「私たちは何に属しているのか」

及川 信

ヨハネによる福音書8章21節〜30節

 

そこで、イエスはまた言われた。「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。
そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。



 先週から月一回の創世記の説教を再開し、今日からヨハネ福音書の連続講解説教を再開します。創世記は、複雑にして壮大な「ヤコブ物語」に入りました。ヨハネ福音書も仮庵の祭りという大きな山を越えたところですけれど、目の前には非常に険しい山が聳え立っています。

 今日の箇所の状況説明

仮庵の祭りとは、神がモーセを遣わしたことに始まるエジプト脱出とその後に続く荒野放浪を記念する祭りです。それは、どんな時にも主なる神が共にいまし、イスラエルを生かしてくださることを感謝し、祝う祭りです。その祭りを経て、イエス様はいよいよご自身が神であり、メシアであることを真っ向からお告げになる。そして、三〇節には「これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた」とあります。多くの人々が、祭りを終えた後のイエス様の言葉を聞いてイエス様を信じたのです。しかし、その「イエス様を信じた人々」とイエス様との対話の行きつく先は、こういうものでした。

ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

 ここに出てくる「ユダヤ人たち」とは、イエスを信じた人々です。つまり、私たちキリスト者と同じです。しかし、そういう者たちが、最終的には、石を取り上げ、イエス様に投げつけようとする。つまり、神殿から追い払おうとする、殺そうとするのです。そういう現実が書かれている。信仰者の真実の姿とはどういうものなのか、その欺瞞、偽善がものの見事に描かれていく、抉り出されていく。私たちは、そういう部分をこれから読んでいくのです。これはやはり、恐ろしいことです。

 三度繰り返される二つの言葉

 今日の箇所を読んですぐに気付く一つのことは、二一節から二四節のわずか四節の間に「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」というイエス様の言葉が三度も繰り返されることです。そして、「わたしはある」が二度繰り返されます。この言葉は、今お読みしたように、八章の最後においてまさに決定的な言葉としてもう一度出てきます。今日は、八章でそれぞれ三度出てくるこの二つの言葉を巡って、御言の語りかけを聴いていきたいと思います。(次回は、同じ箇所から、派遣と約束に関して聴きます。)

 「去って行く」とは

 主イエスは、「わたしは去って行く」とおっしゃいます。「去って行く」とは、実に意味深な言葉です。表面的な文脈から言えば、イエス様は神殿から去って行くことを意味しますけれど、もう一つ奥にある次元においては、この世を去って神の許へ帰ることを意味しているのです。主イエスは既に七章三三節で、イエス様を殺そうとしているファリサイ派の人々に「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」とおっしゃっています。
 主イエスをお遣わしになった方とは、父なる神様です。その方のもとへ帰る。この「帰る」は原語では「立ち去る」と同じ言葉です。ここでも主イエスは、「わたしのいる所に、あなたたちは来ることが出来ない」とおっしゃっていますが、今日の箇所では、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」という言葉を付け加えておられます。

 「属する」とは

 それは一体どういうことか。ユダヤ人たちは分かりません。彼らは、イエス様が自殺でもするのか?と訝しがります。私たち人間同士でも、あまりに次元が違う、レベルの違う人間同士の間では話が噛み合いません。何を言っているのかがお互いに分からないのです。イエス様は、その噛み合わない理由をこう表現されます。

「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」

 「属している」とありますが、直訳すると「下からの者」「上からの者」「世からの者」「世からではない者」となります。つまり、由来、出自が根本的に違うと言っているのです。私たち人間は、どれほど次元が異なっていたとしても所詮は人間ですから、その意味では共通の出自を持っています。しかし、イエス様はその根本から違う。イエス様は神の許から来られた方であり、その神のところに行く。しかし、ユダヤ人たち、つまり、イエス様が「わたしはある」ということを本当の意味で信じない人間たちは、そこに行くことが出来ず、「自分の罪のうちに死ぬことになる」のです。それは下のものに属している人間、つまりエデンの園で神に背く罪を犯したアダムが、「あなたは土の塵から出たのだから、塵に帰る」と神様に言われたことに通じます。
 問題は、イエス様が「わたしはある」という方であると信じるか信じないかです。すべては、そのことに掛かっている。それが「上から」か「下から」かの分岐点であり、「この世に属する」か「神に属するか」の分岐点になるのです。

