「その人はどこにいるのか」
さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。イエスが土をこねてその目を開けられたのは、安息日のことであった。そこで、ファリサイ派の人々も、どうして見えるようになったのかと尋ねた。彼は言った。「あの方が、わたしの目にこねた土を塗りました。そして、わたしが洗うと、見えるようになったのです。」ファリサイ派の人々の中には、「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者もいれば、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言う者もいた。こうして、彼らの間で意見が分かれた。そこで、人々は盲人であった人に再び言った。「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」彼は「あの方は預言者です」と言った。 九章に入って四回目の説教となります。今日は主に一二節と一七節に焦点を当てつつ、ここで何が起こっているのかについて目を凝らし、耳を澄ませていきたいと思います。 八章の終わりで、イエス様が神殿の中で宣言した言葉はこういうものです。 「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある。』」 これは「わたしは神だ」という宣言です。肉体をもった人間を神とすることは、聖書の信仰においては絶対にあり得ないことであり、それは最も忌むべき偶像礼拝ですし、自分が神であることを自ら宣言するということは自分が礼拝されるべき存在だと宣言することであり、ユダヤ人が許すことが出来ない言動であることは言うまでもありません。彼らは、「石を取り上げてイエスに投げつけようとした」のです。つまり、石打によって処刑しようとしたのです。イエス様は「身を隠して、神殿の境内から出て行かれ」ました。つまり、彼らの目には見えなくなった。九章に記されている事柄は、「見えない」ことと「見えること」に関連することは言うまでもありません。それもここに登場するのは「生まれつき目の見えない人」です。 生まれつき目が見えない人間 私たちの教会で洗礼式が執行される時に読まれる序文は、こういう書き出しです。 「私たち人間は、罪の中に生まれ、肉に属するものでありますから、そのままでは神の御心にかなうことは出来ません。思いや言葉や行いによって神に背いているものであります。」 自分は罪の中に生まれている罪人である。その事実を承認すること、それが洗礼を受けるための大前提です。そして、その罪の中に生きていることを、旧約聖書ではしばしば目が見えないこと、耳が聴こえないことに譬えます。肉眼は見えている、しかし、見えない神を見ることが出来ない。鼓膜では聴き取り、頭では理解している。しかし、神の言の本質を受け取ることができない。そういう状態のことを「罪」と言うのです。アダムの堕罪以後の人間は、そういう意味で、生まれながらに罪の中に生きているのです。そのことに例外がありません。 だから、序文はこう続くのです。 「そこで救い主イエス・キリストは、『だれでも、水と霊とから生まれなければ、神の国に入ることは出来ない』と言って、罪の赦しと新しい命とを与えるためにバプテスマの聖礼典を制定されました。」 九章で登場する生まれながらの盲人は、当時のこことして、道端で物乞いをするしかなかった人でもあります。しかし、この状態もまた、私たち罪人を象徴するものであることは言うまでもありません。私たちは新しい命を自ら創造することは出来ず、ただ神様の恵みと憐れみによって与えていただくしかないものなのです。私たちは、その恵みと憐れみを乞い求めるだけの存在です。しかし、誰に乞い求めてよいのかすら分からない。何故なら、この生まれながらの盲人は、目の前に誰がいるのかも見えないし、肉眼で見えていたとしても、それが罪の赦しと新しい命を与えてくださる方であることが見えるとは限らないのですから。「通りすがりに」イエス様が彼を「見かけられた」、「見た」ということ。すべては、そこから始まります。 誰が盲人を見、何をしたか、そこに何が起こったか 問題は、誰が盲人、罪人を見たかであり、そして、盲人が誰を見るか、です。弟子たちが、盲人を幾ら見たところで、何も新しいことは始まりません。彼らは、罪の原因探しを無責任にするだけなのです。「イエス様」が盲人を見たことがすべての始まりです。「世の光」であるイエス様によって神の業が始められるのは、その時からです。 イエス様は彼に近寄り、地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになりました。そして、「シロアムの池に行って洗いなさい」とおっしゃった。土とかシロアムの池については、既に語ってきましたので、今日は繰り返しません。今日の問題は、イエス様が命令し、その命令に彼が従ったということです。 聖書の中で、最初に出てくる神の言、それは「光あれ」という命令の言葉です。「光あれ」。この言葉の意味は深いのです。光がなければ何も見えないのだし、光がなければ地球上に命はありません。すべての命は光によって生かされているのです。