「何も知らない人間」
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」それで、ファリサイ派の人々が言った。「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」イエスは答えて言われた。「たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。」彼らが「あなたの父はどこにいるのか」と言うと、イエスはお答えになった。「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。」イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。舞台設定 一週、間が空きましたが、前回、私たちは七章五三節から八章一一節までの姦通の女に関する御言を読みました。この箇所が、後代の挿入であることは様々な理由から明らかなことだと思いますが、しかし、この話がここに挿入される十分な理由があることも明らかだと思います。 直前までの舞台は、仮庵の祭りが盛大に祝われているエルサレム神殿です。しかし、その祭りの華やぎの中で、イエス様を捕えて裁こうとうするファリサイ派と呼ばれている人々が登場します。仮庵の祭りとは、エジプトの奴隷であったイスラエルの民がモーセの導きによってエジプトを脱出し、四〇年の長きに亘って約束の地を目指して荒野を放浪した時代の神の守りと導きを想起する祭りです。荒野放浪時代の神の守りと導きを象徴するものの一つは明らかに水です。人は水なくして生きていくことは出来ません。神は岩から水を出す奇跡を通して彼らを生かして下さいました。主イエスは、そのことを踏まえて、「渇いているものは誰でもわたしのもとに来て飲みなさい」と叫ばれたのです。荒野において、もう一つ大事なものは光です。荒れ野の旅を記している「出エジプト記」の最後の言葉は、こういうものです。 旅路にあるときはいつも、昼は主の雲が幕屋の上にあり、夜は雲の中に火が現れて、イスラエルの家のすべての人に見えたからである。 神の臨在を現す雲を再現することは出来なかったでしょうけれども、火は燭台に灯すことで再現は出来ます。仮庵の祭りは、水の祭りであると同時に火の祭りでした。その詳細を述べる時間はありませんが、夜には四本の高い塔の上にそれぞれ据えられた金属のボウルに油を注ぎ、それに火をつけたそうです。すると、その火は暗闇で覆われたエルサレムの街のどこからでも見ることが出来た。つまり、その火がエルサレム中を照らしたのです。そのようにして、光なる神が自分たちの只中に今も生きていますことを喜び、讃美をささげた。それが仮庵の祭りです。 その祭りの場面がどこで終わるのか、この福音書では実は判然としません。しかし、八章の終わりまでファリサイ派、あるいはユダヤ人と呼ばれる人々とイエス様は非常に厳しい論戦を戦わされる。すべては神殿が舞台です。神を礼拝する場所で、世界で唯一、自分たちこそ唯一の真の神を知り、その神を礼拝していると自負しているユダヤ人、その中でも自らを特別に神に聖別された者たちと考えるファリサイ派の人々と、主イエスは裁きに関して激しく論戦を戦わせる。つまり、罪に関して、そして罪を裁くことが出来るのは誰であるかに関して論戦を戦わせるのです。 「わたしは世の光である」という証し 場所は宝物殿の近くで、そこには下に向かってラッパ状に広がり硬貨を入れるとその音がジャランジャランと拡大して鳴り響くような仕掛けになっている賽銭箱がいくつも置いてあったようです。主イエスは、煌々と輝く光の下で手に手に楽器をもって歌い躍る群衆を見ながら、そして、ここぞとばかりに賽銭箱に献金を投げ込む群衆を見ながら、こう叫ばれたのだと思います。 「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」 この言葉の中には、暗闇の中に輝く火の光ではなく、イエス様自身が人を生かす命の光、神の臨在を現す光なのだという宣言がある。かねてからイエス様の言動に神経を逆なでされていたファリサイ派の人々は、このイエス様の言葉が何を意味するのか、その本質に気付いたのでしょう。彼らは即座に、こう言います。 「あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。」 「証し」という言葉は、法廷用語の一つです。「証言」です。法廷で、被告人が「自分は潔白です」と証言したところで、それで潔白が証明されるわけではありません。その潔白が証明されるためには、他に二人また三人の証言、証しが必要です。 