「一人の羊飼い、一つの群れ」

及川 信

ヨハネによる福音書 10章 7節〜21節

 

ヨハネ福音書の一〇章を読んでいます。聖書を繰り返し読みつつ黙想をしていく。それは宇宙の彼方からかすかに届く電波をキャッチするためにアンテナをあちこちに向けるような作業です。声にならない祈りをもって、天に向かってアンテナを伸ばしてあちこち動きまわす。そうすると次第に電波の波長があってきたり、方向があってきたりして、ザーという雑音の中に、かすかな声が聞こえてきて、それが次第に大きくなり、また鮮明になってくる。また、何も見えなかった画像にたしかな絵が映って来る。そういう時の幸せは、言葉に出来ません。

囲い 門 羊飼い

 一〇章の最初に、「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者は、盗人であり、強盗である。門から入る者が羊飼いである。門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」とあります。
ここに「囲い」とか「門」という言葉が出てきます。最初の説教でそのことについて触れましたが、当時の羊の囲いとは住宅に附属していたものがあったようです。一節から六節に出てくる囲いはそちらのもののようです。街中にある羊の囲いです。だから門番がいる。
 でも七節以降に出てくる門は、やはり羊の囲いの門なのですけれど、こちらの方は草原の中にある囲いを前提としているようです。その囲いの中にいる羊を盗む盗人とか強盗が、ここにも出てきます。しかし、こちらは街中ではないので「狼」も出てきます。そして、「門番」はいない。あるパレスチナ地方の旅行記によると、二〇世紀になってもそういう囲いがあって、その囲いには出入口はあるけれど門はなかったそうです。羊飼いに、「門がないけれど、これで平気なのか」訊いたら、羊飼いは「私が門だ」と答えたというのです。夜、羊飼いは羊をその囲いの中に集める。すると羊飼い自身がその出入り口に寝そべるのだそうです。狼が来るにしても、狼はその羊飼いを跨いで囲いに入らなければいけない。そうなった時に、命をかけて羊を守る羊飼いと、さっさと逃げる羊飼いがいる。門と羊飼いは実は同じであって、羊の命を守るものなのです。イエス様は、そういうことを背景にして、この言葉をおっしゃっているのかもしれません。
門は、永遠の命に至る門、あるいは天国に至る門です。この門を通って囲いに入る時に、本当の平安、安らぎを得る。そういう救いに至る門です。そして、羊飼いは自分の命を捨てることで、羊に命を与える、それも豊かに与える羊飼いです。単に羊たちの肉体の命を守るために命を捨てるのではなく、捨てることを通して再び受け、その永遠の命を羊たちに与えるのです。この良い羊飼いの声を聴くことが出来る喜び、そして、この羊飼いに守られる平安、そして羊飼いに導かれ、時にその腕に抱かれたり、背負われたりしながら、神様との永遠の交わりの中に入れていただける望み、それは、「それさえあれば生きていける」というものだと思います。

知る 愛する

先週の説教で、四節に出てくる「羊はその声を知っている」の「知っている」はオイダというギリシア語が使われているけれど、「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。わたしは羊のために命を捨てる」という言葉の中に出てくる「知っている」はギノースコウという言葉が使われている。それは同じ「知る」でも次元が違うのだと言いました。「羊飼いの声を知る」の中に既に、羊飼いに対する羊の愛と信頼があることは言うまでもありません。しかし、一四節の「知る」は、羊が羊飼いの声を知るだけでなく、羊飼いと羊が互いに「知る」とあり、その「知る」は夫婦の交わりを指す場合にも使われる言葉です。全身全霊を傾けて愛し合う。互いを受け容れあう。そういう交わりのことを、ここで「知る」と言っているのです。そして、それは主イエスによれば、羊のために命を捨てるという具体的な愛そのものなのです。
この羊飼いの愛、それはまさに神様の愛です。もう何度も読んできた言葉ですが、三章一六節にはこうあります。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 独り子を与える。それは独り子を十字架につけることであり、独り子が死ぬということです。最近は、例外的なことがよくあって何と言って良いか分かりませんが、親にとって最悪の不幸、悲しみは、自分の子どもが死ぬことです。それは考えることさえ拒絶したいことです。それも一人っ子が死ぬ。それも人々に殺されて死ぬ。愛した人々に憎まれて殺されて死ぬ。殺されることが、殺す人を愛することである。独り子は、父を愛するが故に、父の御心のままに死ぬ。そして、父も子を愛するが故に、しかし罪の闇の中にいる私たち一人一人も愛するが故に、独り子を十字架にかける。そこに父の子に対する愛がある。これは神秘としか言い様がない父と子の愛です。

