「あの人のように話した人は」

及川 信

ヨハネによる福音書 7章40節〜52節

 

 

この言葉を聞いて、群衆の中には、「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、「この人はメシアだ」と言う者がいたが、このように言う者もいた。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、「どうして、あの男を連れて来なかったのか」と言った。下役たちは、「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。すると、ファリサイ派の人々は言った。「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」彼らは答えて言った。「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」



見た目ではイエス様はいないけれど

 今日の箇所には、イエス様のお姿も言葉も出てきません。しかし、今日の箇所にもイエス・キリストの光、命、言があり、イエス・キリストの言葉を聴き、そのお姿を見ることが出来るはずです。聖書とは、そういう書物あるいはそういう言であり、礼拝とは今に生きるキリストの言を聴き、そして、今に生きるイエス・キリストと父なる神を礼拝することです。聖霊が豊かな水のように注がれる礼拝とは、そういうものです。  私は、先週の箇所が七章の頂点だと言いました。仮庵の祭りの終わりの日、神殿の祭壇に水を注ぎながら、自分たちを生かす神に感謝し、また同時に雨乞いの祈りを捧げるその時、イエス様は神殿の境内で立ち上がり、大声でこう言われたのです。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 今日の箇所は、この言葉の余韻というか、この言葉が人々にもたらした動揺と不安、期待と恐れに満ち満ちた箇所です。主イエスが何かをする、何かを語る。そのいずれもが、人々の心の中にただならぬ何かをもたらすのです。イエス様の言葉を聴く、そして、その業に触れる。その時、私たちの心は何らかの意味で揺さぶられる。これは、私にはよく分かります。皆さんの中でも分かる人は分かると思います。

 イエス様の言がもたらすもの

 青山学院女子短期大学では、授業の終わりに感想や質問を書いてもらって、次の週にその中からいくつか選抜したものに応答することからその日の授業を始めます。これは実にスリリングで楽しいときです。
 先日は、こんな感想レポートがありました。いくつか読んでみます。
1、 私はこの授業に出るたびに不安になります。確固たる信仰を持った人は強い。自分にはまだ何もないから。(何人かは、こういう感想を書いてくれます。価値観が揺さぶられた、と書いてくる学生もいる。私は人を不安に陥れたり、揺さぶったりするのが大好きなので、こういう感想を読むと、ゾクゾクするほど嬉しくなります。)
2、 イエスの自分が神であるという自信はどこから来るのか。いつからそんな凄い自覚を持ったのか興味を持ちました。(これはよく考えるとなかなか難しい問題です。イエスは神なのか?神の子なのか?人間なのか?またイエス様の自覚としては何なのか?これは難しい。)
3、 イエスの凄さは、病を治したとかいうことではなく、言葉の力だと思う。(よくぞこういうことを感じてくれたもんだと思います。これは今日の説教と深く関係します。)
4、 先生は最初の授業でイエスを愛していると言ったので、私は感動しました。しかし、実際に会えるわけでもなく、ただこうやって生きたということを聖書を通して知ることが出来るだけなのに、どうして愛せるのでしょうか?また、先生は結婚もして子供もいるらしいけれど、どの程度イエスを愛しているのですか。(これも難しい。イエス様の方を強く愛していると言えば、きっと、家族の誰かからは、「あなたがそんなに信仰深いお方だとは知らなかったわ」と言われるだろうし、「家族の方を強く愛している」と言えば、きっと「あなたにそんなに強く愛された覚えはない」と言われるに違いありません。しかし、実際どうなんだ??と考え込んでしまいました。そして、結局、私のために生きてくださり、死んでくださり、甦って今も生きて下さっている方と、死んだわけでもない家族とは比較できるものではない、とか書いて明日レポートを返そうかと思っていますが、「逃げた」と思われるのか、それとも生きて死んで甦った方とはどういう方なのかについて、さらに深く探究心を持ってくれるのかは分かりません。)
5、 二千年間もキリストのことが伝えられて、キリストを信じている人がこんなにもたくさん存在することは凄いことだと思う。これからもイエスのように世界中の人々に大きな影響を与える存在は出てくるのだろうか?(これには、「出てこないと思うよ」と書いておきました。)

