「ただ一つ知っていること」

及川 信

ヨハネによる福音書 9章18節〜34節

 

それでも、ユダヤ人たちはこの人について、盲人であったのに目が見えるようになったということを信じなかった。ついに、目が見えるようになった人の両親を呼び出して、尋ねた。「この者はあなたたちの息子で、生まれつき目が見えなかったと言うのか。それが、どうして今は目が見えるのか。」両親は答えて言った。「これがわたしどもの息子で、生まれつき目が見えなかったことは知っています。しかし、どうして今、目が見えるようになったかは、分かりません。だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」
両親がこう言ったのは、ユダヤ人たちを恐れていたからである。ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていたのである。両親が、「もう大人ですから、本人にお聞きください」と言ったのは、そのためである。
さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。 神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

 平和ではなく剣を


 九章に入って五回目になります。ユダヤ人の殺意の中に神殿を後にしたイエス様は、道端で物乞いをしていた生まれながらに目が見えない盲人を癒されました。それは、表面的な出来事だけを見れば、見えない目を開くという奇跡に見えますが、実は全く新しい人間を造り出すという神の御業なのです。しかし、そのことによってこの盲人は、イエス様同様に罪人としてユダヤ人社会から追放されてしまう。これまで生きていた世界では生きることが出来なくなるのです。しかし、その時に、イエス様が彼に再び出会い、彼は様々な意味で見えるようになった目でイエス様を見て、「主よ、信じます」という信仰告白をしつつイエス様を礼拝する人間になります。その時、彼は罪の闇の中から命の光の世界へと救い出されました。しかし、その信仰に至るまでには非常に厳しい試練がありました。
 当時のユダヤ人たち、特に宗教的権威者であったファリサイ派の人々は、イエス様を神から遣わされたメシア、救い主として認めることが出来ません。認めることは、彼らの存在価値を否定することだからです。そこで、彼らは盲人に起こったことをなかったことにしようとします。彼らは、盲人の両親を呼び出します。これは裁判の席に召喚するということですから、そのこと自体で、無言の圧力をかけていることになります。「私たちの意図は分かっているだろうな!ちゃんとその意図に沿った答えをしろよ。そうすれば、悪いようにはしない・・・。」そういう無言の圧力をかけている。
 その圧力を身に受けつつ、両親は、非常に慎重な答え方をします。「たしかにこの子は自分たちの子であり、また生まれながらの盲人であった。これは知っている。しかし、誰がどのようにしてこの子の目を見えるようにしたかは知らない。」そう答えた。つまり、このことに関しては関りを持たないと言っているのです。その理由は、前回も語ったとおり、彼らは「ユダヤ人たちを恐れていた」のです。「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」からです。つまり、イエス様を神から遣わされて神の救いの業をするメシア(救い主)方であると告白する者を、ユダヤ人社会から追放する。あらゆる法的保護を与えない。つまり、誰かがその者を殺しても、殺人の罪を問わないということを決めていたのです。それは、実質的には社会的生命を断つことです。だから、両親は恐れた。少しでも疑われそうな言質をとられまいとして、非常に慎重に答えたのです。
 そして、それはまた同時に、彼らは息子を捨てた、息子との関りを断ったということでもあります。彼らの目的は、この世における安寧です。この世における平和なのです。しかし、残念ながら、主イエスはそういう安寧と平和をもたらすためにこの世に来られたのではありません。それとは別の平和、永遠の平和をもたらすために来られたのです。
イエス様は、ある所でこうおっしゃっています。

「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族の者が敵となる。 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」(マタイによる福音書一〇章三四節〜三九節)

 皆さんの中にも、キリスト教信仰を告白して洗礼を受けることを親や兄弟に激しく反対された方もいるでしょうし、そのことの故に、家族関係がぎくしゃくしている、あるいはそれ以前とは全く違ったものになってしまった方もおられると思います。信仰に入るとは、そういう面を含みます。家族であれ、社会であれ、この世のものからは断絶する。地上のもの、この世の中に、その存在の根拠を置くことをしない。それが信仰なのですから、その信仰の道に入る時には、またその信仰の道を生きる時には、この世における命をある意味で失うのは当然なのです。しかし、実は古き命を失うことを通して、新たな命を与えられるのですが、その点において、私たちはあまりに不徹底である場合が多いものです。