神の愛と人の愛 羊飼いと羊

 ここはよく聞いていただきたいのです。イエス様は、今日の箇所で、こういう父なる神様とご自身の間にある愛と信頼の関係と同じ関係が私たちとイエス様の間にあるのだとおっしゃっているのです。私は愕然とする思いです。「そんなことはあり得ない」と言わざるを得ないのではないでしょうか。神の愛と人の愛は違います。同じであるわけではない。あるわけがない。神は神。人は人です。羊飼いは羊飼い、羊は羊です。羊飼いになるわけではないのです。
でも、考えてみると、ヨハネ福音書で最初に出てくるイエス様に対する称号は、あの洗礼者ヨハネが言った言葉ですが、こういうものでした。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」

 羊飼いではなく、小羊、無垢な小羊、犠牲の小羊として、イエス様は最初に登場するのです。
 弟子のペトロは「あなたのためなら命を捨てます」と言いましたが、彼は捨てませんでした。命を捨てる愛は、その時の彼にはなかったのです。彼が卑怯な人間だからではありません。彼が人間だからです。でも、その彼のためにも、イエス様は十字架に掛かって死んでくださいました。そして、復活し、彼に聖霊を吹き込んでくださった。罪の赦しと新しい命の息吹を吹き込んでくださった。その後、イエス様がペトロに言ったこと。それは「わたしの羊を飼いなさい」「わたしの羊の世話をしなさい」です。迷える羊は、ここで羊飼いにされている。イエス様の声に従わなかった、従えなかった羊が、今、イエス様の声を伝える羊飼いとして立てられるのです。しかし、その羊飼いは、もちろん大牧者であるイエス様とは違います。イエス様は自ら命を捨てます。でも、ペトロは自分では捨てたくはないけれど、いつの日か、腰に縄をかけられて、殺されてしまうのです。また、彼の死が人々の罪の贖いになるわけではありません。罪の贖いのために死んだのは、神の小羊としてのイエス様だけです。でも、ペトロはイエス様に従う羊として生きることによって羊飼いとされ、その殉教の死をとおして神様の栄光を現すことになります。人間には、肉体の死を越えた命があることを、肉体を越えた霊による永遠の交わりがあることを、彼はその生と死を通して現していくことになる。それは、彼の中にイエス様の命が生きているからです。その命が聖霊によって流れ込んできたからです。パウロの言葉を使えば、「最早我生くるにあらず、キリスト、我が内において生くるなり」という現実があったからです。そういうキリストとの霊的な一体性、一体の交わり、命を捧げて愛してくださるイエス・キリストを、命を捧げて愛する。そういう愛の交わりを、イエス・キリストが、ペトロに限らず、私たちに与え、また求めてくださる。その言葉をもって語りかけてくださる。そして、愛に生きる命そのものと言うべき聖霊を吹き入れてくださる。その時、ただそのに時だけ、私たちは神との愛の交わりの中に入れられ、愛に生きることが出来るのだと思います。そして、私たちの喜びとか希望は、そこにあると思います。いや、そこにしかないのです。

囲いの外の羊

 今日、特に耳を澄ませたいのは、その後の言葉です。

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かねばならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

