「信じる者と信じない者 T」

及川 信

ヨハネによる福音書 10章19節〜42節

 

この話をめぐって、ユダヤ人たちの間にまた対立が生じた。多くのユダヤ人は言った。「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている。なぜ、あなたたちは彼の言うことに耳を貸すのか。」ほかの者たちは言った。「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか。」
 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。

中略
そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」そこでは、多くの人がイエスを信じた。

  対立・分裂を引き起こすイエス


イエス様と会って、その話を聞いていくと必ず分裂と対立が起こる。それは以前も言いました。それはイエス様とその話を聞いている人々との間にも起こりますし、またイエス様の話を聞いている人々の間にも起こるのです。そして、私たちの毎週の礼拝においても起こっています。
一〇章は一見すると、九章の盲人の癒しとは関係のない独立した羊と羊飼いの譬え話のように見えます。しかし、実際には九章の終わりでイエス様と鋭く対立しているユダヤ人の中の権力者であるファリサイ派の人々に対する言葉なのです。それは今お読みした二一節で、「悪霊に盲人の目が開けられようか」という言葉から分かります。九章の話は、実はここまで続いている。

  ヨハネ福音書の書き方

そして、「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」と続きます。これもまた実に不思議な言葉なのです。「そのころ」とはいつのことなのかが判然としません。九章の盲人の癒しは、仮庵の祭りの直後に起こった出来事として記されており、一〇章が九章の続きであるとすれば、「そのころ」というのは秋のことになる。しかし、「神殿奉献祭」とは、そこにわざわざ「冬であった」と記されていることから分かりますように、現在の暦でいうならば十二月、私たちにとってはクリスマスのシーズンに一週間に亘って祝われた祭りなのです。しかし、ヨハネ福音書は敢えて矛盾は承知の上で「そのころ」と書いて前の話に繋げている。そして実際、二五節以下のイエス様の『羊』に関する言葉は明らかに前の段落の続きです。
 私はしばしば、「ヨハネ福音書は時空を飛び越えて、いつも読み手の現在に向けて語りかけてくるイエス様を描いているのだ」と言って来ましたが、ここもまさにそうです。別の機会、別の場所で語ったことや、起こった出来事であるように書いているのですが、それは一つのことを書くための手段なのです。その「一つのこと」とは、「イエスとは誰であるか」です。今日の箇所に出てくる言葉で言えば、「もし、メシアなら、はっきりそう言いなさい。」この言葉に、その一つのことが現れています。この一つのことを巡って、イエス様と人間との間に、そしてイエス様の話を聞き、その業を見る人々の間に分裂と、時には争いが生じる。一〇章は「そこでは、多くの人がイエスを信じた」という言葉で終わります。これは「あなたたちは信じない」と二度繰り返された言葉と鋭い対比を示しています。いつの世にも信じる者と信じない者はいます。つまり、昔の話ではない。今の話。今生きておられるイエス様と今ここにいる私たちに関する話なのです。