そして、光は闇の中で輝いているものです。死の中で命は息づいている。しかし、罪とは、その光が見えないことであり、命を失っていることです。そして、救いとは光が見えるようになること、そして新しい命を生きることに他なりません。 イエス様が盲人に命令する。遣わされた者を意味する池に行って洗いなさい、と。これは教会における水と霊による洗礼を象徴する言葉です。「罪の赦しと新しい命を与えられる洗礼を受けなさい」とイエス様はおっしゃっている。もちろん、それは十字架と復活以後、目に見えない形で神の業をしておられるイエス様の言葉として、今日、ここに集められ、また遣わされようとしている私たちは聴き取るべき言葉です。この盲人は、イエス様の命令に従いました。すると「目が見えるようになった」 のです。「光あれ」と神様が命じられると「光があった」ように、です。彼は、この時に罪の赦しと新しい命を与えられました。その姿は、「彼が物乞いであったのを前に見ていた人々」には、同じ人には見えないようなものでした。「『その人だ』と言う者もいれば、『いや違う。似ているだけだ』と言う者もいた」のです。 イエス様がやって来る。その時は、必ず、分裂が起こります。光が差し込んでくれば闇が闇として見えてきますし、次週発行される会報の巻頭言に記したことですが、両刃の剣のような御言がやってくれば、体は引き裂かれます。この分裂は、一六節以下で「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」と言う者と、「どうして罪のある人間が、こんなしるしを行うことが出来るだろうか」と言う者との分裂となっていきます。つまり、問題は、闇の中に光をもたらしたのは誰か、死の中に命をもたらしたのは誰かなのです。 目が開かれた盲人は答えます。 「わたしがそうなのです。」 原語では、ホティ エゴ エイミです。英語では、I am the one.です。面白いことに、イエス様が「わたしはある」と仰った言葉は「エゴ エイミ」、I am.です。これはイエス様の神宣言を表す独特な表現であり、この盲人の言葉はそんな意味ではありません。でも、ここには一つの宣言がある。それは間違いありません。この宣言を聞いて、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と人々は問いかけます。彼らが問題としているのは、「どのようにして」です。これも確かに一つの問題です。「土をこねる」というのは、アダムを創造した時の神の業を髣髴とさせることですし、「水で洗う」とは洗礼を思い浮かべさせることだからです。しかし、問題は、「どのようにして」よりもむしろ、「誰が」なのです。誰が土をこねたのか、誰が水で洗えと命令したのか、です。 彼は答えます。 「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」 彼は、真っ先に「イエスという方が」と言います。厳密に言うと「イエスと呼ばれる一人の人が」という ことになります。土をこねたりしていた時に、周りにいた弟子が、イエス様のことを呼んだのかもしれませんが、彼の耳に「イエス」という名前だけが残ったのです。そして、イエスと呼ばれる人が、自分に何をしてくださり、何を命令したか、そして、自分がその命令に従った。ただそのことを告げています。つまり、自分にとっての事実を告げたのです。しかし、彼はまだ「その人がどこにいるのか」は知らないのです。 どこにいるのか ここにヨハネ福音書の世界があると思います。この福音書では「どこ」という場所を表す言葉がとても大切なのです。そのことは一章で既に端的に現れています。それは、イエス様の最初の弟子が出来る場面ですが、バプテスマのヨハネが二人の弟子と一緒にいる時に、イエス様が歩いている姿を見たのです。ヨハネは弟子たちに向かって「見よ、神の小羊」と言いました。その言葉を聞いた弟子たちは、即座にイエス様に従いました。でも、彼らはその時、イエス様が誰であるかは知りませんでした。そのことを表すのが、次の会話です。 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる(見る)」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。 これは一見すると、イエス様のその日の宿はどこかを巡る対話のように見えますが、実際には、イエス様は誰かを巡る対話なのです。「来なさい」という命令に従った彼らが知ったこと、それはイエス様が「メシア」であるということだからです。彼らの「どこに泊まっておられるのですか」という問いは、イエス様が誰なのかを問う問いであることは、ここから明らかです。 この出来事を踏まえた上で今日の箇所を読めば、「その人はどこにいるのか」という問いは、「その人は誰なのか」という問いであることは明らかではないでしょうか。しかし、この時、彼はまだ「イエス」という名前以外のことは知りません。彼は、知っていることは知っていると言い、知らないことは知らないと言う。彼にとっての事実だけを証言する人間です。 何も見えていない人間 しかし、その彼が次第次第に、イエスと呼ばれる人が誰であるかを知らされていくのです。