 このように毎回、毎回、イエス様って誰なんだろう?どういう存在なんだろう?自分自身と関係ある存在なのか、それとも世界史上の一人物なのか?今生きているってどういうことなのか?そんなこと本当にあり得るのか、あり得るとしたら、そのことを実感できるとか、信じるってことは、どうすれば起こるのだろう?ということを考えていきます。授業に集中できている学生たちの心や頭の中が、グルグルかき回されているのがよく分かります。そして、私自身も自分が語っている言葉を聴きながら、毎回、心を揺さぶられています。そして、いつもの通り、求めつつ拒絶し、拒絶しながら求めている自分を発見します。いつも真実な愛を求めている。でも、真実な愛は怖い、そういう愛で愛されることは怖いし、そういう愛で愛するなんてことは出来ない。でも、真実な愛を与えられたいし、その愛で愛する者になりたい。でも、怖い。
 そういう自己矛盾というか分裂を、自覚するしないは別として誰しもが抱えているはずです。そういう人間に、イエス様は先ほど読んだ言葉を語りかけてくる。ですから、否応なく何らかの応答をせざるを得ないのです。「来て飲みなさい」と言われているのですから、イエス様の所に行くか行かないかの応答をせざるを得ないのです。ここでイエス様の所に行く、イエス様の側から言えばイエス様の所に「来て飲む」とはイエス様を信じる、愛する、そしてイエス様に従って生きるということを意味します。それは、自分のために生きてきた人生の終わり、死を意味します。そして、全く新しい人生の始まりを意味します。

 当時の人々の動揺

当時、この言葉を聞いたある人々は、祭りの興奮がさめやらないままに「この人は、本当にあの預言者だ」とか「この人はメシア(キリスト)だ」と言っている。しかし、他の人々はイエス様の地上的な出自に拘り、「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアは、ダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」とか言っている。つまり、人々の間で、イエス様が誰であるかについて非常な混乱があり、それが対立にすらなっているのです。イエス様の言葉を「聞く」ということは、そういうことを人間の中に引き起こすのです。そして、ある人々は、こういう混乱、動揺を引き起こすイエス様を捕えようとすら思う。しかし、既に三〇節の段階でも同じことがありましたけれど、この時はまだイエス様の時、その死と復活を通して神様の栄光を現し、ご自身が栄光を受ける時ではなかったので、誰もイエス様を捕えることが出来ませんでした。
そこに、多分数日前に祭司長やファリサイ派の人々から、イエスを捕えるようにと派遣された下役たちが戻ってきました。それも手ぶらで。これは大変なことです。当時のユダヤ人社会の中で最高の権威と権力を持っている祭司長やファリサイ派(ユダヤ教の一派)の人々の命令に逆らうということは、下手をすれば裁判にかけられるような犯罪だからです。祭司長らは厳しく詰問します。

「どうして、あの男を連れて来なかったのか。」

 普段は、ただただ下手に出るほかにない下役たちが、この時は、憮然とした感じで「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えました。彼らは、明らかに不満を心に抱いています。“あんたたちは、いつだって俺たちに命令する。俺たちはいつだって忠実に命令に従ってきた。でも、今度は従いたくても出来なかった。何故かを上手く言うことは出来ない。あんたたちが直接、あの人の言葉を目の前で聞いてみれば分かる。何故、俺たちがあの人を捕まえることが出来ないか。直接その言葉を、その話を聞けば分かる。”そう言いたいのだと思います。
 しかし、ファリサイ派の人々は、まったく的外れなことを言って、下役たちの言葉を斥けます。