 先週、一節に出てくる「囲い」は当時の神の民であるユダヤ人の社会、ユダヤ教の社会を現しているけれども、七節以降の「囲い」はイエス様によって新たに造られたキリスト教会を現すというようなことを言いました。ことはそんなに単純に分けられる話ではないかもしれませんが、「囲い」は外と内を分けることに変わりはありません。
 私たちは皆、それぞれにイエス様に見出され、声をかけられ、手を差し伸べられることによって洗礼を受け、今日もこうしてイエス様の声を聴くために礼拝堂の中に集まっているキリスト者です。キリストが門である囲いの中に入った羊の群れなのです。しかし、当然の事ながら、この礼拝堂の壁一枚隔てた外には、イエス様の声など聞いたことがない数多くの人々がいます。私たちが考えなくても、イエス様はその一人一人のことを考えています。イエス様を信じる者が一人も滅びないようにと、今も熱き愛をもって、この礼拝堂の外にいる人々のことを思っています。それは確実なことです。私たちも、かつてはこの囲いの外にいたのです。それは事実です。
 今月は、いよいよ年に一回の特別伝道礼拝を開催します。伝道礼拝は、伝道委員会が開催するのではないし、伝道者である私個人が開催するのでもありません。教会という囲いの中にいる私たちの羊飼いであるイエス様が、囲いの外にいる羊に御自身の声を聞かせるために開催されるのです。そのことをよくよく覚えて、私たちはそれぞれに祈りをもって備えていきたいと思います。

「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

 日本語の表現では分かりにくい面がありますが、この「聞き分ける」とか「群れになる」という言葉は未来形です。今そうなっているわけではない、しかし、いつかそうなる。イエス様は、そうおっしゃっている。そして、イエス様は「わたしは導かなければならない」と言われる。しばしば言って来たことですが、この「ねばならない」はギリシア語ではデイと言います。この言葉は、それはしばしば神様の救いのご計画、必ず実現するご計画を表すときに使われるのです。イエス様が使う時、そこには神様の御意志を実現していく強い意志をもってのことです。そして、それは十字架に磔にされることと復活との関連でお使いになる。

一つ

 このイエス様の言葉におけるキーワードは、「一つ」という言葉です。今現在囲いの中にいる羊たちと、今は囲いの中にはいない羊たちが、一人の羊飼いに導かれる一つの群れになる日が来る。そのために、私は囲いの外に出て声をかける。そういうことです。
 この箇所を読んで私が思い起こすのは、この先の一七章におけるイエス様の言葉です。一七章は、すべてイエス様の祈りなのです。その中で、今日の箇所と深い関連のある祈りだけをピックアップして引用します。
 最初に、イエス様は、イエス様が弟子たちに与えた永遠の命とは、「唯一の真の神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」と仰り、目の前にいる弟子たちは、そのことを知りました。信じたからです、とおっしゃった。そして、彼らがその信仰に留まり続けることが出来るように祈り、さらに彼ら、つまり、キリスト者とされた私たちの言葉を通して信じるようになる人々のために祈られるのです。

「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」

 ここからが大事です。

「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。」

   ここに繰り返し「一つ」という言葉が出てきます。そして、愛の交わりを表す「知る」(ギノースコウ)と「愛」(アガペー)が出てくる。伝道礼拝でだけ私たちは伝道しているわけではなく、毎週の礼拝が伝道でもあるのですが、その伝道の業は、このイエス様の熱き祈りの中に置かれているのです。そして、その伝道の目的とは、私たちの言葉によってイエス様を信じる者が誕生することだし、その者たちがイエス様と神様が一つの交わりの中に生きているように、イエス様という一人の羊飼いの群れとして一つになることなのです。完全に一つになることです。それはイエス様に知られ、イエス様を知ること。イエス様が命を捨てて愛してくださる良い羊飼いであることを知り、信じることにおいて、イエス様と一つになり、そのイエス様において私たちが一つになることです。そして、そのことにおいて、私たちは唯一の真の神様との交わりの中に生きることになる。
 これは言うまでもなく、今の現実ではありません。私たちの教会の現実としても、個人の現実としても、あくまでも未来の現実です。しかし、未来に必ず実現する現実なのです。それは「果報は寝て待て」という形で待つ未来ではありません。私たちが、これからも羊飼いの声を知り、その羊飼いに従うこと、そして囲いの外における私たちの働きが求められているのです。迷える羊である私たちが羊飼いになって、良い羊飼いであるイエス様の声となる、その言葉を語りかける、その愛で愛し、その赦しで赦していく。そういう歩みの果てに到来する未来の現実なのです。ただ寝て待っているだけでは、この世は分裂と破滅に向かうだけであることは明らかです。