神殿奉献祭 神殿

 今日の箇所には「神殿奉献祭」と「神殿」という言葉が出てきます。神殿奉献祭は、新約聖書ではここにしか出てきません。ヨハネ福音書は祭りの記事がたくさん出てくる福音書です。そして、「祭り」と「神殿」とは深い関係があります。今日は、そういう「祭り」と「神殿」に関して御言に聞いていきたいと思います。
 まず「神殿奉献祭とは何か」についてですけれど、口語訳聖書では「宮潔めの祭り」となっていました。つまり、神殿を清めた上で神様に捧げたことを記念する祭りなのです。その祭りの元々の起源は、紀元前六世紀にバビロン捕囚から帰ってきたユダヤ人が破壊されていた神殿を再建したことにあります。しかし、主イエスが地上に生きた時代の神殿奉献祭(宮潔めの祭り)は、破壊された神殿の再建ではなく、汚された神殿の潔めを記念する色彩が強かったと思われます。ユダヤ人は、紀元前二世紀にギリシアのアンティオコス四世エピファネスという人に、非常に厳しい迫害を受けました。律法の書は廃棄され、ユダヤ人の徴である割礼は禁止され、エルサレム神殿にはギリシアの神であるゼウスの像が安置され、ゼウスに対する祭儀(礼拝)が強要されたのです。この中渋谷教会の礼拝堂に他の宗教の像が安置され、毎週、その像に向かって礼拝することを強制されたら、私たちは一体どういう思いになるのでしょうか。
そういう宗教弾圧に対して反乱を起こした人の代表的人物が、ユダ・マカバイオスという人です。彼は激しい戦闘の末にエピファネスの部下が率いる軍隊を撃ち破り、ついにエルサレムを奪還して、神殿に安置されていたゼウス像や祭壇を破壊し、主なる神に犠牲を捧げる祭壇をつくり直して神殿の汚れを清めました。当時はまだローマ帝国の支配がこの地にまで及んでいなかった頃ですから、ユダヤ人たちは一時的ではありますが、自分たちの王国を作ることも出来ました。それが紀元前一六四年十二月十四日のことです。ユダヤ人は、このことを記念して、神殿奉献祭を守っていたのです。
 ですから、この祭りは極めて政治的、民族的な色彩の濃い祭りです。外国による弾圧と迫害、そういったものに抵抗し、神様の力によって勝利することが出来たことの象徴として、この祭りはユダヤ人の間で今も大切にされています。八日間、一本ずつ蝋燭の灯火をつけていくのです。冬の闇夜に輝く光の到来を待つのです。

イエスを取り囲むユダヤ人

その祭りの最中、イエス様は神殿に上りました。既に、ユダヤ人によって石をもって追放された、あるいはイエス様自らが出て行った神殿です。当然、周囲は殺気立ちます。即座にユダヤ人たちが、イエス様を「取り囲む」。この言葉は、他の所では軍隊がエルサレムを包囲する、という場合に使われる言葉です。そういう雰囲気の中で、彼らはこう言うのです。

「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」

   面白い言葉です。一体、どっちが強い立場なのか分からなくなります。彼らユダヤ人にしてみれば、イエス様の気が知れないのです。不気味な存在なのです。イエス様が神殿に入るということは、この時は完全に敵地に入ることですから、まさに命知らずの行為です。ユダヤ人は、即座に石を投げつけて殺してしまおうと思えば出来る。けれども、かつて神殿から追い出した後、イエス様がなさった盲人の癒しは、大多数の人々にしてみれば悪霊に取り付かれた人間の業なのですが、しかし、それは一面から言えば、到底人間業とは思えない業だということです。不可思議な力、不気味な力がこの男には宿っている。その力に対する恐れも彼らにはある。そして、イエス様の恐れを知らぬ命知らずの行動、聞いたことがないような圧倒的な言葉、そのどれ一つをとっても彼らには理解し難い存在です。そして、同時に気になって仕方ない。だから、こうして取り囲んで詰問する。「あなたは、一体誰なのか?もういい加減はっきりしてくれ。メシアなのか。そうならそうと言って欲しい。」
 私は、こういうユダヤ人の気持ちはよく分かります。教会に生まれ、幼い頃からイエス様の話を聞いて育った私にとっては、このイエスという人をどうにかしないと自分の生き方を決められませんでした。完全に否定するのか、完全に受け入れるのか?そのどちらも出来ない時、「もういい加減にしてくれ、付き纏うのは止めてくれ、一体アンタは何者なんだ!」そう叫びたい思いを持っていました。離れたいし、忘れたいけれど、どこへ行っても、気がつくとその辺をうろうろして意味不明のことを言ったりやったりする。それはやはり不気味な存在です。そういう存在が当時の私にとってのイエスでした。それは、ある意味、今でも変わりません。

