「信じなさい、そうすれば悟る」
ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。 すると、イエスは言われた。「わたしは、父が与えてくださった多くの善い業をあなたたちに示した。その中のどの業のために、石で打ち殺そうとするのか。」 ユダヤ人たちは答えた。「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒涜したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」 そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。神の言葉を受けた人たちが、『神々』と言われている。そして、聖書が廃れることはありえない。 それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして『神を冒涜している』と言うのか。もし、わたしが父の業を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい。 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」 そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを捕らえようとしたが、イエスは彼らの手を逃れて、去って行かれた。
イエスは、再びヨルダンの向こう側、ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に行って、そこに滞在された。 多くの人がイエスのもとに来て言った。「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった。」 そこでは、多くの人がイエスを信じた。 今日でヨハネ福音書10章を読み終えます。そして来週からは少なくとも八月の終わりまでは、しばらく中断していた創世記のヤコブ物語を続けて読んでいきます。 聖書を読み、語り、聴くとは 今日の説教の準備のためにある注解書を読んでいたら、この箇所の注解の最後に、説教者はギリシャ語の原文を忠実に何度も何度も読み直し、祈りつつよくよく備えるべきだとした上で、こう書かれていました。 「聴衆はヨハネ福音書を理解できないかもしれない。しかし、彼らは説教者が、自信満々で、性急に、必要な学びも祈りもなしにヨハネ福音書に取り組んでいる時のことを分かりすぎるほどよく分かっている。」 つまり、説教の聴き手は説教を聞いてもヨハネ福音書のことは分からないだろう。でも、説教者がとにかく書物を読んで勉強して分かったような気になっていることだけはよく分かるはずだ、というのです。真に耳の痛い話です。私は一昨日、一所に暮らしているある方に、よせばいいのに「こんなことが書いてあったよ」と言ったら、その方は、わが意を得たりという顔をして、「あなたの説教を聞いていると、あなたが一生懸命に勉強したということだけが分かって、神様の言葉が分からないのよ。誰もあなたが勉強したことなんか聞きに来ている訳じゃないんだから。冗談じゃないわよ」というようなことを、本人としてはもう少し優しい言い方のつもりでしょうが、私に言いました。しかし、これはこの方からはしょっちゅう言われていることなのですが、私はその都度、「確かに、その通り」と思う反面、「すべての人がそうであるわけでもないだろう」とも思い、「それじゃあ、どうすりゃいいんだ。何も勉強しない方がいいのか?!」と叫びたくもなり、どうしたらよいのか分からなくなります。学べば学ぶほど、ヨハネ福音書の深さ、凄さが分かり、霊の導きの中でメッセージを示されて、それを語っているつもりなのですが、聴く方はヨハネ福音書が分からないのだとすれば、どうすれば良いのか?この問題で、最近の私は苦しみ続けています。 そこで創世記に逃げるわけではないのですけれど、聖書というものは、結局、皆で心を合わせて祈りつつ読むしかないんだと思います。説教者も聴衆も、聖書の言葉を信じて読む。信じなければ、悟ることは出来ないのですから。しかし、信じるためには御言の説き明かしが必要であり、何よりも神の霊の導きが必要です。ですから、今日も聖霊を求めつつご一緒に読んでいきたいと思います。 人間なのに、自分を神としている もうこれまでも何回か、イエス様がご自分と神様との関係について決定的なことを言う度に、当時のユダヤ人たち、それもユダヤ教の中枢にいる人々が、イエス様を断固殺さなければならないと思う場面がありました。今日の箇所も、その直前にイエス様が「わたしと父とは一つである」とおっしゃったのです。