「神の業が現れるために」

及川 信

ヨハネによる福音書 9章 1節〜12節

 

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。
近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。


 先週、私たちは主イエスの復活を祝うイースター礼拝を捧げました。そして、その日に二人の方がイエス様を信じる信仰の告白をして洗礼を受けられました。新しい命を与えられ、キリスト者としての歩みを始められたのです。私たちは、そこに神の業が現れたことを見、心からの感謝と讃美を捧げたのです。

 身を隠すイエス

今日からヨハネ福音書の九章に本格的に入って行きます。「本格的に」と言うのは、前回、七章から九章までをまとめて読んだからです。その時の説教題は「身を隠すイエス」というものでした。それは八章の終わりの言葉からとったものですが、そこには、こうありました。

イエスは言われた。「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」すると、ユダヤ人たちは石を取り上げ、イエスに投げつけようとした。しかし、イエスは身を隠して神殿の境内から出て行かれた。

 七章の初めで、ユダヤ人の敵意の中に、人々の目を避け、隠れるようにしてエルサレムの神殿に上っていかれたイエス様は、八章の終わりで、人々の殺意の中に、身を隠して、神殿を出て行かれます。その場合の「身を隠す」とは、群衆の中に身を隠すとか、逃げ隠れることではなく、イエス様の本質が人々の目には全く見えなくなったということなのです。ここでイエス様は「わたしはある」と宣言されました。これは、「わたしは神である」という宣言と同じことです。それは見えない神を信じ、いかなる意味でも人間を神格化せず、偶像を造らないユダヤ人にとっては許し難いことです。しかし、イエス様が神であること、それは事実なのです。けれどその事実が彼らには見えない。それが「身を隠す」という言葉の深い次元における意味です。そして、そのイエス様が神であるという事実が見えないという点では、当時のユダヤ人に限られたことではなく、現代の私たちにおいても同じです。

  現代の犯罪

 もう慣れっこになってしまった感もありますけれど、最近の青年たちが引き起こす事件の数々は、私たちには理解できない面が多々あります。昔は積年の恨みを持つ者がその恨みを晴らすために人を殺すということが多かったのではないでしょうか。しかし、最近は、「誰でもよかった。人を殺してみたくなった・・」そういうことが多い。八人を巻き込んだ死傷事件を起こした青年は、二台持っている片方の携帯電話に「俺は神だ」という言葉を送信し、部屋の壁には「死」という言葉を書き付けていたと言われます。また、駅のホームから見知らぬ人を突き落とした青年は「人を殺せば刑務所に入れると思った。自分の人生を終わらせたいと思ってやった」と言っていると報じられています。これから、いわゆる「動機の解明」というものをするのでしょう。しかし、一人の人間に過ぎない精神科医が数日間のカウンセリングをしたところで、その青年たちの心の中身、その奥底を見ることが出来るのでしょうか。夫を殺してその死体をバラバラにして捨てた事件とか、自分の子どもと近所の子どもを殺した母親の事件でも、裁判の中では、心神耗弱だったとか一時的記憶喪失があったとか色々と言われて、責任能力の有無が争われたりしています。しかし、当人たち自身、自分のやった行為の本当の動機が分かるのかどうか不明ですし、他人が分かるのかどうかも不明だと思います。人間の行為の裏側には幾重にも重なる様々な思いがあるし、意識出来ない層があるものです。そこには深い闇があって、誰にも見えないものがあるのだと思うのです。
 しかし、マスコミでは、家庭環境がどうだった、学校でこんなことがあった、親はどういう人間だ・・・と、表面的な原因探しをします。しかし、そんな程度では、誰も真相は何も分からないし、そういう事件を、つまり人の命を奪うという取り返しのつかない事件を引き起こした人間をどうすることも出来ません。ただ表面的な原因探しをして、結局、何も本質的なことは分からぬままに適当な裁きを与えるだけです。そしてまた新しい事件が起こって、私たちは前のことは忘れていくだけです。そういうことの繰り返しをしているだけ。それが人間の社会、あるいは歴史でしょう。