  ある実例

先日、前任地の教会の信徒だった方から「ハミングウォーカー」というニュースレターを頂きました。それは様々な事情によって学校に行けない、行かない子どもたちをサポートする会が発行しているニュースレターです。その中に、その信徒の娘さんの手記が載っていました。その娘さんも、中学生だった頃、不登校だったのです。今日の言葉で言えば、学校という囲いの中にいることが出来なかった、しなかった経験があるのです。
 一部を抜粋します。

「あの頃を振り返って」  私は中2〜3まで不登校でした。もうあれから5年がたったんだと思うと信じられない気持ちになります。
 ある朝・・・起きれませんでした。目は覚めていて、思考は働いていました。“起きなきゃ”って思いました。でも、ダルくて起きられませんでした。“怒られる”って怯えました。
 体調が悪い訳でもないのに、学校に行かないなんて、普通じゃないし、そんなのはズル休みで、悪いことだと思いました。それでも、一日だけと思って休ませてもらいました。そんな始まり方だったと思います。2〜3日行って休むを繰り返して、だんだん行かなくなりました。
 朝、家族の慌しい声を聞きながら、布団に潜り込んで、無理矢理目を閉じて、罪悪感をたえてました。なんで、私はここにいて学校に行かないんだろ?きっと、怒られる。お父さんは普通じゃない私を、悪いことをしている私を、きっと怒鳴るんだ。そう思っていました。
 でも、私が学校へ行かない事について、両親は一度も怒りませんでした。両親は、“学校へ行かない私”を早い内に受け入れてくれました。一番学校へ行かない事を受け入れられなかったのは、私自身だったと思います。自分自身がしている事なのに受け入れられなくて、憤って、嫌で、自分を消してしまいたかった。
 でも、両親が受け入れてくれて、お母さんが、「まぁ、しょうがない」ってなんでもないように言ってくれて。私は、許されたように感じました。それでも不安になると、お母さんに同じような事を聞いて。私は、何回も許してもらいました。だから、私もそういう私を受け入れられて。まぁ、こんな自分もアリかなぁって思えるようになりました。
 子どもにとって、親は大きな存在です。“愛されたい”“嫌われたくない”って思ってます。口に出さなくても、親や先生の、期待や気持ちを感じとって。それにこたえようと頑張っています。いい子だと思って欲しくて、褒めて欲しくて。頑張って頑張って、疲れて力が抜けちゃった子たちを・・・。私は受け入れて、許して上げて欲しいです。休ませて力が湧いてくるまで、待っててあげて欲しい。きっと、その子たちが自分自身を責めて、苦しんでいるから。大丈夫だよって、言ってあげて欲しい。こういう気持ちは、不登校の子に限った事じゃないと思います。大人も、子供も関係なく。人間誰もが、誰かに受け入れてもらいたいと、思っているのではないでしょうか。
・ ・・・
中学の頃。群れずに一人で立つことが強さだと思っていました。“人は一人では生きていけない”と言うけど、私にはできると思っていました。でも、それはただ人を拒否して、自分を守っているだけだと、気がつきました。 本当は、一人で生きていくより、人の中で生きていくほうが、傷つくコトも、傷つけるコトもあって、難しい事で、心の強さが必要なんだと今は思います。いつだって、全てが上手くいっているなんて事はなくて。同じような気持ちに囚われて、悩んだりイライラしたりしていますが。
いつか振り返ってみれば、あの時があるから、今があるんだと思えるのではないでしょうか。全ての人が自分らしく生きられるように、お祈りしています。」