父とは神のことですから、人間の肉体をもって生きているイエス様が、霊において永遠に生きてい給う神と一つと言っているわけで、それはまさにユダヤ人が言う如く「あなたは、人間なのに、自分を神としている」ことになります。彼らがこう言うのは当然のことです。そして、ユダヤ人が神の民として生きているとは、ある面でこういうことなのです。彼らは、絶対に人間を神格化しない。 古代社会では絶対的権力者は何らかの意味で神格化されました。王様は神の化身であったり、神の子であったり、神そのものであったのです。自らそう宣言し、人々をそのように信じ込ませることでその権力を保持していたのです。日本などは、つい最近まで「現人神」と神格化された絶対君主がいたわけですから、近代社会の中に古代の精神構造が色濃く残っていると言うべきなのもかもしれません。しかし、古代社会において、唯一の神と出会い、神の民として生きるべく選ばれたユダヤ人は、如何なる意味でも一人の人間を神格化することはありませんでした。王たちも当時の大帝国の王のような権力は持ち得ませんでしたし、神様の御心に背けば裁かれたのです。神は神であって人間ではなく、人間は人間であって如何なる意味でも神ではない。それは彼らユダヤ人(イスラエルの民)にとっては些かも揺るぐことの無い確信だったのです。 ユダヤ人の困惑とイエスの答え しかし、今、彼らの目の前に、神が共に生きて働いていなければとてもなし得ないような業をする人間がおり、また人間では語り得ない不思議な言葉を語る人間がいる。イエス様は何十年も病で寝たきりの男を立ち上がらせ、男だけで五千人という大群衆にパンを与え、生まれつき目の見えない人を見えるようにしてこられました。また、「わたしは世の光である」と言い、「わたしはあるという者だ」と言ってこられた。こんなことは、正気の人間が言えることではありません。だからこそ、既に読んできたようにユダヤ人の中には、「彼は悪霊に取りつかれて、気が変になっている」と言う人々が多かったのです。しかし、その一方で「悪霊に取りつかれた者は、こういうことは言えない。悪霊に盲人の目が開けられようか」と言う人々もいる。イエス様を前にして、彼らは困惑しているのです。そこで「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と言ったのです。それに対して、イエス様は、そのことについてはこれまでずっと語ってきたし、わたしが父の名によって行ってきた業が、わたしが誰であるかを証している。しかし、信じない者は信じない。信じる者は信じる。そして、わたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。誰も彼らを父の手から奪うことは出来ない、わたしと父とは一つだから、とお答になったのです。 ここで言われていることは、38節の「父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいる」ということと同じです。そこでもユダヤ人はイエス様を捕えようとしたとあります。つまり、彼らにしてみると、イエス様の業と言葉、これはたしかに人間の業、人間の言葉とは思えないほどの力、権威を持っている。それは認める。その力が悪霊から来るのか、神から来るのかは俄かには分からないが、とにかく、理解し難い人間であることは確かだ。しかし、だからと言って、この人間が神であることは断じて認められない。人間は如何なる意味でも神ではあり得ないし、自己を神格化することはモーセの律法、十戒の一番最初の「私以外のものを神としてはならない」という戒めに背くことであり、神格化された人間を神として礼拝することも等しく背くことであると考えているからです。そして、これは正しい信仰なのです。 イエス様と神様の関係 一つ しかし、イエス様はここで父とは別に私が神であるとおっしゃっているわけではなく、父と私は一つだとおっしゃっているのだし、父がイエス様の内におり、イエス様は父の内にいるとおっしゃっているのです。また後に弟子たちに向かって、「わたしを通らなければ、だれも父のもとへ行くことが出来ない」とおっしゃった後、フィリポという弟子が、「主よ、わたしたちに御父をお示しください」と頼む場面があります。その時、主イエスはこうおっしゃるのです。 「私を見た者は、父を見たのである。・・・わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。」 実は、ヨハネ福音書はこの事実を書くためにこそ書かれたと言って良いのだと、私は最近思い始めました。神学の言葉で言うと、父・子・聖霊なる三つの神はしかし一体であり、神の独り子であるキリストは真に神であると同時に真の人である(キリストの両性)というキリスト教信仰の根幹的な事柄を、ヨハネ福音書は真正面から、しかし、極めて象徴的、暗示的に書いている、いや証言しているのだ。