 何も見えていない私たち

 人を殺すなんて、私には出来ないと思っている人は多いでしょう。しかし、たとえばイエス様に石を投げつけて処刑しようとした人々は庶民です。凶悪犯でも何でもない。精神が病んでいるわけでもない。一般の人間です。でも、そういう人々が、イエス様を殺そうとしたのだし、その殺意はじきに十字架刑の形で実現します。彼らは、イエス様を十字架につけて殺すのです。しかし、そういうことをする普通の人々は、イエス様のことが見えているわけではないのです。その肉体は見えている。けれど、その内実は見えていないのです。何も分からずに、あるいは分からないから殺してしまったのです。
「誰でもよかった、ただ人を殺してみたかった」と言う青年たちもまた、自分が刃物で首を刺す人のことを、また線路に突き落とす人の肉体は見えているでしょう。しかし、その人がどういう人なのかは見えていない。子供を持つ親であり、妻がおり、またその人の親もいる。友人もいる。その人を愛し、その人が愛している人々がいる。その人を掛け替えのない人として愛して生きている人がいる。その人の中には喜びがあり、また悲しみもある。希望があり、絶望もある。そういう人、まさに血も涙も流れる人であり、世界中に二人といない人である。そういうことは見えていない。分かっていないでしょう。そういうことが分かる、見えるためには、その人と深い交わりを持たなければならないからです。人は人との愛の交わりを生きていないと人の命の掛け替えのなさは分からないのです。そして、愛の交わりを深く持ち、相手のことが見える時、そして、相手からも深く見られる時、人は人を殺しはしません。殺すことなど出来ないのです。人はその人のために生きるようになるのです。
 誰でもよい、人を殺したいと思い、それを実行してしまう青年を、しかし、誰かが本当に深く愛し、その青年の内面を見つめ、共に生きてくれたかどうかは分かりません。彼が、自分のことを本当に深く見つめ、理解し、愛してくれると思える家族や友人がいたのか、それは私には分かりません。ただ想像するだけですが、そんなことはなかったのだろうと思います。肉親という家族がいても、友人とか先生とかがいても、深い孤独を抱え、自分が無価値な人間、生きていても仕方のない人間だと感じていることは、いくらでもあります。誰からもその内実は見られず、そして誰のこともその内実を見てはいない。自分も他人も無価値な存在だ、生きている価値などない。そう思っている人間は、実はいくらでもいる。真実に見ることも、見られることもない時、私たちは誰だって、そういう思いを持つようになると思いますし、持ったことだってあるはずです。

 何も出来ない私たち

 私は、渋谷で暮すようになって七年が終わろうとしています。今でもどうしても慣れないことは、ボロボロの服を着て街のあちこちで寝ていたり、掌を見つめながら独り言をぶつぶつと言っている人たちを見ることです。犬の散歩をしていても、買い物に出かけても、いわゆる「ホームレス」と呼ばれる人たちを見ます。そして、それと同時に、彼らのことを見ても見ないようにしている無数の人々を見、そして、その中の一人である自分を見ます。路上で寝ているその一人一人には名前があり、ハイハイやヨチヨチ歩きをした幼少時があったでしょう。親に抱かれて心底安心して眠っていた時期もあったかもしれない。どういう人生を生きてきて、今この渋谷の街の中で寝ているのか、また自分の掌をじっと見つめたまま独り言を言っているのか。近づいてじっくりと話を聞いてみたい。そして、何か出来ることをしたい。何よりもイエス・キリストのことを伝えたい。あのペトロのように、「金銀は私にはありません。イエス・キリストの御名によって立ち上がり歩きなさい」と言って、本当にそうなったらどんなに素晴らしいだろうとも思います。でも、今まで一回もそういうことをしたことがありません。そのことのために、自分が何をしなければならないかを考えてしまうからです。食事を奢って、家に招いて風呂に入れて、服をあげて、そしてそのうち家に泊めてあげて、何時間も何日もその人の心が開け放たれるまで、忍耐強く付き合わなければならない。そして、その挙句、些細なことで恨まれたり、罵倒されたりして、その人は消えていく。元の生活に戻っていく・・・。これまで何度か、金や食べ物や仕事やねぐらを求めて教会を訪ねて来た人々に、自分なりに出来ることをやって来ての苦い経験もあり、充分に忙しい生活の中で「そんなことまで出来ない、しなくてもいい。教会のことで精一杯だ」と自らに言い聞かせています。しかし、もう一つの心では、「あの人だって、神様が命を与えた人だ。そして神様は互いに愛し合いなさいと言っているに違いないんだ」と思う。だけれど、見ても見ないふりをしていつも傍らを通り過ぎるだけです。

