「何のことか分からなかった」

及川 信

ヨハネによる福音書 10章1節〜6節

 

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らな いでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗で ある。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門 を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名 を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に 立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。 しかし、ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。ほ かの者たちの声を知らないからである。」イエスは、このたとえをファリサイ派の人々に話されたが、 彼らはその話が何のことか分からなかった。

 いつも説教の題をつけるときは悩みます。そもそも御言の 説き明かしである説教に題が必要なのかとも思いますが、それ よりもなによりも礼拝の中で読もうとしている段落で、何が言 われているのか、前の週の木曜日とか金曜日に分かるはずもな いからです。分からないのに、週報や看板に説教題を書くこと になっている必要上、無理やり題をつけなければならない。そ のことにいつもとても苦しむのです。でも、今日の説教題は、 一読して全く迷うことなくつけることができました。「彼らはそ の話が何のことか分からなかった。」「そりゃ、そうだろう」と 思います。イエス様の話、それは一回聞いて分かるとか、一読 して分かるというものではない。それでは、よく勉強すると分 かるのか?いつも言いますように、そんなことはありません。 私は本は殆ど読みませんが、聖書について書かれている所謂「注 解書」とか説教集の類は読みます。そのことで色々と教えられ ることはあり、目が開けてくることがありますから、勉強も大 事であることは言うまでもありません。しかし、その一方で、 色々な解釈や説明を読んで混乱もします。牧師が、そういうこ とをすることは大事でしょうけれど、でも御言が「分かる」と いうのは、実はもっと別の事柄なのです。知的に分かる、認識 するということとはちょっと違う。いや、全く違うのです。
 今日と来週にかけて、「門」とか「羊飼い」という言葉と並ん で「知っている」とか「分かる」という言葉について、耳を澄 ませていくことになります。そのことを通して、私たちがここ に記されていることが「何のことか分かる」ようになりたいと 心から願います。そして、その願いとはただひたすらに「主よ、 聖霊を与えてください」という願いなのです。

 九章の続きとしての一〇章

 今日から始まる一〇章、これは九章の盲人の癒しの出来事と 共に非常に有名な箇所で、多くの方がご存知だと思います。私 にとっても思い入れの深い箇所です。特に、「わたしは良い羊 飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」という言 葉は、多くの人にとって心の支えとなっている言葉でしょうし、 私もその一人です。しかし、こうやって皆さんと一緒に、ヨハ ネ福音書を丹念に読み進めて来て気がついたことは、一〇章は 九章と全く別の話があると思っていたけれど、実は九章の続き なのだということです。聖書は元来、章だとか節に分けられて はおらず、ただ一つの文章として書かれています。二千年前の 文章ですし、現代の表記法に基づく段落だとか、鍵括弧だとか 句読点というものもないのです。時には、そういうものとして 読むことが必要です。
 私たちはここでいきなり羊飼いの譬話が始まったと思いがち ですけれど、「はっきり言っておく(アーメン アーメン あな たがたに言う)」とイエス様が言っている相手は、九章に出てき たユダヤ教の権威者であるファリサイ派の人々です。つまり、 一〇章一節から一八節は、九章の出来事をイエス様が総括して いる言葉だと言って良いと思います。

