「身を隠すイエス」

及川 信

ヨハネによる福音書 8章48節〜59節

 

ユダヤ人たちが、「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と言い返すと、イエスはお答えになった。「わたしは悪霊に取りつかれてはいない。わたしは父を重んじているのに、あなたたちはわたしを重んじない。わたしは、自分の栄光は求めていない。わたしの栄光を求め、裁きをなさる方が、ほかにおられる。はっきり言っておく。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない。」ユダヤ人たちは言った。「あなたが悪霊に取りつかれていることが、今はっきりした。アブラハムは死んだし、預言者たちも死んだ。ところが、あなたは、『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことがない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」イエスはお答えになった。「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であって、あなたたちはこの方について、『我々の神だ』と言っている。あなたたちはその方を知らないが、わたしは知っている。わたしがその方を知らないと言えば、あなたたちと同じくわたしも偽り者になる。しかし、わたしはその方を知っており、その言葉を守っている。あなたたちの父アブラハムは、わたしの日を見るのを楽しみにしていた。そして、それを見て、喜んだのである。」ユダヤ人たちが、「あなたは、まだ五十歳にもならないのに、アブラハムを見たのか」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた。

 先週申し上げましたように、今日の箇所は七章の初めから始まる大きな単元の締め括りに当たる箇所です。先週の説教で五八節までを取り上げたので、今日は五九節の「すると、ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた」という御言が何を意味し、そして、私たちに何を語りかけてくるのかに集中していきたいと思っています。
 しかし、この言葉に集中するということは、この言葉の前後の脈絡を丁寧に見ていくということです。現代のマスコミは、しばしば前後の脈絡を無視して一つの言葉尻を捕えて「ああだこうだ」という騒ぎ方をしますし、私たちの人間関係においても、脈絡を抜きに「あんなこと言われた、こんなこと言われた」と勝手に傷ついたり、無意味な反撃をしたりすることがありますけれど、聖書の言葉も、しばしば脈絡抜きに独り歩きして、誤解されたまま賞賛されたり、非難されたりするものです。しかし、それは愚かなことであり、恐ろしいことでもあります。
 七章の冒頭を説教したのはもう去年の八月のことですから、多くの方が覚えておられないと思って、先週、読み返してきて頂きたいと申し上げました。前後の脈絡を丁寧に見ていくと言っても、時間の制約がありますから説教の中では要点を拾っていくことになるからです。

  「殺そうとする」が大枠

 七章から八章の終わりまでの舞台は、基本的にエルサレムの神殿です。ユダヤ地方にあるエルサレム神殿に、ガリラヤ地方で活動しておられたイエス様が上って行くか行かないかという所から七章は始まります。

その後、イエスはガリラヤを巡っておられた。ユダヤ人が殺そうとねらっていたので、ユダヤを巡ろうとは思われなかった。ときに、ユダヤ人の仮庵祭が近づいていた。イエスの兄弟たちが言った。「ここを去ってユダヤに行き、あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」

ここに既に、ユダヤ地方、すなわちエルサレムのユダヤ人がイエス様を「殺そうと狙っていた」と出てきます。この「ユダヤ人」とは、厳密に言えばユダヤ教徒であり、さらにヨハネ福音書の成立時代に適合させて言えば、キリスト教徒と敵対し、彼らをユダヤ教のシナゴーグ(礼拝堂)から追放し、ユダヤ人社会の中で生きていくことが出来ないように迫害するファリサイ派的ユダヤ教徒です。彼らは、イエス様を殺そうと狙っていた。その思いが今日の箇所で「石を投げつけようとする」ことに結実します。つまり、七章と八章は、イエス様を殺そうとすることが大枠になっているのです。「石を投げる」とは、石打の刑に処する、つまり死刑にすることだからです。