しかし、イエス様が世の光であること、人に命の光を持たせることが出来るお方であることを、当時の誰が証言してくれるのでしょうか?イエス様が、世の光、命の光であることを知っている人間が、当時の社会の中でいるのか?と言えば、いないのです。だから、誰も証言しない。だから、イエス様の証しが真実であることを客観的に証明することは出来ないのです。 聖霊によってしか知り得ないこと 今日の箇所に何度も出てくる特徴的な言葉は、光、暗闇、命、裁き、証しですけれど、それらの言葉は、一章や三章にもしばしば出てきます。そして、一章の書き出しは、この福音書の結論です。結論が最初に出てくるのです。 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 この言は、初めに神と共にあった。 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。 ここで証言されていることは、イエス様は天地創造の最初から神と共にいる神であり、すべてのものはこの方によって命あらしめられたのだということです。その被造物の命を生かすのは命の根源であるイエス・キリストの光である。私たち人間は、このイエス様の命、暗闇の中で輝く光に照らされた時、生きることが出来る。聖書は、そういう事実を証言している。しかし、その事実は、イエス・キリストの十字架の死と復活以降、聖霊が注がれ、それを受け容れた人々にとって明らかにされたことであり、その人々が証言をした事実です。その聖霊が降る以前の時代はもちろんのこと、それ以後の時代であっても、ここに記されていることが事実であることを聖霊によって示されるまでは、聖書を読んでも、イエス様が誰であるか、実際には何も分からないのです。勉強して知識を積み重ねても、イエス様のことは何も知ることは出来ません。 そして、イエス様のことを知らないということは、実は、自分が誰であるか分からないということと密接な関係がある。何故なら、万物は言によって成ったからです。私たちは言によって、神の言によって、神の言としてのイエス・キリストによって創造された万物の中の一つ、人間です。その人間の命の源はイエス・キリストなのです。そのイエス・キリストを知らず、イエス・キリストとの交わりから離れて自分の力で生きていることは、肉体が生きているということなのであって、それ以上の事実ではありません。しかし、人間を照らす光を受け入れて生きる時、その命は肉の命を越えたものです。その命を生き始める時、私たちは初めて自分が何者であるか、どこから来て、どこへ行く存在であるのかを知ることになるのです。 主イエスは、「自分がどこから来たのか。そして、どこへ行くのか、わたしは知っている」とおっしゃいます。そのことが、ご自分の自己証言が真実であることの一つの証しなのです。つまり、イエス様は、ご自分が誰であるか分かっているということです。だから、ご自身の証しは真実であり、またその裁きは真実なのです。何故なら、「わたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる」からです。主イエスは神との交わりから一瞬たりとも離れることがないが故に罪を犯し得ず、そのことを誰よりもご存知なのは父なる神であり、その神が、主イエスの言葉を通して、主イエスが世の光である神であることを証している。「わたしは、自分のことを自分で証しをしているけれど、実は神も私のことを証してくれている。だから、わたしの証しは真実であり、その裁きも真実なのである」ということになります。しかし、「神を知っていると言いながら、実は神のことは何も知らずに、己自身を神の位につけている人間は、自分のことも何も知らないのだ、だからその人間の証言は真実ではなく、その人間の裁きも真実なものではない。」主イエスは、そうおっしゃっている。ここではファリサイ派の人々のことですけれど、これはすべてのキリスト者に当てはまるし、すべての人間にも当てはまる現実です。 罪と裁き 私たち人間にとって最も理解し難いのが「罪」です。キリストへの信仰を知らない多くの人には、罪=悪=犯罪という構図が頭の中に出来上がっています。そして、それは確かに聖書で言われる「罪」と無関係なことではありません。しかし、犯罪はあくまでも人に対するものであって神に対するものではありません。しかし、罪は神様との関係の中で起こることです。 最近読んだある旧約聖書の学者の言葉によれば、罪とはこういうものです。 「倫理的な過ちであろうと、社会的な犯罪であろうと、それらは『罪』として認識され、最終的に神との関係において解決されなければならないということです。