 人と成るということ

 話をヨハネに戻します。今日の箇所で目を引くことの一つは、両親が言ったことをヨハネ福音書が繰り返し書いていることです。

「もう大人ですから、本人にお聞きください。」

 実に面白い言葉です。「大人」って何でしょうか?
 日本で「成人」と言うと、選挙権が与えられ、社会の成員として認められることを意味します。それは他面から言えば、法を犯した時には「少年A」とか「少女A」とは言われず、顔写真と共に実名が出て、裁判で裁かれることも意味します。また成人には、大人としての識見の高さとか広さも求められるようにもなります。しかし、聖書の中で「大人」というのは、今言った意味と重なりますが、それとは別の意味があることも確かなことです。
 もう二十年も前のことになるのですが、私の前任地の松本の教会で、私は多くの忘れ得ぬ人々と出会い、またお別れをしてきました。その内のお一人はCさんという女性です。一九九八年に一〇一歳で亡くなりました。その方は、九七歳で信仰を告白して洗礼を受けられたのです。その切っ掛けはこういうものです。
Cさんは長く独身生活を続けてこられたのですが、老齢になって姪の一人を養女とされました。その養女が私の前任教会の会員です。しかし、Cさんが九四歳の頃から寝たきりになってしまい、その介護の負担は養女一人に懸かることになりました。実の親でもないし、愛情をもって接することが出来ずに、毎日毎日、お互いに本当に辛い思いをしておられた。私は、そのことを全く知らなかったのですが、ある時、その女性からお葉書きを頂きました。そこには、こういうことが書かれていました。
「今日も養母の体を拭きながら、自分には少しも愛情がないことが分かっている。ただお互いに黙ってその時間を過ごす。それが耐え難く悲しい。暇な時があれば訪ねて欲しい。そして、母と世間話でもしてくれないか。」
 すぐにお訪ねしました。そして、私はCさんと、まさに世間話をしました。それから隣室で会員の女性から日々の生活の有様や心境を聞かせていただきました。その上で、私が祈って帰ったのです。後日、お葉書きを頂きました。それは、「その日から全く生活が変わった」という感謝のお葉書きでした。何故、変わったか。それは、私がお別れの時に祈りの中で、Cさんのことを「姉妹」と言ったからです。教会の中では信仰を同じくする者を、しばしば「兄弟姉妹」と言います。それは、この世の家族ではなく、神の家族としての交わりが与えられているからです。ですから、私が祈りの中で、Cさんのことを「姉妹」と呼ぶことは、本来から言えば、正確な表現ではありません。でも、私はその時、姉妹と呼ぶしかないという思いがあって、「この姉妹とそのお世話をする方の上に平安があるように」と祈ったのです。その「姉妹」という言葉を聞いて、その方は、それまでは養女としての義務感から介護をしていたのですが、いつの日か共に神を父と呼び、御子を主と呼び、その御子よって愛し合う家族となりたいという願いをもたれたのです。それ以来、毎日、Cさんのベッドの傍らで聖書を読み、そして主の祈りを祈るようになった。そうしたら、心のわだかまりは次第に晴れていき、養母を愛することが出来るようになったというのです。
そのことを知らされてから、私はほぼ毎週、Cさんをお訪ねし、その直前の日曜日の説教の内容を語らせていただくようになりました。しかし、もう九四歳の女性です。次第に目が悪くなっていき、私が部屋に入っても互いに目を合わせて話すことは出来なくなりました。でも、私が、イエス様が湖の上を歩いた時の話をすると、「ホー、イエス様は水の上を歩きなさったか・・・」といかにも愉快だという顔をしてお聞きになり、イエス様が復活したと言うと、「ホー、復活なさったのかね・・」とこれまた実に嬉しそうに、どこかはるか遠くを見やるような目で嬉しそうに笑われました。Cさんは首から提げるお守りの袋の中に「主の祈り」が記された紙切れを入れて、しばしばそのお守りを握り締めておられました。そういう日々が二年ほど続いた後、Cさんはついに洗礼を受けることになりました。日曜日の午後、礼拝を終えてから、何人もの会員の方と共に皆で神様の愛を賛美しつつ、目が見えなくなってベッドで寝たままのCさんに洗礼を授けました。一九八八年四月十日のことです。
 その翌日、まだ二歳の娘を連れて、Cさんをお訪ねしました。私はCさんに、「Cさん、昨日の洗礼式はどうだった」とお尋ねしました。するとCさんは、ちょっと考えた上で、「なんか、ようやく人間になれたような気がした」とおっしゃいました。「ようやく人間になれたような気がした。」その時、Cさんは九七歳で、私は三一歳です。私にとっては人生の大先輩です。生きることの悲哀、辛酸、その喜びも悲しみも味わいつくして来られた方です。その方が、「なんか、ようやく人間になれたような気がした」とおっしゃり、いつもCさんから飴をもらうことを楽しみにしている二歳の娘に、「Sちゃん、二歳も九七歳も変わらんよ」とおっしゃった。
 私は忘れることはありません。「人と成る」とは、どういうことなのか?Cさんは、それから四年、生き永らえて、ついに天の父の住まいに移されていきました。お訪ねする度に、いつも見えない目で遠くを見るように、笑みを湛えて聖書の世界を見ておられました。そうやって、人として生きた、生かされたのです。養女である会員の方も、Cさんと姉妹の交わりを持って、互いに愛し合うことが出来るようになっていったのです。