そう思うのです。 しかし、そのことを当時のユダヤ人が理解出来ないこともまた当然です。しかし、理解は信じることによって得ることが出来るのであって、理解したから信じるのではありません。これは当時に限らず、いつの世でも同じことです。 言は神、肉となって宿られた しかし、その信仰は「鰯の頭も信心から」という類のものではないわけで、事実の証言として書かれ、語られた言葉を信じることです。ヨハネ福音書の書き出しはこういう言葉です。 「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。・・ 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。・・ 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。・・ いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」 ここに出てくる「言」、これは「父のふところにいる独り子」のことです。その独り子が、二千年前に「肉となって」人の世に宿られたのです。つまり、ある一時期、人となって人の世界に宿り、そして、神を示されたのです。それは人の世界に繰り返し現れては消える神格化された人間とは決定的に違う存在です。彼らは所詮は人間です。権力を持つにしたがって自らを、また他者から神格化された人間に過ぎません。そして、ある時に、「我こそは神の化身なるぞ」とか「神の子救い主である」とか「現人神である」とか言ったり言われたりしているだけで、死んでしまえば終わりです。しかし、このナザレのイエス、ヨセフの息子イエスと呼ばれた方は、人が神になったわけではありません。神が人となったのです。そして、神を示してくださったのです。その根本が全く違うのです。 しかし、世の闇の中に生きる人間、そこに留まろうとする人間は、その言、命の光を理解しない。闇の世にある楽しみ、安楽と不安の中に留まり続けようとするからです。けれども、何故か同じ世にあっても、世に絶望し、信じる者が誕生します。その者は、初めからあった言としてのイエス様の栄光を見ることが出来、そのことの故に、イエス様の内に生きる者とされ、そうであるが故に、神の内に生きる者とされるのです。また、神がその人の内に生きる。それが永遠の命であり、その命を生きている者は、肉体の死の後に新しい体を与えられるのです。そこに神の恵みと真理があるのです。 ヨハネ福音書は、以後、この一章で書かれていることが、どのようにして実現していったか、イエス様はどのように神を示し、多くの人々はどのように理解しなかったか、しかし信じる者は何を信じ、何を知っていったのかを書いていくのです。 今日の箇所で問題になっているのは、イエス様が神なのかまた神の子なのかという問題ですが、これまで言ってきた通りイエス様は神の子であるが故に神なのです。そして、その方が父なる神から聖なる者とされて遣わされ、父の業を行っている。神様の業を行っている。そのことを信じることが出来る時、イエス様が神の子として神であること、イエス様の内に父がおり、父の内にイエス様がいることを知り、また悟ることが出来る。そして、その者は永遠の命を生きる。それがイエス様のメッセージであり、ユダヤ人に対するメッセージは、ヨハネ福音書においてはこれが最後となります。以後は、基本的にはイエス様を信じ、イエス様に従う者たちに対する言葉が記されていくことになります。 どちらが裁いているのか?詩編82編 そこで問題になるのは、34節以下のイエス様の弁明です。イエス様はここで神を冒涜した罪人としてご自分を裁こうとしているユダヤ人に対して弁明をしています。少なくとも一見するとそう見えます。しかし、実際はどうなのか? ここでイエス様は、「あなたたちの律法にこう書いてある」と言って、「わたしは言う。あなたたちは神々である」という詩編82編の言葉を引用しておられます。当時、旧約聖書のことはすべて「律法」という言い方があったからなのですが、この箇所の解釈は多様で、その一つ一つを紹介する時間はありません。 私自身は、詩編82編全体の趣旨を重んじるべきだと思っています。82編は、「神は神聖な会議の中に立ち、神々の間で裁きを行われる」という言葉で始まります。ここで「神々」と言われているのは、神から裁きの権限を委ねられている人々のことです。裁判官とか司とか呼ばれる人々のことです。当時の異邦人社会における礼拝の対象としての「神々」ではなく、神の委託を受けて神の御心をこの世に実現するために立てられた人々です。