「わたしもあなたを罪に定めない。」

及川 信

ヨハネによる福音書 7章53節〜8章11節

 

〔人々はおのおの家へ帰って行った。イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」〕



 罪人の社会に必要なものは裁き

 私たち人間社会にとって絶対に必要なものの一つは「裁き」というものだと思います。その場合の「私たち人間」とは、「罪なる人間」という意味です。自分で何をしているか分からぬままに、他人を傷つけ、また自分自身を傷つけ、損害を与えながら生きている。生きてしまう。そして、それは究極的には、私たちを創造し、祝福の内に生かそうとしてくださっている神様を汚しながら生きているという点において、それは罪であり、私たちは罪人なのです。その点について、私たちは一人の例外もなく罪人です。
 その罪人だらけの人間社会において必要なのは、罪に対する裁きであることは言うまでもありません。罪がそのまま放置される、あるいは容認される、罰せられることがないとすれば、罪は増大し、秩序と安全は保たれず、その社会は内部から崩壊して行きます。いわゆる無政府状態は、凶暴な政府の独裁状態よりもさらに危険な場合がいくらでもあります。罪は裁かれなければなりません。
 私は飽きもせずに毎日毎日よくテレビを見ます。一日中家にいることも多く、三食家で食べることが普通ですから、朝のワイドショー、昼のワイドショー、そして夜のニュース、そしてスポーツニュース。下手をすると一日に同じ話題を三度も見ることがあります。そのニュースの半分くらいは、何らかの不祥事、犯罪に関することであり、また今日の御言にあるような不倫、姦通に関することです。そういう事件が起こるたびに、それが事実か憶測か分からない段階の時からマスメディアは容疑者を追いかけて行きます。その動きを見つつ、同時に彼らが垂れ流す報道を画面のこちら側で見ている視聴者の心の動きを感じる時に、私はしばしば今日の箇所に記されている出来事を思い出し、腸(はらわた)の奥底にどす黒い感情が溜まってきて、朝から生きる意欲を削がれる感じがします。
 誰かが何かの事件に関与している、不祥事を引き起こした、有名人が姦通をしていた。そういうことが発覚すると、大勢のカメラマンがその人の家の前に集まってきて、門から出るなり、取り囲み、一斉にシャッターを切り始める。そして、マイクを突きつけて詰問する。そして、画面の中では物知り顔のコメンテーターが怒ってみせたり、嘆いてみせたり、他人事のように解説をしたりする。そういう形で、容疑を掛けられた人は、まだ容疑者の段階から社会的制裁を受け始めるわけです。そして、世論は、一方的な報道によって形成されていき、まるでその人間は根っからの悪人だとか、不謹慎な人間だとか、罰っせられて当然ということになる。そして、次の事件が起これば、あっさりと忘れ去られていく。一斉にモンゴルに行っていた報道陣は、今はメキシコに行っているようです。
 カメラで追いかけている人間、マイクを突きつけている人間、それを見ている民衆、その誰もが、「自分はこの人がやったようなことはしたことがない」「自分とこの人はまるで違う人間である」かのように追いかけまわして、捕まえようとしている。そういう姿を見ながら、私も一緒になって容疑者や不祥事を起こした人間を心の中で責めたり、嘲笑したりしている。そして、同時に、腸(はらわた)の奥底で、自分自身のことを思い出して、反吐が出てくるような思いになる。一体誰が裁く権利があるのか?!と思う。私たちの誰もが思い当たる節が全くないのか?金銭の誘惑、性の誘惑、名誉の誘惑に負けたことがないのか?支配欲や征服欲、復讐心に負けたことはないのか?心の中でさえ負けたことがないと言える人間が、あの報道陣の中に、コメンテーターの中に、そして私たちテレビの前の人間にいるとでも言うのか?罪に対する裁きはなければならない。しかし、裁く権利を持っている人間がいるのか?法律ですら、それを作った人間に有利に作られているのだとしたら、法が裁くと言っても、その裁きは果たして正しい裁きなのか?毎日毎日、テレビのニュースを見、新聞を読み、そして聖書を読みながら、私自身は悶々とした思いを抱えている。そして、そういう世の中で、うずくまっているイエス様、責め立てる群衆と責められている罪人の只中で屈みこんで、地面に何か書いているイエス様がいる。責められている罪人の罪を背負い、責め立てている群衆の罪をその身に受け止めつつ、くず折れるように屈みこんでいるイエス様の姿が、そこにあるように思うのです。

 この話は何故ここに?

