「信じる者と信じない者 U」

及川 信

ヨハネによる福音書 10章22節〜42節

 

そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊を歩いておられた。すると、ユダヤ人たちがイエスを取り囲んで言った。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい。」イエスは答えられた。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

 先週は特別伝道礼拝でした。今日は、再びヨハネ福音書に戻って一〇章二二節からの御言に聴きたいと思います。前回は「神殿」「祭り」「メシア」という言葉を巡って御言に聞きました。今日は、最初に「はっきりそう言いなさい」という言葉の意味する所から入っていきたいと思います。

一つの事実

 しかし、この問題は実に難しい問題なのです。ある意味では、私たちがいくら考えても分からないことで、事実を語るしかないと思います。説教の題は前回に引き続き「信じる者と信じない者」としました。それは信じる者と信じない者がいるという事実を表しています。何故、そういう違いが起こるのか、それはある程度は説明できるでしょうが、決定的なことは分かりません。どのような人が信じるのか、いつ信じるのか、それも分からない。けれども、たしかにイエス様を信じる者と信じない者は、いつの世にもいます。それは事実です。
 そして、その事実は今日のイエス様の言葉によれば、永遠の命を与えられて生きる者と、滅びる者との違いを生み出すわけですから、「色々な人がいたってそれはいいじゃないか」と物分りのよいことを言って済ましてよいものなのかどうか、それも分からない。
 先週、私は二週間前の日曜日に起こった秋葉原の無差別殺傷事件について語ることから始めました。その事件は、その後に起こった宮城県の地震によってかき消されてしまった感がありますが、私の中ではやはりまだ重く残っています。私たちが礼拝をしているまさにその時に、国道二四六号線で渋谷を通過して秋葉原に行き、無差別に人を刺し殺した青年が、もしイエス・キリストと出会っており、その愛を信じていたならば、彼は「世の中が嫌になった。誰でもよかった」と言い、「みなさん、さようなら」と書き残して何人もの人を殺すことはなかったのではないか。私は、そう思います。私たちキリスト者だって、様々な罪を犯しつつ生きている。それは誰よりも私たちが知っていることですし、イエス様が私たちよりもよく知っていることです。そして、そのことを私たちは、特にこの礼拝において知らされます。神様の言葉、イエス様の言葉を聞きながら、自分の姿が見えてくるからです。そして、その私たちに対して、神様が、イエス様が何をして下さっているかを知ることが出来る。その時、私たちは、自分が孤独ではない、見捨てられてはいない、愛されている、と知ることが出来る。そのことを「信じる」というのだと思います。

「はっきり言いなさい」「わたしは言った」

 ユダヤ人たちは、神殿奉献祭という祭りの時に神殿に入ってこられたイエス様を取り囲んで、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と詰め寄りました。既に、この言葉に関しては触れましたが、何度読んでも面白い言葉です。ここで「はっきり」と訳されている言葉は、他の箇所では「公に」とか「公然と」と訳される言葉です。ですから、この言葉の反対は「隠れる」、「隠されている」という言葉です。イエス様がメシアであること、またどういう意味でのメシア〈救い主〉であるかは隠されている。そういうことがあります。
七章の初めにイエス様の兄弟たちが、イエス様に向かって「公に知られようとしながら、ひそかに行動するような人はいない。こういうことをしているからには、自分を世にはっきり示しなさい」と言うのです。そこで、ちょっと紆余曲折がありますが、イエス様は人々の目には隠れる形で仮庵の祭りが祝われているエルサレム神殿に上り、公然とご自身が神から遣わされた存在であると宣言し始めます。その姿を見た人々の中には、イエス様を「信じる者」も出てきました。しかし、彼らの信仰は、イエス様の奇跡的な行為を見てのものであり、それが何を意味しているかまでは分かっていない。そういう意味では、やはりイエス様が誰であるかは彼らの目には隠されていました。イエス様が公然と語り、その業を為されていたとしても、隠されている。だから八章の終わりで、イエス様が「はっきり言っておく。アブラハムが生まれる前から、『わたしはある』」と宣言されると、人々は石をもってイエス様を殺そうとするのですし、イエス様は、「身を隠して、神殿の境内から出て行かれた」のです。
 その話の続きとして、盲人の癒しの御業が公然となされます。そこには深い意味でメシア到来の事実があります。しかし、そのことを信じたのは癒された盲人だけであり、ユダヤ教当局者であるファリサイ派の人々は、自分たちは見えると思っていることで罪が残ると、イエス様に言われてしまう。つまり、「あなたたちはメシアの姿を見ることは出来ない」と言われてしまうのです。つまり、彼らには隠されているのです。
 そして一〇章で、イエス様は「羊飼い」とか「門」の「たとえ」をお語りになります。ここに出てくる「たとえ」(パロイミア)という言葉は、ヨハネ福音書独特の言葉と言って良いのですが、物事を明らかに説明するためのたとえではなく、むしろ「理解できない深い話」という意味です。それは、この一〇章に限りません。イエス様の言葉と業、それはすべて、信じない者には理解できない話であり、現実なのです。しかし、信じる者にはまさにメシア・救い主・キリストの言葉として心に響き、その言葉によって闇の世界に光を見出し、死の中に命を見出す言葉となる。そういう言葉です。
 ですから、イエス様は「はっきりそう言いなさい」と詰め寄られた時に、「わたしは言った」としか言い様がない。