 大人とは

 今日の箇所で両親が、「もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう」と言う場合、その表面的な意味は、先ほど言ったように、法的責任は本人にあると突き放すことだと思います。その裏には、ひょっとしたら、突き放しつつ「馬鹿な主張をすることは止めろ、ファリサイ派のユダヤ人の意図を汲んで、保身のために嘘をつけ」と言っているのかもしれません。しかし、ヨハネが、この両親の言葉を二度も書くことの意図は別のところにあると思うのです。
 この「もう大人ですから」という言葉は、まさに成人を意味します。その成人とは人となった人間という意味ですが、それは「成熟した人間」という意味も持っています。実際、聖書の中では、そういう意味で使われているのです。その内の一つはエフェソの信徒への手紙に出てくる言葉ですけれど、そこにはこうあります。一〇節からお読みします。

この降りて来られた方が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも更に高く昇られたのです。そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。・・・あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していきます。

 「降りてこられた方」とは、神から遣わされたキリスト(メシア)としてのイエス様です。このイエス様が、私たちを様々な奉仕につかせてキリストの体を造り上げていかれる。つまり、教会を造り上げていってくださる。そして、その教会に組み込まれた私たちはキリストに対する知識において一つのものとなり「成熟した人間」になっていく。そのように成長させられていく。パウロは、そう言っています。この「成熟した人間」と訳された言葉が「大人」なのです。  

何を知っているのか

エフェソの信徒への手紙における問題はキリストに対する知識です。そして、今日の箇所でも「知っている」かどうかが問題の中心です。両親は、子供が生まれつき目が見えなかったことは「知っている」。しかし、誰がどうして目を開けてくれたかは「知らない」。もちろん、イエスという方がやったことは表面的な意味では知っているのですが、それを知らないと言っているのです。またファリサイ派のユダヤ人たちは、盲人を呼び出してこう言っています。

「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」

それに対して、目を開かれた人はこう答えます。
「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

 「分かりません」も原文では「知りません」です。以後も「ご存じない」「承知している」と様々な翻訳がなされていますが、すべて「知っている」という言葉です。問題となっているのは「あの者が誰か」を知っているか否か、イエス様が誰であるかに関する知識です。そして、その知識は学校の教室で教わり、テストで筆記して書ければよいという類のものではありません。あるいは親から教わって、そのまま真に受けて親と同じ言葉で語るようなものでもない。自分自身において起こった事実を、自分の言葉で語ることが出来る知識です。この知識を与えられれば、それだけで生きていける。そして、安心して死ぬことが出来る。人として生まれてきたとは、この知識を得るためなのだとさえ言えるような知識、それが今日の箇所の問題なのです。

