「日のあるうちに神の業を行わねばならない U」

及川 信

ヨハネによる福音書 9章 1節〜12節

 

さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」
こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。

牧師の仕事 共になす神の業


今日は、「まだ日のあるうちに」とか「夜が来る」とか「世にいる間」という「時」を現す言葉は何を意味しているのかということに関してです。
 先週の日曜日の夕方、夕礼拝が始まる直前に、会員のHさんが召されたことをご長男からの電話で知らされました。必ずしも私事ではなく教会の事柄だと思いますから、少し「牧師の仕事」に関して語ります。牧師の仕事は何かについては、いくつもの書物がありますし、語りだしたら切りがありません。しかし、とにかく「説教をする人間」であることに変わりはありません。日曜日の礼拝で説教をする。そして、葬式で説教をする。結婚式でも説教をする。昨日もありましたけれど、埋骨式でも説教をする。学校の礼拝、入学式、卒業礼拝などでも説教をする。とにかく説教をすることが仕事の中心だと、私は考えています。生きていれば必ず七日ごとにやって来る日曜日まで、どういう時間配分で過ごすかが毎週の課題です。自分が遣わされている教会での説教は、共に聖書を読む信徒の方たちと神の言に耳を傾けるということが中心ですから、牧師が普段から学びをして備えていることは当然ですが、皆さんも婦人会や信友会など様々な機会の学びをすることもまた説教への備えですし、自ら学びつつ、説教を通して神の言を聴く訓練をしていなければ説教は深まって行きません。説教は、語る側の深さと聴く側の深さがあり、そこに聖霊の導きがある時に、無から有を造り出す神の言となるからです。そういう準備をした牧師と信徒が共に集う礼拝は自ずとある秩序が生まれてくるはずです。遅刻者が何人もいたり、礼拝前にざわついているということはあり得ないと思います。
 葬儀もまた礼拝であり、牧師はそこで説教をします。先日の葬儀にも、Hさんを直接にはご存じない方も何人も出席くださって、そのことが中渋谷教会の葬儀、葬儀礼拝を皆で作り上げ、捧げていく上でとても大事な要素です。私は、基本的にはご遺族や参列くださっている方たちに向かって語っているのですが、その参列者の中に中渋谷教会の皆さんがいて下さることが、心の大きな支えです。教会を代表して福音を語っているという意識があるからです。
葬儀における説教に関しては、これまで葬儀にご出席くださった方ならお分かりだと思いますが、牧師と召された方が、まだ生きておられた時に、どういう交わりを持っているかが決定的に大事なことです。いわゆる冠婚葬祭の司式を生業とする人は、誰が結婚しようが、誰が死のうが、同じ言葉を厳かに告げることが仕事となるということがあるかもしれません。しかし、私はそういうことを仕事としているのではなく、一人一人と御言を分かち合う、主イエス・キリストを分かち合って生きることを専らの仕事としています。分かち合うためには伝えなければなりませんが、既に信仰を与えられている方たちとは絶えず新たにキリストを、その愛と命を分かち合うことが務めです。しかし、現実には、これだけの規模の教会になれば、毎週の礼拝に来られない方も多くおり、来られていても、一対一でじっくりと御言を、キリストを分かち合う時を持つことが思うようにはできません。礼拝で分かち合う以外には、ほとんど機会がありません。しかし、何年も礼拝に来られない方、また教会のことなどすっかり忘れてしまっているのかと思われる方、地方に在住しておられる方、様々な人がこの教会の囲いの中の羊として、牧師を初め長老会が責任を持つべき羊、イエス・キリストが飼い主である羊としています。その一人一人は、イエス・キリストから命の糧を頂かなければ、少なくともキリスト者としては生きていけない羊なのです。私もその一人です。しかし、その一人でありつつ、やはり牧師として、イエス・キリストから遣わされた者として、命の糧である御言と聖餐を礼拝に来られない方にお持ちしなければならない。けれど、実際にはあっと言う間に日曜日は来ますし、その準備のために時間を使いますし、諸集会がありその他様々なことがありますから、現実には、非常に不十分なことしか出来ません。そんな日々を過ごしている間に、まだお会いしたこともない方、まだきちんとキリストを分かち合っていない方のご親族から、「先ほど、母が亡くなりました」「父が」「夫が」「妻が」と電話が掛かってくるかもしれない。その時、自分は何を語ることが出来るんだ。そういう恐怖がいつもあります。教会の方々には、亡くなってからではなく、入院したり、具合が悪くなったりした時には、牧師に連絡するようにお願いをしていますが、ご家族の方はそんなことは知らないケースがほとんどでしょう。