「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。」

 彼らの中には既に結論が出ているのです。イエスという男は自分たち特権階級の人間にとって非常に危険な人物だから、捕えて殺さなければならない。これは既に四章の段階で出ていた結論です。自分たちの権益を守りたいという真に浅ましい思いを正当化するために、彼らは、自分たちのような高い地位についた人間の誰があの男を信じたか!?と下役たちを見下した上に、群衆のことを律法を知らない呪われた民だとまで言う。自分たちこそ、神の律法を忠実に守っている神の民イスラエルの代表だという強烈な自負が彼らにはあるのです。

 ニコデモの登場

 しかし、ここで面白いというか皮肉なことに、彼らと同じファリサイ派に属する議員のニコデモという人が登場する。彼は、この福音書の三章に登場していた人物です。ニコデモは、エルサレム神殿や街の中でイエス様がなさった様々な「しるし」を見て、それは「神が共におられるのでなければ」出来ないことだと感じたのです。そして、議員であり律法の教師でもある立場上、まだ世間的にはどこの馬の骨とも分からぬ人物に会いにきたことを知られぬように、夜の闇に紛れてひそかにイエス様に会いにやって来た。その時、彼の挨拶を聞くや否や、イエス様はこうおっしゃいました。

「はっきり言っておく。人は新たに生まれなければ、神の国を見ることが出来ない。」

 ニコデモは、この言葉の意味がなんのことだかさっぱり分からず、今更母の胎内に入ることが出来るだろうか?などと言ってしまう。イエス様は畳み掛けるようにして、こう言われました。

「はっきり言っておく。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である。『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。」

 例年のことですが、今日の週報には「クリスマスに洗礼を受ける志をお持ちの方や他教会から転入をする希望をお持ちの方は、牧師まで申し出てくださるように」という案内が出ています。洗礼式において絶対に必要なものは水です。水のない洗礼式は、考えることは出来ません。ぶどう酒とパンのない聖餐式が考えられないのと同じことです。ヨハネ福音書においては、水に象徴されるのは聖霊です。命を与える霊です。だから、イエス様はここで洗礼を受けて新しく生まれ変わらねば、神の国を見ることも、入ることもできない。霊において生きる永遠の命は、洗礼を通して与えられるのだとおっしゃっているのです。
 ニコデモは、この言葉の意味がよく分かりませんでした。こんな言葉を聞いたことがないからだし、こんなことを話す人にこれまで会ったこともないからです。このイエス様の言葉は、彼が生きている次元とは全く違った所から聞こえてくる言葉です。もちろん、ニコデモに限らず、私たちすべての人間がイエス様に会わない限り決して聴くことが出来ない言葉です。実は、ニコデモは、この後、消えてしまいます。ニコデモとの対話であったはずのイエス様の応答は、いつのまにか初代教会の信仰告白、「神は、その独り子を与えるほどに世を愛された」という言葉になっていくのです。 三章でいつのまにかイエス様の前から消えてしまったニコデモが、今日のところにいきなり出てきて、自分の仲間であるファリサイ派の人々に向かってこう言います。

「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。」

 ファリサイ派が自分たちの主張の正当性の根拠にしているのは、旧約聖書に記されている律法です。その律法には、人を裁くときには、必ず当事者自身の言葉を直接聞かねばならないと記されているのです。下役たちは、イエス様から言葉を直接聞いてしまったが故に、手ぶらで帰ってきたのです。しかし、ファリサイ派の人々は、直接、聞こうとしない。それに対して、同じファリサイ派に属するのに、ある夜、ひそかにイエス様を訪ね、そのあまりに不思議な言葉をイエス様から直接聞いてしまったニコデモが「律法違反をしてはいけない。あなたがたも直接、あの人の話を聴くべきだ。そうすれば、下役たちが手ぶらで帰ってきた理由が分かるはずだ・・」と言っている。
 しかし、それに対する彼らの反応は、恫喝なのです。「お前は、あの男の仲間なのか?そんなことを言っていると、自分の身が危ないぞ」と脅している。彼らもまた、イエス様を前にして動揺しているのですが、その動揺は、あの人は一体どういう人なのか!?を巡るものではなく、この男を放置しておいたら、自分たちの地位は危ない、だから一刻も早く処置をしておかないと安心して眠ることも出来ない・・・・そういう意味での動揺です。知識も教養も信仰もあると自負している特権階級の人々の動揺は、彼らが呪われていると蔑んだ群衆の本質的な動揺に比べて、なんと低レベルなものなのかと思わざるを得ません。えてして、こういうものですけれど。