この手記を書いた娘さんは、中学卒業後は不登校や保健室登校をしていた子供たちが通う全寮制の高校に通い、その卒業と同時にお母さんの信仰に導かれてお母さんが今通っている教会で洗礼を受けました。そして、家を出て専門学校に通い、今は社会人となって働きつつ、郷里から遠く離れた教会で礼拝を守っています。
「囲い」から出てしまった自分をお母さんが何度も許してくれた。そのままで受け入れてくれたと、この娘さんは言います。このお母さんもまた、自分の居場所を求めて本当に苦しい体験をし続けた方なのです。そして、ある友人を介して、私が仕えていた教会に導かれてきました。そして、本当に荒れ野の鹿が谷川の水を慕い喘ぐが如くに命の水である聖霊を求め、そしてキリストの声を求められました。そして、ついにイエス・キリストによって自分の全存在が丸ごと受け入れられていることを信じる信仰を与えられ、今は、住まいの近くの教会に通いつつ、不登校になった子供たちのサポートをしています。全ての人が自分らしく生きられるよう、祈りつつです。

良い羊飼いは自分の羊を知っている

イエス様が「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」とおっしゃるとき、「あなたは立派だから、偉いから、頑張っているから、命の捨て甲斐がある」とおっしゃっているわけでありません。「あなたが、あなたであるから、私はあなたを愛している。私はそのままのあなたを受け入れているんだよ」とおっしゃっているのです。「わたしは自分の羊を知っている」とおっしゃるとき、それは単に名前を知っているとか、性格を知っているということではなく、布団の中に潜り込みつつ、自分を責めて責めて、消えてしまいたいと苦しんでいる、その声にならない呻きを知っているとおっしゃっている。そして、本当の自分を知っている存在、本当の自分を受け入れてくれる存在に出会いたいという痛切な願いを知っているとおっしゃっているのです。そして、「わたしが、その存在なんだ。信じて欲しい。わたしを受け入れて欲しい。そうすれば、わたしとあなたは一つになれる」とおっしゃっているのです。
この娘さんのお母さんも同じでした。心と体の置き場所、安心して眠ることが出来る場所、自分が自分でいられる場所を求め続けられました。様々な声に従って、様々な所に行ったのです。そして、ついにあるサークルで出会った一人の友人の誘いを通して教会に通うようになり、羊飼いの声を聞いた。羊飼いに知られていることを知り、その羊飼いが自分のために命を捨ててくださったことを知り、自分の全存在を受け入れてくださったことを知り、信じ、生まれ変わり、そして、その羊飼いを伝える者とされていったのです。そして、その娘さんも今、「神様」とか「イエス様」とかいう言葉を一切使わない形で、自分の全存在を受け入れ、何度も許してくださる方と全ての人が出会って、全ての人が自分らしく生きられるように祈りつつ、この文章を書いている。囲いの外にいる子や親に向かって。この祈りは、先ほど読んだ主イエスの祈りに支えられた祈りです。
 イエス様が門である囲いの中。その囲いの中で、ゆっくりと休まなければならない羊はいます。命をかけて狼と戦い、盗人や強盗と戦って下さる門に信頼し、安心して休まねばならない時がある。いつか囲いの外に出る勇気と力が湧いてくるまで、ゆっくりと休まねばならない羊はいる。餌も水も、羊飼いが運んでくださいます。力を与えられた羊は、羊飼いに遣わされて、囲いの外に出て行くでしょう。真の門、良い羊飼いの存在を伝えるために。そして、その招きに応えて囲いの中に入って来た羊を暖かくもてなす務めを与えられた羊もいるでしょう。皆、一人の羊飼いに養われ、守られ、遣わされ、それぞれの使命を与えられた羊なのです。

未来の望み

そして、いつの日か、この世界は、一人の羊飼いの許で一つの群れになります。これは神様の救いのご計画なのですから、必ず実現します。二千年間、私たちキリスト者はその実現をはるかに望み見て生きてきたのです。これから何千年かかるのか、何万年かかるのか、それは知りません。でも、私たちが立てた計画ではなく、神様が立てた計画なのですから必ず実現します。いつの日か、全ての人が、主の食卓について、その愛と恵みを分かち合う日が来るのです。私たちは、幸いなことに、今既に、その愛と恵みを豊かに与えられ、分かち合うことが出来ます。この恵みを私することなく、与えられた恵みを与えるべく遣わされる者とされたいと願います。
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