「わたしは良い羊飼い」

及川 信

ヨハネによる福音書 10章 7節〜18節

 

イエスはまた言われた。「はっきり言っておく。わたしは羊の門である。わたしより前に来た者は皆、盗人であり、強盗である。しかし、羊は彼らの言うことを聞かなかった。わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。羊飼いでなく、自分の羊を持たない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして逃げる。――狼は羊を奪い、また追い散らす。――彼は雇い人で、羊のことを心にかけていないからである。わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる。わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。わたしは命を、再び受けるために、捨てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。これは、わたしが父から受けた掟である。」
この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」 ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」

先頭に立つ羊飼い ついていく羊


  今週と来週にかけて一〇章七節以下の御言に聴いていきたいと思います。
 先週は一節から六節まででしたが、一回では語りつくせないことがいくつもありました。その一つは、羊飼いは「自分の羊をすべて連れ出すと先頭に立って行く」という言葉です。羊飼いは「先頭に立って行く」。パレスチナのような急峻な地形の場合、羊飼いは羊を追い立てるのではなく、自分が先頭に立って安全な道を探して歩かねばならないのです。そして、羊はその羊飼いの声を聞いてついていかないと、危険だらけなのです。

  盗人 強盗 雇い人

先週の箇所にも今日の箇所にも「盗人」とか「強盗」が出てきます。しかし、先週は神の民イスラエルを神の許に導かねばならないのに、自分たちの名誉や富を確保するために利用する人々が言われていたのですが、七節以降では、新しいイスラエルとして誕生したキリスト教会に入り込む指導者たち、現代で言えば私のような牧師とか神父とか、そういった人々を表す言葉としても使われています。「雇い人」もそうです。教会を自分の目的のために利用する牧師、あるいは利用価値がなくなったり、迫害が来て危険が迫れば、真っ先に教会を見捨てて逃げていく牧師。そういう人々のことがここで言われています。
 そういう現実がある中で、イエス様はご自身を「門」に譬えたり、「羊飼い」に譬えたりしているのです。この場合のイエス様とは、言うまでもなく肉体をもっていたイエス様であるだけでなく、今も聖霊において教会の中で生きて働き、語りかけてくるイエス様です。

声を知っている

四節五節に、「羊はその声を知っているので、ついていく。ほかの者には決してついて行かず、逃げ去る。他の者たちの声を知らないからである」とありました。先週、予告していたことですが、問題は「知っている」という言葉です。
 卑近な例で言うと、家族に電話する時、私たちは、しばしば「俺だけど」とか「わたし」とか言います。その言い方と声で、誰だか分かるのです。そして、見えないのに「俺」とか「私」と言うだけで誰だか分かるのは、そしてその声が聞けることが嬉しいのは、お互いによく知っている間柄、愛し合っている家族であるからです。
 でも、息子や孫が遠くに住んでいて、毎日、顔を合わせているわけでもないし、声を聞いている訳でもないということはいくらでもあります。でも、親や祖父母は、子や孫のことを愛情をもって心配している。その親密な関係、しかし、空間的時間的には離れている家族を狙って、いわゆる「オレオレ詐欺」というものが頻発している。これも事実です。一緒に生活をしている時には、聞き分けることが出来た孫の声、息子の声が、少し聞かない内に電話では分からなくなる。事故を起こしたとか、痴漢で捕まったとか、サラ金で命を狙われているとか、とんでもないことを聞かされて気が動転してしまうので、尚更分からなくなる。そして、慌てて送金をしてしまう。そういうことがあります。声を聞き分ける、声を知っているか否か。それは、大きなことです。そのためには、毎日声を聞くことが大事です。聖書は少しでも毎日読まねばなりません。
「知っている」ということに関して、また少し違った角度から考えてみると、たとえば子どもが「ただいま」と言って学校から帰ってくる時、子どもに関心を持っていない親なら、子どもが帰ってきたことだけをそこから知るでしょう。でも、普段から子どものことを気にかけている、愛している親ならば、その時の子どもの声の調子、また表情や仕草を見逃さないでしょう。親の顔を見て「ただいま」と言っているのか、目を背けて言っているのかなどなど、そこにはいくつものことがあり、その一つ一つを通して、自分の子どもにとって今日の一日が楽しい日だったのか、それとも何か困難なことに直面したのかを察知するでしょう。そして、その上で、黙って見守るか、「それとも何かあったの?」と訊くか考えるだろうと思います。子どもは子どもで、親の「お帰り」という声を聴きながら、色々なことを瞬時に感じ取るでしょう。そういうことが起こるとすれば、それはただ知っているだけでなく、お互いに「よく知っている」親子です。もちろん、夫婦であれ、それは同じことです。
一つの言葉の中に、その言葉を発する声の中に、どういう思いが込められているかを聴き取ることが出来るか出来ないか。それは、相手をよく知っているかどうかに掛かります。そして、その場合の「知る」とは「愛している」ことと同じです。愛していないと知ることは出来ないのです。それも「よく知る」ことは出来ない。そういうものです。
だから、聖書に記されているイエス様の言葉について歴史学的に言語学的に色々勉強して、「この言葉は、こういう意味である」と確定したところで、「それがどうした!」ということなのです。それは声を聞き分けることでも、知っていることでもありません。問題は、ただ単に知っていることではなく、愛なのです。
羊飼いの愛を知っている。イエス様が自分を愛してくれる羊飼いであることを知っている。その愛を心と体に感じることが出来る。そして、そのイエス様を愛している。そういう愛の関係を羊飼いとの間に持った羊は、羊飼いの声を聞き分け、その声を知り、ついていくのです。

