「言葉と業」

及川 信

ヨハネによる福音書8章21節〜30節

 

彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

                  (二五節〜三〇節)  前回も、この箇所を読みました。その時は、「罪の内に死ぬ」ということを巡って、私たちキリスト者はこの世に属する存在なのか、それとも天に、つまり神に属する存在なのかという問題について御言を聞きました。当初の予定では一回きりのつもりでしたが、どうもやり残した感じがするので、今日はイエス様の「言葉と業」に関して御言を聴いて参りたいと思います。

 言行一致

 私たちが「あの人は信用できる」と言う場合、その根拠の一つに、「あの人は言ったことを必ず実行するから」ということがあります。つまり、言行一致であること、それが私たちの信用の根拠です。そして、私がイエス様を信じる根拠の一つも、イエス様の言葉はそのまま出来事になるということがあります。イエス様はお語りになったことを、そのまま実行される。こんなに信用できる人は、この世にはいないと思います。しかし、イエス様を信じるとは、言行一致の人を信用することと似ていながら、実は全く異質なものがあることもまた事実です。私たちは、イエス様の誠実な「人柄」を信用しているのではありません。それでは、何か。イエス様を信じるとは、どういうことなのか?それが問題です。
 先日、夜のニュース番組を見ていたら、あるキャスターが昨年を象徴する「偽」(いつわり)という言葉に関する思いを語っていました。その中で、「偽という字は考えてみると人が為すと書く」という言葉がありました。正にそうです。人が為すこと、それは総じて偽りなのです。「昔の人はよく分かっているもんだ」と改めて感じ入りましたけれど、人間の現実がそうであるが故に、嘘をつかず、言ったことは必ず実行する言行一致の人は信用できるということになるわけです。しかし、イエス様が「わたしは去って行く」とおっしゃり、その言葉どおりに去っていく、つまり、十字架に上げられて死ぬという意味での言葉を語ることが出来る人間はいないし、一四章にあるように、「行ってあなたがたの場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」という言葉を語れる人間はいないし、その言葉どおりに実行できる人間はいません。そういう意味での言行一致を生きる人間はいない。これらの言葉はイエス様だけが言えることであり、また実行できることだからです。

   イエス様の言葉

イエス様の言葉、それは人間の言葉です。しかし、人間の言葉ではありません。それは、イエス様が繰り返しおっしゃっているように、イエス様の言葉は、イエス様を「お遣わしになった方」の言葉であり、イエス様は「その方から聞いたことを、世に向かって話している」。つまり、神の言を話しているのです。イエス様の存在そのもの、また業そのものが、イエス様を地上に遣わした神の言でもあるのです。そして、「わたしをお遣わしになった方は真実である」(ギリシャ語ではアレーセース)とイエス様はおっしゃいます。次回の箇所ですけれど、三一節には「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」とあり、その「本当に」はアレーセオースで、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」「真理」はアレーセイアです。ギリシャ語の辞書を開けば、すべて並んで出ている言葉です。
 つまり、イエス様を遣わした神は真実であり、真理であり、人間がイエス様の言葉、つまり真実にして真理である神の言葉に留まり続けるなら真実な者となる、本物の弟子になる、自由になるということになります。しかし、イエス様の言葉に留まらないならば、人は「罪の奴隷」として生きる以外にない、と三四節には出てきます。
 駄洒落や語呂合わせが大好きなある牧師の説教を読んでいたら、「生きる」という意味の英語のLIVEは反対から読むとEVIL、つまり罪悪、邪悪となる、とありました。語源的に説明できることなのか偶然なのか私は知りませんが、これまた「偽」と同じく人間の生、生きることの本質を突いていると思わざるを得ません。私たちが生きるということは「偽」を作り出すことだし、それは「罪悪」を生きることであり、主イエスがおっしゃる如くに放って置けば、「自分の罪の内に死ぬ」ほかにないものなのだ。そういうことでしょう。
 こういう偽とかEVILしか生み出せない私たちが、真実な方である神が語られる真理の言葉をそのまま語るイエス様の言葉を聴いているということ、そのことの意味を考えざるを得ません。果たして、聴くことが出来るのか、出来ているのか、もし出来るとすれば、それはどういう意味で、またどのようにしてなのか?そういうことを考えざるを得ないのです。実際、この時目の前にいたユダヤ人は、聞いても聞いても、イエス様が「話しておられることを悟らなかった」のです。そして、八章の最後にはイエス様を石で打ち殺そうとしたのですから。聞くということから、色々なものが生じてくるのです。