「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。」

  信じなければ分からない


 先日、ヨハネ研究会というところでヨハネ福音書の六章に関して発表しました。私も当初は毎月参加していましたが、大学の教員をやっている方たちが何人もいる知的な人たちの集まりの中で「ああでもないこうでもない」と言いながらヨハネ福音書を読んでも、堂々巡りが続くだけで、飽きっぽい私は最近は全く出席しませんでした。でも、たまには発表しろと言われて発表したのです。聖書学的手段と神学的考察を交えてヨハネ福音書のメッセージはこういうものなのではないかと、一時間半もかけて語りました。すると、その会に最初から熱心に参加し続けているユダヤ哲学を勉強している男性の方が、その発表をとても深く聞いてくださって、評価してくださってから、最後に、「やはり信仰がないと、幾ら読んだって分からないんですね」とおっしゃいました。私は「そう思いますよ」と答えました。
前回も言いましたように、この福音書はその最後に「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである」と執筆の目的が記されています。信じるために書かれている。それはまた信じる者だけが分かる書物であるということです。聖書学だとか神学などを全く知らなくても、読んだ時に分かるのです。信じる人は。信じない人は、幾ら読んでも分かりません。しかし、信じるためには、読むしかないとも言えます。そして、いつ誰がどのようにして信じるようになるかは、誰も分からない。

イエス様の声を聞いて、信じるとは

 一〇章を語り始めた頃に言ったことですが、私が学生時代にすべてが空しくなって、ただ死ねないから生きているという状態で下宿の部屋に閉じこもっていた時、「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」というイエス様の言葉を読みました。その時、私は文字を読んだのではなく、イエス様の声を聞いたと思っています。はっきりと、その心の中に、このイエス様の声が聞こえたし、その臨在を感じました。その時はまだ聖書学も神学も全く知らない大学の一年生です。でも、結局、その時から今に至るまで、私はこの声を聞くことによって始まった新しい人生を生きているのだし、この声の主を信じて、この方に従いたいと願いつつ生きている。それは事実です。従いたいと願いながら背き、背く私を羊飼いが追いかけてきて下さり、再び群れの中に導き返してくださる。それも事実です。ただこの方が今も生きておられて、いつ見捨てられても文句も言えないことを繰り返す私を、今もこうして信仰者の群れの中に生かし、そして、「この方こそ私たちの救い主、メシア、私たちを愛してくださるお方です」と語る者として立たせてくださっている。これはもう否定しようがない事実なのです。私は、「私のイエス様に対する信仰は確かなものです」と胸を張って言える者ではありませんけれど、「イエス様は私を愛してくださっています」とは、はっきりと断言できます。それを信仰と言うのならば確かに信仰なんでしょう。でも、その信仰は弱いです。しかし、この弱い信仰しか生きていない私を愛してくださるイエス様の愛は強い、そして、イエス・キリストを通して示された神様の愛は何よりも強いのです。だから、私は今もこうしてここに生きているのです。皆さんも、それぞれにイエス・キリストの強い愛によって生かされてきて、今ここでこうしてイエス・キリストを礼拝しているのです。イエス・キリストの愛を受けて、イエス・キリストを愛して礼拝をしている。その事実の背後に、御自分の命を捨てて私たちに命を与える、永遠の命を与えてくださるイエス・キリストの愛があることは、少なくとも信じる私たちにとっては明らかなこと、はっきりとした事実、公然とした事実ではないでしょうか。
しかし、イエス様の羊でない者は、あるいはない時は、イエス様の声は聞こえません。文字は読めます。頭ではそれなりに理解できます。でも、それはイエス様の声を聞いたということではありません。「聞く」とは、「知る」ことであり、「知る」とは「愛する」ことです。そしてそれは「共に生きる」ことであり、それは「従う」ということになるからです。