『罪』が『罪』である限り、神によってしか解決されないのです。このことはなぜ旧約聖書では事ある毎に贖罪の祭儀が行われるかを考えると分かります。」 罪は神との関係のことだから、神様しか解決できない。だから、事あるごとに罪の赦しを願う犠牲の祭儀が捧げられる。世俗的な裁判で解決など出来ないのです。 神を知らねば、罪は本当には分かりません。人間の存在の中にある悪意だとか、そんなことを罪と言っているのではないからです。罪は善意において犯すことの方が実は多く、そして、深刻な結果をもたらすものです。そして、皮肉なことに、正義の裁き名の下にこそ罪は犯されるものです。しかし、それらはすべて善意とか正義という覆いを掛けられているので、当人も周囲のものも気付かない。神を知らない人間は、気がつけば自分が神の地位に立っていますから、善かれと思って神に背き、神の名によって正しい裁きをしているつもりで神に背いている。自分が何をしているのか知らないのです。 イエスの裁き そういう人間に、自分が何者であり、何をしているかを知らせることが出来る唯一のお方、それが神に遣わされ、神と共に生きている神の独り子イエス・キリストです。この方は、姦通の女が連れられて来た時に、黙ってかがみ込み、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさいと言い、自分たちはこの女を裁く権利があると思っていた者たちの内実を明らかにしました。個々の罪を暴いたり、責め立てる言葉を発することはなさいません。けれども、この方の光に照らされた時に、人々にはそれまで見えなかった自分自身の罪が顕わにされていったのです。しかし、彼らはそこで赦しを乞うこともなく、主イエスから離れて行きました。つまり、再び世の闇の中に消えて行った。光に照らされるその場に留まり続けたのは姦通をした女だけでした。その女に向かって、主イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」とおっしゃった。実はこの時にこそ、女は自分が何をしたかを知らされたでしょう。姦通の現場で捕えられ、人々の中に引きずり出され、宗教的な権威を持つ男たちに律法を盾にとられて責め立てられる恥辱と屈辱の中では、そして石で打ち殺されるという恐怖の中では、決して自分の罪を知ることはなかったでしょう。失敗してしまったという後悔はしても、罪を知って悔い改めることはないし、自分の暴き立てる人間たちの欺瞞を逆に暴き立ててやるという復讐心が芽生えることだってあると思います。だから、彼らの裁きは「肉に従っての裁き」だと主イエスはおっしゃるのです。肉に従っての裁きは、罪を犯した人間に罪を示さない。そして、自分の罪をも隠してしまう。だから、それは裁きにはならない。法的には正しいかもしれないけれど、神が求める正しい、そして真実な裁きにはならないのです。 女は、目の前で黙ってかがみ込むイエス様、地面に何か書き続けておられるイエス様の姿を目の当たりにし、そして、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と、たった一人になった時にイエス様に言われて初めて自分の罪を知ったでしょう。そして、初めてそこで裁きを受けたのです。自分の罪に恥じ入り、その罪に胸を押しつぶされ、その場にかがみ込んだと思います。身動きが出来なかったと思う。それは、罪の赦しの中で受ける裁きです。赦しの中で受ける裁きがある。それは、自分のやったことが何であるかを知らされるということです。 十字架の光に照らされなければ ある神学者は「キリストの十字架の光を当てなければつみの知識は得られない」と言いました。またある牧師は「私たちは、私たちの贖いの物語を語った後でのみ、罪について語ることが出来る」と言っています。本では、アダムとエバの堕罪から始まって延々と罪の記述があり、最後にイエス・キリストの十字架の話が出てきたりするけれども、実は、イエス・キリストが分からなければ罪は分からないということです。私は、その通りだと思います。私たちにとって罪は、神による贖い、赦しの中でしか見つめることが出来ない恐るべきものなのです。十字架の光によって照らされなければ、見つめることが出来ないどす黒い闇なのです。 そのどす黒い世の闇の中で、光として存在してくださる主イエスがおられる。そのどす黒い闇をご自身の中に吸い込みながら、闇の中に生きるほかにない罪人に命の光を与えようとして下さっているイエス様がおられる。聖書は、ただただその事実を語っているのだと思います。 単純な事実 今日、発行される「会報」の中で、ある方が、キリスト教とは世で言うところの宗教ではなく、「只の事実に過ぎないと思っている。