「神が父であれば・・」

及川 信

ヨハネによる福音書8章39節〜47節

 

彼らが答えて、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うと、イエスは言われた。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。ところが、今、あなたたちは、神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている。アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは、自分の父と同じ業をしている。」そこで彼らが、「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません。わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うと、イエスは言われた。「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」

 分かるようで分からない


 ヨハネ福音書というのは、一読して分かったような気もするのですが、実はよく分からない。そして、二読、三読するに従って分かると思う面と分からないと思う面が広がってくる感じがします。色々と調べて分かってくる面と、調べてしまったから分からなくなる面がある。そういうことの繰り返しです。最近、私よりも少し若い三人の牧師から、「わたしもヨハネの説教をやっていて、中渋谷教会のホームページで先生の説教を参考にさせていただいています」と言われることが続いて驚きました。その内の二人の牧師は、「私にはまだヨハネをやるのは早すぎたと思って、後悔しています」と言っていました。そういう牧師のヨハネ福音書に関する感想を聞いていると、たしかに分かっていないな・・ということは分かるのです。そして、私も自分で分かっていないなということが分かる。でも、どこがどう分かっていないのか、どうすれば分かるのか、それが分からないものですから、牧師たちに色々と質問されて、私なりに思うことを答えても、どうも話が噛み合っていかないのです。
聖書の学者たちは、「ヨハネ的誤解」と名付けていますけれど、ヨハネ福音書に登場する人々は、弟子であれ、ユダヤ人であれ、そのほとんどの人がイエス様の言葉を正しく理解できず、誤解し、最後は敵対する人々として登場しています。イエス様を肉眼で見、直接話を聞いた人も、イエス様のことはよく分からなかったし、教会が誕生し、後に『聖書』として正典化される書物が書かれる時代になっても、すべての人がイエス様の言葉を正しく理解することが出来たわけではありません。そして、それは現代の私たちにおいても続いている。だけれども、キリスト教会の歴史において、私たちキリスト者のすべてがこの福音書を読んでイエス様を誤解し続けてきたのかと言えば、それはやはり違うと言わざるを得ないと思います。

聖書と聖霊

今年度は喜ばしいことに、洗礼を受ける方が一人また一人と誕生しています。その方たちとお互いの都合に合わせて受洗準備会を不定期に何回か持つのですが、その時には最初に『日本基督教団信仰告白』の学びをします。先日もその学びをしました。その告白の冒頭は、こういうものです。

「我等は信じかつ告白す。旧新約聖書は、神の霊感によりて成り、キリストを証し、福音の真理を示し、教会の拠るべき唯一の正典なり。されば聖書は聖霊によりて、神につき、救いにつきて、全き知識を我等に与うる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり。」

ここには、私たちが読み進めていますヨハネ福音書において決定的に重要な言葉がいくつも出ています。「神」「信じる」「信仰」「神の霊」「聖霊」「真理」「神の言」、そして「知識」(分かるということ)などです。聖書は、キリストを証しており、神と救いについて完全な知識を私たちに与えてくれる書物なのです。だから、分からなければならない。でも、それは聖霊によることなのです。神について、救いについての知識は、知的な努力によって修得できるものではなく、聖霊によって啓示されるものです。ですから、今日も聖霊の導きを祈りつつ、御言に聞き、その世界を見たいと願っています。

子(フィオス)子孫(スペルマ)子どもら(テクナ)

今日は三五節から振り返っていきたいと思います。今日の箇所に直接繋がるのは、「子」という言葉です。今日の箇所は、「父とは誰か」が大問題ですけれど、それは「子は誰か」という問題でもあります。三五節以下でイエス様はこうおっしゃっています。

「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」
 ここで最初に出てくる「子」とは、一般的な意味で、奴隷とは区別されるその家で生まれた子、両親の間に生まれた子のことを意味すると言って良いでしょう。しかし、その次に出てくる「もし子があなたたちを自由にすれば」という場合の「子」は、その直前の子の意味を受けつつ、イエス様ご自身のことです。つまり、神から生まれた神の独り子、神の家に永遠にいる、その家にとどまる子です。そして、「子があなたたちを自由にすれば」とは「真理はあなたたちを自由にする」と平行関係にある文章ですから、「子」とは「真理」そのものでもあるわけです。そして、真理とは神様が持っている性質であり、私たち人間が持っている性質ではありません。私たち人間は、エデンの園で蛇に唆されて以来、「偽り」がその本性となってしまっているのです。この「真理」と「偽り」の対立が、父と子の問題と共に今日の箇所の中心になることだと思います。
 イエス様は続けてこうおっしゃいます。