 「信じる」か「信じない」か

 しかし、イエス様の言葉を聞けば聞くほど、イエス様が誰であるか分からなくなる彼らは「あなたは、いったい、どなたですか」と尋ねます。
 福音書は、どの福音書だってこの問題が中核ですけれど、ヨハネ福音書は特に、最初から最後まで、この問題に集中している福音書です。ヨハネ福音書においては、イエス様は、はじめから存在している神の言であり、その言によって世界は創造されたのです。しかし世界(ヨハネ福音書では「世」)は、その言を信じない、受け入れない。それが、罪ということです。つまり、罪とは自分の命の由来を受け入れないことですから、その罪の内に生きている限り、人は生きながらにして滅びとしての死に覆われており、その結末は、「自分の罪の内に死ぬ」ということにならざるを得ないのです。
 だから、イエス様は、ここで罪人に対する裁きを告知している。そう言って間違いありません。しかし、そこには「信じないならば」という条件がついていることも忘れてはなりません。先ほども言いましたように、問題は信じるか信じないかなのです。
 しかし、イエス様が何をおっしゃっているか分からなければ、信じようもありません。

 人の子を上げる

そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」

 裏を返せば、「人の子を上げる」時までは、イエス様が「わたしはある」という方であることが彼らには分からないのです。ここで「人の子」とは、天から世に降ってくる救い主の意味です。その「人の子」を、そうとは知らずに、ユダヤ人たちが、つまり人間が「上げた」時、イエス様が「わたしはある」という方であると分かる。つまり、「あなたは、どなたですか」と問う必要がなくなると、主イエスはおっしゃる。これは一体どういうことか?
 そのことを考えるためには、どうしても三章一二節以下を読まねばならないと思います。そこで、イエス様はこうお語りになっています。

「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう。天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」

 一読して、今日の箇所との様々な関連は明らかです。ここでイエス様は、民数記二一章に記されていることを思い出させているのです。そこには、神に導かれ、生かされているにも拘らず、いつまでも「エジプトにいたほうがよかった」と神に逆らう罪を犯すイスラエルの民に対して、神が、炎の蛇を送られたことが記されています。その蛇に噛まれた多くの民は荒野で命を落とした。まさに「自分の罪の内に死んだ」のです。その恐るべき裁きを目の当たりにした民が、モーセに執り成しの祈りをしてくれるように頼むと、神はモーセに蛇を造って旗竿の先に掲げることを命ぜられました。モーセが命ぜられたとおり、青銅で蛇を造り旗竿の先に掲げました。炎の蛇に噛まれ自分の罪の内に死すべき人が、その蛇を仰ぐと、罪を赦されて命を得た。そういうことが、そこには記されています。
その蛇が上げられたように、「人の子も上げられねばならない」と主イエスはおっしゃる。この場合、主語は敢えて記されていません。しかし、こういう場合、その主語は神様なのです。そして、「上げられねばならない」とは、イエス様が十字架に上げられる、つまり、神を冒?した罪人、ローマ皇帝に謀反を企てる犯罪人として、十字架に磔にされて処刑されるということです。しかし、そこにはさらに、イエス様が死人の中から神様によって上げられ、天に上げられることが暗示されている。「上げられる」とは、そういう二重三重の意味があります。つまり、神の裁きにあって罪の内に死すべき人間が、この十字架の主イエス、復活の主イエス、昇天の主イエスを、自分たちの罪の贖い主、救い主と信じて仰ぐならば、その人の罪は赦され、永遠の命を得る。そのために、人の子は上げられねばならないのだ。主イエスは、そうお語りになっている。
そして、この主イエスの言葉の直後には、ヨハネ福音書の中核と言うべき言葉が記されています。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。