しかし、その後の言葉を読んで見ますと、その人々の裁きは不正に満ちているのです。彼らは「神々」と呼ばれ、「いと高き方の子ら」つまり「神の子ら」とも呼ばれていたのですが、その彼らが神に逆らう裁きをなしている。神の御心を理解せず、不正な裁きを続けている。それ故に、神は彼らに怒りを発し、彼らは「人間として死ぬ。君候のように一斉に没落する」と言われるのです。そして、最後にこの詩編の作者自身の言葉、「神よ、立ち上がり、地を裁いてください。あなたはすべての民を嗣業とされるでしょう」という言葉で詩編82編は終わります。 裁いているのはイエス様 今日の箇所では、ユダヤ人たちがイエス様を冒涜罪で裁こうとしています。石打の刑で殺そうとしているのです。イエス様が自分を神としたからです。しかし、イエス様にしてみれば「人間なのに、自分を神としている」のではなく、「神なのに父から聖なる者として遣わされて」父の業を行いつつ神を示しているのです。そのことを通して神の裁きを実現しているのです。そのことを信じる者は命の光の中に入れられ死後の復活を待つことが出来ますが、信じない者は自ら死の闇の中に閉じこもり滅びとしての死を待つだけなのです。この時、主イエスの前にいるユダヤ人は、ファリサイ派と呼ばれるユダヤ教の権威者であり、自らを神に委託された裁判官だと思っています。それは詩編によれば「神々」であり「いと高き方の子ら」(神の子ら)です。しかし、彼らを今、神が立ち上がって裁いている。そして、彼らの不正な裁きによって神を見ることが出来なくなっているすべての民に神を示しておられる。イエス様の言葉と業はすべてそのことを示しているのです。そのことを信じることが出来る時、ユダヤ人であろうと異邦人であろうと、イエス様が神の子として神であることを知ることが出来るのです。そして、そこに私たち罪人の救いがあるのです。 「示す」とは? 私は先ほどから何回か「示す」という言葉を使って来ました。それはイエス様の「わたしは、父が与えてくださった多くのよい業をあなたたちに示した」とおっしゃった言葉を意識してのことです。この「示す」と訳された言葉は、すべてイエス様の死と復活に関係し、また私たちの死後の復活、永遠の命に関係する場面に使われているのです。 その最初は、イエス様が初めてエルサレム神殿に上られた時のことです。そこでイエス様が見た情景は商売の場と化した神殿でした。イエス様は激しく怒り商売人を追い出しました。ユダヤ人たちは怒ってこう言いました。「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか。」この「見せる」が「示す」と同じ言葉です。それに対するイエス様の答えは、「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」でした。つまり、イエス様は御自身の十字架の死と三日目の復活によって人間と神様との交わりの場を回復する。それが、私が示すしるし、神の業だとおっしゃっているのです。もちろん、その時、その意味が分かった人は一人もいません。 その後、5章で38年間も寝たきりであった病人を立ち上がらせるという業を安息日になさいました。それは、安息日には業をしてはならないというユダヤ人の律法には違反することであり、さらに、イエス様が「父が今なお働いておられる。だから私も働くのだ」とおっしゃって、ご自身を神と等しい者とされたことでユダヤ人の逆鱗に触れることになります。しかし、イエス様はこうおっしゃったのです。 「父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。・・ はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」 ここに二度「示す」という言葉が出てきます。そして、そこで示される「大きな業」とは、「死者を復活させて命を与える」という業なのです。そして、この命、即ち永遠の命を与えることが出来るお方は、父に愛され、そのすべての業を示されているイエス様だけであり、その永遠の命を与えられる者は、イエス様の言葉を聞いて、神を信じる者たちなのです。 また先ほど引用したように、14章で弟子のフィリポが、「父を示してください」と言った所で出てくるのですが、それもまた人間の死後の命を語った箇所です。そして、イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのだ」とおっしゃっている。 そして、最後にこの「示す」という言葉が出てくるのは、イエス様が復活して弟子たちに最初に現れた箇所です。その時、ユダヤ人を恐れて、弟子たちはドアの鍵を閉め、多分窓も締め切った真っ暗な部屋の中に佇んでいました。