「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。」

 「子孫」
とは、血が繋がっている子孫という意味で、ユダヤ人が民族的な意味でアブラハムの子孫であることはイエス様も認めておられるのです。しかし、イエス様にとってアブラハムとは、何よりも信仰の父です。たった一人の子どもすら生まれていない老人のアブラハムが、神様に天の星を見させられ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われた時、「アブラハムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」と創世記十五章に記されています。そのアブラハム、信じ得ぬ約束を、それが主の言葉であるが故に信じたアブラハムこそが、信仰の父としてのアブラハムなのです。しかし、目の前にいるユダヤ人、イエス様を「信じた」ことになっているユダヤ人は、実は神の言そのものであるイエス様を信じていない。イエス様の「言葉を受け入れない」からです。これは、「わたしの言葉はあなたの中に場所を持たない」が直訳です。イエス様の言葉は霊であり命であると、イエス様ご自身が仰っていますが、そのイエス様がいくら語っても彼らの中に居場所を持つことが出来ない。排除されてしまう。一旦受け入れられても、すぐに抹殺されてしまうということです。そのように、真理であり霊であり命である方を否定し、抹殺することによって、実は私たち人間は自分自身の命を否定し、抹殺していることになる。しかし、誰も自分がそんな愚かなことをしているとは思っていないのです。

「わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

 ここでイエス様は、恐ろしく重要なことを語っています。「父のもとで見た」とは、ヨハネ福音書冒頭に記されている事実の宣言だからです。そこにはこうありました。「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」そして一章一八節にはこうあります。「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」つまり、イエス様はここで、ご自分のことを神を父とし、神を見た独り子なる神であることを宣言しておられるのです。しかし、誰もそんなことは分かっていません。そして、「あなたたちは父から聞いたことを行っている」とは、アブラハムの子孫であるモーセが定めた律法を当時のユダヤ人たちが字句通りに守っているということだと思います。その様にして、自らの栄光を求めている。そのようにして、永遠の命を自ら獲得しようとしている。そういうことでしょう。しかし、そのようにしては永遠の命を得ることは出来ないのです。律法を定めたのはアブラハムの子孫であるモーセです。しかし、その律法(聖書)とモーセに関して、イエス様は五章の段階で既にこうおっしゃっていました。
「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。」「あなたたちが頼りにしているのは、モーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセはわたしについて書いているからである。」

 ユダヤ人たち、つまり、アブラハムを父として戴いていることを誇りとし、聖書を研究し、律法を守ることを通して永遠の命を獲得しようとしているユダヤ人たちは、「わたしたちの父はアブラハムです」と言うのですが、イエス様はそれに答えてこうおっしゃる。「アブラハムの子なら、アブラハムと同じ業をするはずだ。」ここで「子」と訳されている言葉は、原文のギリシャ語ではテクナと言って、テクノスの複数形です。「子どもたち」という意味です。先ほど出てきた「子」はフィオス、息子を表す言葉にホという定冠詞がついていて神様の独り子であるイエス様を指すのに対して、こちらの方は、時に師匠が弟子たちを「わが息子らよ」と呼ぶ時にも使われる言葉です。ですから、父であり師匠であるアブラハムの子、弟子たちであるなら、アブラハムが神を信じたように神を信じるはずだ、ということになります。しかし、現実のユダヤ人たちは、「神から聞いた真理をあなたたちに語っているこのわたしを、殺そうとしている」。だから、「アブラハムの子孫」であることは認めるけれど、「アブラハムの子」であることは認めないと、イエス様は言っていることになります。そして、イエス様はさらに突き詰めていかれます。本当に恐ろしい方だと思います。