イエス様の羊

「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。」


   これは最初から「わたしの羊」というものがいて、その羊はイエス様の声を聞き分けるのか、それともイエス様の声を聞き分けることができる羊のことを「わたしの羊」とおっしゃっているのか、私にはよく分かりません。それは選びの問題ですから、神様の専権事項であって、私たち人間が「ああだ、こうだ」と言ったところでどうなるわけでもありませんし、私たちが「あの人は選ばれている」とか「選ばれていない」とか言ってみても仕方ないことです。しかし、イエス様の声を聞き、この方こそ私のために命を捨て、そしてまた命を受け、私に永遠の命を与えてくださったお方であると信じる私たちは、たしかにイエス様の羊なのです。そのイエス様の羊とは、イエス様に知られている羊ということです。ある学者は、それはイエスによってその名を呼ばれていることであり、イエスの羊とは、自分の名を呼ばれて招かれていることを知っている者であり、その者は名を呼んでくれる羊飼いに従う、という趣旨のことを書いていましたが、全くその通りだと思います。

名を呼ばれるということ

 私は先週、秋葉原の事件について語り、最後に意識不明状態が続いている遠藤愼治さんのお見舞いに行った時のことを語りました。その時、私は目を開かず、一切の反応をすることが出来ない遠藤さんの耳元で、イザヤ書の言葉を読みました。

「ヤコブよ、あなたを創造された主は
イスラエルよ、あなたを造られた主は
今、こう言われる。
恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。
水の中を通るときも、わたしはあなたと共にいる。
大河の中を通っても、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、焼かれず
炎はあなたに燃えつかない。
わたしは主、あなたの神
イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。・・・
わたしの目にあなたは価高く、貴く
わたしはあなたを愛している。」


 食べることも話すことも出来ず、排泄の処理も出来ない。人は長生きが許されれば、最後にそういう状態になることがあります。それは傍目でみれば意識不明のただ死を待っているだけの一人の「患者」になるということです。でも、幸い、入院している病院の看護士さんたちは、ちゃんと「遠藤さん、ベッドの掃除をさせてくださいね」とか「遠藤さん、調子はどうですか」と遠藤さんの名を呼びつつお世話をしてくださっています。それは、いつ行っても心慰められることです。そして、私は牧師として、神様が遠藤さんの名を呼びつつ語り掛けてくださる言葉をその耳元で読みます。遠藤さんの名を呼びつつ、「わたしはあなたと共にいる。あなたは私の目には価高く、貴い。わたしはあなたを愛している。心配するな」と語りかけてくださる神様の言葉を読みます。名を呼ばれるということ、それが羊飼いから知られているということだし、愛されているということなのです。そして、その愛の中で人は人として生きることが出来るのです。
 秋葉原の事件以降、派遣社員の問題がクローズアップされています。ある雑誌では、派遣会社のことを犯罪者予備軍の集団であるかのように報じたそうです。先日のある新聞紙上に、派遣社員や日雇いで生活をしている青年たちの座談会の内容が掲載されていました。その中で、ある一人の女性が「せめて名前で呼んで欲しい。『おい、そこの派遣。こっち来い』みたいな呼び方は止めて欲しい」と言っていました。会社はどこも厳しい状況で、正社員も不安や苛立ちを抱えており、それを自分たちよりも下の地位にある派遣社員にぶつけるという状況もあるようです。そういう状況の中で、「おい、そこの派遣社員」と呼ぶ人も呼ばれる人も、互いに全く知り合わず、交わりを持たず、まして愛し合うこともなく、互いに疎外し、孤独の闇の中に落ちていく他にないのではないでしょうか。そして、秋葉原の事件の容疑者のように、ついに「現実世界でも孤独、ネットの世界でも孤独」という完全な孤独に陥り、自分がここでこんな思いを抱えて生きていることを主張したくて人を無差別に殺すという事件を引き起こすということになっていくのではないか。
 つい先日のNHKの特集番組では、彼の行為を容認は出来なくても、かなり多くの若者たちが、そういう疎外感、孤独感の中にあって、彼の気持ちに共感できると言っていました。しかし、多くの場合は、他者への攻撃性よりも自分の中に閉じこもり、自分を破滅させていく方向に向かっているわけでしょう。つい先日も、去年の自殺者が三万人を越えており、これで十年連続三万人を越えたと報道されていました。これもまた自分を殺すという殺人事件なのです。毎日八十人、一時間に三〜四人の人が、自分を殺しているのです。誰も助けることが出来ず、自分は独りだ、そして独りでは生きていけないと思って死んでいくのです。そして、最近は死刑の執行が増えてもいる。また「死刑になりたかった、誰でも人を殺せば死刑になれると思ってやった」という若者が出てくる。死刑が犯罪の抑止力として働くのではなく、むしろ憧れの対象にすらなっている。多くの人が、滅びに向かっているのです。私たちは、そういう社会の中で、今、こうして礼拝を与えられている。この礼拝の中で命を与えられている。しかし、二週間前にはこの礼拝堂のすぐ側を独りの孤独な青年が絶望的な思いを抱えつつ通り過ぎ、まさに絶望的なことをしたのです。その現実をどう考えればよいのか。