 九章で起こったこと

 九章は生まれつきの盲人がイエス様に目を癒され、見えるよ うになったという出来事が記されていました。しかし、その「見 える」とは単に肉眼が見えることではなく、イエスという人間 の中に神の姿、救い主としての神の姿が見える、ヨハネ福音書 の言葉で言えば「人の子」の姿が見えることを意味していたの です。そして、それは別の言い方をすれば、イエス様を知らな かった人間がイエス様と出会い、イエス様が誰であるかを知る ことが出来た。そういうことです。しかし、その結果何が起こ ったかと言うと、彼はユダヤ人社会から追い出された、追放さ れたのでした。私たちが日本人社会から追放されるということ は、最早日本人として生きていけない。市民としての権利が保 障されないことを意味します。選挙権はない。医療保険はない。 年金はない。傷つけられても警察は取り合ってくれない。誰も 雇ってくれない。誰も声をかけてくれない。つまり、全くの孤 独の中に飢え死にするほかにない。極端に言えば、そういうこ とです。この癒された盲人は、そういう境遇に立たされたので す。
 何故か。イエス様に目を癒されたからか?違います。それだ けなら、こんな目には遭わなかったのです。彼が追放されたわ け、それは「自分の目を癒してくださった方は神のもとから来 られた方としか考えられない」と証言したからです。そして、「自 分が生まれながらに見えなかったのも事実だし、今見えるのも 事実だ。この事実だけは、知っている。そのことを知らないな どとは言えない。」まさに命をかけて、こう証言した。その証言 の故に、彼はユダヤ人社会から追放された。イエス様がエルサ レム神殿から石をもって追放されたように、彼もまた会堂を中 心とするユダヤ人社会から追放された。社会的な死刑宣告を下 されたのです。
 その時、再びイエス様が彼に出会って下さり、「主よ、信じ ます」と言ってイエス様を礼拝する者へと造り替えてくださっ た。そこに九章の冒頭でイエス様がおっしゃった「神の業」が 現れたのです。しかし、それは同時に、見える者と見えない者 とを分離する、分けていくという業でした。ある言い方をすれ ば、ユダヤ人社会の「中にいる者」と「外に追い出された者」 の分離がそこにはある。追いだした方は、自分たちこそ、神を 見る人間たちだと思っている。しかし、追い出された方が、実 はイエス様の姿の中に主を見ることが出来る、救い主としての 人の子を見ることが出来る。そういう皮肉に満ちた逆転現象が あるのです。

 連れ出す

 今日の箇所に「連れ出す」という言葉があります。

「羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼ん で連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って 行く。羊はその声を知っているので、ついて行く。」

 最初の「連れ出す」は、「中から外へと導き出す」という感 じの言葉です。一六節に、一人の羊飼いが囲いの外にいる羊た ちも導いて一つの群れになるとありますが、その「導く」に「外 へ」を表す語がついている言葉です。それに対して、「自分の羊 をすべて連れ出す」の方は、ファリサイ派の人が癒された盲人 を「外に追い出した」と同じ言葉なのです。ファリサイ派の人々 に外に追い出された者を、イエス様は再び外に連れ出す。一体、 どこからどこへ連れ出すのか?ここに再び二重三重の現実が、 あるいは意味が隠されているのです。
 もう一つ、ここで重要なのは「声」です。九章では「見る」 ことが問題となっていました。でも一〇章では見ることではな く、「聞く」ことが問題となっている。私もしばしば説教の最初 に、「御言の世界に目を凝らし、その語りかけに耳を澄ませたい」 と言いますが、九章は目が問題であり、一〇章は耳が問題です。
 最初に、「外に追い出す」あるいは「連れ出す」について目を 凝らし、耳を澄ませていきたいと思います。「外」とか「出す」 という言葉は、その前提に「中」とか「入る」という事柄があ ります。つまり、外と中を分ける「囲い」があり、出入りする ための「門」がある。盲人は、イエス様への信仰告白の故に、 ユダヤ人社会の中から外へ追放されたのです。ユダヤ人とは、 本来神が選んだ民イスラエルなのですから、彼は神を信じる信 仰共同体の中から外へ追放されたということになるはずです。 神を信じない罪人としてです。しかし、イエス様は、その人を 外で見出す、そしてさらに外へ連れ出す。これは、偽りの信仰 共同体から追い出された者を真の信仰共同体へと連れ出す、あ るいは中へと導き入れることを意味するのではないでしょうか。 ファリサイ派のユダヤ人は一人の罪人を追放したと思っている かもしれないけれど、実は、この人は真の羊飼いの声を聞き分 けて、従ったのだ。その結果、彼は自ら偽りの信仰共同体の外 に出たのだし、その人を救いへと導くのは、新たな神の民の群 れの中に招き入れるのは、私なのだ。私が連れ出し、私が招き 入れる。そういうことをおっしゃっているのではないか。私は、 そう思います。

 門

「はっきり言っておく。羊の囲いに入るのに、門を通らな いでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗で ある。門から入る者が羊飼いである。」