「アブラハムはそんなことはしなかった。あなたたちは自分の父と同じことをしている。」

つまり、ここでイエス様は、彼らの本当の父はアブラハムではないとおっしゃっているのです。ユダヤ人の本当の父は別にいるということです。

「ユダヤ人」 キリスト者

この辺りから、私たちは注意して聞いていかねばなりません。初代教会にはユダヤ人キリスト者は沢山いましたし、また異邦人キリスト者も沢山いました。その両方とも、アブラハムを「信仰の父」と呼んでいるのです。私たち日本人キリスト者も同様です。ここでイエス様から詰問されているのはイエス様を「信じた」ユダヤ人キリスト者です。イエス様を「信じた」という意味では、ここにいる私たちと同じなのです。「私たちはユダヤ人ではないから、ここで詰問されているのは私たちではない」と呑気に聞いていてよい話ではありません。私たちも「信仰の父はアブラハムだ」と思い、「自分は信仰に生きている」と思っていても、実は違うところに父を持っている、そしてその父に従っているのかもしれない、いや実際に従っているのではないか?!そういう厳しい問いの前に立たされているのです。
 彼らは、ここでむきになって「わたしたちは姦淫によって生まれたのではありません」と言い返します。これはイエス様が、マリアから生まれたにしても、ヨセフとの結婚前に子を宿したことに対する皮肉が込められているのではないかと言われますが、それはさておき、彼らは「わたしたちにはただひとりの父がいます。それは神です」と言うのです。つまり、アブラハムが父であるとは、彼を選んだ神が父であるということを意味するのだ、と。
 ここで、神の子を自称するイエス様とユダヤ人が真正面から対立する、いや対決するという状況に至りました。そしてそれは、二人の父の対立、対決という状況が始ったということです。今日の問題も、ここから始まります。イエス様は間髪を入れずに畳み掛けてきます。よーく聞いてください。

「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。あなたたちのうち、いったいだれが、わたしに罪があると責めることができるのか。わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか。神に属する者は神の言葉を聞く。あなたたちが聞かないのは神に属していないからである。」

   真理を語っているから? 語っているのに?


 私が最初に「分からない」と言ったのは、ここです。イエス様は、「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか」とおっしゃる。そして、「それはわたしの言葉を聞くことが出来ないからだ」と説明される。これはもちろん、耳では聞いているし、少なくとも表面的な意味としては理解している。しかし、「聞くことが出来ない」とは「聞く力がない」「聞いても理解できない」ということです。そして、その先を見ると、「しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない」とおっしゃる。しかし、その先では「わたしは真理を語っているのに、なぜわたしを信じないのか」とおっしゃる。真理を語っているからイエス様を信じないのか、真理を語っているのに信じないのか。さっぱり分かりません。この疑問文の方の翻訳を色々と見てみると、「もし、私が真理を語っているとすれば、どうしてあなたがたは私を信じないのか」という訳も沢山あり、それも可能なことが分かりました。ある人は、この疑問文は、最初の「しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちは信じない」を疑問文の形で強調しているのだと説明していますが、私には、その説明もいまひとつ分かりません。
だから、また読んでいくしかないのですが、イエス様はこれまでも繰り返し、ご自分は父である神から派遣されてきたのであって、自分勝手に来たのではないし、話すことも為すこともすべて父なる神の「御心に適うこと」(八章二九節)をしていると、おっしゃってきました。イエス様の存在は神そのものなのだし、その言葉も業も神のそれなのです。イエス様を遣わした神は真実であるが故に、イエス様の言葉も真理なのです。しかし、その言葉を人間は聞くことが出来ない。聞く力がない。それは何故か?

あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。悪魔は最初から人殺しであって、真理をよりどころとしていない。彼の内には真理がないからだ。悪魔が偽りを言うときは、その本性から言っている。自分が偽り者であり、その父だからである。

 つまり、イエスを信じたキリスト者(しかし、イエス様の言葉にとどまることをしないキリスト者)の父は、アブラハムではないし、まして神ではない、「悪魔だ」とイエス様はおっしゃるのです。皆さん、こういう言葉を人から面と向かって言われたことがあるでしょうか?もし、言われたとすれば、どんな思いになるのでしょうか?ユダヤ人たちは、こう答えました。

「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか。」

 私たちがもし誰かから、「お前の父は悪魔だ」と言われたとするなら、そして、「お前はその父の言いなりになっている悪魔の子だ。だから人殺しなんだ」と言われれば、私たちもまた「お前こそ、悪霊に取りつかれている」と言い返すのは当然の成り行きだと思います。  しかし、こういう言葉をイエス様がおっしゃったことは、ここだけではありません。イエス様は、その愛する弟子のペトロに向かって、「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている」と面罵されたことがあります。それはペトロの信仰告白の直後のことであり、そしてそれはイエス様の受難預言の直後のことです。ペトロの信仰が、実はイエス様への服従ではなく、イエス様を自分の思い通りに服従させようとする信仰、自分にとって都合のよいキリストに仕立て上げるための信仰でしかないことが明らかになった時、イエス様はペトロをサタン(この場合は「悪魔」と同じ意味です)と言ったのです。未信者や異教徒や無神論者に言ったのではありません。この事実は重いと言わざるを得ません。