 盲人を見るイエスと弟子たち

 九章の書き出しはこういうものです。

「さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。」

 「そして、彼が通る時、彼は見た、人を、生まれてから見えない人を。」
 これが直訳です。すべてはここから始まるのです。イエス様が「見た」ということです。目が見えない人は、今、傍らを通り過ぎている人間たちの中の一人が、自分を見ていることは知りません。目が見えないのですから、知りようがない。でも、イエス様は彼を見ている。でも、イエス様だけが見ていたわけではありません。イエス様と一緒に歩いていた弟子たちも見ていたのです。この盲人は道端で物乞いをしていたのですから、多くの人の目に入ってはいた。見えてはいました。中には幾許かの金を、彼の前におかれている布の上においていった者もいるでしょう。しかし、彼に話しかける人はいないし、彼と関りを持つ人はいないし、彼の内実を見ようとする人はいないし、いたとして誰も見えないのです。
弟子たちは、この惨めな現実の原因探しをします。彼らとは無関係なところで起こっている悲惨な出来事を見て、その当事者を見て、「彼がこうなってしまったのは、親が悪いんですか?それとも本人が悪いんですか?罪を犯したのは誰なんですか?その罪の結果がこういうことになっているんですよね?」と物知り顔のコメンテーターに尋ねているかのようです。その時、弟子たちは、自分が悪い人間だとも罪人だとも思っていない。惨めな人間だとは思っていない。自分が何も見えていない人間だと思っていません。自分のことも人のことも、実は何も見えていない人間だということが見えていない。分かっていない。でも、自分は盲人と同じような、あるいはその両親と同じような罪人ではない、そのことだけは分かっている。いや、分かっているつもりになっている。そういう風に自分を見ているのです。そして、彼らはこの盲人が死ぬまでこのままの状態であることに何の疑いも持っていません。いつかは目が見えないまま、そして物乞いのまま死ぬ。何も変化がないまま老いて死ぬ。そう思っている。
そして、それは誰だって同じです。私たちも、そういう思いをもってこの街を歩き、名前も知らないホームレスと呼ばれる人たちを見て、その傍らを通り過ぎているし、無差別殺人を犯した人、夫や子どもを殺した人が、死刑か、無期懲役刑を受けて、人知れず死ぬんだと思っており、そのことと関るわけでもない。そして、自分はそんな惨めな悪人でも罪人でもないと思っている。そのように自分を見ている。それと同じことです。だから、実はここに登場する盲人は、何も本質は見えていない罪人の象徴でもあるのです。
 でも、弟子たちと同じように、生まれながらの盲人を「見た」イエス様は、こうおっしゃいました。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