この場合は、あの二人の弟子のようにイエス様の許に留まることを通してではなく、むしろイエス様が不在の中で、つまり目に見える形では見えない状況の中で、彼はイエス様が誰であるかを深く洞察していくことになります。 とてつもないことが起こったのに、それを起こした人が誰かを当人も知らないという事態に直面して、人々は、ユダヤ教の中心的存在であるファリサイ派の人々の所に彼を連れて行きます。宗教裁判にかけるためです。その容疑は、安息日違反の罪です。 安息日というのは、七日に一度、すべての仕事をやめて、神の創造の御業と救済の御業を覚えるために聖別された日のことです。細かいことは一切省きますけれど、たとえば医者であっても命に関わらない病気は治してはならないし、炊事のための火をつけることも禁止されていました。そういう具体的な禁止事項がたくさん律法の中に定められていたのです。ファリサイ派の人々は、その律法の解釈をする立場の人々です。 問題になっているのは、イエス様が土をこねて一種の医療行為をしたのが安息日規定に違反するかしないかです。ファリサイ派の人々は、先の人々と同じく、「どのようにして」をまずは問題とします。目を開かれた盲人は同じことを答えます。するとまた分裂が起きます。そこでの問題は最早「どのようにして」ではなく、こういうとてつもない行為をした人は「誰か」です。ファリサイ派のある人々は、安息日を守らない人は、「神のもとから来た者ではない」と言い、ある人々は「罪のある人間が、こんなしるしを行うことができるだろうか」と言っている。動かしようがない現実を前にして混乱しているのです。そこで、彼らは盲人であった人に本質的な問いを投げかけます。 「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」 これも直訳した方がよいと思います。彼らはこう問うているのです。 「お前はあの人について何と言うのか。」 問題は、「何と言うか」です。「どう思うか」が問題なのではなく「何と言うか」が問題なのです。それは、今後の展開を見れば明らかです。 この後、ファリサイ派は、そもそも彼が生まれつき盲人であったのかを疑い、彼の両親を呼び出します。つまり、裁判所に召喚する。両親は、脅えます。証言次第では、有罪宣告が与えられるからです。彼らは、慎重に、こう答えるのです。 「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。 しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」 自分の息子が生まれつき盲人であったことは知っている。でも、「どうして」また「誰が」見えるようにしてくれたかは知らない。 何故、彼らがこういう答え方をしたか。自分の息子の目が見えるようになったことを喜び、まさに命の恩人とも言うべき、「イエスと呼ばれる方」を探し出し、息子共々ひれ伏して礼を言いたいであろう両親が、何故、こういう答え方をしたか。その理由はこうです。 両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。 盲人が見えるようになるということ。それは神が到来した時に起こる現実であることは、前々回に語りました。イザヤという預言者が語っているのです。今、自分の息子の目が見えるようになったという現実は、神から遣わされたメシア(キリスト)以外に引き起こすことが出来るものではない。それは聖書を知っている者なら、誰でもが知っていることです。ファリサイ派の人々は、その聖書の専門家なのです。しかし、その彼らは、イエス様が神から遣わされた方であり、神であることは断固として認められないし、そのことを認めて口で告白する者のことも断固として認められない。それを認めることは、自分たちの支配体制の崩壊を意味するからです。彼らが求めるものはこの世における自分たちの栄光です。それこそが、生まれながらに持っている罪の闇であり、その結末は死なのに、彼らはその死の闇の中に断固として留まります。自分たちは見えると思っていながら、実は何も見えていないからです。そして、見えると思っているので、自分たちは命を乞い求めなければならないとも思っていないからです。死に至る病が体内にあっても、それに気付かなければ、誰も治療が必要だとは思わないように、私たちは、無自覚の中に、自分は意義ある人生を送っていると自覚している場合が少なくありません。しかし、それは真の光を見ていないから、夜の闇を彩るけばけばしいネオンの光しか見ていないからです。 盲人であった人の両親、彼らも同様です。彼らはファリサイ派が支配する世の中から追放されることを恐れて、「どうして」かも「誰か」も分かりません、と答えている。もちろん、彼らは知らないといえば確かに知らないのですが、知ろうともしていないのです。今まで生きてきた社会から追放されることを恐れているからです。 見え始めた人間 しかし、盲人は自分に起こった事実、つまり見えなかったのに見えるという事実、自分が求めたわけでも何でもないけれど、「イエスと呼ばれる人」が土を塗り、水で洗えと命令し、その命令に従ったらば見えるようになったという事実に固着します。