 悪魔 蛇

 ユダヤ人が、イエス様のおっしゃっていることが分からない。これは事実です。しかし、イエス様も血筋と言う意味ではユダヤ人であり、基本的にユダヤ人に、それも聖書を研究しているユダヤ人に語っているという事実も忘れてはいけないと思います。何故なら、イエス様の言葉の背景には旧約聖書の言葉が数多くあるからです。その背景、あるいは前提がある時に、その言葉の鋭さが初めて分かってくるのだと思います。
 私は今日の箇所を読みつつ、創世記に記されているエデンの園の物語とその続きを思い出していました。そこには、人間が罪に堕ちて行く様が描かれています。そして、その罪と自由は深く関係するのです。
 神様は、エデンの園の中央にその実を食べてはならない木、禁断の木を植えられました。しかし、それは有刺鉄線に囲まれているわけでも何でもありません。他の木と同じように人間がその気になって手を伸ばせば、その実を取って食べることが出来るのです。そこに蛇が登場します。最も賢いと言われていた動物であり、永遠の命の象徴とも言われるし、また悪魔の象徴とも言われる存在です。その蛇が、エバを唆します。その詳細を語る時間は、今日はもうありません。しかし、その内容は、お前たちはこれを食べれば自由になる、神の支配や束縛から自由になって、神のような存在になれるというものです。しかし、これは偽りの言葉でした。しかし、エバもアダムも、この偽りの言葉を真実な言葉、真理だと信じたのです。その結果、彼らはエデンの園から追放されます。しかし、それは一面で解放です。人間が、その欲望に従って何でも自由に出来ることを意味するからです。その自由をもって、彼らは神のように命を創造する。二人の子どもを作る。その子どもらは、偽りの言葉を信じて、自由を手にしたと錯覚している親に育てられます。その結果、神のなさることに不満を覚えた時に、兄のカインが弟アベルを殺すのです。人を殺す。これこそ、禁断の木の実ではありませんが、人間がしてはならないことの最大のことでしょう。しかしだからこそ、そのことをする。それこそが最大の自由の行使なのです。悪魔に唆され、その言葉を信じて生きるということは、本性から悪に支配され、悪を善と思う偽りの中に生きることを意味するのだし、その行き着く先は、人殺しである。そういうことが、ここに現れているのだと思います。
 しかし、実はその時、神様はカインに語りかけています。

「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」

 しかし、カインは、この時、この神の言葉を聞くことが出来ませんでした。聞く力がなかったのだし、この言葉がまさに真理であるが故に聞く気がなかったのです。私たちは悪魔に唆されて、悪魔の欲望を果たそうとする時に、正論は聞きたくないものです。悪魔に支配されている時、神の言葉を聴く耳を持つことは出来ないのです。それは私たちが経験的に知っていることのはずです。そして、それはつまり、私たちが悪魔の子、悪魔を父とする者であることを証明している現実です。そこに真理はなく、そこに真実の自由はない。あるのは、放縦であり、偽りの自由、まやかしの自由です。そして、待っているのは「自分の罪の内に死ぬ」こと以外の何物でもありません。

 本性から変わらなければ

 イエス様は、私たちの現実、罪に支配されている惨めな現実を抉り出していきます。私たちを愛しているからです。罪の内に死んで欲しくないからです。自由に伸びやかに生きて欲しいからです。そして、永遠の命を生きて欲しいから。だから、私たちを追い詰めていく。逃げようがないほどに追い詰めていく。顔を伏せてふてくされるのではなく、「主よ、どうぞ私をこの罪の支配から救ってください」と叫び出すほかにないようにと追い詰めてくださるのです。