人を孤独から救うもの

 主イエスは一六節でこう言われます。
「わたしには、この囲いには入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。その羊もわたしの声を聞き分ける。こうして、羊は一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる。」

 また今日の箇所では、こうおっしゃっている。

「わたしは彼らに永遠の命を与える。」

 私たちのために命を捨て、そして復活し、今も聖霊において共に生きてくださるイエス様に知っていただく。自分の名を呼んでいただく。そのイエス様に従っていく。イエス様を愛し、その声に聞き従っていく。つまり、イエス・キリストとの愛と信頼の交わりの中に生きる。そこに永遠の命があるのです。永遠の命とは、死後も霊魂が不滅だとかいうことではないし、死んだ後に復活することに限定されることでもありません。今既に、永遠の命そのものであるイエス様との交わりの中に生きること、生かされること、それこそが永遠の命なのです。そこには孤独はないのです。
 人は、誰にも分かってもらえないものを抱え持っていると思います。自分でも分からないような孤独というか闇の部分を持っていると思う。それは、どんなに親しくなろうとも、愛し合っていようとも、決して分かり合えないその人固有のものがあると思います。しかし、その部分を知ってもらわないと、その上で愛してもらわないと、本当のところで安心できない。そういうものがある。イエス様がキリストである、メシアである、救い主であると信じることが出来るとは、まさにその部分を含めて、この方は私を知っており、そしてその上で愛して下さっていると知ることが出来るということだと、私は思います。そのイエス様を知る時に、そのイエス様に愛されていると信じることが出来る時に、私は、初めて、心も体も解き放たれると言うか、心底安心できます。それはイエス様だけに感じることであって、家族であれ誰であれ、そこまでの関係性を持つことは出来ないことです。もし、持つことが出来るなら、イエス様はいなくても構わないのですから。逆から言えば、家族がいなくたって、この方と出会い、交わりを持つことが出来れば、生きていくことが出来るし、無差別に人を殺すことなどしないで済むのです。
秋葉原の事件の容疑者は、家族について問われると、「関係ない。あれは他人ですから」と言っていると報道されています。自分の心の奥底にある孤独、闇、それを本当に分かってくれる存在がいない。自分の名を呼んでくれる存在がいない。その孤独は、人を滅ぼしていくのです。自分も無価値であり、他人も無価値であると思うほかにないからです。