生きている時に出来ること

もちろん、私自身もまたいつ何時どうなるか分からない。いつまでも人は生きているわけではないし、私もいつまでもこの教会の牧師でいるわけでもない。様々な意味で時間は限られているのです。お互いが生きている間に、そして、私がこの教会の牧師である間に、この教会のすべての方と、ちゃんとキリストを分かち合いたいと願いつつ七年が経ってしまいました。七年前の着任早々にまずやった仕事は、愛唱聖句、愛唱讃美歌、自分の信仰について書いて頂く書類を作成してお渡ししたことです。しかし、皆が皆書いてくださっているわけではないし、ある意味、必要な人ほど、つまり、もう何年どころか十年二十年と教会生活から離れている人からは、何の連絡もありません。どうやってお会いするきっかけを作ったらよいか分からない方もいて、ひたすら困惑しています。もし、今亡くなるようなことがあったら、何を語ればよいのか、御言を語ることが出来るのか、そういう不安があります。いつも何か切迫感があります。小さな教会なら、一〜二年で教会員の家は全部訪問できますし、深い交わりを持つことが出来て、ある意味では牧師も会員もいつでも葬儀の備えをしつつ生きることが出来ます。神の業はイエス様だけがやるのではなく、イエス様と信仰によって結ばれる弟子たちが共にするように、礼拝の備え、説教の備え、そして葬儀という礼拝の備え、結婚式という礼拝の備えもまた、牧師だけでするものではありません。牧師と信徒が、また結婚式を教会で挙げたいと願う者たちが、共にやることだと私は思っています。確実にやって来る日曜日に備え、確実にやって来る結婚の日に備え、そしていつか分からないけれども確実にやって来る死の日に備えて、牧師も信徒も日々を生きていないと、その時が突然やってきた時に、神の業としての礼拝を捧げ、神の言を語る説教は出来ません。そして、備えるということは、生きている間に出来ることであって、死んでから出来ることではありません。

時の切迫の中で

 主イエスが、今日の箇所の言葉を語られた時、それは主イエスが十字架に磔にされる半年前ではないかと思います。八章までは秋の祭りである仮庵の祭りが舞台ですし、この先に冬に祝われる神殿奉献祭があり、そして翌年の春に祝われる過越の祭りの中で、主イエスは殺されるからです。そして、既に七章八章ではユダヤ教当局者たちの主イエスへの敵意は殺意にまでなっていることがはっきりと示されているからです。主イエスは、もうユダヤ人の中では生きてはいけない。そのことをご存知でした。「だれも働くことが出来ない夜」は近いのです。時の切迫が、ここにはあります。日のある内に、世にいる間に、やっておかねばならぬことがあるのです。
 私は、先日のHさんの前夜式では、旧約聖書の「コヘレトの書」の言葉を読みました。そこには、こうあります。

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。苦しみの日々が来ないうちに。「年を重ねることに喜びはない」と言う年齢にならないうちに。太陽が闇に変わらないうちに。月や星の光がうせないうちに。雨の後にまた雲が戻って来ないうちに。