「知っている」の深まり

イエス様は、一節に続いて「はっきり言っておく」と仰った上で、
「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を棄てる」と仰いました。
 羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために、羊飼いであるイエス様が命を棄てる。命を失う。それは、どういうことなのでしょうか?続きを読みます。

「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を棄てる。」

 ここにも「知っている」という言葉が繰り返し出てきます。でも、原文では四節の「羊はその声を知っている」の時に使われる言葉と違う言葉が使われています。四節の方はギリシャ語ではオイダですが、こちらの方はギノースコウという言葉が使われているのです。
 先ほど日本語の「知っている」にもいくつもの層、あるいは次元があることを言いましたが、イエス様は、そのことをここで表現しているのではないかと思います。「声を知っている」ことの中に、既に、ただ他の人との声の違いを認識しているだけでなく、互いに愛し合っているという面があることを言いました。それは、愛されていることを互いに信じているということです。そういう次元が、ここにはある。しかし、「良い羊飼いである」イエス様が「自分の羊を知っている」という場合、それはさらに深まった知識を表しているのです。
たとえば、最初の人類である「アダムがエヴァを知った」と創世記四章には出てきます。そこでの「知る」はギノースコウですが、それは夫婦の行為を表す言葉なのです夫と妻が体を含めて愛し合う行為を「知る」(ギノースコウ)と聖書では言います。全身全霊を傾けて互いに愛し合う。一体となる。そういう関係性を「知る」と言う。だからその言葉は、「発見する」とか、「理解する」という意味を持ちます。見聞きして知るだけでなく、もっと体を含む形で、霊肉共に知る。深く愛し合い、信頼し合う。そういう関係性を表す言葉なのです。
 イエス様が、そういう形で自分を知っていてくれる。愛してくれる。信頼してくれている。そのことを知ることが出来る。それは当たり前のことではありません。それを知りさえすれば、もう後は何も要らないと言ってもよいことではないでしょうか。少なくとも、私にとってはそうです。