 今まで いまだかつて

 今日の箇所の中心は、「今まで、あの人のように話した人はいません」という下役たちの言葉にあることは明らかだと思います。ここには、「これまでにこんな人に会ったことはない」という驚きが満ちています。青学短大の学生さんたちも、「こういう人はまた出てくるのだろうか?」と考え、「イエスという人は、人なのか神なのか分からない」とか、「この人の語る言葉はあまりにも独特で、ただの人のものとは思えない」とか、様々な驚きと困惑に満ちているわけですが、私もまた毎週礼拝に備える度に、その驚きと困惑を感じます。
 その理由はどこにあるのかと言えば、やはりイエス様の話す言葉にあるのです。下役たちは「今まで」と言っています。「今まで、あの人のように話した人はいません」と。この「今まで」と原文では少し違う言葉ですが、一章一八節に、意味が同じ言葉があります。

「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

 「いまだかつて」も「今まで」も意味は同じです。要するに、歴史上初めてこんな人が現れたと下役たちは言っているのです。そっくり同じことを一章一八節も言っているのです。ここは、この福音書を生み出したヨハネの教会の信仰告白の言葉だと言ってよいと思いますけれど、ここでは今まで会ったこともない「人」のことを、「独り子なる神」と言っている。イエスという名を持った人、人間のことを、独り子なる「神」と言っているのです。「人」ではなく「神」と言っている。でも、それは実は、「人であって同時に神」ということなのです。私たちと全く同じ人として肉をもってお生まれになった、けれど、その方は神を見ている方であり、神ご自身を私たちに示してくださるただ独りの方なのだ、と言っているのです。

 人 神 言 光 命 霊

その消息が、一章一四節に記されています。

「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」

 言が肉となった。そして、人間の間に宿られた。私たちは、その栄光を見た。
 これは本当に不思議な言葉です。言が肉となるってことは人間になるということですが、それじゃあ言とは何よ?と遡っていくと、この福音書の書き出しに到達します。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」

 この言、つまり世が造られる前から存在した言、それは神と共にあり、それ自身神である言です。その言によってすべての物は造られている。私たち人間一人一人もこの言によって造られたのです。だから、この言の中にこそ命があり、その命は、人間を照らす光なのです。しかし、光に照らされれば、必ず陰が出来ます。闇が見えてくるのは光によって照らされるからです。その時に、光の方に行くのか、闇の中に留まるのか、それが、私たち一人一人が生きるか死ぬかの別れ道なのです。光の方に行くとは、水と霊によって新たに生まれ変わることですし、闇の中に留まるとは肉のまま滅びに向かうということなのです。
 この言が、歴史上一回だけ肉となって現れた。それが独り子なる神としてのイエス・キリストである。そして、その方は、今は霊において、私たちの間に宿っておられる。そして、語りかけて来られるのです。つまり、言がイエス・キリストであり、そして、それは霊なのです。この言であり霊であるイエス・キリストを信じて受け入れることが出来るとき、私たちは神を信じることが出来るのだし、神の子として新たに生まれ変わることが出来るのです。それが洗礼において起こることです。そして、私たちは礼拝の度ごとに、もう水を注がれることはありませんが、聖霊を注がれて、罪を清められ、新たな命を与えられるのです。
 下役たちは「今まで、あのように話した人はいません」と言います。イエス様が「話す」、それはどういうことであるかを、イエス様ご自身が実にしばしば説明されているのです。たとえば、五章二四節以下六章六三節ではこうおっしゃっています。

はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。
命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。