   これは、口語訳聖書の「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」の方が、私は好きですが、人はいつまでも若いわけではありません。最近のコマーシャルで、「ゲームをしていたらいつの間にか朝になっていたという子どもが多い。そして、ゲームをしていたらいつの間にか大人になっていた」という言葉が流れて、だから野球をしようとか、バスケットをしようとか言って雑誌を売ろうとするものがありますけれど、これはやはり身につまされる感じがします。まだ子どもだから、若いから、「人生は長い」と言いつつ、気がついたら「わたしには何の楽しみもない」と呻かざるを得ない高齢者になってしまっている場合がありますし、高齢者になる前に病気や事故などで死んでしまうことだってあります。それが私たちの現実なのです。「自分の命、自分でどう生きようが自分次第」と思っていても、それは思っているというだけのことで、現実には、命は自分のものではありません。いつ生まれるのかなど知りようがありませんし、いつどのように死ぬのかも知りようがないし、知らない方がよいでしょう。そういう現実の中を、私たちは、しかし、そういう現実を見ないように生きている。見たくても見れないのです。そういう意味で、私たちは誰もが盲人なのです。そして、命をこれからも与えてくださいと願うしかない物乞い、乞食なのです。その現実をしっかりと見つめる。そこからしか、次の一歩は踏み出せないと思います。そして、主イエスの今日の言葉は、その一歩を踏み出させるための言葉のように思うのです。

 命短し 恋せよ乙女

 私はこの一週間、ずっとある映画のことを思い出していました。私よりも年代の上の方の中には映画館でご覧になった方もいるかもしれません。黒澤明監督の『生きる』という映画です。私は高校生時代に、それこそ四回も五回も見た映画です。それは定年間近の市役所の市民課長の話です。彼は末期の胃がんなのです。来る日も来る日も、公僕としての使命感などまったくないままに、ただ事勿れ主義で、目の前の書類にハンコを押すだけ、そして仕事を他の部署に回しているだけの生活をしていた彼は、このまま死んでしまうということに、物凄い恐怖を抱きます。死が怖いというよりも、このまま生きていることが怖い、生きているという実感すら持てないまま生きていることが怖く、空しい。自分の生涯は、全くの無意味なものでしかない。そう思いつつ、どうすることも出来ない自分を抱えて、彼は伝道の書に出てくる人物のように、快楽を求めて夜の巷を彷徨ったりするのですが、何をしてもその空しさが消えない。そして、ある時、目の前に山積みされている書類に目を止め、貧しい地域に一つの小さな公園を造るという仕事に猛然と取り掛かります。そこには、多くの障害があり、様々な妨害工作もあるのですけれど、彼はまさに命をかけて、その仕事に取り組みます。その姿は、それまでの彼を知るすべての人々が、そして彼が胃癌であることを知らないすべての人々が茫然とするほど凄まじいものなのです。そして、ついに一つの小さな公園が出来上がる。実はそこから、その映画の見所が始まるのですけれども、それはとにかくとして、映画の最後の方で、雪の降るある夜に、彼がその小さな公園のブランコに乗って実に嬉しそうにゴンドラの歌を歌うシーンがあります。

命短し 恋せよ乙女
赤き唇 あせぬまに
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日の ないものを