「良い羊飼い」との出会い

 今日発行された『会報』の巻頭言に特別に三ページに亘って「信じるものがあることの幸い」と題する説教を掲載させていただきました。今年は三月、五月、六月と三回、青山学院中等部卒業礼拝、女子短期大学キャンパス礼拝、青山キャンパス礼拝で説教をさせて頂くのですが、すべてヨハネ福音書一〇章一一節の言葉で語らせて頂くことにしました。語りかける対象は違いますし、与えられた説教時間がすべて違うので、その都度、原稿は書き換えていかねばならないのですけれど、少しも苦にならず、毎回、嬉しくて仕方ありません。「会報」に掲載させていただいたのは、先日の女子短期大学の礼拝で語った説教です。是非、お読み頂きたいと思います。今日と来週にかけて、私にとっては最も大切な中渋谷教会の礼拝で同じ箇所で新たに説教させていただけることも本当に嬉しいことです。
先週の説教の中で「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を棄てる」という言葉を心の拠り所にしている人もいるだろう。私もその一人だ、と語りました。私は、中学生の頃から、何につけ非常に反抗的な少年で、大人を信用できないと思っていましたから、親とか教師を絶えず疑いの目で見ていました。大人は色々と綺麗事を言っていても、結局は自分の立場を守るために生きているんだ、と思っており、そういう大人の言うことは信用しませんでした。でも、次第に自分もそういう大人になっている、なっていくしかないことに気付き始め、次第に、人のことも自分のことも何も信用できないという感じになっていきました。そうなると、人と本当に心を開いて付き合うことは出来ないわけで、結局、人とは一切会いたくないということになる他にありません。誰も信用せず、誰からも信用されない。そして、自分自身のことを全く信用しない、出来ないのですから、もうどうすることも出来ないのです。下宿の部屋に閉じこもる以外にありませんでした。それは大学一年生の時のことです。
そういう時に初めて、自分の意志で貪るように聖書を読みました。それはやはり真実の言葉に出会いたかったということだし、その真実な言葉を語る人に出会いたかったということだと思います。そういう日々の中で、このイエス様の言葉に出会った時の衝撃と喜びは忘れることはありません。私はこの言葉と、この言葉を語ったイエスという人と出会うことが出来たことで生きることが出来ると思えました。それ以後、数々の過ちを繰り返すたびに、しかし、この言葉とそれを語りかけてくださるイエス様との交わりの中に立ち戻らされて今も生きることが許されているのだし、結局、この方の愛と信頼を受けて、この方を愛し、信頼し、ただこの方がいるという事実を証しするために生きているのだと思うのです。そして、その過ち多き人生の中で、次第次第にイエス様がどういうお方であるのかを深く知っていくことが出来る。オイダからギノースコウへと深まっていく。聖書の言葉の深み、その力を、前よりもよく知っていくことが出来る。それが生きる喜びです。そして、その喜びを、私の場合はこうして説教させていただくことによって与えられています。

本当の言葉を語るイエス様

何故、私がそう思ったか、また今も思えるのか?それは、このイエスという人が自分が言った言葉通りに生きたことが明らかだからです。「わたしはあなたを愛している。あなたのためなら命を棄てる。わたしの愛は永遠です。」こんなことを他人に言う人はいるかもしれません。口説き落とそうという魂胆があれば言うかもしれない。綺麗事を言いたがる大人の中にはいるかもしれない。自分を錯覚している人も言うでしょう。でも、自分が言った言葉通りに生きる人も死ぬ人もいはしない。でも、この人は、言った通り生きたし、死んだ。聖書は、結局、そういう人が歴史の中に生きていたという事実、そして、その人が死んだ後に復活して今も生きており、今も人々を愛し、その愛を信じて生きて欲しいと語りかけている。ただその事実を書いているのが聖書なんだ。そう思いました。そして、それから三〇年以上経った今も、そう思っています。