 今日の箇所における、「人の子をあげる」の主語は、明らかに人間です。イエス様を十字架に磔にするのは人間、それもイエス様を独り子なる神と信じない不信仰な人間、罪なる人間です。人間の罪の行き着く先は、神を殺す、抹殺することなのです。エデンの園で蛇に唆され、その根底に「神のようになりたい」という罪なる思いを持ってしまった人間は、自分を創造し、支配している神を殺して、自分を神の地位につけようとするのです。「神を殺すなんて、とんでもない。私はそんなことをした覚えがないし、出来るはずもない」と私たちは思っていますが、実は毎日毎日、神を殺して、自分を生かしています。神の御心を尋ね求め、それに従って生きるのではなく、「自分勝手に何でもしている」。それが私たちであり、それが神を殺すということです。神の独り子を十字架に上げるということです。それは、自ら神の裁きを招くことに他なりません。
しかし、その罪と裁きが極まった時に、実は、イエス様が「わたしはある」というお方であることも極まるのです。人間の罪に対する裁きの徴である蛇が、実は、人間の罪を赦す神の愛の徴となったように、人々の罪によって十字架に上げられるイエス様は、実は、その最も深い次元において、神様によって十字架に上げられたのであって、そこにおいて、罪人に対する神の裁きと赦しの両方が貫徹されているのです。ここまでこないと、イエス様の本当の姿は分かりません。

「わたしはある」

「わたしはある」という言葉に関して、今日はもう少し掘り下げていきたいと思います。
 ヨハネ福音書においては、モーセは実に重要な人物であり、イエス様は第二のモーセという形で登場していると言ってもよいほどです。そして、「わたしはある」という言葉は、神とモーセがシナイ山の麓で出会い、神様がイスラエルを解放する為にモーセをエジプトに遣わす場面に出てくる言葉です。その時、モーセは、そんな大それた仕事を自分が出来るわけがないと拒む。しかし、神はこう言われました。

「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える。」

 モーセは言います。

「わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、『あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです』と言えば、彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」

 神様はこう答えられる。

「わたしはある。わたしはあるという者だ」
「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」


   アウグスティヌスという人は、「神には現在形しかない」と言いました。過去にはいたけれど今はいないとか、今はいないけれど将来はいる。そういう方ではない。永遠に「今」存在しておられる方なのだ、と。私たちは、毎週の礼拝の中で必ず讃詠を歌います。「昔、今いまし、永久にいます主をたたえん」と。「わたしはある」とは、第一にそういう意味でしょう。しかし、永遠に存在していると言っても、どこにいるのか?それが問題です。宇宙の彼方に存在していても、私たちにとっては、それはあまり関係のないことです。
神は、言われます。

「わたしは必ずあなたと共にいる。」

 神様は、必ずモーセと共にいてくださる。それが神様の約束です。どこか遠くに、永遠に存在されるのではない。モーセと共におられるのです。モーセが、今後どれほど不平不満を言おうが、その都度、神様は彼を励まし、戒め、慰めつつ、必ず彼と共にいて下さいました。神様は、真実なお方です。決して、約束を破らない。その言葉は必ず出来事となる、実現する、成就するのです。
 その出自や由来という意味では全く違いますが、モーセと同じように、神様から遣わされたイエス様はこうおっしゃっています。

「わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにはしておかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」

 ある意味では、イエス様は十字架に上げられた時、まさに神に見捨てられたのです。神に見捨てられて死ぬ、つまり、罪が裁かれて死ぬ、罪の内に死ぬという絶望を味わわれたのです。でも、そのことが神の御心に適うことであるが故に、その最も深い次元において、主イエスと神はやはり一つの交わりの中におられたのだし、十字架のイエス様にの中に神ご自身が現れている。罪人の罪を赦し、その罪人と共に永遠に生きてくださる神ご自身が現れているのです。問題は、この神を信じるか信じないかです。

 後で来ることになる

 イエス様は、この後、もう一度、「わたしの行く所にあなたたちは来ることができない」と語られます。何時誰にどういう状況の中でお語りになったのか。最後の晩餐の後、イスカリオテのユダが、裏切りをするために闇の中に出て行った直後に、残った弟子たちにむかって主イエスはこう言われました。

子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。

 ペトロは言います。
「主よ、どこへ行かれるのですか。」
「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることは出来ないが、後でついて来ることになる。」ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」


   主イエスは、ここで「あなたは今ついてくることは出来ない」の後に「あなたは自分の罪の内に死ぬことになる」ではなく、「後でついて来ることになる」と付け加えておられます。
 その上で、皆さんよくご存知の言葉を語弟子たちに語りかけているのです。