命短し 恋せよ乙女
黒髪の色あせぬ間に
心の炎消えぬ間に
今日は再び来ぬものを

 このシーンは、まだ高校生だった頃から、私の心に深く刻まれているものです。人間はいつ死ぬか分からない。あるきっかけを通して、何のために生きているのかすらまだ分からないままに死ぬなんて絶対に嫌だと思っていた頃ですから、尚更心に沁みたのだと思います。
 先週の日曜日に召されたHさんは、ご両親がクリスチャンで、特に母上の君子さんは中渋谷教会で長老を勤める熱心な方でした。その母上の影響の下に育ったHさんは今から八〇年前の昭和三年に洗礼を受けられました。まだ赤き唇、黒髪の豊かな一四歳の乙女の頃です。それから数々の苦難を経験されました。そして、教会から離れた時期もあります。しかし、信仰五十年を祝う記念の聖書を教会から贈られてから、再び、教会に心も体も向き始め、その晩年まで教会生活を続けられた方です。私はまことに不十分な関わりしか持てませんでしたが、同居されているご長男のご自宅、病院、ホームに年に三回程度ですがお訪ねをして、お話を伺い、また御言を読み、短いメッセージを語り、祈ることが出来たことは、本当に幸いなことでした。そして、Hさんの重たい口から出てくることは、「はやくお母さんのいる所に行きたい」ということでした。そして、私が天に輝く星を見ながら、「あの星を造った神様が、今、ここでベッドに寝ているHさんのことを顧みて下さるんです。覚えていて下さるんですよ」と言った時、「すごいことだね。私は幸せです」とおっしゃいました。そして、母上が信仰を伝えてくださったことに涙ながらに感謝し、神様の愛を縋るように信じて、早くお母さんのいる所、つまり、イエス様が迎えに来て、連れて行って下さるところに行きたいとおっしゃったのです。これは「もう生きているのが嫌だから、何の楽しみもないから、早く死んでしまいたい」という意味ではなくて、この世の生が終わった時に、御国で生きることが出来るという希望の言葉なのです。

 時と永遠

 コヘレトの言葉の中には、こういうものがあります。これも口語訳で読みます。

何事にも時があり/天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時/植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時/破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時/嘆く時、踊る時
・・・・・
愛する時、憎む時/戦いの時、平和の時。
人が労苦してみたところで何になろう。
わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた。
神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。
 私たち人間には永遠を思う心が与えられています。でも、永遠の御業を初めから終わりまで見極めることは出来ません。そして、自分の人生の初めも終わりについて、その時がいつか、そしてそれはどんな状況なのか見極めることなど出来ないのです。ただ、信じることだけが出来るのです。いつどんな時にも、主が共にいて下さるということを、信じることが出来る。

 ねばならない

 主イエスは、こうおっしゃっています。

「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のある内に行わねばならない。だれも働くことの出来ない夜が来る。わたしは世にいる間、世の光である。」  「ねばならない」という言葉、これは聖書においてはとっても大事な言葉です。ギリシャ語ではデイと言いますが、これは神様のご計画を表す言葉なのです。そのことを示す箇所はいくつもありますけれど、今日の箇所との関連で是非とも挙げておかねばならないのは、これまでもしばしば引用してきた一二章の二〇節以下の言葉です。イエス様がご自身の死の時が来たことを明確にお語りになっている箇所です。少し飛ばしながら読みます。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」
「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」
イエスは、ご自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。すると、群衆が言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられねばならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」
イエスは言われた。「光は、今しばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。光の子となるために、光あるうちに、光を信じなさい。」

 「人の子は上げられねばならない」
と出てきます。これがデイです。
そして、二〇章の九節にはこうあります。ここはイエス様が葬られた墓が空であることを見たペトロともう一人の弟子たちの姿を描くところですけれど、こうあります。

「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」

 この「必ず・・なっている」と訳された言葉、それがデイです。つまり、主イエスが「上げられる」とは十字架に上げられるということであり、またそれは同時に死人の中から上げられ、天に上げられるということです。そして、それは神様が定めたご計画であり、必ず実現することである。そういう意味が、このデイという言葉にはあります。
 主イエスは、この業をしなければならない。すべての罪人をご自身のもとへ「引き寄せる」ためにです。何も見えていない人間、自分がどこから来て、どこへ行くのかも知らぬままに、この世の闇の中をただ生きている人間を、ご自身と父なる神様との愛の交わりの中に、肉体の死を越えた永遠の愛の交わりの中に引き寄せるために、肉が裂かれ、血を流して死ぬあの十字架に向かっていかねばならない。それが、主イエスが地上を生きるということなのです。そのために主イエスは肉体を取り、そして、地上を歩まれたのです。人々の目には隠された形で。