気をもませるイエス

もちろん、この時のユダヤ人と置かれた状況は全く違うのですから、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか」という問いが持っている内容もまた違います。でも、イエス様という不気味な存在に心を支配されて困っているという点では同じです。
この「気をもませる」「気」と訳された言葉はプシュケーというギリシア語で、一八節でイエス様が「だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる」という場合の「命」と同じです。そして、「奪い取る」「もませる」と同じなのです。アイローという言葉です。プシュケーも「魂」とか「命」とか「生きている人間」とか、多様なニュアンスを持つ言葉ですけれど、アイローも、「奪い取る」とか、「持ち上げる」とか、「殺す」とかいう意味にも使われるのです。イエス様を十字架に持ち上げて「殺してしまえ」という時に、この言葉は出てきます。そして、将来、彼らユダヤ人は、実際にイエス様を十字架に磔にして殺してしまう。その命、プシュケーを奪い取ってしまうのです。でも、実際は、その命はイエス様自身が自分で捨てるのであって、彼らが奪い取るわけではありません。そして、その命を捨てることを通して、イエス様は命を再び受け、そのことの故に、イエス様の羊たちに、つまりイエス様の声を聞いてついていく羊たちには命を豊かに与えると一〇節でお語りになっている。この場合の「命」は「永遠の命」に使われる命(ゾーエーという言葉です)です。
とにかく、ここでイエス様を取り囲んでいるユダヤ人は、イエス様の「命を奪い取る」ことができる立場でもあるのですが、しかし、実際には、イエス様によって「命が奪い取られている」、「心が奪い取られている」「気をもまされている」。このイエスという男を何とかして把握しないと、安心して生きていられないのです。

メシアとは

そこで問題になるのは「メシア」です。これは「キリスト」と同じです。でも、その称号が持つ意味は、実は一つではありません。
先ほど挙げたユダ・マカバイオス。彼などもメシアと呼ばれました。つまり、神から遣わされて神の業を行う存在はメシアと呼ばれたのです。古くは神に立てられた王や大祭司、また預言者。これもメシアです。しかし、時代が下るに連れて、メシアは何らかの意味で救済者を指す言葉となって行きました。ユダ・マカバイオスはアンティオコス四世エピファネスという暴君から神殿を奪還したメシアです。ちなみにエピファネスという名前は、英語のエピファニーからも分かりますように、「神を体現する者」という意味です。日本語で言えばかつての「現人神天皇」と同じ意味です。そういう人間の神をも恐れぬ暴挙に敢然と戦いを挑み、勝利したユダ・マカバイオス、彼はユダヤ人にとって見れば民族的な英雄であり、メシアなのです。
しかし、彼が建てた王国は、台頭してきたローマ帝国によって滅ぼされ、当時のユダヤ人はローマの圧政の下に置かれており、メシアの到来を待ち望んでいたのです。それは六章でイエス様が男だけで五千人もの大群衆にパンを分け与えた時の人々の反応を見ても分かります。人々は、熱狂してイエス様を王として担ぎ出そうとしました。それは、過越の祭りを間近に控えた時期でした。祭りの時、それは最も民族意識が高揚する時です。
一〇章では、ユダ・マカバイオスによる「宮潔め」を想起しつつ新たなメシアの登場を待ち望んでいる人々でごった返す神殿に、イエス様が再び現れたのです。病人の癒し、パンの奇跡、盲人の癒しという圧倒的な御業をなさり、「わたしはある」と宣言されるイエス様が現れた。しかし、イエス様は他のメシアがしてきたような動きをなさらない。アジ演説をし、群衆の民族意識を燃え立たせ、民兵組織を作る。そういう動きを一切しない。民衆の心を一つにまとめていかない。むしろ、信じる者と信じない者とが分裂するようなことを繰り返す。こんなメシアは見たことがないし、聞いたことがない。そこに彼らの苛立ちがあります。「はっきり言ってくれ。メシアなのか、そうではないのか。私たちの味方なのか、それとも敵なのか。ローマに戦いを挑むのか、挑まないのか。」