見る 隠れる

そして、この兄弟の言葉の中に、「あなたのしている業を弟子たちに見せてやりなさい」とあり、「公に知らせる」という言葉もあります。「見る」という言葉は、先週語りましたように、今日の箇所でも非常に大事な言葉です。「わたしの言葉を守るなら、その人は決して死なない」と訳された言葉は「わたしの言葉を守る人は、永遠に死を見ない」が直訳ですし、アブラハムはイエス様の「日を見るのを楽しみにして」いたのだし、実際に「見て喜んだ」のですから。紀元前に生き、そして死んだアブラハムがイエス様の日を見たことについては、既に語ったので繰り返しません。しかし、イエス様を見ること、その業を見るとはどういうことなのか。それが七章八章で大問題であることは明らかです。そして、この「見る」という問題は、九章において大きな展開をします。そこは、生まれながらの盲人がイエス様によって見えるようにして頂いたことが記されている箇所です。そして、そこにおいて問題になっているのはイエス様を「信じる」か「信じないか」であり、さらにその信仰を「公に知らせる」か「否か」なのです。そういう意味で七章八章と九章は緊密な関係にありますが、それは後に触れます。
七章において、何故イエス様がエルサレムに向かわれるかと言うと、「仮庵の祭り」が近づいていたからです。その祭りが祝われるエルサレムに上るとき、イエス様は「人目を避け、隠れるようにして上って行かれた」とあります。しかし、これは物陰に隠れて上っていったということではなく、人の目にはイエス様が祭りに上っていくその真の姿が見えていなかった、隠されていたということです。それ故に、その後には人々が驚くほど、イエス様は公然と(公に)神殿の中で神の教えを語り始めるのです。
仮庵の祭りとは、ユダヤ人にとって過越の祭りと並ぶ大きな祭りであり、イスラエルの民がエジプトを脱出した後の四十年にわたる荒野放浪の間、神様が命の水を与えつつ闇に輝く光として絶えず臨在してくださったことを感謝し祝う祭りです。その祭りの間、ユダヤ人は、家には寝泊りせず、仮小屋を建てて過ごしました。そして、夜は巨大な松明が神殿の庭に建てられ、その光がエルサレムの街の何処からでも見えたそうですし、祭りが最高潮に達する日は、水を祭壇の脇に大量に注ぐという儀式が行われたのです。祭りの時は、人々の心が最も高揚する時ですけれど、その高揚の中で、イエス様は「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と言われ、また「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇を歩かず、命の光を持つ」と言われたのです。これは、ある意味では、イエス様ご自身が神であることの間接的な証言ですけれど、その意味が分からない人々から「あなたは誰なのか」と問われるたびにイエス様ははっきりと「わたしはある」とお答えになってきたのでした。これは、出エジプトという大事業を始める前に、神様がモーセに名を尋ねられた時の答えです。「わたしはある、というものだ」と神様はモーセに告げられたのです。それは、いつまでもどこまでも、あなたと共に生き、あなたを生かす神だ、という意味です。
今日の箇所においても、この言葉は決定的な意味を持った言葉として語られています。ユダヤ人にしてみれば、自分たちの先祖であり父であるアブラハムよりも前に「わたしはある」とイエス様が宣言されるということは、理解不能であるだけでなく、まさに悪霊に取り付かれた狂人の言動であり、看過できない言動なのです。そして、それはあまりにも当然なことです。皆さんだって、信仰を証した経験がある方なら誰だって経験しているはずです。「イエスという人は、歴史が始まる前から神であって、今も生きているんだ。この方を信じることによって、私たちは永遠の命を生きる者とされるんだ」と誰かに言ったとします。そうした時の人々の反応は、分かりきっています。それまでは、普通に話し合っていたとしても、その途端に、「この人はちょっとおかしい。やっぱり宗教は怖い。この人との付き合いはほどほどにしよう」ということになる。だから、私たちは信仰の証はしなくなりますし、イエス様の名前を日常生活の中で出さなくなるのです。それもまたある意味では、あまりに当然のことであり、ある意味では不信仰なことですが、ある意味では賢いことだと思います。もちろん、イエス様の名前を普段は口にしていなくても、心に信じ、信仰に基づいた仕事や生活をし、日曜日は礼拝に集うという証しをしていればであって、それすらしなくなれば、それは味を失った塩と同じで、「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」と、イエス様ご自身がおっしゃっています。