ヨハネ福音書の七章五三節から八章一一節は、私たちが礼拝で用いている新共同訳聖書においても鍵括弧の中に入っていることからも分かりますように、元来のヨハネ福音書にはなかった部分だと言われています。ある時代までは、この出来事が記されていないヨハネ福音書が流布していたのですけれど、この話し自体は古くから伝えられていて、結局、この箇所に挿入され、この話を含めて「ヨハネ福音書」ということになってきました。ある意味では、全く唐突に出てくる話です。でも、この箇所に入れられたことには十分な理由があると思います。
七章の五二節までで問題になっていることは、ユダヤ人、それも当時権力を握っていた律法主義的なファリサイ派の人々らによる「裁き」です。彼らは、聖書の中に記されている律法に通じた人々であり、自分たちはその律法に忠実に生きているが故に正しい人間であり、律法に違反する人間は罪人であるという分類をしていた人々です。そして、権力を持っていたということは、つまり、人を裁く権限を持っていたということです。その権限をもって、イエス様を「神に背く罪人」として心の中では既に裁いており、その刑は、死刑であるということになっていました。しかし、彼ら自身が、同じくファリサイ派のニコデモから「本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」と正論を言われても、むしろ恫喝をもって返答する人々なのです。その裁き方そのものが、律法に適っていない。けれども、そういうことは現代に至るまで世界各地で行われていることでしょう。
また、この女の記事は、四章のサマリアの女、五人の男との結婚と離婚を繰り返しながら本当の愛を得ることが出来ず、今も新たな男と同棲をしているあの女のことを思い起こさせます。彼女は飲めばまた渇く水を飲んでは渇き、飲んでは渇きを繰り返しつつ、人々の非難の目に曝されながら、カラカラに渇いた心からの呻きを発します。

「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」

 そして、七章全体の舞台は水をふんだんに使う仮庵の祭りであり、八章もその流れにある箇所です。その祭りが最高潮に達するとき、主イエスは、こう叫ばれました。

「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」

 今日、登場するのは姦通の現場を取り押さえられた女です。この女の事情は分かりません。自分に夫がいるのか、それとも妻がいる男と関係を持ったのか。あるいは両方とも結婚した男女であったのか?詳しい事情は分からない。そして、彼女の心の中に何があるのかも分からない。愛に飢えていたのか?それとも複数の男を同時に愛することを愛と思っていたのか?愛を求めてのことなのか、ただの肉欲なのか、それも分からない。でも、自覚の有無は別として、この女もまた、ひどく渇いていたことは事実だと思います。自分でも訳の分からない、愛への渇望がある。今、自分が持っているもの、与えられているものでは満たされない渇きがある。その渇きに呑み込まれるようにして姦通をしている。それはやはり事実だと思う。

 何故、女だけ?