「わたしは言ったが、信じない」

イエス様は、この問いに対して、こうお答えになります。

「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

 イエス様がメシアであるかないか。その点について、イエス様は「はっきり言ってくれ」と問われた時、「わたしは言った」と仰います。「言ったけれど、あなたたちが信じない」と。しかし、この時この場で、「そうだ、わたしがメシアだ」とはお答えにならない。それは、その言葉を使う時に、彼らの抱くメシアのイメージにイエス様が嵌め込まれてしまい、その本当の姿が見えなくなるからだと思います。そして、それは極めて危険なことなのです。キリストが私たち人間にとって好ましいイメージの中に嵌め込まれるとき、それはキリストのキの字も知らないほうが良いとさえ言えるほど危険なものです。いわゆる「宗教の怖さ」は、そこにあるからです。自己独善という罪を、キリストの名によって覆い隠し、さらに強化することになってしまうのです。当時のユダヤ人にとってのメシア、それはユダ・マカバイオスのような人物です。しかし、イエス様は彼とは違います。けれども、イエス様が、「わたしはメシアだ」と言えば、彼らのメシア像に嵌め込まれてしまうだけなのです。そして、結局は、「お前なんかメシアではない」と言って殺されるだけです。イエス様が、「わたしはメシアだ」と言おうが言うまいが、彼らはイエス様の声を聞いて、従うつもりなどはなく、自分たちの願いにイエス様を従わせることしか考えていないのです。そして、それはしばしば私たちキリスト者においても同じなのです。

ヨハネ福音書のメシア

 この福音書は、その本文の最後に、この書物が書かれたのは「あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、信じてイエスの名によって命を受けるためである」と記されている福音書です。イエス様を神の子メシアと信じる。そこにこそ命があるのだと言っている。しかし、そのメシアとは、キリストとは、一体、どういう意味で救済者、救い主なのか。それが問題なのです。その点で間違うと、私たちはとんでもない過ちを犯すことになります。
 イエス様がメシア、キリストである。それは、どこで本当の意味で明らかになり、正しく信じられるものなのか。当時のユダヤ人のように、民族の解放者として信じられる時、それは正しい信仰なのか?それとも奇跡行為者、病や障害を治す者として信じられる時、それは正しい信仰なのか?それとも、すべての人を無限大に愛したヒューマニストとして信じられる時に、それはイエス様がお喜びなる信仰なのか?特定の民族の政治的救済のために武力をもって人を殺したところで、それが何になるというのでしょう。剣を持つ者は剣で滅びることになるのです。病や障害が治れば、人は幸せなのでしょうか。体は健康だけれども絶望し、その心に思い諮ることは悪ばかりという人はいくらでもいます。すべての人を無限大に愛するヒューマニストを、私たちは実際は歓迎するのでしょうか。自分の敵をも愛するヒューマニストなんてまっぴら御免なのです。本心では。いずれにしても、それらはヨハネ福音書が書き記しているメシアとは全く違う存在です。

祭り と 神殿

 私は今日、「祭り」と「神殿」に関して御言に聞きたいと言いました。この二つの言葉が最初に出てくるのは二章の後半です。そこは、「イエス様による宮潔め」と呼ばれる箇所です。時は、過越の祭りを間近に控えた春、イエス様はエルサレム神殿に上られました。すると境内で、犠牲の牛や羊を売っている商売人や、ローマ人の貨幣をユダヤ人の貨幣に替える両替人が商売をしていた。これは当時の日常的な光景です。しかし、イエス様は、その神殿の日常を激しく拒絶し、たった一人で、鞭を作って羊や牛を境内から追い出し、両替人の金を撒き散らし、その台を倒し、「わたしの父の家を商売の家としてはならない」と言われました。私たちが、どこか大きな神社の祭りの日に、その境内でこんなことをすればどうなるかお分かりだと思います。この時に既に、イエス様がいつか逮捕されて処刑されることが決まっていたと言ってもよいのです。それ位のことです。
 その現場にいたユダヤ人たちは、イエスにこう言いました。