嘘しか言えない人間

そして、聖書を読み進めて行くと、私が完全に自己同化出来ると言うか、してしまう人物が出てきます。それは、ペトロです。
彼はイエス様の弟子の筆頭株です。そのペトロは、この後、十字架の死に向かって歩まれるイエス様に向かって、こう言いました。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を棄てます。」
イエス様は、こうお答えになりました。
「わたしのために命を棄てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」
 これは、イエス様と弟子たちが最後の晩餐を共にした直後の会話です。その時、イエス様は弟子たちにこうおっしゃっていたのです。
「あなたがたに新しい掟を与える。」  少し「掟」について話しておきますが、この「掟」という言葉は今日の箇所にも出てきます。
「わたしは命を、再び受けるために、棄てる。それゆえ、父はわたしを愛してくださる。・・・わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることも出来る。これは、わたしが父から受けた掟である。」
 ここでも「掟」「愛」と関係した言葉です。最後の晩餐の時もそうです。主イエスは続けてこう仰いました。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
 イエス様が弟子たちを愛したように、弟子たちが互いに愛し合う。そのことが、イエス様の弟子であることの証しなのです。その証しを立てなさい!とイエス様は命令されている。「掟」とは「命令」の意味でもあるからです。その命令を受けた直後にペトロは、「私はあなたのためなら自分の命を棄てます」と宣言したのです。掟を守ります。命令に従います、と。しかし、その彼に対してイエス様は、「いや、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」とお答えになりました。そして、その言葉が現実になったのです。
ペトロは人間です。人間の愛は、そういうもの。信用なんてできないものです。浮かれ上がって何を言おうと、興奮して何を言おうと、その気になって「愛している」と言おうと、いざとなれば、「あの人のことは知らない」と言うのです。そして、その事実をイエス様は知っている。よく知っているのです。よく知った上で愛しているのだし、愛に生きて欲しいと願っているのだし、愛に生きることが出来るのだと仰っている。しかし、それは一体、どのようにして可能なのか。人間の中に愛なんてない。信用できる愛なんてないのですから。
 ペトロは、イエス様が死刑宣告を受ける裁判にかけられている時、その裁判所のすぐ近くで、「お前は、あの男の弟子ではないか」と三度もその場にいた人に詰問され、そして三度、「違う」と否定しました。「わたしは、そうではない」が直訳です。「わたしは、そうではない。」これは、ペトロの自己保身のための逃げ口上です。しかし今回初めて思ったことですが、その自己保身は同時に、「わたしは、イエス様の弟子なんかではない。イエス様が愛してくださったように愛に生きるなんて、愛のために死ぬなんてことは出来ないのだから」という痛切な自己否定でもあるような気がします。ペトロは、イエス様を否定し、そして自分を否定せざるを得なかった。自分の命を惜しんで。でも、その時、彼は命拾いをしたようでありつつ、実は、命を失ったのです。人間の命は、その本来的な意味では愛と信頼の交わりの中でしか生きることが出来ないからです。そして、その愛と信頼の根源は、神様からの愛と信頼なのですから。

「命」とは

 その「命」に関して、しばらく御言に聴きたいと思います。一〇章で、主イエスは、「わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と仰いました。そしてその後、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を棄てる」と仰っています。ここで両方とも「命」と書かれています。しかし、実は違う言葉が使われています。日本語でも「命」と漢字一字で書いたり、「生命」と書いたり、平仮名で「いのち」と書いたりして内容やニュアンスを区別することが出来ますけれど、「羊が命を受けるため」「命」はゾーエーという言葉で、それは「永遠の命」という形でしばしば使われます。つまり、肉体の命を越えた命、「言の内に命があった」と一章に出てくる意味での「命」です。それに対して、イエス様が「命を棄てる」という場合の「命」はプシュケーで、それは肉体的な命を現す場合が多いし、その意味で「生きている人間」をも表します。事実、「命を棄てる」の「棄てる」と訳された言葉は、後でイエス様の体が墓の中に「置かれる」という意味で使われるのです。
 そして、一二章でイエス様は「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」とも仰っています。この場合の「自分の命」はプシュケーで「永遠の命」がゾーエーであることは言うまでもありません。
 だから、ペトロは「わたしは、そうではない」と言って、自分のプシュケーを愛し、それを保つ道を選んだのです。しかし、そのことで、ゾーエーに至る道を自ら棄ててしまった。そういうことになります。そして、それが人間なのです。それが人間。そこに例外はない。そのことを、同じ人間として生まれたイエス様は肌身をもって知っている。「よく知っている」のです。
 イエス様は、人間のその嘘、あざとさ、弱さ、醜さのすべてをよく知っている。そして、そのすべてを人間に知らせます。イエス様の声を聞いてついていくとは、一面では、そういうことです。イエス様が愛してくださったように互いに愛し合うことなど、人間には不可能なことなのですから、その不可能なことに向かっていくことは即ち絶望に向かっていくことです。信仰の道とは一面から言えば、まさに絶望の道です。人間には完全に絶望する。そのこと抜きに、人として生きたイエス様を神と信じることは出来ません。自分を含めて人というものに希望を持てる間は、信仰に命をかけることなどする必要はないのですから。
 イエス様は、人間がどういうものであるか、そのことを誰よりもよく知っている。その上で、その人間を愛する。そして、その人間である「羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるために」「命を棄てる」のです。しかし、それは「再び受ける」ためでもありました。

