この十字架において来たのです。何故なら、この福音書においては、イエス様が十字架に上げられて死ぬことと、死人の中から上げられて甦ることと、地上から天に上げられることと、聖霊が下ることは皆ひとつの出来事として描かれるからです。
 主イエスは、この十字架の死から三日目の日曜日、甦られました。そして、その日の夕方、弟子たちの前に現れたのです。その時、まさに罪の闇の中に沈んでいた弟子たちにとって「夕べになっても光がある」という預言が実現しました。そして、ご自身の体そのものが神殿となったイエス様は、弟子たちに息を吹きかけて、こう言われました。

「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 釘を打たれた掌、槍で刺されたわき腹、そこから血と水が流れ出てきたわき腹を見せた上で、主イエスは弟子たちに息を吹きかけて、「聖霊を受けなさい」と言われたのです。主イエスが栄光を受けるときに降ってくる命の水である霊が、今こそ主イエスに降り、そして神殿としての主イエスの体から弟子たちに流れ出ているのです。そして、その聖霊を受けた弟子たちは、イエス様が天の父から派遣されたように、この世へと派遣される。何のために?彼らが与えられた罪の赦しを世の人々に与えるためにです。イエス・キリストを宣べ伝え、イエス・キリストを信じる信仰へと招くためです。ただその信仰によって私たち人間の罪は赦され、罪人は永遠の命に生きることが出来るようになるからです。
 ここに至って初めて「その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とある、「その人」とはなによりも、イエス様ご自身であると同時に、イエス様を信じる私たち、今この礼拝堂に命の水を求めて集まっている私たちでもあるということが明らかになるのではないでしょうか。二つの対立する解釈は、ここにおいて一つになるのだと思います。

 キリストの体 聖霊の宮(神殿)としての教会

   パウロは、コリントの信徒への手紙一の中で、イスラエルの先祖が荒野放浪時代に岩から出る水を飲んで生きたことに言及した上で、その「岩はキリストだ」と言います。教会とは、キリストから出てくる生きた水を飲みながら生きている人間の共同体だと言うのです。教会はキリストの体なのです。キリストの体としての神殿なのです。そこに満ちているのは霊です。だから彼はこう言います。
「あなたがたの体は、神から頂いた聖霊が宿ってくださる神殿なのだ。」(Tコリント六章一九節)
 聖霊の宮です。私たち一人一人の体もキリストの体の一部ですけれど、私たち礼拝に結集する民としての教会は、復活のイエス・キリストの神殿としての体そのものであり、その体には聖霊がいつも新たに湧き出で、さらに人を生かす命の水が川のように流れ出るのです。そして、それはなによりもこの礼拝の時に起こることです。奏楽者の奏楽、司式者の聖書朗読と祈り、説教者の説教、会衆の賛美と祈り、そのすべてを通して神の語りかけがあり、神への応答があり、聖霊の交わりがある。だから、パウロがその先で言っているように、この礼拝に参加し続ける者は、必ず「罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになる」(一四章二四節〜二五節)のです。聖霊によって、「イエスは主である」(一二章三節)と、信仰を告白するようになるのです。私たち自身がそのことの生ける証人です。私たちも、この礼拝の中でキリストの言によって罪を知らされ、その赦しを知らされ、そして復活の主イエスと出会い、「イエスは主である」との信仰を告白して、洗礼を受けたのですから。そして、私たちは今日も、この礼拝堂の真ん中に立って、「渇いている者はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と招いてくださる主イエスの招きに応えて礼拝に集まり、この礼拝の中で、命の言葉、命の霊を頂いて生きることが出来る喜び、永遠の命に生かされている喜びを、心から感謝し、讃美しています。そのこと自体が、主イエス・キリストという神殿の中に生かされている現実なのです。

  終わりの日の神殿

 エルサレム神殿、それは天国の象徴であると先ほど言いました。そして、そこには豊かな水が湧き出ており、世界を潤す。ゼカリアは、その生涯の最後にそう預言しました。そして、旧新約聖書の最後に置かれているのは「ヨハネの黙示録」です。その黙示録の最後は、二二章ですけれど、その書き出しはこういうものです。

天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。もはや、呪われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。

 これはヨハネが天使に見せてもらった世の終わりの日に完成する天国の情景です。天国には水晶のように輝く命の水が流れている。そして、その水によって、皆、健やかに生きることが出来る。呪われるものは何もないのです。そして、何よりも神の僕たちは、神を礼拝し、その御顔を仰ぎ見て礼拝できるのです。その礼拝こそ天国の本質であり、天国とは神殿なのです。その神殿で神を礼拝できる神の僕の額には、神の名が記されている。
 私たちは聖霊によって信仰を与えられ、洗礼を受けることを通して、額にイエス・キリストという神の名が記されたキリスト者にしていただいたのです。なんと幸いなことでしょうか。私たちは今既に、罪を赦され、死を越えた命を与えられているのです。そして、その命はこの礼拝で与えられる命のパンと命の水によって養われているのです。今日も、この礼拝の中で、私たちは聖霊を与えられて、新たにされています。そして、はるかに終わりの日を望み見て、そして、はるかに天を仰いで神とその子羊を礼拝しているのです。なんと幸いなことでしょうか。一人でも多くの人々が罪と死の呪いから解放されて、神を礼拝することが出来ますように、キリストの体である私たちから生きた水が川となって流れ出るように祈りつつ、今日よりの一週間の歩みを始めたいと思います。
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