「しかし、わたしが真理を語るから、あなたたちはわたしを信じない。」

 この言葉の分かりにくさは、翻訳、つまり解釈にあると思います。この「しかし」と訳された「デ」というギリシャ語は、一般的には「しかし」と訳されて当然の言葉ですけれど、時に「だから」と訳すべき言葉なのです。古い訳ですが、ルターやキング・ジェームズ・ヴァージョンなどは、そのように訳しています。私もそちらの解釈を採りたいと思います。蛇に唆されて以後の人間は、本性が偽りである悪魔を父として従っている人間だから、真理の言葉を聞くことが出来ないし、信じることは出来ないのです。それはあまりに当然です。
 それでは、どうすればよいのか?私たちも好き好んで悪魔の支配に自ら入って行った訳ではありません。蛇は至るところにいて、私たちに囁きかけてきます。様々な肉の欲望に従わせようとするのです。そして、その言葉を聞いた上で木の実を見ると、それは前にも増して美味しそうに見えるし、それを食べると賢くなれそうに、強い人間になれそうに見えるのです。そういう現実の中に生きている私たちは、どうやってその現実を打ち破ることが出来るのか?  私は、絶望的だと思います。私たちにはそんな力はないし、そもそも私たちは自分が悪魔の支配の中に落ちていることを自覚する能力すらないと思っています。その現実を知らせてくださるのも、イエス様を遣わされた神様なのです。ただ神様だけが、イエス様を通して、私たちの罪の現実を知らせ、そして、そこからの救いをもたらし下さるのです。

  真理の霊によって

 先週の三一節から今日の四七節までに「真理」という言葉が実に七回も出てきます。そして、これ以後、どこに出てくるかと言うと一四章以降なのです。一四章一五節以下で、イエス様は愛する弟子たちに、イエス様の十字架の死と復活の後に、神様の許から真理の霊が送られてくると、おっしゃいます。
 真理の霊、つまり、聖霊が与えられる時に、私たちは肉眼では見えないイエス様を見ることが出来るのだし、今生きておられるイエス様と共に生きることが出来るようになるのです。そして、イエス様と父なる神様とが一つの交わりを生きているように、私たちもイエス様と一つの交わりを生きることが出来るようになるのです。つまり、イエス様を愛し、イエス様に愛され、父なる神に愛されて、いつもイエス様と共に生きることが出来る。それがイエス様の約束です。
 そして一六章一二節以下ではこうおっしゃっています。

「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」

 真理の霊が来なければ、そして、その霊を受け入れなければ、イエス様の言葉はいつまでも理解できず、さらに受け入れ難いものなのです。私たちにとっては謎であり、不快であり続けるのです。その厳しい指摘、糾弾の中に、イエス様の愛、私たちを罪と死の支配から解放するために、あの恐るべき十字架にかかって死んでくださり、さらに復活して霊において共に生きて下さるというあの愛を感じ取り、信じることは出来ないのです。しかし、幸いにも、私たちキリスト者はその聖霊を与えられ、イエス様を信じる信仰を与えられ、洗礼を授けられた者たちです。その恵みを無にしてはいけないのです。だから、イエス様は、三一節で「御自分を信じたユダヤ人たちに」「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」とおっしゃったのです。この言葉は、霊であり命である言葉です。この言葉、霊、命にとどまり続ける。つまり、イエス様を礼拝し続ける、そして信じ続ける。それが神の子の生涯なのです。

 神に属する者 神から(生まれた)の者

 イエス様は、」「神に属する者は、神の言葉を聞く」と仰いました。直訳すれば、それは「神からの者は、神の語りかけを聞く」となります。つまり、その出自、由来が神である者は、神の言葉を聞くということです。これは「あなたたちは、悪魔である父から出た者である」という言葉の反対です。どちらかしかないのです。神から出る、つまり、神から生まれる神の子であるか、悪魔から出る、悪魔の子であるか。私たちの現実は、そのどちらかしかありません。
 そして、イエス様は「神の子となりなさい」と語りかけてくださっているのです。聖霊の注ぎを受け入れて、わたしを信じなさい、と。
もう時間がありません。最後に、一章一〇節以下の言葉を読んで終わります。

「言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。」

 「神によって」は「神から」と同じ言葉です。私たち聖霊によってイエス様を信じるキリスト者は、新たに神から生まれた神の子です。だから神様を「アッバ、父よ」と呼ぶことが出来るのです。もう悪魔の偽りの言葉に耳を傾けて罪の奴隷になってはなりません。聖霊を求め続け、イエス様の言葉を聞いて信じ、受け入れつつ、終わりの日の復活を目指して、伸びやかに、まことの自由を生きる者でありたいと思います。
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