「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか。」

 イエス様は、こう答えた。
「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。

 とあります。そして、その直後にヨハネはこう書き記すのです。

「イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。」

 祭りとは、本来、神と人が交わりを持つ時です。ユダヤ人にとって祭りとは、天地創造の主なる神、歴史を統べ治める主なる神、民の罪を赦し祝福し、新たに生かしてくださる主なる神様との命の交わりの時でした。その交わりを持つために、主の言葉を聞き、罪を悔い改め、罪の赦しを求める犠牲を献げ、祈りを捧げたのです。その神との交わりを共に持つ場が神殿です。しかし、私たち人間は、いつも本来の物を忘れて形骸化させるのです。荘厳な建物を建てる、立派な儀式を作り出す、制度を整える、階級を作り出す、そして結局、神様すらも自己の欲望の実現の道具としていく。そこには、神様との霊的な交わりはありません。ただの儀式があるだけ。死んだ言葉と死んだ行為があるだけです。慣習として残っている祭りがあるだけです。そして、人は神殿で商売をする。神様とも取引をする。これを捧げますのでどうぞご勘弁を・・という感じになる。そこに、信仰はありません。そこには、神をも自分の欲望の道具にしてしまうという人間の恐るべき罪があるだけなのです。しかし、私たちは罪の中にどっぷりと浸かっているが故に、自分が罪の中に浸かってしまっていることすら分からないのです。その現実が、この時の神殿の情景なのです。
イエス様は、その信仰なき神殿を完全に破壊し、その祭り(礼拝)を完全に否定されました。そして、神殿を三日で建て直してみせるとおっしゃった。つまり、本当の祭りを、生ける神様との真実の愛の交わりを三日で回復させるとおっしゃったのです。

三日で建て直す神殿

 その場にいたユダヤ人はもちろん、弟子たちもまた、そのイエス様の言葉の意味が全く分かりませんでした。それが分かったのは、そしてイエス様をメシアとして信じることが出来たのは、イエス様が十字架の死から三日目に甦られた日曜日の晩のことなのです。
その時、何が起こったのか。それは二〇章に記されています。弟子たちは、イエス様を裏切り、見捨て、この世における肉体の命を守ることで、イエス様との交わりを失っていました。まさに生ける屍になっていたのです。その弟子たちが閉じこもっている部屋に、復活のイエス様が現れて、その真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」とおっしゃりつつ、十字架に磔にされた時の釘跡が残る掌と槍で刺された傷跡が残るわき腹をお見せになったのです。それは、「お前たちのお陰で、私はこんなひどい目にあって殺されたんだ。どうしてくれる!?」ということではありません。
「私だ。あの十字架に磔にされて殺された私だ。心配しないでいい。幽霊ではないし、恨みを晴らすために現れたのでもない。この傷跡は、私のあなたたちへの愛の証なのだ。私は、あなたたちが、完全に新しく生まれ変わることが出来るようにと完全に死んだ。そして、今、完全に新しい命を与えられ、その命をあなたたちに与えるために、目の前にいる。だから安心しなさい。神はあなたたちを見捨ててはいない。神は今、私において共にいる。」
 そうお語りになっているのです。「平和があるように」とはヘブル語ではシャロームという言葉です。それは、「神があなたと共にいます。」「神が共にいる平和があなたにはあります。」そういう意味なのですから。
 そして、イエス様は、もう一度弟子たちに、こう語りかけられました。