 宗教と神の業の違い


 前回、私はこの出来事の全体を一通り語ったので、今日からその内部に入って行きます。恐らく四月の終わりまで掛かるだろうと思います。早速で申し訳けないのですが、来週は一七節の言葉について語るように週報では予告していますが、今日は、三節の「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業が現れるためである」という言葉に集中せざるを得ないので、来週は四節五節の言葉を聴くことに変更させていただきます。
 人間の社会においてはどこでも因果応報の思想があります。罪の結果、災いが起こる。そういう思想です。自分が、あるいは先祖の誰かが、何か悪いことをした。だから、こんな災いが降りかかったのだ。そう考える。だから、災いを起こさせないように、人間は色々なことをしなければならない。百度お参りするとか、多額の寄進をするとか、縁起物を買うとか、とにかく色々なことをして運気をよくさせようとする。それが所謂「宗教」なんでしょう。しかし、聖書に記されていることは、そういうものとは全く異質です。
 神殿から身を隠して出てきたイエス様が、道端に座っている何も見えていない盲人を見る。他の誰も見たことがないような仕方で見る。そこから、すべてが始まるのです。盲人が何かをやったわけでありません。叫んだわけでも、イエス様の方に向かって進んで行ったわけでも、お金を渡して頼んだわけでもありません。彼は何もしないで座っていただけです。でも、イエス様が通りすがりに彼を「見た。」ここから神の業が現れていくのです。

    新しい人間の創造

イエス様は、「地面に唾をし、唾で土をこねて、その人の目にお塗りに」になりました。私たちも小さい頃、擦り傷なんて舐めて治してしまうことはよくありました。唾に一種の治癒力があることは昔から知られていることです。しかし、ここでのより本質的な問題は、「唾で土をこねた」ということにあるように思います。ここでイエス様は新しい人間を創造しているのです。この日が安息日であったことは一四節に出てきます。神様の創造と救済の御業を思い起こし、その神様との豊かな愛の交わりに身を委ね、新たな一週間に向かって歩み出すために神様が定めて下さった安息日に、主イエスは、生まれながらの盲人、生まれながらの罪人の一人を、今、新しい人間に造り替えようとしておられるのです。
 最初の人間アダム、神様は彼を地下から湧き出ている水と土の塵で形づくられました。神様が水を含んだ土をこねて人間を造った。そのことの意味は深いのですが、今、そのことを語る時間はありません。イエス様が今、唾と土で泥を作り、それを彼の目に塗った。それは、彼の目が見えるようにするためでした。それまでの彼を知る人には、まるで別人に見えるような人間に造り替えることなのです。盲人が頼んだわけでも何でもありません。一方的に主イエスが彼を見たのです。そして、近づいて行って、唾で土をこねて、彼の目に塗ったのです。
 しかし、その後、彼がやるべきことがありました。それはイエス様の命令に従うことです。イエス様は、こう命ぜられました。

「シロアムの池に行って洗いなさい。」

 ヨハネ福音書は、シロアムとは「遣わされた者」という意味だと、わざわざ書いています。そして、これまでに何度もイエス様ご自身が、「わたしは神から遣わされた者だ」と言ってこられたことを私たちは知っています。そして、洗礼はまさに水で洗い清めることです。そして、この福音書では「水」はしばしば「聖霊」の象徴です。
彼は、イエス様に言われた通りに、シロアムの池の水で洗いました。聖霊を受けたと言ってもよいかもしれません。すると目が見えるようになって、元いた場所に帰ってきました。しかし、その時既にイエス様はそこにはいませんでした。見えなくなっていたのです。この時から、イエス様も弟子たちも不在のまま物語は続きます。
彼が再びイエス様に出会う、イエス様を見るのは三五節です。それまでの過程を今ここでお話しする時間はもうありません。それはこれから何度も語り直しながら、次第に全貌が見えてきて、またより深い次元が見えてくることを期待していますけれど、それはとにかく、肉眼が見えるようになった彼は、ファリサイ派の人々からの詰問を通して、次第にイエス様が誰であるかが分かってくるのです。そして、最後に、彼はイエス様のことを「神のもとから来られた」方であると明言するようになる。「神のもとから来られたのでなければ、何もお出来にならなかったはずです」と宗教的権威者であり、イエス様を殺したいと願っているファリサイ派の人々の前で告白するのです。すると彼らはこう答えました。「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか。」そして、「彼を外に追い出した。」イエス様を、石をもって神がいます神殿から追い出したように、神を知っていると自負している宗教家たちは、イエス様を神が遣わした人物だと告白する人間を、ユダヤ人社会、神の民の社会から追放したのです。