その生ける屍のような弟子たちの真ん中にイエス様は立ち、「平和があるように」とおっしゃった。これは「神があなたたちと共にいます」、ヘブル語で「シャローム」という意味です。「あなたたちは私を裏切り、見捨て、そのことによって神との愛の交わりを失ってしまった。しかし、安心しなさい。神はあなたたちと共にいるのです。」復活された主イエスが、イエス様を裏切って逃げた後、一部屋に集まっている死んだも同然の弟子たちに向かってそうおっしゃったのです。そして、「手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ」という文章が続きます。 「お見せになる」、これが「示す」です。その時、自分の罪深さに絶望し、罪の闇の中に沈みこんでいるほか無かった彼らに、命の光が差し込んできたのです。その彼らに向かって、イエス様は、なんとこうおっしゃいました。 「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」 これは、とてつもない言葉です。父なる神様に遣わされたイエス様が父を示したように、今度はイエス様に遣わされた弟子たちが、イエス様を示すことになるということなのですから。それは罪に沈んだ彼らが、ある意味ではイエス様と同じように「聖なる者とされて」この世に遣わされるということです。その使命を彼らが果たすためにイエス様がなさってくださったこと、それは聖霊を与えるということです。 すべては罪の赦しという業に終着する 聖書はこう続きます。 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」 イエス様がご自身の手とわき腹にある十字架の傷跡を見せた、示したとは、神様がイエス様の十字架の死を通して私たち人間の罪を赦してくださったということなのです。そして、罪を赦した者たちに新しい命を与えるために、イエス様が命の息である聖霊を与えてくださったということです。その聖霊を与えられた者は、それ以後、いつもイエス様の内に生かされ、またその者の内にイエス様が生きてくださる。聖霊を受け入れる限りにおいて、私たちはそういう者として生かされ、そして、私たちが語ること、為すことはイエス様が語ること、為すこととされる。そして、それは罪の赦しが与えられるという神の業を証しすること以外の何ものでもないのです。 具体的には、私がこうして説教をする。それがただの学びの発表ではなく説教であるとすれば、それは聖霊の導きによって言葉を与えられ、その言葉を聖霊の導きの中で語っているのです。その人間が語る言葉を通して、神様は私たちの罪を赦し、新しい命を与えてくださるのです。聴く者が、聖霊の注ぎの中でこの言葉を聞き、語る者の姿を越えてイエス・キリストの姿を見、語る者の声を越えてイエス・キリストの声を聴き取ることが出来る時、そして信じることが出来る時、その人は罪を赦されて新しい命に生かされるのです。それがイエス・キリストが今も全世界で示している父の業なのです。 イエス様は、まさに三日で神殿を建て直し、今も世界中で、神との交わりを失ってしまった罪人にシャローム、「あなたがたに平和があるように」と祝福をもって語りかけてくださっている。私たちが礼拝の最後に聴く派遣と祝福の言葉は、まさにイエス・キリストの言葉なのです。 「しるし」とは イエス様の「言葉」、それは即「業」であり、「しるし」です。神様の業を示す「しるし」なのです。多くの人は、病人の癒しとか、五千人の給食という業の中に単なる奇跡しか見ません。そして、イエス様を超能力者だとか権力者に仕立て上げようとする。しかし、イエス様は言葉を伴うその業を通して、何をしておられるかと言えば、ご自分を神に仕立て上げようとしているのではなく、御自身の独り子をさえ惜しまずに人々の罪を赦し新しい命を与えようとする神の愛を現しているのです。ただそのことのために語り、業をなしている。そのことを信じる人はいつの世でも少数者です。その少数者だけが、イエス様の内に神がおられることを「知り」、また「悟る」のです。これは原文では同じ言葉です。「知ったし、そして知り続けるだろう」という意味だと思います。そして、これもまたよく分かることです。信仰とは過去のことではなく絶えず現在形のことですから。そして、「知る」とは、聖書においてはしばしば愛と信頼の交わりを意味するのですから。 洗礼者ヨハネの証言 最後に、40節以下の言葉に入ります。イエス様は、結局、多くのユダヤ人たちには理解されませんでした。闇は光を理解しないのです。彼らはまたもやイエス様を捕えようとしました。しかし、イエス様を捕えることは出来ず、イエス様は恐らく平然と彼らの目の前を通り過ぎていかれたのでしょう。