 主イエスがなさる神の業

 主イエスは、何も見えずに、死の闇の中に引き寄せられていく罪人を、一人また一人とご自身の命の光の中に引き寄せるという神の業をなしておられるのです。そのために見えない目を見えるようにして下さっている。九章の出来事は、そのことを示しているのではないでしょうか。しかし、その御業はある意味ではもう終わりました。主イエスの十字架の死は歴史上一回だけのことですから。主イエスは、もう肉体をもってこの地上を生きているわけではありません。私たちは目に見える形で、土に唾をして泥を作り、盲人の目に塗って目を開けるという主イエスの業を見ることはありませんし、そのように泥を目に塗られることもありません。しかし、主イエスは、十字架の死の後に復活して、天に上げられ、そしてそこから御霊を降して「わたしたち」の目を開け、主イエスが今も生きておられることを信じる信仰を与えてくださいました。今、主イエスは私たちを通してその御業を継続しておられるのです。私たちを、その御業の中に招いてくださっている。私たちを遣わしてくださっている。主の御業を行う者として。私たちは、その業を、日のある内にしか行えません。夜が来たら、もう何も行えないのです。生きている今しか、私たちは、主が生きておられること、私たちの目を開いてくださること、自分の罪を見させ、そしてその罪の赦しのために主が十字架に掛かって死に、復活し、天に上げられ、そして聖霊において共に生きて下さり、時が来れば、天の住まいに迎え入れてくださるという現実を見させてくださることを証しするのは、生きている今この時なのです。

 主イエスと共なる神の業

 私は、その現実を信じる信仰者の証しを葬儀で語ることが務めです。十字架と復活の主イエスが、何も見えなかった罪人の罪を赦し、永遠の命を与えて下さったこと、御国に招きいれて下さったという事実を語ることが牧師である私の務めなのです。そして、それが私が生きている今、牧師であるこの時になすべき神の業なのだと思います。そして、教会の皆さんが、Hさんを知っている知っていないに関らず、その葬儀の礼拝に集い、共に主イエスの栄光を讃美しつつご遺族の上に慰めを祈ること。これもまた私たちが生きている時に為し得る神の業の一つです。私たちが神から遣わされた方を信じること。イエス様がメシア、人の子、神の独り子であると信じること。その信仰を証しすること。そのこと自体が今生きている時に出来る、日のある内にしなければならない神の業なのです。そして、そのことが、私たちの救いに繋がる。
 私が葬儀の時に必ずと言って良いほどに冒頭に読む言葉は、ヨハネの黙示録の言葉です。

また、わたしは天からこう告げる声を聞いた。「書き記せ。『今から後、主に結ばれて死ぬ人は幸いである』と。」霊も言う。「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるからである。」

 「その行い」。それは信仰に生きたということです。善行を積んだということではない。社会的に立派な功績を残したということでもない。自分を造ってくださった神が、独り子を通して、この小さな自分、罪深い自分を担い、背負い、救い出してくださることを信じて生きることです。その信仰に生きた人の死は永遠の安らぎに入る死であるが故に幸いなのです。
 そして、私がご遺体を火葬する前に読む御言もまたヨハネ黙示録の言葉です。
「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。・・・「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」すると、玉座に座っておられる方が、「見よ、わたしは万物を新しくする」と言い、また、「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」と言われた。」

 これは主の言葉です。必ず実現する言葉です。実現せねばならない言葉です。信頼すべき真実な言葉です。いつ、どのようにして実現するのか。私たちには分かりません。ただこれが私たちのために死に、甦り、御体は天にあり、霊において私たちと共に生き給う主の言葉であるが故に、信じることが出来ます。信じることが出来る時、私たちは、主の言葉を聴き、そしてはるかに新しい天と地を見て、讃美することができる。そういう耳と目を与えられる。何と幸いなことでしょうか。私たちは、信頼でき、真実な言葉を聴く耳とその実現を見る目を与えられています。あとは、聴いたこと、見たことを証しする。生きている今、世にある間に、日のある内に光を信じて、光の子として証しの生涯を歩くだけなのです。なんと幸いなことかと思います。闇の中に埋没することしか出来なかったのに、今や恵みによって世の光なる主イエスを見、その言葉を聴きながら生き、そのことが主の光を、命の光を証しすることになるのですから、こんな幸いなことはありません。<
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