 イエス・キリストは、永遠の命そのものなのです。そして、そのイエス・キリストの話す言葉は霊であり、命そのものです。だから、その言葉を信じる者は命そのものであるイエス・キリストを信じる者であり、永遠の命そのものであるイエス・キリストがその人の中に生きることになるのですから、肉体の死を越えて永遠に神の国に生かされるのです。
 私たち人間は誰だって、このような絶大な救いを求めています。しかし、誰もが怖がっている。この救いに入るためには、新たに生まれなければならないから。新たに生まれるためには死ななければならないからです。

 死 新生

 先週は、ボクシングで有名なある親子のことでマスコミは持ちきりでした。これまでの自分たちのやり方の非を認めたくない父は、謝罪することは敗北であり、自分の死を意味すると思い、そんなことは耐えられないと思ったのかもしれません。彼は謝罪をしません。でも、これからもボクサーとして生きていきたいと願った長男は、弟に反則を指示したことを認め、謝罪し、そして、これから新しいスタイルを作っていきたいと言葉にしました。それは、彼にしてみれば、本当に屈辱であり、やはりこれまでの自分に死ぬことを意味したでしょう。しかし、過ちを認め、謝罪しない限り、彼はボクサーとして新しく生きることは出来ないのです。それを拒む者は、新しいスタートは切れないのです。
 新しく生まれるとは、死ぬことです。これはやはり恐ろしいことです。救いは求めている。でも、そのために死ぬのは嫌だ。そういう自己矛盾と分裂を、私たちは誰だって抱え持っているのです。その矛盾と分裂を抱えてどうにもならない私たち、まさにこれこそ罪の束縛というものだと思いますが、その束縛の中に引き裂かれた私たちに、独り子なる神であるお方が今日も話しかけて来られるのです。礼拝とは、何よりもその語りかけを聴く時です。いまだかつて、そして、これからも、誰もこのような言葉を話す「人」はいない、「独り子なる神」が話す言葉を聴く時です。

 人間の言葉の中に生きる言

イエス様も、人として神の言を語りました。そうでなければ、誰も分からないからです。具体的には当時ユダヤ人の間で語られていたアラム語という言葉で語ったのです。それが当時地中海世界の公用語であったギリシア語に翻訳されて書き記されてきた。具体的な意味では、人間が使う言語の中で語られ、書かれている言葉の中に、命そのもの、神であるイエス・キリストがおられる。そして、人を生かす言そのものとして、私たちに迫ってくる。それが礼拝の時です。聖書朗読を通して、説教を通して、人間の言語、日本語を通して、命であり、光であり、霊である言、イエス・キリストが迫ってくる。それが、霊の導きの中で捧げられる礼拝です。今日、イエス様は、この礼拝の中で、私たちに向かってこのように話しかけておられます。
「私を信じなさい。そして、新しく生きる者となりなさい。罪の中に死んでいけない。闇に留まってはいけない。肉に留まってはいけない。私を信じ、私を受け入れなさい。そうすれば、私があなたの中に生きることが出来る。あなたのために肉となり、肉に対する裁きを身代わりに受け、今は、霊において生きている私が、あなたの中に生きるようになる。そして、私を信じる者は罪に死に、永遠の命を得、死から命へと移る。この言は、ただ独り子なる神である私だけが話すことが出来る言である。恐れずに、私を信じなさい。」
この言葉を聞いて、自分の罪を知り、神に謝罪し、イエス・キリストによる罪の赦しを信じる者は、古き命に死に、新しい命を与えられます。

「私を信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

これは、本当のことです。これが本当のことだから、この言葉が語られてから二千年を経た今日も、私たちはイエス・キリストの体である礼拝において、人を生かす水としての聖霊、人を生かす霊としての言を頂くことが出来ているのです。そして、その聖霊、その霊なる言は、信じる私たちを通してさらに人々に向かって流れ出ていくのです。まさに、こんな言葉を話した人は今までも、これからもいません。私たちは、幸いにもこの方を信じる信仰を与えられました。感謝と喜びと讃美を捧げつつ、今日から始まる一週間に向かって歩み始めましょう。
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