 説教の言葉

 私たちが属している改革長老教会の信仰箇条の中に第二スイス信条というものがあります。その中に「神の御言の説教は神の御言である」という言葉があります。こういう所に説教を重んじるプロテスタント教会の特色が端的に現れているのですが、これはやはり恐ろしい言葉です。しかし、やはり一つの事実でもあるし、あらねばならない言葉だと思います。
 カール・バルトという神学者は説教についてこう言っており、私はこの言葉は本当のことだと思っています。
「我々は、牧師として神について語らねばならない。しかし我々は人間であって、神について語ることが出来ない。したがって、我々の義務と我々の無能を、両方とも我々は認めねばならない。まさに、それを承認することによって神に栄光を帰さなければならない。」
神の言を語ることは、人間には不可能だけれど、その不可能を徹底的に知り、承認することの中で、神の言を語るということは初めて起こり得る。そういうことでしょう。他の言い方をすると、「神と人間とは絶対的に異質である。神は創造者であり、人間は被造物である。その両者は決して混同されてはならない。しかし、同時に、神が自由意志において人間との偽りのない交わりを確立することがお出来になり、神の言葉を『我々の心の中に、また我々の唇に』与えられることも事実である」(J.R.フランク『はじめてのバルト』佐柳文男訳 教文館 九八頁〜九九頁)となります。人間には全く不可能なことを可能にするのは神ご自身であって、私たちは全くその点について無能であることを認める。それは聴くことにも無能であることと同じです。聴いたことしか語れないからです。ただ真実なお方である神の自由意志によって、神の言が、私たちの心に、また唇に与えられることを信じて祈る以外にはないのです。そして説教が、その神の自由意志、つまり恵みによって、語る人間と聴く人間に与えられる時に、それは神の言となるのです。それはすべて神様に依存することであり、説教者や聴衆の学びとか努力とか、そういったものとは関係ありません。無知や怠惰の中で神の言を理解することは出来ないでしょうが、しかし、人間の学びや努力によって神の言葉を聴くことが出来るなら、そんなに安易なことはなく、そんなにつまらないものもないと、私は思います。

ヨハネ福音書の言葉

なぜ、私がこういうことを延々と語るかと言うと、ヨハネ福音書もまた、一人の人が書いた書物だからです。しかし、その書物を私たちは神の言、御言として読んでいるし、その書物を通して、神の言を聴いている、少なくとも聴こうとしているからです。そして、その書物の中で、イエス様は、ご自身をお遣わしになった方の言葉だけを語り、お遣わしになった方の御心だけを行っているとおっしゃっている。その時、福音書の書き手であるヨハネは、数十年も前に既に十字架に上げられて死んでしまった過去の人であるイエス様の言葉を、人々の伝承から伝え聞いて記録しているのではなくて、霊において生きておられるイエス様が、彼に、また彼が属する教会に向けて語りかけている言葉を聴いて、それをそのまま書いているのだと、私は信じます。この福音書そのものが、人の言葉でありつつ、しかし、神の言なのです。私たちは、二千年前に死んだ過去の人の言葉を読んでいるのではありません。今、ここに生きて、今日私たちに語りかけてきているお方の言葉を聴いているのです。もし、それが事実でないとすれば、私たちはこの世で最も惨めな人間だということになります。何故なら、既に死んでいる人の言葉を神の言だと信じていることになるからです。
前回も言いましたように、神には現在形しかないのです。「神は、かつてはいた」という言葉は、神様にとっては存在しない。神はいつでも「ある」お方、「わたしはある」というお方として、いつでも生きておられる方です。今も私たちの目の前で、また心の中に生きておられ、そして偽りのない、真実な交わりを確立することが出来るお方なのです。そして、ご自身がお造りになった世界を、私たち一人一人を救いへと導き続けておられる。私たちはそのお方との真実な交わりの中に入れられたいと切に願って、いや神様の方がそのことを切実に願ってくださっているが故に、こうして今も生きるキリストを礼拝するために集まっている。集められている。そして、この日曜日の礼拝は、十字架の死から甦られたイエス様が弟子たちに現れ、彼らの罪を赦し、「あなたがたに平和があるように」と祝福してくださり、聖霊を与えて下さった、あの日曜日に始まるのです。イエス様が現れる、イエス様が語りかける、イエス様が聖霊を与えてくださる、イエス様が祝福してくださる、そのことが二千年前のあの日の出来事だけで終わり、私たちはただここでその日のことを追憶しているだけであるなら、そんな空しいことはありませんし、そんなことならキリスト教は百年持たなかったはずですし、キリストのために殉教する人など一人も出ないでしょう。私たちが今日も、復活して今も聖霊においてこの場に現臨しておられるイエス様が語る言葉を説教を通して聴き、信じることが出来なければ、私たちはいつまで経っても罪の奴隷のままであり、その為すことは偽りでしかなく、EVILでしかないということになってしまうのです。