そして、イエス様の先駆者である洗礼者(バプテスマの)ヨハネが洗礼を授けていた場所、イエス様自身もヨハネから洗礼を受けた場所に戻られたのです。ここはイエス様にとって原点のような場所です。 バプテスマのヨハネは、イエス様について、こう証しをした唯一の人物です。 「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」 「神の子」と出てきます。イエス様も今日の箇所で「『わたしは神の子である』と言ったからとて、どうして、『神を冒涜している』と言うのか」とおっしゃっていますが、ヨハネはここではっきりと「この方こそ神の子である」と信仰の証をしています。そして、その上で、こう言っているのです。 「見よ。世の罪を取り除く神の小羊。」 イエス様の原点はここにあるのです。私たちが10章で繰り返し読んできたように、イエス様は良い羊飼いです。羊のために命を捨てる良い羊飼い。羊たちが命を豊かに受けるために、永遠の命を生きるために、御自身の命を捨てる良い羊飼いです。しかし、その羊飼いは、あのイスラエルがエジプトの奴隷状態から解放されるために屠られた小羊のように、肉を裂かれ、血を流して死ぬ小羊でもある。イエス様は、この十字架の死を通して私たち人間の罪、神様との交わりを拒否し、妨げている罪を取り除くために肉となって私たちの世に宿ってくださった独り子なる神なのです。そして、罪の奴隷状態から解放してくださったのです。私たちが今日与る聖餐は、その事実を示すしるしです。 証言を聞いて、しるしを見て、信じる者たち 今、そのヨハネが洗礼を授けていた場所に主イエスは行かれました。そこにはヨハネの証言を聞いた人々がたくさんいました。ある時代までは、ヨハネこそ神が遣わしたメシアではないかと思う人々が沢山いたのです。しかし、1章に書かれていますように、イエス様の最初の弟子たちは元々ヨハネの弟子であり、ヨハネが「見よ、神の小羊だ」と証言するのを聞いて、ヨハネの許を去り、イエス様に従い、「私たちはメシアに出会った」という信仰を告白したのでした。それと同じように、ここでも人々がイエス様の所に来ました。そして「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」と言ってイエス様を「信じた」のです。 これがヨハネ福音書の前半の締め括りの言葉です。これ以後、イエス様は死んだラザロを復活させるという大きな業をなさいます。これもまた「しるし」です。イエス様の十字架の死と復活によって示される神の愛とその力を示す「しるし」なのです。 問題は、私たちがその「しるし」を告げるこの福音書の言葉を信じるか否か。ただ、それだけです。信じる者、それはイエス様こそ父と一つである救い主、闇の世に輝く光、死の中の命であることを知り、そして知り続けていくでしょう。つまり、神との交わりの中を生きる。そして、罪を赦された喜び、命を与えられた喜びを証し続けていくのです。その者たちは、あの弟子たちと同じく聖霊を与えられて主イエスに派遣され、「イエス様こそ神の子です、私たちを愛し、永遠にその交わりの中に生かし続けてくださるお方です。この方を信じることによって、私たちは救われるのです」と証し続けていくのです。 派遣されて生きる証しの人生 皆さんは私のような伝道者ではないのですから、口を開けば、「イエス様は神の子です。信じなさい」などと言う必要はないし、伝道のためにもそんなことは言わない方がよいでしょう。しかし、私たちがイエス様の御業を信じて生活をするという時、そこには自ずと信じていなかった時とは違う香り、今風の言葉で言えばオーラが出てくるはずです。イエス様を信じる者は世の光、地の塩なのですから。信じなければ、闇に飲み込まれ、味を失った塩として意味をなさなくなりますが、信じて生きていれば、そこには喜びがあり、必ず罪の赦しと新しい命を与えてくださるイエス・キリストを証しする場面は出てくるのです。愛する家族、知人、友人、同僚、その誰か一人にでもキリストを伝えたいという思いが与えられますし、そのための祈りが与えられますし、必ず証しをする機会も与えられるのです。そして、信じていれば、何時か必ず、生きておられるキリストご自身がその業を示してくださいます。 毎週、私はイエス・キリストに立てられて派遣の言葉を告げます。 「平和の内に出て行きなさい。 主なる神に仕え、隣人を愛しなさい。 隣人に仕え、主なる神を愛しなさい」 と。 この生活が証しの生活、主イエスによって派遣された者の生活なのです。その派遣に応えて生きる者たちと主は共にいます。シャロームが与えられるのです。これは経験して初めて分かることであり、話を聞いて分かることではありません。信じて生きることを通して悟ることなのです。皆さんの上に、主の祝福が豊かにありますように祈ります。 |