復活のイエス様との出会いと命令(掟)

 愛する弟子のユダに裏切られ、そしてペトロを初めとするすべての弟子に逃げ去られ、本来神の民であるユダヤ人に神を冒?する罪人、またローマ帝国への反逆者として訴えられ、ローマの総督ピラトに死刑判決を受けて十字架に磔にされたイエス様は、墓の中に、その身を置かれました。ここに棄てられたとも言えます。
 人間は、それですべてが終わったと思いました。殺したいと思った側の人間は、これで一件落着と思った。「あなたのためなら命を棄てます」と言いつつ、「わたしは、そうではない」と言って、プシュケーとしての命を愛し、ゾーエーとしての命を棄ててしまったペトロを初めとする弟子たちは、まさに生ける屍となって部屋の中に閉じこもってしまいました。自分自身を含めてすべての人間に絶望して、もう言葉を発することも出来なかったでしょう。人間の言葉なんて、みんな嘘なのですから、発するだけ空しいことです。
 しかし、主イエスが墓に棄てられてから三日後の日曜日の夕方、そういう彼らが閉じこもっている部屋、鍵を締め切った部屋の中に、復活の主イエスが現れてくださったのです。そして、神様が最初の人類アダムを創造された時の様に、命の息を吹きかけてくださったのです。そして、こう言われました。

「聖霊を受けなさい。だれの罪でもあなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

愛に生き得ない人間の限界が罪であり、その罪の結果が死であるとするならば、この時、弟子たちはその罪を赦され、ゾーエーとしての命を聖霊と主イエスの言葉によって与えられたのです。この時、新しい人間が誕生したのです。そして、その新しくされた人間は、どのように生きるのかが示された。それは、まさに主イエスが愛してくださったように生き、そして死ぬという不可能なことです。
人間にとって最も困難なことは、自分に罪を犯した者を赦すこと、罪を赦す愛で愛することです。それは、この世における自分の命を愛する限り出来ることではありません。不可能なことなのです。ただ、新しい人間だけが、聖霊を受けて主イエスの声を聞き分けて従う人間だけが可能なことです。罪の赦しを与える愛とは、神様だけが持っている愛なのであって、私たちが持っている愛ではないからです。ただ、聖霊なる神様の愛が私たちの中に流れ込んでくる時にのみ、そして私たちがその聖霊を心を開いて受け入れる時に、私たちを通してその愛が流れ出ることがある。只、その時だけです。只、その時だけ、不可能は不可能になるのです。

「あなたは、よくご存じです」

 三度主イエスを否んだペトロを初めとする弟子たちに、主イエスは三度現れて下さいました。その三度目に、主イエスはペトロに向かって、こう尋ねられた。

「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか。」
「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です。」