 実は、来週ご一緒に読むことになっている七節以下でも「門」 は出てきます。そこでは、イエス様ご自身が「わたしは羊の門 である」と言っています。そして、「わたしを通って入る者は 救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける」とあ る。しかし、その後では「わたしはよい羊飼いである」とお っしゃる。そうなると、イエス様は門なのか、羊飼いなのか、 一体何なのか分からないということになる。そこで色々な物を 読んで勉強するとますます分からなくなるということも起こり ます。まさに「何のことか分からない」のです。
 古代の町の多くは城壁に囲まれており、門がありました。そ の町に至る道はいくつあっても、その町に入る門は一つしかな い。町に入るためには、その門を通らねばならない。門とは、 そういうものです。唯一性があるのです。羊飼いはよい羊飼い もいれば、悪い羊飼い、羊のことを気にかけない雇い人もいる のですが、ここに出てくる門に、良い門と悪い門があるわけで はありません。門が持っている一つの意味は、そういうことだ と思います。
 しかし、一節から六節までの単元に出てくる門は、羊飼いが 入ってきて、羊飼いに連れ出される羊たちも当然その門から出 るわけです。そして、一一節にあるように、羊飼いがイエス様 だとすると、この門はイエス様ではないことになりますが、少 なくとも一節に出てくる門は、イエス様だけが通ることが出来 る門なのだと思う。他の者は通れない。だから、誰かが囲いの 中の羊を連れ出したい時は、柵を乗り越えて中に入らざるを得 ないのです。そして、その囲いの中にいる羊とは、神の民イス ラエルだと思います。その民を救いへと導くのが羊飼い、牧者 なのです。

 羊飼い

 旧約聖書で牧者は、しばしば王様のことを表します。神様に 選び立てられた王が羊飼いで、その民が羊なのです。ですから、 王の仕事は神様の御心に従って羊を養い、導くことです。青草 の原、憩いの水辺に導くことです。しかし、現実には、イスラ エルの王達は、しばしば羊を食い物にしたし、見捨てました。 そういう現実を見て怒った神様の言葉が、旧約聖書のエゼキエ ル書には出ています。そこで神様はこうおっしゃっています。

「見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話 をする。」

 そして、さらにこうおっしゃる。

「わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧さ せる。それは、わが僕ダビデである。彼は彼らを養い、そ の牧者となる。また、主であるわたしが彼らの神となり、 わが僕ダビデが彼らの真ん中で君主となる。主であるわた しがこれを語る。」

 ヨハネ福音書一〇章の主イエスの言葉の背景に、このエゼキ エル書の言葉があることは明らかだと思います。神の民を牧す べき人間が、牧者が正しく牧していない。神を神として崇める ように導き養っていない。神が与える糧で養っていない。その 現実に対して、神ご自身が羊の群れを養い、ついに真の牧者を 立てて、その者を君主とし、彼を通して主なる神が崇められる ようにする。その時、羊の群れは真の食べ物と飲み物を得て救 われるのです。
 この羊飼いはただ一つの門を通って入ってくるのです。門番 は、羊のオーナーから誰が羊飼いであるかを知らされているの で、その羊飼いが来たときに門をあける。しかし、そうでない 者は無理矢理柵を乗り越えて入ってきて羊を食い物にするので す。
 この福音書が書かれた当時の神の民の指導者、つまり牧者は ファリサイ派でした。彼らこそ、神の民を導き養う牧者の務め を担うべきだったのです。しかし、彼らは、神の名を語り、神 の言葉を利用しつつ自分の栄光を求めるばかりでした。自分た ちも神に赦されねばならぬ罪人であるにも拘らず、神の言であ る律法を表面的な意味で守ることで、自分たちは義とされてい ると確信したのです。そして、その律法を守らない人、守れな い人を罪人として裁いていた。それは主イエスによれば、神の 民を神に導くのではなく、自分たちの名誉のために利用する盗 人であり、強盗以外の何者でもない。そういう者たちが、今や 囲いの中に何人もいる。そして、その人々の声に惑わされ、聞 き従う者たちもいる。