そして、その固着によって、たとえファリサイ派が支配するこの世、ユダヤ人の社会から追放されることになったとしても、そのことを恐れません。 彼は、「お前はあの人について何と言うのか」という問いに対して、断固としてこう答えます。 「あの方は預言者です。」 この場合の「預言者」とは、私たちが通常意味するイザヤとかエレミヤのような預言者ではなく、むしろ後でも出てきますけれどモーセのような預言者、つまり、イスラエルの民を救い出すために神から遣わされ、神の言を語る預言者です。その場合の「神の言」とは、あの「光あれ」にあるように、語られた言葉はそのまま出来事となる言葉です。そういう言葉を語る預言者。神の体現者であるような預言者です。 かつて盲人であった人は、自分の目を開いてくださった方は、そういう預言者としか考えられないと告白をする。そういう所にまで彼の理解が進んでくるのです。そして、先ほど挙げた二章やこの九章では「理解」と「見る」こととは深い関係があります。 見える=再び見える 見上げる 九章をギリシャ語の原文を調べながら読んでいると、「見る」ことに関して実に多様な言葉が用いられていることが分かります。例によって、それらはすべて明確な意味の違いをもって使われているわけではないと思いますけれど、やはり注目すべきことであるように思います。 一〇節で、人々は、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と尋ねています。これは目の「癒し」とか「回復」を意味する言葉ですが、盲人自身はこの言葉を使いません。彼は、この問いに「見えるようになったのです」と答えます。原語ではアナブレポウという言葉ですが、この場合の「見える」とは、「上を見る」つまり「見上げる」という意味と、「再び見える」という意味があります。両方とも含蓄の深い言葉ではないでしょうか? この人は生まれながらの盲人なのですから、肉眼という意味では「再び見える」ようになったわけではない。しかし、彼は「再び見える」という意味を込めてこう言ったとすれば、それはどういうことなのか? 先ほど創世記の天地創造における「光あれ」を引用しましたが、その先のアダムとエバの話の中で、蛇はエバを唆して禁断の木の実を食べさせるためにこう言っています。 「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存知なのだ。」 そのように蛇に言われて、彼女はその木の実を見ました。すると、「その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆(そそのか)していた。女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた」のです。すると、どうなったか。「二人の目が開け、自分たちが裸であることを知り、二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」のです。 今日、この問題を追及する時間はありませんが、実に印象深い出来事です。神の言に背いて木の実を食べた途端に開かれた目は、それまで美しく見えていた裸が、恥ずかしいものに見える目なのです。そして、その恥部を隠しながらでしか生きることが出来ない人間がそこにいます。その人間は、神様が出てくると、全身を隠す。神様から見えないように隠れるのですし、葉っぱの陰の暗闇にいるのですから、神様を見ることも出来ない存在なのです。だから、「あなたはどこにいるのか」と問いかけられる。もちろん、神様にはすべてが丸見えなのですが・・。 罪人とは、蛇の唆しによって「目が開かれた」存在です。しかし、その目で見えることは、それまでとは全然違った人間であり世界なのです。そして、神を見ることが出来ない。そういう存在なのです。「見える」と思っていても、実は見えなくなっている存在です。 生まれつきの罪人とはそういうものです。その彼が、イエス様に見られ、命ぜられ、命令に服従した時、見えるようになった。再び見えるようになったのです。何がどのように見えるようになったのか。 主イエスは、ファリサイ派の人々から追放された彼と再び出会います。そして、こう尋ねる。 「あなたは人の子を信じるか。」 「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」 「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 彼が「主よ、信じます」と言ってひざまずくと、イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」 彼は、イエス様によって再び見えるようにされた目でイエス様を見て、イエス様こそが来るべきメシア、神から遣わされた「人の子」であると信じることが出来たのです。その時彼は跪きました。これは礼拝の姿勢です。私たちプロテスタント教会は、説教に重きを置きすぎて、礼拝とは「話を聞くことだ」と思っており、「今日の話は良かった」とか「つまらなかった」とか自分で評価しがちですけれど、礼拝とは元々そんな人間の評価とは何の関係もないことです。