神が居て世界が在り、人が居て、キリストが人と世界とを救い給うというこの単純な事実は、知れば知るほどに、教えられれば教えられるほどに、とてつもなく豊かで奥深く、生涯を費やして求め続けるに値するものと強く意識している」と書いておられます。私は、個人的には全面的に同意します。 ヨハネ福音書の書き出しの言葉も、今日の所で、自分たちこそ神を知っている人間だと自負しているファリサイ派の人々に語りかけているイエス様の言葉も、神が居て世界が在り、人が居て、キリストが人と世界とを救い給うという単純な事実を告げているのだと思います。しかし、その救いを拒むのが人間なのです。その人間の代表が、実は、自分たちは神を知っていると自負している人間なのです。自負と事実は違います。だから、「キリスト者こそが罪を犯す」という言葉もまた真実なのです。キリスト者ではない者は、罪を犯すことが出来ない。こういう言葉も真実なのです。 ファリサイ派の人々は、自分たちは神を知っているからこそ、罪人を裁く権利があると確信していました。正義は我にありと確信していたからです。しかし、彼らは主イエスに向かって、「あなたの父はどこにいるのか」と問わざるを得ない。要するに知らない。主イエスから、「あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ」と言われてしまう人間なのです。実は何にも知らない。神のことも自分のことも、何も知らない。宗教に入れ込んでいる人は、しばしば、そういう誤った確信を抱くものです。 牧師の罪 キリスト者の罪 今日の午後はブックフェアーを開催します。これまで、私が個人的に礼拝に関する書物の紹介をしたり、スタディバイブルというどでかい聖書の紹介をしたりすることはありましたが、図書委員会が主催するブックフェアーは初めてです。今日と来週、わざわざ東京聖文舎の川上社長自ら出向いてくださって本やグッズの販売をしてくださいます。 それに備えて、私も全部読んだわけでもない本のいくつかを紹介する文書を書きました。その中で、誰も購入申し込みをしていないので、嬉しいような、寂しいような感じの本があります。それはその名もズバリ『牧師』という本です。先週出たばかりです。「牧師であることに悩んでいる牧師、自分の教会の牧師に悩んでいる信徒はぜひ読むべきだ」という宣伝文句があって、それを紹介しておきましたが、中渋谷教会の方が何人も買うとしたらどうしようかと内心ひそかに恐れていたのですが、一人も申し込んでいないので、ちょっと安心したような、妙な気分なんですが、牧師であることに悩みがないわけではない私は出た途端に買って、いつものように目次をパラパラと見た。すると、予想通りことなのですが「祭司としての牧師」とか「預言者としての牧師」とか然るべき項目がならんでおり、そのうち「リーダーとしての牧師」とか「人格者としての牧師」「模範としての牧師」なんて出てきて、本文を読む前から、なんだか気が重くなってきました。私が真っ先に読んだのは、最後の十三章に出ている「牧師を辞める理由」という項目です。次に読んだのが「牧師の職務における罪」というものです。もう、これだけで十分だという気がしています。「牧師の職務における罪」という項目の中に、「もし真の悪を見つけたいなら、まず最初にユダヤ教のシナゴーグかキリスト教の教会の中を探してみよ」と『平気で嘘をつく人たち』という本に出ている言葉が引用されていました。世の悪なんて大したものではないということです。そして、こういう言葉もありました。 「もし、私たち牧師が神の力強い御言を取り次ぐために召されている存在であるとすれば、それは、牧師がその力を悪用する可能性を大いに有しているということも意味しているのである。」 まさに、その通りなのです。ファリサイ派の人々は神の言である律法を熟知しているけれど、しかし、それを悪用することしか出来ない。悪用とは何か。自己防衛のために神の言を用いることです。そして、最大の自己防衛は攻撃ですから、他者の攻撃のために神の言を用いるという悪用です。だから、彼らは神の言葉を学べば学ぶほど、そして、それを口にすればするほど、実は自らの罪を深めていく。そして、そういう牧師、そういうキリスト者は、実はごまんといます。そして、いつでも誰でも、そういう人間になることが出来るのだし、なったこともあるはずです。自分が裁かれないために他人を裁く。そして、実は自らの罪を重ねている。だけれど、そのことに気付かない。自分は常に正しい、正義の立場に立っているからです。その醜悪さが極まるのが、私のような牧師であり、皆さんのようなキリスト者です。