「あなたはどなたですか」

私は今日、特に二五節以下に注目したいと思っています。そこに、神を知っていると自負しつつ、実は何も知らない「ユダヤ人たち」(これは私たちキリスト者たちと言い換えても現実的にはおかしくないのですが)の問いが出ています。
「あなたは、いったい、どなたですか。」ス ティス エイ(あなたは誰か?)
 この問題が、ヨハネ福音書を貫く主題であることは前回も語りました。そして、この問いは、三〇節や三一節では「イエスを信じた」とされるユダヤ人とイエス様との対話の中で、もう一度、出てきます。五三節です。
「わたしたちの父アブラハムよりもあなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」
 彼らはイエス様の言葉を聞き続けても、イエス様が誰なのか、何者なのか、さっぱり分からないのです。それは、私たちも同様です。
 イエス様は、おっしゃいます。「それは初めから話しているではないか」と。しかし、私はこの言葉を読んだ時、この「初め」とはいつのことなのか、分かりませんでした。皆さんは、お分かりになるでしょうか?

 「初め」とは?

 文脈的には、一二節がそうであるとも言えるかもしれません。そこにはこうあります。
イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
 この言葉に端を発して、ユダヤ人たちとイエス様との間に敵対的な対話が始まるのですが、この言葉は「再び」とありますから、その前にある言葉との関連が不可欠ですから「初めから」という言葉とは合わないと思うのです。そうなりますと、どうなるのか?延々と遡っていくしかありません。そうすると、「初め」(アルケー)という言葉が、この意味で出てくるのは、まさにこの福音書の初めなのです。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」
 八章一二節の言葉もまた、この言葉を前提としないならば、その意味をなさないということは明らかだと思います。
 しかし、この言葉は、イエス様がお語りになった言葉ではありません。ヨハネが書いた言葉です。ヨハネの信仰告白と言ってもよい言葉、あるいは説教の言葉と言ってもよい。けれども、この福音書においては、この言葉もまたイエス様の言葉、御言そのものなのです。私が、何度も引用する三章一六節以下の言葉、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という言葉は、その直前までイエス様の言葉が続いており、文脈上はイエス様の言葉であってもおかしくないのに、神について、イエス様について語るヨハネの言葉が、その説教の言葉が記されているのです。これが聖書であり、これがヨハネ福音書の言葉、神の言なのです。ヨハネはイエス様から聞いた言葉をそのまま自分の言葉として語っている。そして、それがイエス様の言葉になるのです。
 だから、八章二五節でイエス様が「それは初めから話しているではないか」と語りかけている相手は、表面的な文脈上では、この時イエス様の目の前にいるユダヤ人なのですけれど、実際上は、一章から読み進めてきた私たちなのです。その私たちが、ここに至っても、まだ分からないのか?と言われてしまう。

「人の子を上げた時に初めて分かる」

 しかし、その後、主イエスはこうおっしゃっています。
「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが自分勝手には何もせず、ただ父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」
 これもまた、表面上の文脈としては、この後にユダヤ人たちがイエス様を十字架の上に磔にすることを言っており、それは実はイエス様が死人の中から上げられること、復活して天にあげられることであり、それは同時にイエス様によって聖霊が与えられることを意味します。しかし、現実には、その時に「ユダヤ人たち」は、イエス様が「わたしはある」という方であること、神であることが分かったわけではありません。イエス様に向かって「わたしの主、わたしの神よ」と告白したのは弟子のトマスです。イエス様を裏切り、見捨てて逃げた弟子の一人です。彼らは、暗い部屋に閉篭もって罪の内に死ぬほかにない弟子たちでした。しかし、実はその彼らこそ、主イエスと出会い、その交わりを生きてきた人間であり、その語る言葉を聞き続け、その業を見続けてきた人々です。そして、そうであるが故に、主イエスが「上げられる」ということが、どういうことであるかを知らされたのだと思います。
自分の罪のために主イエスは十字架に上げられたのだ、ということ。罪の奴隷に過ぎない自分たちを、罪と死の支配から解放し、自由にするためにこそ主イエスは死んで甦られたのだということを知らされたのは、悟らされたのは、彼らです。主イエスに愛され、そして主イエスを愛し、主イエスと共に死ぬとまで言いつつ、主イエスの愛を、主イエスへの愛を、自分で裏切ってしまい、もう生きていく望みすら失ってしまった彼らが、復活の主イエスとの出会いを通して、主イエスの十字架は自分たちの罪のためであること、自分たちこそが主イエスを十字架に上げてしまった張本人であることを知らされたのです。その時、主イエスが神であることが分かった。
主イエスを裁判にかけ、死刑にして殺した人々は、主イエスこそ罪の奴隷、いや悪霊に取り付かれていると思い込んでいるだけです。彼らは自分を神の位につけて、自分が罪人であることを知らないのです。
そういったことを考え合わせると、今日の箇所で「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということが分かるだろう」とイエス様が語りかけている「あなたたち」とは、実はイエス様の話を最初から聞いていた弟子たちであり、今ここにいる私たちのことでもあるということになります。つまり、「わたしの罪のために、イエス様は十字架に上げられたのだ、私こそがイエス様を十字架につけたのだし、私のためにこそ、神様はイエス様を十字架につけたのだ」ということが分かる者たちに、イエス様は語りかけておられるのです。