 ここで「知る」(オイダ)が出てきます。主イエスは、ペトロに「わたしの小羊を飼いなさい」と命じます。そして、また同じ質問をし、ペトロは同じ答をする。すると、主イエスは「わたしの羊の世話をしなさい」と仰いました。そして、もう一度、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と言われたので、ペトロは悲しみました。そして、こう言ったのです。

「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」

 「羊飼いは自分の羊のことを知っており、羊も羊飼いを知っている。」
そこで使われるギノースコウが、ここで「よく知っている」という言葉で出てきます。主イエスは、ペトロの弱さを最初から「よく知って」いました。そして、今、彼が聖霊の注ぎの中で罪を赦され、新たな力を与えられていることを。そして、今こそ、主イエスの羊を飼う務めにつく時であることをよくご存知なのです。彼は、主イエスに託された羊を、良い羊飼い、真の大牧者である主イエスの声を聞き分け、その声に従い、豊かに命を受けることが出来るために、羊を飼う務めにつかねばならないのです。その務めとは、絶えず聖霊を求め、主イエスが語る言葉をそのまま語ることです。ペトロは、神父とか牧師と呼ばれる人間の最初の人物ですが、そういう立場の人間に求められていること、それは良い羊飼いの声に従い、その声となることです。説教において、キリストの声を聞いて、聞いたままに語ること。それが羊飼いとしての牧師の務めの第一義的なことです。牧師は、そのためにいるのです。
主イエスは続けてこうおっしゃいました。

「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」
ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。


 ペトロは、この時、自分の内なる声に従って「わたしは、そうではない」とは言わない人間になっていました。自分の行きたい所へは行かない。先頭に立って行かれる「良い羊飼い」の声だけを聞いて、その後に従う人間になりました。「両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」とは、伝道地を自分で選ぶことが出来ない、派遣される所であればどこへでも伝道に行かねばならぬという伝道者の使命を表しているとも解釈できますけれども、これは死刑執行人に腰に縄をかけられて刑場に連れて行かれる姿であると言われます。そうなんだろうと思います。彼は、裏切る彼を決して見捨てず、彼のために命を棄て、そして再び受けて語りかけてくださる主イエスの声を聞く中で、自分の命を棄てて羊を飼う羊飼い、牧者になっていったのです。ペトロについては、ローマで逆さ十字架に磔にされて死んだという伝説が残っています。

聖霊と言葉によって誕生する新しい人間

 ペトロは、これ以後、何度も何度も様々な所で説教しました。その都度、こう語ったと思います。
「わたしは、主イエスの弟子です。主イエスを愛しています。主イエスの愛を信じています。だから、私にはもう永遠の命が与えられています。豊かに与えられています。だから、もう肉体の死を恐れはしません。二度と、『わたしは、そうではない』とは言いません。私は、この方こそ救い主であると信じます。だから私は幸せです。人のことも自分のことも信じることが出来ない私ですが、ついに信じることが出来る方と出会ったからです。この方も、私を信じてくださっています。そして、愛してくださっています。だから私の罪を赦し、罪の赦しの福音を語る者として選び立ててくださったのです。私は、このイエス様を愛します。だから、私は幸せです。この方への信仰と愛を語ることで殺されるのであれば、それはそれで幸いです。そこに神の栄光が現れるでしょう。こうして、イエス・キリストのことを証して生きることにおいて、死ぬことにおいても神の栄光を現すことが出来るなんて、私はなんと幸いなことかと思います。私は、先頭に立って歩んで下さるこの良い羊飼いの声に従って歩くだけです。皆さんも、この良い羊飼いの声を聞いて下さい。そして、信じてください。そうすれば、命を豊かに受けることが出来ます。そして、生きるにおいても、死ぬにおいても、神の栄光を現すことが出来るのです。こんな幸いなことはありません。」
 良い羊飼いであるイエス様は、その命を棄てる愛で、ペトロという一人の人間を、このように造り替えてくださったのです。私たちが生きる希望は、この方の愛にだけあります。そして、私たちの人生の幸い、それはこの方の愛を信じることが出来るところにあるのです。
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