外と中

ここでイエス様は「外に投げ捨てられる」とおっしゃいました。味を失った塩が外に投げ捨てられてしまえば土と見分けがつかなくなるわけですが、この「外」と「中」の問題は実は重大な問題だと思うのです。 先週私は、アブラハムとモーセは比較できるけれど、アブラハムとイエス様、モーセとイエス様は比較できない、何故なら、アブラハムやモーセは歴史の中に生きている存在であり、イエス様は歴史を越えた、歴史の外に生きている存在だからだと言いました。「わたしはある」という存在としてのイエス様は、その肉体をもって地上を生きている時も、それ以前も以後も「わたしはある」というお方として、私たちと共に生きておられるのです。それは歴史の中に、しかし、歴史を越えた方が生きているという現実なのであって、歴史の中に生きている人間が、その知性において把握したり、認識したり出来る事柄ではありません。そして、歴史の中に生きている人間は、歴史の外から来られる方を排除する以外になくなるのです。何故なら、人間の歴史は罪の歴史であり、罪に堕ちた人間の父は、イエス様によれば悪魔であり、その悪魔の最大の敵は神ですから、神の子として到来したイエス様を排除することは、悪魔の本性からして当然だからです。悪魔が人間に仕向けることは、あのエデンの園の蛇と同じで、人間を神にすることです。人間が神になって、すべての支配者になり、すべてを意のままにし、完全な自由を手にすることです。そのように仕向けて、実は人間を罪の奴隷にする。蛇は、禁断の木の実を食べさせるために、こう言ったでしょう?

「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。」

 「善悪を知る」とは、道徳を知るということではなく、世界のすべてを把握するという意味です。そして、その力は、「目が開く」こと、つまり「見える」ことと関係します。しかし、現実に彼らが禁断の木の実を食べて見えたことは、自分たちの裸の姿なのであり、その姿を互いに恐ろしく思い、恥じる自分たちでした。それ故に恥部を隠し、神様が現れると全身を隠す自分たち自身の現実が見えたのです。それまで見ていた自分たちの姿や神の姿は見えなくなったのです。そして、彼らはエデンの園の「外」に追放されました。そして、そこで人間は神なき世界の「中」で、神のように生き始めたのです。この時から、人間の歴史、罪に支配された歴史が始まり、それは自分たちにはすべてが見えており、神のようにすべてを支配できるという錯覚の歴史、そう悪魔の策略に嵌りこんだ歴史が始まったとも言えるのです。その歴史の本質が、カインのアベル殺しであり、カインの末裔の物語などに描かれているのです。
 そういう人間、罪の歴史の「中」にいる人間にはイエス様の姿は見えない。肉の姿の中に神の姿は見えず、そして現代の私たちにとっては肉眼で見えないものは存在しないとしか思えないのです。イエス様よりも千年以上も前に地上を生きたアブラハムが、イエス様の日を見て喜ぶというようなことは起きないのです。信仰を持たない限り。聖霊によって信仰を与えられない限り、歴史の外から歴史の中に入ってこられた方の本質は見ることが出来ないし、その存在は邪魔以外の何ものでもなく、受け入れ難いのです。だから、「ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけよう」とする。

 身を隠すイエス

「しかし、イエスは身を隠して、神殿の境内から出て行かれた」
のです。エルサレム神殿に上る時も、神殿から出る時も、イエス様は身を隠しておられる。この現実を具体的にしか思い描けないとすると、まさに本質が見えていないということだと、私は思います。エルサレム神殿に上るときも、イエス様は物陰にコソコソ隠れたり、変装したりしていたわけではないでしょう。また、ここでもイエス様は素早く走り去って、街の群衆の中に身を隠したということでもない。そういう目に見える具体的なことがここで言われているのではないのです。自分を神の位につけることで、実は自分たちが崇めていると信じ込んでいる神を抹殺している人間には、イエス様は見えないのです。そういう人間にとって、イエス様はいつも隠れた存在なのです。神殿の中で、イエス様が声を張り上げて「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」と言っても、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言っても、イエス様を信じることが出来なければ、それは理解不能な無意味の言葉であり、次第にそういう言葉を発する存在を抹殺したくなるのです。思い起こしてみれば、「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とおっしゃったイエス様に向かって、「その水をください」と懇願し、ついに「わたしはメシアに会った」と言うことが出来たのは、ユダヤ人からは排除されたサマリア人の女であり、その女は五度の結婚離婚を繰り返し、もはやその町の社会の中には生きていることが出来なかった愛に飢え渇いた女でした。そういう者、人々から排除され、外に追い出された者がイエス様に出会う、そして信じることが出来る。そういう逆説がそこにはあると思います。イエス様も、結局、エルサレム神殿から外に追い出されたのです。そして、人々の目には隠され、見えない存在となりました。