 永遠の命として、贖い主として

   四月は、私たちの教会から二人の方を天にお送りしました。Hさんについては既に語ったので、今日はTさんに関して少しお話をします。Tさんは、息を引き取られる約二十日前に病床で聖餐を受けた後、座禅を組むような姿勢をして、こう祈られました。 「イエス・キリストを永遠の命として、私たちの贖い主として、アーメン、アーメン」  私は、その祈りの言葉を聞き、またその姿を見た時に、「これ以上、ここにいてはいけない。早く帰らねば」と思い、急いで帰り支度をして、「それでは、また」と声をかけるだけで病室を出ました。その時も、Tさんは、目を閉じた祈りの姿勢のまま深くお辞儀をしてくださり、また同じ姿勢に戻られました。私は、その時、目をつぶったTさんには永遠の命としてのイエス・キリスト、贖い主としてのイエス・キリストが見えたのだと思いました。だから、私がいて邪魔をしてはいけないのだと思ったのです。Tさんは、この時、つまり、私たちのために裂かれたイエス・キリストの体、また私たちのために流されたイエス・キリストの血の徴であるパンとぶどう酒を頂きつつ、イエス・キリストこそ、永遠の命であり、自分の罪を贖って下さる主であるということを知って、神様に対する信仰告白として「イエス・キリストを永遠の命として、私たちの贖い主として、アーメン、アーメン」とおっしゃったと思います。そして、イエス・キリストが永遠の命、私たちの贖い主であることを知るということ、それが聖書においては成熟した人間、大人なのです。

 聖書が見える

 私はまた今日の箇所との関連で、思い出すことがあります。それは私の恩師の一人であり二年半前に亡くなった松永希久夫先生が死の数日前に仰った言葉です。Tさんもそうでしたが、先生もお訪ねするごとにはっきりと弱っていかれました。その祈りの声も細く、そして短くなっていったのです。その頃の先生の祈りは、いつもこういうものでした。
「幼い頃から、あなたが私を愛してくださっていることを教わったお陰で、私は今も、そのことを疑うことが出来ません。感謝します。」
そして、死の一週間前に、ヨハネ福音書の言葉を読んで祈り終わった後、先生は、どこを見るでもない目をされて、独り言のようにこうおっしゃいました。

「聖書を書いた人はやっぱり一番良く分かっている。そうか、聖書はやはり本当のことが書かれているんだ。こうやって二度も同じことをしていると、そのことがよく分かる。聖書はたしかに書かれたという意味では、ずっと後に書かれたけれど、人間が後から考えて書いたことじゃないんだ。そうなんだ。ずっと前からあったこと、最初からあったことを、後から書いたんだ。すべてのものは、言によって出来たんだ。ただ、それを見たままに書いているんだ。分かった。わざわざ来てくれて有難う。お子さんたちにも宜しく。」

 そう仰ってからベッドに横になられました。
 「二度も同じことをしていると」というのは、命が危ういと言われるような緊急入院の経験のことだと思います。そういう経験を通して、先生は幼い頃に知らされた神の愛、それを告げる聖書が、一体どういうものであるかが今分かった、と仰ったのです。
 聖書は、本当のことが書かれている。しかし、それは人間が考えて書いたのではない。最初からあったことを見たままに書いたに過ぎない。そして、その最初は言によってすべてが出来たということなのです。「初めに言があった。」そして、この言こそ、光であり命であり、イエス・キリストその方です。そのことが、その時、先生には分かった、見えた。そして、思わずその喜びを告白した。そういうことではないか。聖書学者として、また牧師として生きてこられた先生の地上の生涯の最後において、聖書にかけられている覆いが取り払われて、命の言、命の光としてのイエス・キリストが見えた瞬間がそこにはあると思います。

 賛美を生み出す信仰

 私は、牧師という仕事をさせていただくことによって、何人もの方の死を目前にした時の姿を間近に見させていただき、またその告白の言葉を聞かせていただいてきました。そうやって、ある意味では自分の死の準備をさせていただいているのだとも思います。そして、誤解を招く言い方かもしれませんが、私はCさんにしろ、Tさんにしろ、松永先生にしろ、イエス・キリストが見え、その方が自分の贖い主であり、永遠の命であることが分かって死ねるなら、それは何と幸いなことかと思うのです。そして、こうやって知らされた知識、信仰を自分の言葉で告白できたら、どんなに嬉しいかと思う。もう、それだけで十分だと思います。
 ユダヤ人は、イエス様が「罪人だと知っている」と言い、「神がモーセに語られたことを知っている」と言います。でも、彼らは自分が罪人であることを知らないし、自分に神様が語っておられることは知らない。神の声を聞いていないのです。彼らの知識は全て言い伝えに聞いていることの暗記に過ぎないので、すべてに覆いがかかっている。神のことを語っても、それは神について語っているのだし、聖書のことを語ってもそれは聖書についての表面的、部分的な知識を語っているに過ぎない。神から語りかけられているわけでもないのです。だから、彼らの知識は喜びを持った信仰告白にはならず、そこから賛美は生まれてきません。しかし、喜びの賛美がない信仰とは、一体どういうものなのでしょうか?
 イエス様に見つめられ、語りかけられ、直接手で触れられ、そしてイエス様の命令に従うことによって癒された盲人は、次第に見えてきました。自分の罪が、イエスという方によって赦されているのだということが。そして、その自分に起こった事実に固着します。