この女は姦通の現場で捕えられて、そしてここに連れて来られたのです。これは考えられる状況の中でも最悪の状況です。誰が捕まえたのか分かりません。でも連れてきたのは、律法学者やファリサイ派の人々です。姦通の理由は分かりません。相手も読者である私たちには分からない。ただ、姦通ですから、どちらかが結婚をしていることは確実なことです。そして、その場合、男も女も死刑にしなければならない。それがレビ記や申命記の律法に書かれている定めです。この律法を神の言として重んじる。そのこと抜きにユダヤ人は、長く激しい歴史の荒波にもまれつつ、自らのアイデンティティを保って生きてくることは出来ませんでした。この律法を守る。彼らはそのことによって、民族的アイデンティティを保ってきたのだし、人間の尊厳を守ってきたと言っても過言ではないのです。しかし、その一方で、彼らはその律法を厳格に守っているのかどうか、私は疑問に思います。
 姦通なのだから、相手がいます。男がいるのです。そして、律法では、「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば、女と寝た男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」(申命記二二章二四節)と記されている。それなのに、何故か、多くの群衆がいる所に連れ出されているのは女だけです。
 ファリサイ派、また律法学者、彼らは全員男です。歴史の中で、時折例外があるとしても、男が権力を握ってきたことは紛れもない事実です。その彼らは、同性である相手の男を連れては来ない。自分たちの権威の象徴である律法には、「男もその女も共に殺して、イスラエルの中から悪を取り除かねばならない」と記されているのに、彼らは、ここでその律法を厳格に実行しようとしていない。何故なら、はなからそんなことが彼らの目的でも何でもないからです。それは彼らの建前であって、本音は別にある。彼らが女を連れてきた意図、それは「イエスを試して、訴える口実を得るため」なのです。そして、同時に、好奇と非難の視線に自分たちと同じ性である男を曝させないようにしようという意図があると思います。男は悪いのは女だと思い、女は悪いのは男だと思うものです。そういう心理がある。そして、権力をもっている者は、自分たちの権力を守ることに必死になる。

 稚拙な罠

 彼らは言います。

「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」

 ある学者は、当時のユダヤ人はローマ帝国の支配下にあり、人を死刑にする権限はなかった。だから、石打の刑で殺せとイエスが言うとすれば、それはローマに対する反逆を意味するので、ローマに訴える口実となると言います。そうかもしれません。イエス様は最後にはローマ帝国の皇帝に対する反逆罪として十字架刑に処せられることになるのですから。そして、もしイエス様が「女を無罪放免にしてやれ」とおっしゃれば、それは神の言である律法に違反したことになります。そうなれば、ユダヤ人の社会で最早尊敬を受けて生きていくことは出来ません。神殿で教えるなどもってのほかです。 彼らは、自信たっぷりにイエス様に罠を仕掛けているつもりなのです。でも、もしここでイエス様が、「相手の男はどうしたのか?律法には男も女も共に殺さなければならないと書いてある」とおっしゃれば、彼らの罠自体が、彼らを捕えてしまうと思いますけれど、多分、そういうことがここでの中心問題ではない。つまり、罠の掛け合いの中で、イエス様の賢さが証明されたという話ではないのです。ここでの問題は、誰が本当の意味で裁くことが出来るのかです。

 かがみ込むイエス

イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。

私がこの場面を最初に心に刻んだのは、まだ小学生の低学年だった頃です。私の母方の叔父は、当時中学校の英語の教師だったのですが、趣味で絵を描いていました。その叔父や伯母が属する絵のグループが展覧会をしていて、私は母に連れられて行きました。叔父が描いた絵が、この場面でした。イエス様が群衆の前でかがみ込んで指で何かを書いている。その姿をそのまま描いていました。当時の私は、姦通とか姦淫とかいう言葉の意味も知りませんでしたし、何が描かれているのかもよく分からなかったはずですが、妙に印象に残っています。黙ってかがみ込んでいるイエス様の姿なんて想像も出来なかったからかもしれません。当時の私にとってイエス様は、人々に説教をしていたり、病気を治したり、海の上を歩いたり、一匹の羊を捜し求めていたりするイエス様でしたし、十字架に架かっているイエス様であり、また復活して光に包まれているイエス様です。絵本や紙芝居や、またお話を聴きながら頭の中で想像していたイエス様の姿は、いつでも格好よい人でした。でも、目の前のイエス様は、なんだかよく分からないけれど、何もできずにかがみ込んでしまっている。なんだか無力感に押しつぶされている。そんな感じでした。