「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

イエス様を三度も「知らない」と言って裏切り、自分自身をも裏切り、まさに自分の罪の内に死ぬほかになくなるペトロを初めとする弟子たちのことをよく知った上で、イエス様は彼らを決して見捨てることなく、「信じなさい」と語りかけ続けてくださるのです。そして、その「信仰」とは、十字架と復活の主イエスを仰ぎ見ることを通して自分の罪と裁きの極限を知り、その裏切りの罪の赦しの極限を知らされた人間の信仰です。「イエス様の言葉は素晴らしい」とか、「その業は素晴らしい」とか言って、イエス様を信じるという次元ではなく、自分の罪で殺してしまった方が、自分の罪の赦しのために死に、永遠の命を与えるために甦り、今も生きてくださっていることを知らされた時に与えられる信仰。「その信仰をもって信じなさい」と主イエスは言われる。その時、肉体の死を越えて、父の家において、イエス様がいる所に共にいる者とされる。それが、イエス様の約束、必ず実現する約束です。

三度現れてくださるイエス

 ヨハネ福音書は、イエス様が復活してペトロを初めとする弟子たちに現れ、さらにその一週間後、二度目に現れた時に、トマスがイエス様に向かって「わたしの主、わたしの神よ」と告白した所で一旦終わります。しかし、その後、ティベリアス湖の辺の出来事を記すことによって最終的に終わるのです。
この湖の出来事は、既に六章に出てきました。そこでは小さな小舟で向こう岸に渡ろうとしても波風に阻まれて前進できない弟子たちの所に、イエス様が湖の上を歩いて近づいて来て、「わたしだ。恐れることはない。」と宣言されました。「わたしはある。恐れるな」という言葉です。ここでイエス様は、どんな苦難があろうとも、死の恐怖が襲いかかろうとも、弟子たちと共にいて下さる神であることを示されたのです。
 二一章では、一晩中漁をしても一匹も魚が獲れないという惨めな弟子たちに向かって、イエス様が「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」とおっしゃる。すると、網を引き上げることが出来ないほどの大漁がもたらされたという話です。そして、岸にあがった弟子たちとイエス様が食事をする場面があります。その場面を読みます。

「イエスは、『さあ、来て、朝の食事をしなさい』と言われた。弟子たちはだれも、『あなたはどなたですか』と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。」

 弟子たちはずっと「下に属する者たち」でした。「この世に属する者たち」です。イエス様に選び出され、イエス様を信じたのに、裏切り、逃げ去った者たちです。彼らの信仰はユダヤ人と同じく偽物だったのです。それは、イエス様が十字架に上げられた時に、明らかになりました。彼らの罪は、その時に極まりました。彼ら自身が、その時に、自分の罪深さを痛切に知らされ、彼らは真っ暗な部屋に閉篭もり、闇の中に呑み込まれ、ただ自分の罪の内に死ぬほかになかったのです。でも、主イエスは、その彼らに三度現れてくださったのです。そのようにして「わたしはある」ということを、「わたしは必ずあなたと共にいる神である」ということを、はっきりと示してくださったのです。それは、今日の箇所で、主イエスが三度、「あなたたちは自分の罪の内に死ぬことになる」とおっしゃったことに対応します。
 そのイエス様が、「食事をしなさい」と言い、パンを取って弟子たちに与えて下さった。私たちの礼拝、私たちが感謝をもって祝う聖餐は、ここに始まります。私たちは、この主イエスの招きによってここに集い、今ここで生きておられる主イエスの言葉を聴き、その食卓に与かっている。私たちにとって、主の言葉、今讃美しましたように「命の言葉」です。私たちは、この言葉を食べて生きているのだし、主の体なるパンを食べて生かされているのです。その言葉を聴き、食べる時、私たちは「あなたは、どなたですか」と問うことはしません。主が、今ここに生きておられる神であることを信じているからです。
 その主イエスが、今日も私たちにこう語りかけてこられます。
「下に属するのではなく、上に属する者となりなさい。この世に属する者ではなく天に属する者となりなさい。私は今も、あなたがたと共にいる。『わたしはある』のだ。神を信じ、私を信じなさい。そうすれば、あなたがたは私と共に永遠に生きることが出来る。罪の内に死ぬことはない。肉体の死を越えて、父の住まいに生きることが出来る。」
 この方の招きに信仰をもって答える時、私たちは天に属する者、神に属する者とされるのです。
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