見えない者が見える者に

 その出来事に続くのが九章の出来事です。そこには、生まれながらに目が見えず、それ故に物乞いをするしかなかった青年が登場します。そこでも、実はイエス様が「目の見えない人を見かけられた」、「見た」という言葉が使われています。この物語については、私はまだその真相が見えているわけではないので、この物語に触れることに多少ためらいがありますけれど、この一週間、ヨハネ福音書を読みなおしつつ、ここでの問題は、実は七章、八章でずっと問題になっていたことなのではないかと思うようになったので、その線に限定して語らせていただきます。
 今の日本でもそういう考え方が存在するように思いますが、当時のユダヤ人の中では生まれながらの障害は、罪に対する神様の裁きだとする見方が支配的なものでした。それ故に、弟子たちはイエス様に「ラビ(先生)、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか」と尋ねたのです。しかし、イエス様は、こうお答えになりました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

 ここには、七章冒頭でイエス様の兄弟がイエス様に向かって語った言葉が出てきます。そこで兄弟たちはこう言っていました。

「あなたのしている業を弟子たちにも見せてやりなさい。公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい。」

 「業」
という言葉と「はっきり示しなさい」がそれです。「はっきり示す」「神の業が現れる」「現れる」と同じ言葉ですし、それは「人々に見せる」と内容的には同じです。もう一つ「公に知らせる」という言葉も関連しますが、それは九章の物語においても大事な言葉です。
 イエス様は、この盲人の目に自分の唾をこねた泥を塗り、シロアムの池で洗ってきなさいと命じました。彼がそのようにすることで、彼は見えるようになりました。問題は、そこからです。盲人は誰が自分の目を見えるようにしてくれたのか、知りませんでした。そして、盲人の目が突然見えるようになったことに驚いた人々は、彼をファリサイ派の人々、つまり、イエス様の時代にはユダヤ教の一派であり、ヨハネ福音書が書かれた時代には、ユダヤ教を代表していたファリサイ派の人々の所に連れて行きました。宗教的な判定を受けようとしたのです。これが神の業なのかどうかを判定してもらおうとした。しかし、その日が安息日、つまり一切の労働をしてはならないと律法で定められた日であったので、その日にこのような業をしたその人は、「神のもとから来た者ではない」という者がおり、その一方で「罪ある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」という者もいました。イエス様が、神のもとから来た人物なのか、それとも悪霊のもとから来た人間なのかは七章八章の大問題でした。混乱した彼らは、両親を呼び出して、この青年は生まれながらに盲人であったのかどうかを確かめたりします。両親たちは、ユダヤ人(ファリサイ派)を恐れて「本人にお聞きください」と言います。何故なら、二二節にありますように、ヨハネ福音書が書かれた当時、「イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決め」られていたからです。会堂とは、町々にある礼拝堂であり、ユダヤ人の生活の中心です。そこから追い出されることは村八分どころか、ユダヤ人社会の外に追い出されることを意味するのです。
 そこでユダヤ人たちは、本人を再び呼び出して尋問します。
「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間であると知っているのだ。」
 しかし、彼は答えます。
「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」
 その後、彼はついにこう告白します。
「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」
「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか。」


   そして、ついに彼を「追い出した」のです。つまり、会堂から、神の民であるべきユダヤ人社会から、神が臨在し、共に生きてくださる社会の外に追い出した。神なき世界に追放したのです。
 しかし、実は人はそこで神と出会う。神に見つめられ、神を見るのです。ユダヤ人たちは、自分たちの社会の中にこそ神が生きておられると錯覚をしているだけで、実は自分たちこそが神が生きており、神を見ることが出来る世界の外にいることが分かっていないのです。三五節から読みます。

イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして、彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな方ですか。その方を信じたいのですが。」イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
 イエスと一緒に居合わせたファリサイ派の人々は、これらのことを聞いて、「我々も見えないということか」と言った。イエスは言われた。「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」


 障害の故に罪人とされてきたこの青年が、イエス様を神のもとから来られた方だと公に言い表し、そして、そのことの故にさらに罪人とされユダヤ人の礼拝堂であり、社会の中心である会堂から追い出され、神の民の資格を剥奪される。しかし、その時、彼はイエス様と出会う、ユダヤ人の目には隠されていたイエス様を見ることが出来る人間にされる。肉眼では青年と同じようにイエス様を見ている人間であるファリサイ派の人々は、自分たちは何でも「見える」という自覚の故に、実は今もって罪の中にいる。イエス様が見えない。イエス様は彼らの前で隠れているのです。一体、どちらがエデンの園の外に追放された罪人なのでしょうか。そして、私たちは今、どちらの人間なのでしょうか?