 声を知っている者

 しかし、その中にも、神の許から来て門を通って入って来た 真の羊飼いの声を聞き分けることが出来る者たちもいた。九章 に登場した生まれながらの盲人がそうです。彼は、生まれなが らの盲人で物乞いをしつつ生きるほかになく、律法など守りよ うもないのですから、自他共に神に見捨てられた罪人と思う他 にない人でした。しかし、その彼こそが、主イエスの声、その 言葉に従って、シロアムの池で目を洗ったのです。これが洗礼 を意味することは既に語りました。罪を自覚せざるを得ない人 間だから罪の赦しを求めるのです。そして、神の業とは、罪を 赦し新しい人を新しく造り替える。主を礼拝する者として救い に導き入れることに他なりません。その業が、主イエスを通し て現れた。それが九章の内容です。
 この盲人は、まさに救いへと招き入れられたのです。しかし、 それは命がけのことでした。それまで生きてきた命を失うこと を意味していたからです。しかし、彼は見えない時に聞いたイ エス様の声、その言葉によって見えるようになったのだし、そ の声を忘れることはありませんでした。そして、見えるように なった時、再び同じ声の持ち主であるイエス様から「あなたは 人の子を信じるか」と問われ、「主よ、信じます」との告白に まで導かれた。つまり、新しい信仰共同体であるキリスト教会 における礼拝を捧げる者となったのです。そこに救いがありま す。何故なら、この時、彼は門を出入りして、まことの牧草を 見つけることが出来るようになったからです。人はパンだけで 生きる者ではなく、主の口から出る一つ一つの言葉によって生 きる者だからです。その言葉は、この礼拝において語られるの です。
 そして、六章で主イエスは、こうおっしゃっています。

「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲ま なければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、 その血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わ りの日に復活させる。」

 言うまでもなく、この主イエスの言葉は、私たちが礼拝の中 で守るというか、それ自体が礼拝であると言うべき聖餐の起源 となる言葉です。私たちの罪の赦しのために十字架に掛かって 死に、永遠の命を与えるために復活してくださり、今は聖霊に おいて共に生き、そして御言をもって導き、養い続けてくださ るイエス様を食べて生きる。そこに私たちの救い、永遠の命が ある。ここに良き牧草地がある。その命を与えられるために、 盲人は、それまで生きていた社会の外へ追い出され、そして新 しい共同体、真の牧者である主イエス・キリストを礼拝する共 同体へ招き入れられ、そこで養われ、導かれているのです。

 羊飼いの声を聞く

 そこで問題になるのが、「声を聞き分ける」、「声を知っている」 ということです。
 九章の後半から頻繁に出てくる言葉が「知っている」という 言葉であることは既に語ったことです。そして、この言葉は、 今週と来週にかけても一つのキーワードとなります。
 パレスチナ地方に旅行をした人が書き残した旅行記にこうい う文章があるそうです。
「羊飼いは、時々、自分の存在を知らせるために、鋭い呼び声 を発する。羊はその声を知っていて、それに従う。ところが、 違う誰かが呼ぶと、ちょっと立ち止まり、びくっと頭を上げる だけである。それを繰り返すと羊たちはくびすを返して逃げて しまう。その人の声を知らないからである。私も試みに何回か これをやってみた。」

 また別のイギリス人は、同じような光景に出くわして、パレ スチナの羊飼いに頼んで羊飼いと自分の服を交換して、羊たち を呼んでみたそうです。しかし、羊は少しも動かなかった。け れどもイギリス人の服を着た羊飼いが呼ぶと、ぞろぞろと動き 始めたというのです。彼らは、見た目で動く動物ではないので す。
 これは犬でも同じだと思います。べつに自慢したくて言うの ではないのですけれど、私は犬が好きで、前任地の松本でもこ の渋谷でも飼っています。本当に好きなのは、犬と山や森や川 に行って犬を放して散歩することです。松本では牧師館の裏が 川だったので、いつも放して散歩していました。向こうから犬 や人が歩いてくる時は、私が「あっち」と声をかければ犬は川 の中に降りて行って中州や川の中をバシャバシャと走り回り、 再び呼べばまたすぐ近くまでやってきました。妻や子どもが真 似してやっても言うことを聞かず、向こう岸まで行って好き勝 手に走り回ってしまうのでリードから放すことは出来ないので すが、私が飼い主で、ご主人様ですから、彼女は私が呼べば、 どこからでも走って帰ってきました。山の中で走り回って見え ない所まで行ってしまっても、私が大きな声で名前を呼ぶと帰 ってくるのです。
 他の犬の名を呼んでも駄目だし、私以外の声でも駄目なので す。そういう関係を犬と持つまでは、お互いにそれなりの苦労 や失敗があり、特に犬は私から恐ろしい躾を受けて、ほとんど 恐怖の中で言うことを聞いていただけかもしれませんけれど、 しかし、やはり呼べば来るという信頼、呼んでくれればいつで もご主人様の元に駆けつけます、行けと言われれば行きます、 来いと言われれば来ますという信頼関係があるから、森の中で も川の中でも放すことが出来るのです。そして、そこに自由が あり、喜びがある。飼い主の声を知らず、聞いても聞き従わな ければ、外に連れ出すことは出来ないし、リードから放すこと は出来ません。