「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 イエス様は罪と死の支配の中に閉じ込められている弟子たちを救い出すために、十字架で死にそして三日後に復活してくださったのです。そして、土で造られたアダムを生きた人間にするために神様は命の息を吹き入れてくださいました。それと同じように、罪の贖いのために十字架で死に、三日目に甦ってくださったイエス様は、罪の赦しと新しい命を吹き入れる聖霊を、生ける屍となってしまった弟子たちに吹き入れて下さったのです。その息を受けた者が初めてイエス様を信じることが出来るのです。イエス様が父なる神と一つであることを信じることが出来る。そして、その信仰において、弟子たちは父と子の愛の交わりの中に生かされるのです。そこにメシア、キリストが与えてくださる救いがあるのです。

イエスというメシア

 イエスというメシア、この方は、一人も殺しはしません。軍隊を編成して人殺しをすることによって、所謂「平和」をもたらすメシアではない。病や障害を治すことに平和があるとおっしゃったわけでもないのです。また、ある人の利益をもたらすことが平和だとおっしゃるわけでもない。私たちにとっての最大の敵は外国人でも、病でも、不利益でも何でもなく、神様との交わりを破壊し、人の本来の命を死に追いやる罪なのです。そのことにおいて、ユダヤ人もギリシア人もなく、男も女もなく、奴隷も自由人もないのです。すべての人間が、この罪の支配、弾圧、迫害の下に置かれているのです。しかし、罪は時に甘美な装いを持って迫ってきますし、支配や弾圧を気付かせない巧妙な手段で私たちを取り込むので、愚かな私たちはそのことが分からないだけです。でも、イエス様に出会う時、その声を聞く時、その姿を見るとき、私たちは自分の状態に初めて気付かされます。自分は罪に支配された惨めな奴隷なのだと。
 でも、そのイエス様が、聖霊を与えつつ、「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださる。今日も、こうして私たちに語りかけてくださる。この語りかけを、心を開いて聞き入れることが出来る時、私たちはイエス様の羊、羊のために命を捨てる良い羊飼いの羊として生き始めることが出来ます。イエス様と共に、神様を「お父さん」と呼びかけることが出来る。その交わりの中に生きることが出来るのです。そして、今日は、一人一人がではなく、共々に神様を「父よ」と呼ぶ祭りの日なのです。世界中のすべての所に存在するイエス・キリストという神殿の中で、私たちは世界中のキリスト者と共に、「父よ、感謝します。あなたは私たちを憐れみ、独り子を与えてくださいました。私たちは、この方を通して、あなたを『父よ』と呼ぶことが出来るようになりました。私たちは最早迷える羊ではありません。良い羊飼いを与えられています。強盗も盗人も狼も、私たちを、滅ぼすことはもう出来ないのです。感謝します。私たちは今、望みをもって生きることが出来ます。あなたの命の息を与えられて、力強く生きることが出来ます。どうぞ、私たちを罪の赦しの福音を証しする者として用いてください」と言うことが出来ます。
 来週は、特別伝道礼拝です。今日の午後も聖歌隊は、その日の奉唱に備えて練習をします。伝道委員の方も様々な準備をし、礼拝担当者も、奏楽者も、また皆さんお一人一人も、誘う方がいる人は、そのために準備をし、いない人は誘われてきた方を歓迎するために準備をする。とにかく、私たち一人一人が、イエス様を罪の支配から解放してくださったキリストと信じることが出来る喜び、神様を「父よ」と呼ぶことが出来る喜びと感謝を、一人でも多くの人に伝えるために、心を合わせていきたいと願います。
 最後に、ローマの信徒への手紙のパウロの言葉を読んで終わります。

神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。あなたがたは、人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けたのです。この霊によってわたしたちは、「アッバ、父よ」と呼ぶのです。この霊こそは、わたしたちが神の子供であることを、わたしたちの霊と一緒になって証ししてくださいます。もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです。

 神を「父よ」神の子にしてくださるキリストこそ、信ずべきキリストなのです。
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