「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

 この言葉は、ユダヤ人たちに「神の前で正直に答えなさい」と言われて答えた言葉です。でも、この「神の前で正直に答えなさい」とは原文では「神に栄光を帰しなさい」と書かれているのです。「神を賛美せよ」と訳しても良い。皮肉なものです。盲人の目が開かれるという神の業、旧約聖書の預言に従えば、神が到来して人間を罪の支配から救ってくださるという御業が目の前で起こっているのに、少しも賛美の声を上げない人間たちが、神を賛美せよ、と言っているのです。彼らは、自分の罪を知らないし、その罪を赦してくださる方が来ているのに、その事実を見ようとしないからです。しかし、その彼らに「お前はまったく罪の中に生まれた」と言われたこの人が、声高らかに賛美しています。「わたしは、今、見えます」と。
 アウグスティヌスという人は、人は主なる神に造られたが故に、神の内に自分を見出すまでは平安を得ないと言い、今は見出すことが出来るから、賛美せざるを得ないと言って、『告白』という膨大な書物を書き残しました。
私たち人間は、主を賛美するために造られたのです。だから、主を賛美する時に、自分の口で心から賛美できるときに、私たちは本当の意味で人と成るのです。詩編一〇二編にはこうあります。

「後の世代のために
このことは書き記されねばならない。
『主を賛美するために民は造られた。』」

 その神のことを人々に伝えるべき宗教家が、ここでは神を賛美せよと言いつつ、逆に神を信じない。一八節にありますように、「盲人であったのに目が見えるようになったということを信じない」のです。そして、目が見えるようになった事実、罪が赦された事実に固着し、イエス様こそ「神のもとから来られた」メシア(キリスト)であることを信じる人を、「罪の中に生まれた」罪人として排斥する。彼はもう、ユダヤ人の社会の中では生きていけないのです。両親の家に帰ることも出来ない。でも、その彼を迎え入れるお方がいる。それが、彼のために十字架の上で命を捨てて下さるイエス様です。彼は、その見えるようになった目で主を見、「主よ、信じます」と言って、主イエスの前に跪いた。キリスト礼拝をしたのです。そこに神の救いの業があります。この人が主イエスに関して完全な知識を得たからです。主を信じ、その信仰を告白することにおいて主を賛美するに至ったからです。この時、彼は大人になった。人と成ったのです。人間が知るべき唯一の知識を得たからです。
 キリストは、「神の知恵として世に来られた」と、コリントの信徒への手紙では言われています。そして、この主イエスを知ることは、この世の知恵では不可能なのだとある。しかし、私たちは恵みによって聖霊を与えられ、主イエスが私たちのために神の許から来られたキリストであること、私たちの罪の赦しのために十字架に磔にされて死んだこと、私たちに永遠の命を与えるために死から甦られたこと、そして私たちを信仰において成熟させるために、成長させるために、今日も私たちをこの礼拝に招き、御言葉と聖霊と、そして聖餐を与えて下さるということを、知っています。だから、私たちは今日も心の底から主に感謝し、主を賛美できるのです。

 「わたし」と「わたしたち」

 この盲人は、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」と言いました。そして、その後では、「神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています」と言っている。「わたし」がいきなり「わたしたち」になっている。それは、ここに教会の告白、キリスト者たちの共同の告白があるからだと以前語りました。私たちは、一人一人、主に見つめられ、語りかけられ、手で触れられ、そして水で洗いなさいと命令された者たちです。皆、それぞれの出来事を通して洗礼を受けることを命ぜられ、その命令に応えることによって、てキリスト者になったのです。しかし、その一人一人が、キリストに対する知識の故に一つとされて、今、この礼拝堂に臨在してくださっているイエス様に感謝と讃美を捧げることが出来るのです。そして、大人である私たちは、それぞれに自分のことを語ることが出来る。「私はかつて罪の闇の中に生きていた者ですが、今はこうして命の光の中に生かされています。」 なんと幸いなことでしょうか。

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