 羊飼いに呼ばれる礼拝

 私たちの礼拝は、「招きの言葉」から始まります。そして、司 式者はその祈りの中で、しばしば、「今日も私たち一人一人の名 を呼んでこの礼拝に集めてくださったことを感謝します」と祈 ります。私は今日もそのように祈りました。これは事実でしょ う。私たちは一人一人、イエス様から名前を呼ばれているので す。呼んで頂いているのです。私なら、ちょっと自分で言うの は恥ずかしいですが、私が幼かった頃の家族の呼び方で言 えば「信坊、さあおいで。ご飯だよ。一週間疲れただろう。腹 減っただろう。さあ、ゆっくり休んでお腹一杯食べなさい」と か、「信坊、ここに来なさい。随分、お前は道に迷ったな。泥道 に入って、足が汚れてしまったじゃないか。洗ってあげよう。」 「信坊、ここに来なさい。お前、悪いことしたんじゃないの? 分かっているんだから。さあ、今日は、ちゃんと謝りなさい。 赦してあげるから。」そう呼ばれている。イエス様から。
 犬も、私の声一つで、怒られるのか、誉められるのか、餌を くれるのか、散歩に連れて行ってくれるのか、全部分かってい るのです。その表情や動作を見れば、それが分かります。私た ちは羊飼いのイエス様にとって羊なんです。今日も、それぞれ 名前を呼ばれて、「さあ、おいで」と言われてここに集まってき たのでしょう。この世の囲いから連れ出されて教会の門を入り、 この礼拝堂の中に入って来た。そして、ここで牧草を見つける のです。ここで休み、ここで食べ、ここで力を与えられ、ここ で道を示される。そうじゃないでしょうか?
 しかし、この世には、様々な声が飛び交っています。「こっち の水は甘いよ」「あっちの水は苦いよ」と滅びの道に誘い込もう とする声が満ち溢れている。キャッチセールスとか言って、体 に触って呼び止めて誘ってくる場合もある。渋谷などは、そう いうセールスの聖地のような所です。そういう人の声に従って ついていき、怪しげな門から中に入ったらとんでもないことに なるのです。そういう下卑た話ではなくても、高尚な話であっ ても、空しいものへの誘いの声は満ち満ちています。どう言い 繕ったって、金さえあれば老後は幸せだ、健康であれば人生は 幸せだ、という声はテレビを三十分でも見ればいくらでも聞く ことが出来ます。

 人間の幸福とは

 でも、私はもう何十人という方の葬式をしてきました。つま り、何十人という方の老後を垣間見、その死を見てきました。 そこで、いつも人間にとって幸せって何だ、と考えるのです。
 人は皆、最後は死ぬのです。どうしたって死ぬ。一昨日も、 前任地の教会員が百三歳で死んだことを知らされました。私た ちが心から尊敬し、信頼していた老婦人です。人は死ぬ。誰か が一緒に死んでくれるわけではない。一人で死ぬのです。しか し、重体になり、意識不明になり、何の反応も示せない時でも、 聴覚は残っているとよく言われます。だから枕元で語りかける ことが大事だ、と。意識不明の中で、一種の臨死体験の中で、「お 父さん、死んじゃ駄目。帰ってきて」と娘の声が聞こえて、意 識を回復したという話はよく聞くことです。耳は聞こえている のです。
 四月に亡くなって、今日の午後、教会墓地に埋骨するKさ んも最後の一週間はほとんど意識がない状態でした。でも、私 が行くと、姪御さんたちが、Kさんに「よかったね。おじち ゃん。教会の先生が来て下さったよ」と語りかけてくださいま した。そして、私が聖書の言葉を読んで、祈っているとき、そ れまでつぶっていた目が開いて瞳を動かしていたそうです。そ して、かろうじて動く、足の指先を前後に動かしてくださった ことは、私も見ました。しかし、その三日後に伺った時は、も うそういう応答もすることが出来なくなっていました。でも、 姪御さんたちは前と同じように語りかけ、そして、私も前と同 じようにイエス様の言葉を語り聞かせ、祈りました。聞こえて いると信じているからです。

 神の子の声を聞く

 この福音書で「声」が出てくる所を皆さん覚えておられるで しょうか。既に何回か出てきているのです。その内の一つは、 五章二四節です。そこでもイエス様は、今日のように、非常に 大事なことを語るときに使う「はっきり言っておく」と仰って から、こう言われています。

「はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしを お遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、 裁かれることなく、死から命へと移っている。はっきり言 っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やそ の時である。その声を聞いた者は生きる。父は、御自身の 内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持 つようにしてくださったからである。また、裁きを行う権 能を子にお与えになった。子は人の子だからである。驚い てはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子 の声を聞き、善を行った者は復活して命を受けるために、 悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るの だ。」

 イエス様の声を聞く。それが生死を分けるのです。肉体の生 死ではありません。肉体は皆死にます。しかし、肉体の中に永 遠の命が宿るか否かがイエス様の声を聞くか否かで分かれるの です。そして、その命が墓の中に入ってから決定的な違いを生 み出す。死んだ者もイエス様の声を聞く。私たちは、そのこと を信じて墓前礼拝に行くのです。しかし、その時、「善を行った 者」は復活して命を受ける。「善」とは所謂道徳的な意味での 善ではありません。イエス様の声だけを聞いて、イエス様にだ けついて行ったということです。この世からは追放されようと、 死刑宣告されようと、罪人として断罪されようと、「私はこの羊 飼いについて行きます。その声に従って行きます。この人が来 いと言えば、どこからでも行きます。そこにだけ命があること を信じます」と言って、羊飼いに従うこと。それが、ここでの 「善」です。社会的評価は何の関係もありません。いわゆる善 人が救われるのではない。善人であれ、悪人であれ、イエス様 の声を聞いて、信じて、その声に従う時、地上に生きている今 既に永遠の命を与えられ、死から命へ移されているのです。そ の命を養うのは、イエス様の声、イエス様の言葉、その肉、そ の血なのです。そのように生きるのがキリスト者です。そして、 そのキリスト者は、肉体の死の後、墓の中でもイエス様の声を 聞くことが出来、復活させられるのです。
 死の直前にも、そのイエス様の声を聞いて信じることが出来 る。人間の幸せとは、そこにあるのではないか。富を持ってい ようと、健康であろうと、この声を知らず、この声を聞くこと が出来ないとすれば、そして聞いても信じることが出来ないな らば、私たちはただ死ぬだけだし、その後に希望はありません。
 昨日、百三歳の老婦人の死に寂しさを覚えているだろう数人 の方と電話でお話をしましたが、皆、一様に信仰に生きること が出来る喜び、復活の希望が与えられていることの感謝を語っ ていました。皆、八十歳を越えた方たちです。

 死の直前でも墓の中でも聞くことが出来る声

 今日、Kさんと共に埋骨されるMさんは、ダウン症と いう障害を与えられた人生を歩まれました。そして、少年時代 に同じ障害を与えられている牧師の息子さんから、「イエス様を 信じて洗礼を受けないと天国に行けない」という言葉を聞いて、 「僕も洗礼を受けたい」と願い、その願いはそれから実に四十 年を経て、死の四日前にそのことが実現したのです。イエス様 が、名前を読んで、洗礼を授けてくださった。そして、その直 後に聖餐の食卓を備えてくださいました。Mさんは、「わたしの 肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたし はその人を終わりの日に復活させる」というイエス様の言葉 と共に、パンとぶどう酒を食べ、飲み、その四日後にやはりイ エス様に名を呼ばれて父の住まいに移されたのです。Kさん は、死の三週間前に「イエス様を、永遠の命として、贖い主と して、アーメン、アーメン」と祈られました。Kさんも、Mさんも、 死の間際にイエス様の声を聞き、この方が、羊のた めに命を捨て、自分の命と引き換えに永遠の命、天国の命を与 えてくださるお方であると信じて生き、そして死ぬことが出来 た。私は、ここに人間の幸いがあると思います。私もそうやっ て生きたいし、死にたいです。いつでも主イエスの声を聞きた いです。そして、いつまでも聞きたい。そして、従いたい。そ して語りたい。そのように生かされたい。使命が終わるまで。
 聖書に記されていること、そこに記されているイエス様の言 葉が「何のことか分からない」まま生きることも死ぬことも不 幸です。この言葉に命があるのですから。
 今日、それぞれイエス様に名を呼ばれてこの礼拝堂に集まっ たひとりでも多くの方が、聖書とその説き明かしをとおして、 イエス様の声を聴き取り、イエス様について行くことが出来ま すように。聖霊の導きを祈ります。
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