 光と闇

 「見える」
ことと「光」とが深い関係にあることは言うまでもありません。「闇の中」では何も見えないからです。ヨハネ福音書では、「身を隠す」という言葉と「光」とが並んで出てくる箇所が一つだけあります。それは一二章の三五節以下です。もう時間がありませんけれど、ここは先週も読んだ「人の子の栄光」に関するイエス様の言葉に続く箇所です。一粒の麦として地に落ちて死ぬイエス様においてこそ神の栄光が現れるのだと語られた後に続く問答の中で、イエス様は「『人の子』とはだれのことですか」という問いに答えて、こうおっしゃいました。

「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」
イエスはこれらのことを話してから、立ち去って彼らから身を隠された。このように多くのしるしを彼らの目の前で行われたが、彼らはイエスを信じなかった。


   何故、彼らは多くのしるしを見たのに信じないのか。四二節以下にこうあります。

とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。イエスは叫んで、こう言われた。「わたしを信じる者は、わたしを信じるのではなくて、わたしを遣わされた方を信じるのである。 わたしを見る者は、わたしを遣わされた方を見るのである。わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。

 「誉れ」
「栄光」は同じ言葉です。人からの誉れ、この世の栄光、地位、名声、名誉を求める者は、イエス様を「わたしはある」と宣言できる唯一のお方、神である人の子として信じることが出来ず、その信仰を公に言い表すことは出来ません。この世は闇であり、その闇の中に留まっているからです。闇の中に生きている限り、私たちは自分が何処にいるのか分からないし、どこに行くのかも分からないのです。そして、その結末は、ついに「自分の罪の内に死ぬ」こと以外の何ものでもありません。しかし、その罪と死に支配された闇の世にイエス様が「光」として、「命の光」として来てくださったのです。私たちは幸いにも、この世にある内に、この光の到来を知らされた者です。これは、「恵み」としか言い様がないのです。恵みによって、信仰を与えていただき、私たちはイエス様は神の独り子である信じることが出来、この方を通して神を知ることが出来たのです。肉眼においてイエス様を見ることは出来ないし、その必要もありません。イエス様の言葉を通して神の言葉を聞くことが出来る者は、同時にイエス様を見ているのです。霊において生き、会堂の中で、この礼拝の時に、命の光として臨在し、命の水なる聖霊を豊かに与えてくださるイエス様を見ているのです。その時、私たちは光の中に生かされているのです。
 私は、しばしば感じることだし、また口にすることですけれど、この礼拝堂の外は、この中とは別世界です。本当に不思議だと思います。今も駅の周辺には数え切れない人々が行き交っている。何かを求めてこの街に来て、どこへ行くのかも定まらずに行き交っているのでしょう。私たちもかつてはその一人でした。でも、今、私たちはこの礼拝堂の中にいる。招かれてこの中にいてイエス様の言葉を聞いている。唯そのことのためにここに来ているのです。イエス様の言葉を、つまり、神の言を聞いているのです。私たちが、その言葉を聞き、その言葉を守る限り、私たちはイエス様を見ることが出来るし、イエス様を見ることが出来る者は、決して死ぬことはない、永遠に死を見ることがないのです。しかし、イエス様の厳しい言葉に耳を塞ぎ、また守ることをしなくなれば、イエス様はその身を隠される、見えなくなるのです。そして、私たちは自分の死を見ることになります。光の中から暗闇の中に戻ってしまうからです。

「わたしを信じる者が、だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」

 イエス様の光、それは真昼間なのに真っ暗闇に覆われた十字架の死と三日目の復活を通してもたらされた光です。この十字架の死と復活によって自分の罪は赦され、死が打ち破られたと信じる者、その者こそが、光の子として生きることが出来る者なのです。今日も、主イエスは、この私の言葉を守りなさい、信じなさい、そしてわたしの光の中を、命の中を生きなさい、と語りかけてくださっている。ただ信じ、感謝し、讃美しつつ歩みましょう。
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