一枚の絵の思い出

余談ですが、今から六年前の夏休み、私はその叔父が教師をしていた伊豆七島の新島に、それこそ四十年ぶりに、家族で行って、叔父が通っていた新島教会に行きました。その教会は専従の牧師がおらず、大島の教会の牧師さんが二週間に一回だか礼拝に来るということでした。でも補修工事中だったので、無人の教会の中に入ることが出来ました。そして、二階に上がる階段を上っていくと、その踊り場に、四〇年以上も前に観たその絵が、少し傾いていましたが、飾られていました。叔父が献品したのでしょう。今や姦淫の意味も知っている私は、胸が締め付けられるような思いで、その絵を見ました。後に教師を辞めて、牧師になる志を与えられつつ、四〇代の若さで、癌を患い、みるみる痩せこけて死んでしまった叔父が、その若き日に、どんな思いでこの絵を描いたのだろうかと思いました。

誰も自分の罪には気づかない

イエス様は、女の罪を暴き立てて、「さあ、どうする?どうする?裁くのか、赦すのか。どっちを選んでもあなたの命はないぞ」と脅す人々と、事の成り行きを興味津々に眺めている人々、そして、姦通の罪を見つけられ、捕えられてしまった女の前で、くずおれるようにかがみ込んでいる。今の私には、そういうイエス様の姿が見えます。イエス様は、くずおれている。すべての人間のすべての罪をその身に負って、その重さで、潰される寸前になっている。
イエス様は、神殿の境内で、当時の律法の教師が神の言を教えたように座って教えておられました。その場に、いきなり女が連れて来られたのです。死刑に値する罪を犯した女が。でも、連れてきた男たちは、相手の男を連れてこない。律法によって女を裁くことが正しいことだと主張している律法学者とファリサイ派、彼らは律法を盾にイエス様を罠に陥れようとしながら、律法を守っていない。どうしようもない偽善的な罪です。そして、これまでイエス様から神の言を教えられていた群衆は、そのことに気づきつつ、自分とは関係のないこととして興味本位に事の成り行きを見守っている。まるでテレビの前にいる大衆のように。もう、何もかもが汚れています。腐っています。すべての人間が、罪の泥沼にはまり込んでいるのです。それなのに、誰もその事実に気づかない。気づこうとしない。それが、「世」なのです。ヨハネによる福音書が言うところの「世」とは、そういうものです。
三章一九節以下に、こういう言葉があります。

光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。

 再びかがみ込むイエス

 イエス様は今、闇の力に押しつぶされるようにかがみ込んでいる。そして、すべての罪が、そのどす黒い闇が、真っ黒な煙のようになって、イエス様の体内に入り込んでいる。そんな感じがするのです。すべての人間の罪がイエス様の中に入っていき、その罪の重さによってイエス様はもう立っていることも出来ない。人間がもっているどす黒い思いのすべてを、その身に受け容れながら、悲しみとか、苦しみとか、怒りとか、そういう感情を表現する言葉では言い表せない思いがイエス様の中に沸き起こってきて、イエス様は、最早立っていることも座っていることも出来ない。屈み込むしか出来ないんだ。そう思います。そして、その沸き起こってくる思い、表現できない思いを、指先から出している。必死になって出している。その場にいる誰にも分かりようがない、ただ神様だけしか分からない思いを、指先から出している。そんな感じがします。
 しかし、そういうイエス様を見ながら、周囲にいる人間たちは、しつこく問い続けます。自分たちの罪のすべてを背負ってくれているイエス様、その罪をわが身に入れるようにしてくずおれているイエス様に、「さあ、どうする。どうする。刺せば監獄、刺されれば地獄だぞ。さあ、答えは何だ。言ってみろ」と叫んでいる。なんと哀れな人間なんでしょうか。私たち人間とは、何と惨めな存在なんでしょう。毎日毎日、テレビを観ながら、結局、感じることは、こういうことです。イエス様は現代の日本の社会の真ん中で、あの怒号の中で、記者会見の会場の真ん中で、黙ってかがみ込み、指で何かを書いておられる。目には見えないけれど、あそこにイエス様はおられる。黙っておられる。悲しすぎる現実ですけれど、その現実がなければ、私たちには何にも希望がないことも事実です。