「ひとりにはしない」

そして、そのことが分かる時に初めて、次の言葉が分かってくるのではないでしょうか?
「また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」
 イエス様は何事も父なる神様の御心のままに、つまり、神様がお喜びになることが何であるかを知って行動しているのだとおっしゃっています。イエス様の言葉は神様の言葉であり、その言葉はそのまま業となるのです。今日の箇所は「わたしは去って行く」というイエス様の言葉から始まった対話です。この「去って行く」もまた、イエス様の勝手な言葉と業ではなく、父の教え、その御心に適う言葉であり業なのです。イエス様がこの世を去る、それも十字架に磔にされて殺されるという形で去ることは父の喜びとすることです。
 しかし、それはイエス様だけがなさることであり、弟子たちがたとえ口々に、「あなたと一緒なら死にます」と言った所で、その言葉は実現しない。彼らの言行は一致しないのです。彼らはイエス様を捨てて、逃げていきます。それは、私たちにおいても全く同じこと。彼らは私たちです。
 一六章三一節以下で、弟子たちはついに、「あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」と言います。しかし、その弟子たちに向かって、イエス様はこうおっしゃいます。
「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
 イエス様は「わたしはひとりではない。父が共にいて下さる」とおっしゃる。これが、イエス様の本質です。イエス様と父なる神は完全に一体なのです。だから、イエス様は独り子なる神様なのです。そして、その故に、イエス様は十字架に磔にされて殺される時も「平和」なのです。罪と死の力に呑み込まれ、死の闇の中に沈んでいくその時にも、いやその時こそ、イエス様は神と共にいる言、命の光として、その本質を現されるお方なのです。栄光の神の子、主イエス・キリストなのです。

 信仰による平和への招き

 その事実を弟子たちが知らされたのは、先ほども言いましたように、十字架・復活・聖霊付与の時でした。その時、彼らは復活のイエス様によって「平和があるように」と言われた。これは直訳すれば、「あなたがたに平和」とだけ書かれています。「あるように」という願望形は解釈です。私は、「あなたがたに平和がある」という宣言として受け取るべきではないかと思います。「あなたがたに平和がある、今」。そして、この言葉は、神が弟子たちと、つまり、罪人たちと、偽しか生み出せず、EVILしか作り出せないその罪人の罪を赦して共に生きてくださる、一体の交わりを結んでくださるという恵みの事実の宣言なのです。「あなたがたは自分の罪の内に死ぬことはない。わたしがいるからだ」という意味です。この時に、「あなたがたが平和を得るためである」というイエス様の言葉は実現している、その業において真実なものとなっているのです。
 私たちは、今、このイエス様の言葉と業の中に生かされています。それは事実です。一四章で、イエス様は「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻ってくる」とおっしゃいました。つまり、「わたしは、あなたをひとりにはしておかない」とおっしゃってくださったのです。そして、こう続けられたのです。

「しばらくすると、世はもうわたしたちを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」

 これは、イエス様が十字架で死に、三日目に復活をされた後に、真理の霊、弁護者としての聖霊が弟子たちに与えられる時のことを語られた言葉です。イエス様は、十字架の死と復活の後に、真理の霊を弟子たちに送ってくださるように父なる神様に頼むから心配しないでよいとおっしゃったのです。そして、その言葉は、二千年前の日曜日の夕方に、エルサレム市街の小さな家に、窓も戸も閉め切って隠れていた弟子たちにおいて実現しました。その日に、イエス様に向かって「わたしの主よ、わたしの神よ」と信仰を告白して礼拝をすることが始まったのです。告白したトマスにイエス様は「見ないで信じる者となりなさい」とおっしゃいました。「見ないで信じる者となりなさい。」この信仰への招きは、二千年前から今日まで、そして世の終わりまで、常に現在形で語られる招きです。
「見ないで信じる者となりなさい。私があなたのために死んだこと、あなたのために生きていること、そこに神の愛があること、あなたは神に愛され、神との真実な交わりの中を生きることが出来る。私の言葉を信じなさい。そうすれば、私が生きているようにあなたも生きることになる。」
この招きに対して、「主よ、信じます」と応えることが出来る者は幸いです。その人は、平和を得るからです。この世に勝利している主と共に生きることが出来るからです。主の言葉はいつも現在形の言葉であり、現在行われている業なのですから。信じる者は救われます。そして、その救いを私たちに与えることこそ、イエス様がいつも語り、そして行っておられる父の御心なのです。
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