イエス・キリストとの出会い

しかし、その時に彼は再びイエス様に会う、しかし、全く新しい形で会うことになります。三五節以下を読みます。

イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。

   自分は罪の中に生まれたわけでもなく、罪の中に生きているわけでもない。自分は見えていると自覚し自負する宗教家たちが、神殿、つまり、神を礼拝する場の主人であり、神の民の中枢を占めているのです。その彼らが神の代理人のように、イエス様を神殿から追い出し、そして目が見えるようになり、イエス様は神から遣わされた者であることが分かってきた人をユダヤ人社会から追放する。そのことを聞いたイエス様は、彼に出会うのです。原文のギリシャ語では、先ほどの「見る」とは違う言葉が使われています。「通りすがりに生まれつき目が見えない人を見かけられた」の方は、いわゆる「見る」という言葉ですが、この「出会う」は「発見する」という意味であり、さらにそれは「獲得する」という意味を持ちます。ヨハネ福音書で最初に出てくるのは、一章です。そこは、アンデレがイエス様と一晩を共に過ごした翌日に「私たちはメシアに出会った」と兄弟のシモン・ペトロに告げる所であり、その直後に、イエス様はフィリポに「出会って、『わたしに従いなさい』」と命ぜられる所です。
 主イエスがメシア(救い主)であることを発見する。また、主イエスが弟子となるべき者を発見する。獲得する。そういう時に、この言葉は使われます。主イエスは新たに出会った彼ににこう問われます。

「あなたは人の子を信じるか。」

「人の子」とは、この場合、救い主と同じことです。神から遣わされ、罪の中にいて何も見えなかった人間を救う。つまり、神を見ることが出来る人間、神との交わりを生きることが出来る人間に、そして人としての限界の中であっても、人を人として見ることが出来、愛し合える人間に造り替えてくださる存在です。そして、それは罪の赦しと永遠の命を与えてくださるお方ということでもあります。
 彼は答えます。

「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」


 「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

 英訳聖書の中には、Bothという言葉が使われているものがいくつかあります。「その人と共に、あなたと話している人がそれであることを見ている。」そういう感じになると思います。原文の意味は、そちらの方が汲み取っているように思えます。つまり、「あなたは肉眼でイエスという名の一人の人間を見ている。しかし、そのイエスという人間は、罪人を救おうとしてこの世に来て、罪人に語りかけている人の子である。その両方をあなたは見ているのだ。見えるようになったのだ。」イエス様はそうおっしゃっているのではないか、と私は思う。

彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

 罪の中に生まれ、罪人として生きてきた盲人、文字通り、何も見えなかった者を、主イエスが見た時から始まった神の業は、ついに、ここに至ります。そして、盲人を罪人と断じて彼らの目の前から追放してしまう、つまり見えない所に追いやって、「後は野垂れ死にでもすればいい」と思っている人々は、主イエスによれば「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と言われてしまうのです。彼らは肉眼で見えるイエス様の本質は何も見えていないからです。また、生まれながらの盲人の本質を何も見えていないからです。でも、自分たちは「見える」と思っている。イエス様によれば、この盲人は、神の業が現れるべき一人の人間です。そのように見えるのです。しかし、そのようにこの人を見る人はいないし、自分をそのように見える人もいない。
 私たちだって同じです。誰も殺人者が救われるなんて思わないし、見えないところで隔離され、知らないうちに死んで欲しいと思っていますし、街中で寝ている人々が今後どうなるかなんて考えませんし、考えたところで何もしないし、出来るわけでもない。犯罪者は皆、罪の中に生まれ、その結果こうなり、そのうち罪の中に死んでしまう。そう思い込んでいる。思い込もうとしている。自分も本質的には同じ人間であるという事実は見えないままに。
 しかし、イエス様には、どんな人も、取り返しのつかない犯罪を犯してしまった人も、ボロボロの服を着て街で寝ている人も、その傍らを見てみぬふりをしながら通り過ぎる人々も、皆同じに見えるのではないでしょうか。神の業が現れるべき罪人、何も見えていない罪人、救われるべき罪人に見えるのではないか。そして、その罪人である私たちが全く気がついていない時も、実は私たちのことを通りすがりに見ておられるのかもしれません。何も見えない人間も、見えると思って見えていない人間も、イエス様にとっては神の業が現れるべき人間なのです。
 神の業が現れる。この「現れる」という言葉はヨハネ福音書で九回使われます。最初はバプテスマのヨハネがイエス様について「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」という所です。次は、イエス様が結婚の祝いの席で水をぶどう酒に変えるところ、「栄光を現し」「弟子たちは信じた」と出てきます。そしてこの福音書の最後二一章に三回出てきます。そこは、十字架で血を流して(その血がぶどう酒の意味でしたけれど)死んで、復活されたイエス様が「弟子たちにご自身を現された」三度目の出来事が記されているところです。詳細を語ることは出来ませんが、この「現れる」という言葉は、基本的に弟子との関係の中で出てくる言葉なのです。
主イエスの弟子とは、キリスト者のことです。キリストに出会い、キリストに獲得されたキリストの者のことです。そして、それは水で現れ、十字架の血によって清められた罪人であり、復活の主イエスとの交わりを生きる新しい命を与えられた者たちです。神の業、それは主イエスに見られ、主イエスを見る出会いを通して、罪人たちが一人また一人と主イエス・キリストに獲得されていく、そして、キリストに従って生きる者に新たに生まれ変わることです。だから、かつての彼を知っている人は、同じ人間なのかと疑うほどに彼は変わったのです。人からの恵みを求めて物乞いをしていた彼は、主イエスを通して神から恵みを与えられることによって、人間社会からは追放されたけれど、神の世界には受け入れられたのです。そして、跪いて主イエス・キリストを礼拝する人間として生まれ変わったのです。そして、主イエス・キリストとの愛の交わりの中に永遠に生きる者とされた。それが主イエス・キリストが現してくださった神の業です。
その神の業は、今日、今、この礼拝堂でも行われていることです。ここに集まっている私たちの多くは、心のどこかで「その方を信じたいのですが」という思いがある人間だと思います。しかし、その思い自体、主イエスが私たちを見てくださり、近寄ってきて、語りかけ、手で触れてくださったからこそ与えられた思いです。そういう思いを持っている私たちに、主イエスはこう言われる。
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
 私たちは、この時の盲人のように肉眼で主イエスを見ることはありません。もしそんなことがあったら、今、礼拝をささげている世界中の教会には主イエスはいないことになります。だから、主イエスを肉眼で見ることはない。でも、聖霊の導きを与えられている者は、その聖霊を受け入れる者は、今ここで目に見える形で語りかけているのは牧師という職務を与えられている一人の人間であったとしても、実は私たちの罪の贖いのために十字架にかかって死に、甦られた主イエスであることが分かるはずです。主イエスは、今日、今、この礼拝において、私たちを見つめつつ、「あなたは人の子を信じるか」と語りかけているのです。私たちの答えは、どういうものなのでしょうか。「主よ、信じます」と告白できる者は幸いです。その人は、本当のことが見えるようになったからです。そこに神の業が現れているのですから。その人は、幸いです。

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