 身を起こされるイエス

 イエス様は、ついに身を起こされました。そして、こう言われた。

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」

 石を投げる。石で打ち殺す。そして、その石で埋めてしまう。石塚にしてしまう。そうやって、共同体の中にはびこり始める罪を除去するのだ、と以前聞いたことがあります。ただ殺すことが目的なのではなく、共同体の中に罪をはびこらせない。共同体を清めることが目的なのでそうするのだ、と。そうであるのかもしれません。イエス様は、女が石打の刑に値する罪を犯したことを認めておられます。大目に見るとか、水に流すとかいう態度を取られたわけではない。でも、その罪を裁く資格、裁く権威が誰にあるのかを問うておられるのです。罪人が罪人を裁くことが出来るのだろうか?と。

  そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

 イエス様の言葉を聞いた時、ファリサイ派の人々も律法学者の人間も群衆も女も、隠れていてここにはいない姦通の男も、一気に同じ地平に立たされるのです。そう、叩き落されるのです。お高く留まっていた者たちが、地べたに叩き付けられる。あるいは、差し込んできた光によって、自分たちの中にどす黒く存在している闇が露わにされてくる。

 年をとるということ

 今日は礼拝後に幼児祝福式をします。私たちの教会に関係する七歳までの幼児に神様の祝福を共に祈るのです。幼児、それも赤ん坊の中に罪の姿を見る人はいません。ただ、私たちの誰もが知っていることは、この赤ん坊もまた罪の子であるということです。必ず神に逆らい、道を誤り、他人と自分を傷つけながら生きるしかないということです。だから、私たちは祈るのです。何を祈るのか?どんなことになってしまっても、どんなことをしてしまっても、イエス・キリストを通して示された神様の愛を信じることが出来ますように、と。そして、その愛に立ち返ることが出来ますように、と。その愛に縋りつくことが出来ますように、と。神様は、悔いし砕けた心を軽んじられることはないからです。帰ってきた子どもを、「死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかった」と言って、迎え入れてくださるからです。  

これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。

 年をとるということ、これは一面、罪を重ねていくということであり、罪を深めていくということであり、そして、そういう人生を振り返る時を迎えているということでもあるに違いありません。
 光が差し込んでくる時、自らの闇を鋭く示される。それは、私たちキリスト者の誰もが経験することです。光が強ければ強いほど、その闇の深さも鋭く示される。その時、その時に、どうするか?そこで、私たちの人生は決定されて行きます。「光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」道を選ぶのか、それとも闇の中に輝く光を受け入れる道を選ぶのか?そこで私たちの人生は分かれていく。
 そういうことが分かって来ると、この話の直後に来るイエス様の言葉、元来は全く無関係な言葉のはずのこの言葉が、最初からここにあった言葉のように思えてきます。

「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」

 イエス様の言葉を聞いた者たちは、どうしたのでしょうか?くずおれてかがみ込んでいるイエス様の前にくず折れていったのでしょうか。ひれ伏していったのでしょうか。「主よ、お赦しください。私こそが裁かれるべき罪人でした」と涙を流しつつひれ伏したのでしょうか。その場に留まったのでしょうか?
 違うのです。自分の内に存在するどす黒い闇を見させられることに耐えられずに、その場を立ち去ったのです。自分たちが、「こいつは死すべき罪を犯した」と責め立てている女と同じ人間であるということを鋭く示されることに耐えることが出来ずに、一人また一人と立ち去って行ったのです。