神の名、神の言など知らなければ、まだそこまでの罪は犯さないで済むのです。 闇が闇を裁く世の現実 前任地の教会の教会学校の生徒で今は青年になった娘さんと色々な話をした時に、毎日報道される殺人事件や裁判の話になりました。すると、突然、その娘さんは涙をボロボロ流し始めて、「もし自分が殺されてしまったとしても、自分の両親には絶対に自分を殺した犯人が死刑になることを望んでなど欲しくない」と言いました。「自分が死んだことを悲しんでくれるのは嬉しいけれど、親が人を憎んで、その人を殺してやりたいなんて思うとしたら、悲しくてやりきれない」と言うのです。「自分は殺されたって、神様の許に行っているのだから。残された家族が敵意と憎しみの中に生きるなんて耐えられない」と。 私は黙って聞く他にありませんでしたが、その時のことを、しばしば思い出しては考えてきました。私は先日も言いましたように、飽きもせずに朝昼晩とよくテレビを見ます。下世話なものもよく見る。そして、テレビで報道される殺人者に対して憎悪をかきたて、「あんな奴はさっさと死刑にしちまえばいいんだ」と思う。そして、そう思いながら、いつも暗然とします。死刑にしたからといって何がどうなんだ、と思う。空しいだけだと思う。被害者の家族にしてみれば、自分の息子や娘を殺されたのですから、犯人を憎んでも憎みきれないという感情を持つのは当然で、死に対しては死をもって償うのが当然だと思うことも当然でしょう。しかし、皆がそういう憎しみの目で殺人者を見つめ、弁護士も量刑のことだけしか問題にしない、あるいは自分の売名だけしか眼中にない裁きの席で、殺人という罪を犯した者は自分の罪を本当に知るのだろうか?自分が何をしてしまったのかを知ることが出来るのだろうかと思います。彼らは、ただ投げやりになっているだけ、自暴自棄になっているだけであって、「どうせ俺が悪いんだろ。勝手にしろ」と思っているだけという場合があるに違いないと思います。あの法廷で、またこの社会という法廷で、本当に罪を教えてくれる存在がいない。この世は、犯罪を犯した人間に罪を知らせることなく、法の正義の名の下に殺す。そして、終わり。殺人というどす黒い闇は死刑という名のもう一つの殺人を引き起こして決着がつけられてしまう。なんと空しく、悲しいことなんだろうと思う。だから死刑は廃止すべきだとか、そういうことを言いたいのではなく、私たち人間の裁きは、所詮は肉に従った裁きなのであって、結局、闇を闇で葬って終わりという以外の何物でもないのだと思うのです。 私は今日の箇所を読みながら、神様は自分の家族、たった独りの息子を殺された父親ではないか、と思いました。自分の息子を殺された父親がここにいる。世の光として送ったのに、光に罪を照らされることに耐えられない人間が、闇に葬ってしまった。肉に従った裁きを経て、集団でリンチをし、手に釘を打ち、わき腹を槍で刺し、嘲りつつ殺したのです。そのことに一番熱心だったのは祭司長とかファリサイ派とか、一番宗教的な人です。自分たちこそ、神を知っていると確信していた人々、だから自分たちの裁きは真実だと確信していた人々です。そういう人々が、実は神の独り子を殺す。そうやって、神ご自身を亡き者として、自分たちを神の地位につけるのです。真の悪は、まさにユダヤ教のシナゴーグとキリスト教の会堂の中にこそあるとは、まさに核心を突いた言葉なのです。 神の召しと裁き 先ほどご紹介した『牧師』という本の中で、私が真っ先に読んだのは、「牧師を辞める理由」という項目であることは先ほど言いました。その中に、罪を重ね続ける自分を見つめながらも牧師を辞めないために必要なこととして、こういうことが書かれていました。 「安息日を守ること、自らを練磨し続けること、繰り返し新たに創造されること、そして、召命を想起することが極めて重要なのだ。神について頻繁に語り続ける人間は、祈りにおいて、静かに座って神に耳を傾ける人間でなければならない。」 「神について頻繁に語り続ける人間」という以外の言葉は、すべてのキリスト者に当て嵌まる言葉だと私は思います。この中で、特に私が心底同意したのは、「召命を想起することが極めて重要なのだ」という言葉です。私たちキリスト者は誰でも召命を受けてキリスト者になったのです。イエス様に命を召されたのです。その経験抜きにキリスト者になってはならないし、なれるはずもありません。私たちは自分でキリスト者になったのではない。キリストに命を召されてキリスト者にされたのです。私の場合は、キリスト者への召命が即牧師への召命でした。その時に与えられた言葉を、私はこの中渋谷教会でも既に何度か語ってきました。それは、何度でも想起するからです。だから、こうして今でも牧師を続けているのだと思います。