誰も奪うことは出来ない

 イエス様は、こうおっしゃっています。今ここにいる私たちに、また今ここにはいない、この礼拝堂の外にいるすべての人々に向けて。

「彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである。」

 「わたしの父がわたしにくださったもの」
とは、イエス様の声を聞き分け、イエス様に従う者のこと、イエス様との愛と信頼の交わりに入った者のことですが、それは「すべてのものよりも偉大である」と言われます。これは、私たちの見方ではありません。私たちが自分をどう見るかの問題ではなく、イエス様が、またイエス様と一体である神様が、私たち一人一人をどう見るかなのです。問題は、そこにある。私たちが生きることが出来るか否か、人を殺したり自分を殺すことになるのか、人を生かし、自分を生かして生きることが出来るか否かは、私たちがイエス様からこのように見られていることを知るか否かに掛かっています。私たちは、すべてのものよりも偉大な存在、貴い存在なのです。イエス様にとってはご自分の命を捨ててもおかしくない存在なのです。イエス様は、そのように私たちを愛してくださっているのです。そのことを知ることが出来るならば、そのことを信じることが出来るならば、そして、すべての思いをイエス様に話し、またイエス様の言葉に心を開いて耳を傾けることが出来るならば、私たちはその時既に永遠の命を生きているのだし、その私たちを最早何ものも滅ぼすことは出来ないのです、狼が来て、羊を奪おうとしても、羊飼いが命をかけて守ってくださる。「誰も彼らをわたしの手から奪うことは出来ない」のですから。これは真実な言葉です。
 秋葉原の事件の容疑者は、警察の取り調べに対して「嘘はつきたくない」と言って素直に応じているとのことですが、昨日の新聞では取調官に対して、「はじめて自分の話をきちんと聞いてくれる人が出来た」と言っているというのです。痛ましいことです。生まれた時から今までの自分の人生の軌跡、そこで考えたこと、抱え込んだ苦しみ悩み悲しみを、これまで親に言っても受け容れてもらえず、教師に言っても「悩んでいるのはお前だけじゃない、頑張れ」とか言われ、社会に出れば名前も呼ばれない。そういう歩みとその中で抱え込んだ言葉にもならない呻きを誰かに聞いて欲しい、知って欲しい。彼は、そう思っていたでしょう。そして、そう思っている人間は多い。私たちも、その一人一人です。

もし神が味方であるなら

 私は、この二週間、絶えずこの事件のことを思いつつ、マタイによる福音書の「明日のことまで思い悩むな」というイエス様の言葉を聞き、またヨハネ福音書の言葉を聞きながら過ごしてきました。そして、いつも心の中でローマの信徒への手紙の八章の言葉を思い起こしていました。そこでパウロは、こう言っているのです。全部読みたいのですが、抜粋して読みます。

「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。・・・
もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。・・・
しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」


 今、共に生きてくださるイエス・キリストの霊が、私たちの言葉にならない呻きを聞き取って、神に執り成してくださるのです。そして、天においては神の右に座しておられるキリスト・イエスが、つまり、私たちの罪の贖いとして十字架に磔にされて死に、私たちを新たに神の子として、イエス様の羊として生かすために復活されて天に昇られたイエス・キリストが、今なお、迷い、背き、つまずき、見失い、蹲ってしまう私たちのために神に執り成してくださっている。命をかけて執り成してくださっている。この愛、このキリスト・イエスを通して示されたこの神の愛から、私たちを引き離すことが出来るものなど何もありません。だから私たちは何があっても安心です。苦難があっても、絶望的な状況になっても、十字架の主イエス・キリスト、復活の主イエス・キリストが、すべてのものに対する勝利者として私たちを導いて下さるのですから。いつでも名を呼んで下さるのですから。

聞いたことのない人をどうして信じられよう

この安心、平安、喜び、望みを、まだ知らない多くの人たちがいます。まだイエス様の声を聞いていない人たちがいる。その名を呼ばれていることを知らない人がいる。父なる神と一つであるイエス様は、私たちすべての人間をその父なる神と一つ交わりの中に迎え入れようと名を呼びつつ招いてくださっているのです。いつの日か、天の星のように数え切れない人々が、その羊飼いの声を聞き分け、一人の羊飼いのもとで一つの群れになるのです。私たちは、その日に向かって歩んでいるのです。その私たちはイエス様から見れば、なによりも偉大な存在です。弱く、迷いやすく、躓きながらでしか歩めない私たちですが、でも、今もこうしてイエス様の声を聞いて信じて従いつつ、宣べ伝えようとしている私たちを、聖霊は決して見放さず、見捨てず、私たちの思いを神に届け、神の愛を私たちに注ぎ入れ、導き続けてくださいます。
 パウロは、その先でこう言っています。

「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです
。 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。『良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか』と書いてあるとおりです。しかし、すべての人が福音に従ったのではありません。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っています。実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」


 私たちがどれだけ一生懸命にキリストの言葉を宣べ伝えても、すべての人がその時に信じる者となるわけではありません。現実には、既に嫌というほど経験しているように、ほんの僅かな人しか信仰には至りません。しかし、信じる者となるためには、聞いて聞いて何度も聞いて、ある時に信じる者とされるのです。私たちだってそうだったのです。諦めることなく語ってくれた信仰の先達がおり、そして教会があったから、今、こうしてここにいるのです。だから今は、語って語って語りつつ生きる者として歩むのです。その私たちの歩みはどれほど小さなものでも、キリストを証して歩む私たちは何にも増して偉大であり、神の目には価高く、貴い存在なのです。
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