 主イエスの前に立つ・礼拝とは

 主イエスの前に立つということ、その言葉を聴くということ、その姿を見るということ、それはこういうことでしょう?そして、礼拝とは、そういう時です。だから、いつも言いますように、礼拝は恐いのです。月曜日から生きてきて、次第に飢え渇きが増してきます。罪が深まってきますから、御言が欲しい、御霊が欲しい。渇くことのない命の水が欲しいのです。でも、私にはもう分かっているのです。皆さんだって分かっている人は分かっているでしょう。その水をもらうためには、光に曝されなければならないことを。しみや汚れがこびり付いた体を見させられ、どす黒い塊が存在する心の中まで刺し通す放射線のような光に曝されなければならないことを。その恐ろしい体験をしなければならないことをです。これは、恐ろしいことでしょう?私は正直、嫌です。出来れば避けたいことです。でも、この光に曝されなければ、その光が差し込んでくる時が人生の流れの中で一時もないのならば、人生はなんて空しいのかと思うと、その空しさにも耐えられません。そこには闇しかありません。それが闇だとも分からぬ闇しかない。つまり、何をしているのか分からぬままに罪を深めて、滅びに呑み込まれていく人生しかないのです。
 女の罪を暴き立て、それを材料にして、イエス様を罪人に仕立て上げようとしていた人たちは皆立ち去りました。残されたのはイエス様と姦通の女だけです。

 「父よ、そうなんですよね?」

イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」

 どれ位の時間が経ったのか、分かりません。イエス様も分からなかったでしょう。イエス様は胸が押しつぶされそうな思いの中で、ひたすらに神様に、その言葉にならない胸の内を、その指先から訴え続けていただけでしょう。土がイエス様の指の爪に詰ることも気にせず、ただただ人間たちのどす黒い塊をその身に引き受けつつ、「父よ、私はこの人たちの罪を、このどす黒い罪の塊を全部、その身に引き受けるのですね。そのために、こうして人間と同じ肉をもって生まれたのですね。そして、裁かれるのですね。姦淫の罪を背負って、偽善の罪を背負って、その罪を認めない罪を背負って、罪人として裁かれて死ぬために、肉をもって生まれたのですね。そうなんですね。父よ。父よ、応えて下さい。そうなんですよね。私は、私は、何のために生まれてきたのですか・・・。あなたに裁かれて死ぬためなんですよね。」そういう呻き、父にだけしか分からない呻きを、イエス様は指先に託して表しているのではないか。そして、気がつくと、誰もいなくなっていた。私は、そう思います。

   「わたしもあなたを罪に定めない。」

女は答えます。

「主よ、だれも。」

 女は、今自分の目の前にいる人のような人に出会ったことはありません。あのファリサイ派の人々に遣わされた役人たちが、「あの人のように話した人はいません」と言わざるを得なかった驚きが、ここにはあります。しかも、この女の場合は、自分の命に直接関わる場面でイエス様に出会ったのです。彼女も、イエス様がお語りになったような言葉を聴いたことはありません。そして、その次に出てきた言葉は、さらに決定的な言葉です。

「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。もう罪を犯してはならない。」

 「わたしもあなたを罪に定めない。」このイエス様の言葉を聴くことが出来たのは、素っ裸で捕まってしまった女です。最低最悪の惨めさを味わった女です。ただこの女だけが、このイエス様の言葉を聴くことが出来た。イエス様の言葉、それは命の言葉であり、必ず実現する言葉です。
 「わたしもあなたを罪に定めない。わたしがあなたの罪を背負うから。わたしがあなたの罪に対する裁きを自ら受けるから。」

 「行きなさい。」

 「行きなさい。」この言葉はポレウオマイというギリシア語の命令形です。辞書で見ると、旅を続ける、人生を生きる、そして天国へ行く、つまり死ぬという意味もありました。実際、ヨハネ福音書の中では、イエス様が父の住まいである天に「行く」という意味で、何回も使われています。イエス様によって、罪に定められないということは、天に向かって歩むということなのです。
 私たちは、毎週の礼拝の最後に派遣の言葉を受けます。
「平和の内に出て行きなさい。」  それは、この女に語りかけた主イエスの言葉に由来する言葉です。私たちは、今日も、その言葉を、地面から身を起こされたイエス様ご自身から聴いているのです。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯さないように。」
祈ります。
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