その言葉とは、このヨハネ福音書の一〇章に出てくるイエス様の言葉です。イエス様は、こうおっしゃった。 「わたしは良い羊飼いである。よい羊飼いは羊のために命を棄てる。」 私はやはりこの言葉で救われたと思います。この言葉を、生きる希望も何もなかったあの時に聞かなかったら、死んではいないにしても、ただただ世の闇の中で、また自分自身の内に存在する闇に押しつぶされながら、自分がどこから来て、どこへ行くのかも分からぬまま、空しさから目をそむけるための刺激を求めて、飲んではまた渇く水を浴びるほど飲みながら呻き続ける以外にはないし、今だって、生来もって生まれた自堕落な性質のせいか、すぐに暗闇に飲み込まれそうになります。それなのに、いやそれだからこそ、この主イエスが生きておられて、今でも、私に、「お前の罪を何もかも知っているのは私だ。そして、お前が自分をどのように裁こうが、責めようが、許そうが、そんなものは戯言に過ぎない。お前の罪の裁きは私が受けたんだ。私だけがお前の罪を全身に吸い込んで、また背負い込んで、あの十字架で死んだんだ。その私が、今も生きている。そして、お前を愛している。私の前に立ちなさい。私の光に身をさらしなさい。そこでこそ、お前は生きることが出来るんだ。」そう語りかけてくださる。これは私にとっては事実なんで、どうしようもないことです。この事実を知る時だけ、そして私の場合はその事実を語ることにおいて、神に造られた、言によって造られた本当の命を生きている、生かされていることが実感できるのです。皆さんにも、それぞれに召命の事実と実感があるはずです。 何も知らない人間・知らされている人間 先週の礼拝後に報告されたように、中渋谷教会の最高齢の会員である戸田良子さんのご次男である戸田実さんという方が、十一月十五日に洗礼を受けられました。そして、その四日後に五七歳の若さで天に召されました。肝臓癌だったのです。その消息については、十二月号の会報に書くようにと担当者に言われていますから、詳細は省きます。この方は生まれながらにダウン症の生涯をお持ちでした。十六歳の時に、死んだら天国に行きたい、だから洗礼を受けたいと願われた。母上も、そのことを願われたのですが、いつしか四十年の歳月が経ってしまったのです。しかし、ついにその生涯を終える四日前に、「洗礼を今でも受けたいですか」という私の問いに「はい」とお答えになって、洗礼を受けることが出来たのです。そして、その四日後に召された。 私は死の翌日の納棺式の時に、ヨハネ福音書十四章の言葉を読みました。そこには、こうあることを皆さんもよくご存知だと思います。 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」 これはファリサイ派に向けての言葉ではありません。イエス様が十字架に掛かる直前に弟子たちにだけ語った言葉です。私は、今日の説教題を「何も知らない人間」としました。私たちは、嘗てはイエス様のことを知らず、神様のことを知らず、そして、自分が何者であるかも知らなかった。自分がどこから来てどこへ行くのかを知らなかった。ただ、罪の闇の中に蠢くことしか出来ない惨めな人間でした。でも、今は違う。私のために死んでくださった方を知っています。その方が甦って今も生きてくださっていることを知っています。この方を通して神様を知っています。そして、この方が、行く所が父の住まいであり、そして、私たちがいつか世の旅路を終わるときに行く所がどこであるかも知っている。そして、そこに誰がいてくださるかも知っている。私たちは、イエス様に罪を赦されて、父の住まいに行くのです。そして、そこには私たちを愛してくださっているイエス様が、そして、私たちが愛しているイエス様がいるのです。今は、そのことを知っている。只このことさえ知ればよいのだという言うべき事実を私たちは知っています。だから、心を騒がせる必要はないので す。 牧師を辞めないために、キリスト者を辞めないために必要なことの一つは、先ほどの言葉にもありましたように、「安息日を守ること」です。今日、発行された会報の巻頭言に、私は安息日について記しておきました。是非、お読みください。その文章の最後に、ヨハネ福音書のイエス様の言葉を書きました。それは、こういうものです。 「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 暗闇は光に勝つことはありません。安息日の礼拝は世の終わりまで続きます。私はこの礼拝において主のみ顔の光に照らされます。この光に勝つものはなにもないのです。そして、命の光をもって歩み出すことが出来るのです。感謝です。ただ、神を賛美する以外にはありません。 |