罪の赦しを求めて神様の前にひれ伏し、また跪くことです。カトリック教会の礼拝堂に行けば、前列の椅子の背後に跪くための台が備え付けられています。彼はここで礼拝をしている。自分を低くしているのです。そこからイエス様を「見上げている」のです。 「見えるようになった」ということのもう一つの意味はここにあります。蛇の唆しの言葉に従ったことで実は生まれながらに見えなかった目が、イエス様の愛の招きの言葉に従うことを通して再び開かれたのです。罪の闇の中でネオンの光しか見ることが出来なかった目が、イエス様において現されている神様の栄光を仰ぎ見る目とされたのです。そこに罪人の救いがあるのです。その時、生まれつきの盲人は新しい人間、神様の前に跪いて「わたしです。あなたに救っていただいたのは、わたしです」と言える人間になるのです。 神を見る救い パウロは、コリントの信徒への手紙の中で、こう言っています。 「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」 誰と「顔と顔をあわせて見ることになる」のか。それはイエス様です。天上におられるイエス様の御顔を拝することが出来る。そして、そのイエス様の執り成しによって、私たちは神様の御顔を拝することになる。それが罪人の救いなのです。人間同士は互いに恥部を隠し合い、神様の顔を避けて、神様の目から隠れて生きるしかなかった生まれながらの罪人の救いはここにある。この救いを与えて下さるのは神様の愛です。「神は、その独り子を与えるほどに世を愛された」というあの愛です。私たちは、その愛で今日も愛されているのです。そして、その愛なる神に遣わされたイエス・キリストに見られ、水で洗いなさいと命ぜられている。礼拝とは、毎週、新たに汚れてしまっている足を洗うことです。主イエスに洗っていただくのです。そのことはヨハネ福音書の一三章に記されています。洗礼によって一度全身を洗われた私たちは、もう一度洗礼を受ける必要はありません。ただ絡みつく罪をいつも新たに洗い清めていただかなければなりません。主イエスの前に跪いて、「主よ、どうぞ私の罪を赦してください。今日も、私を愛して、新しい命を与えてください」と乞い願うのです。主イエスは赦してくださいます。愛してくださいます。新たに立たせてくださるのです。信じて乞い求めるのなら、私たちの罪は赦され、新たにされ、神を見る者とされるのです。 わたしの主よ わたしの神よ 残された問題は一つです。その事実に固着するかどうか、そして、その事実を証しするかです。心に思ったことを口で告白するかです。 「私は、この方によって見えるようにして頂きました」と信仰を告白するかどうかなのです。 この箇所のことを色々と調べていたら、ジョン・ウエスレーという人に関するこんなことが出てきました。この人は青山学院なども属するメソジスト派という教派の創始者ですけれど、人生の中で何度か決定的な回心を経験した人です。その一つのエピソードとして、こういうことがあります。彼は伝道の意欲に燃えて、イギリスからアメリカ大陸に旅立ったのですが、それは全く成功しなかったようです。その時、ある教派の指導者に、「あなたはイエス・キリストを知っていますか」と言われた。もうこの時ウエスレーは有名な伝道者なのですから、この問いそのものが妙な問いと言えなくもありません。彼は、「知っています。イエスは世の救い主です」と答えました。するとその指導者は、「そうです。しかしあなたは、イエスがあなたを救ったということを知っていますか」と尋ねた。この問答は、ウエスレーにとって決定的な意味を持っています。 私たちは、今日、昔エルサレムで起こった過去の出来事を読んでいるのですけれど、でも、そうではないのです。今日、ここで、「あなたは人の子を信じるか」と問われているのです。イエス様からです。「私があなたの目を見えるようにするために、十字架に掛かって死んだことを信じるか。私があなたに罪の赦しを与え、新たな命を与えるために復活したことを信じるか。あなたは、私があなたを救いに導くために今も生きており、そして語りかけていることを、神の業をしていることを信じるか」と問われているのです。 この福音書の本編の最後に出てくる人間の言葉は、疑い深い弟子のトマスがイエス様に対してなした信仰告白、証言の言葉なのです。 「わたしの主、わたしの神よ。」 一般的な「世の救い主よ」とトマスは信仰を告白しているのではありません。「わたしの主、わたしの神よ」と告白しているのです。一般的な意味で、「世の救い主よ」と言っているわけではない。この自分の罪のために死に、そして命のために甦ってくださった主への信仰の告白をしているのです。その信仰告白に対するイエス様の言葉はこういうものです。 「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」 そして、ヨハネは、この福音書を書いた目的をこう記しています。 「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエスの名により命を受けるためである。」 今日ここにいる一人でも多くの人が、肉眼では見ないでイエス様を神の子メシアと信じて、主の前に跪き、命を受けることが出来ますように祈ります。 |