「愛と死 U」

及川 信

ヨハネによる福音書 11章 1節〜16節

 

ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 最初にお断りしておかねばなりませんが、先週の予告では説教題は「光と闇」とし、表の看板にもそう記されているのですが、今日も来週も前回と同じ題にさせていただきます。今日は九節辺りまでいけるかと思ったらいけなかったもので、そうしました。また、説教に題をつけることについて思うこと、言いたいことはいくつかあるのですけれど、時間が勿体ないので今日はやめておきます。

信じるために書かれた福音書

 先週は、キルケゴールの『死にいたる病』やドストエフスキーの『罪と罰』を引用しつつ、ラザロの復活の物語は何を語っているのか、この物語を読むとはどういうことなのかについて語りました。その『罪と罰』の中で、売春婦のソーニャが主人公のラスコーリニコフに言った言葉は、今日の説教においても大事なことだと思います。彼女は、ラザロの復活の記事を読んでくれと頼むラスコーリニコフに向かってこう言ったのです。

「どうしてあなたに読んであげるんですの?だって、あなたは、信じていらっしゃらないじゃありませんか・・」

 「信じる」ということが、ヨハネ福音書にとって一大テーマであることははっきりしています。この福音書の一つの結末である二〇章の最後は、こういう言葉です。

「これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。」

 この福音書は、この福音書を読んだ人が、「イエスは神の子メシアであると信じる」ために書かれたのです。そして、信じる者はイエスの名によって命を得るのです。この「命」は、ただの肉体の命であるわけもありません。信じていなくたって、人は皆、生きているのですから。そういう肉体の命とは違う命のことです。その「命」は信じる者に与えられるのだし、信じる者にしか分からない「命」です。信じるか信じないか。それが問題なのです。しかし、鰯の頭も信心からということではなく、福音書をちゃんと読むことを通して、イエス様が神の子メシア(救い主)であることを信じることが大事であることは言うまでもありません。だから、ちゃんと読むことが大事です。そこで、ちゃんと読むとはどういうことか、それが問題になります。結論的に言えば、それは聖霊の導きの中で読むことだとしか言えません。霊的な言葉は、霊の導きによらなければ分からないからです。でも、ヨハネ福音書は霊的な書物であると同時に、非常に知的な書物であり、緻密な構想を持った書物であることもまた明らかなことです。その構想をちゃんと読み取るということも、信じるために大事な要素ではないかと、私は思います。ですから、今日は今お読みした結末の言葉を意識に留めつつ、一一章に至るまでの文脈を読むことから始めたいと思います。

七つのしるしの福音書

 ヨハネ福音書は、しばしば「しるしの福音書」と言われます。この福音書には、七つの「しるし」が記されているからです。七は完全数です。七つ目のしるしは、ですからそこで完成すると言ってもよいものです。「しるし」とは象徴とか暗示と言って良いのかもしれませんが、イエス様が神の子メシアであることを現す奇跡的行為のことです。
 最初は、二章の冒頭、一般にカナの婚礼と呼ばれる箇所です。イエス様はカナという町で婚礼祝いに来て、水をぶどう酒に変えるという奇跡を起こされました。次は、ガリラヤ湖沿岸のカファルナウムに住む役人の息子を言葉だけで癒すという奇跡。そして、三番目はエルサレムのベテスダの池で三十八年間も寝たきりの病人を癒す奇跡。次は再びガリラヤ湖(ティヴェリアス湖)沿岸が舞台ですが、男だけで五千人の人々にパンを分け与える奇跡で、嵐に妨げられて前進できない弟子たちの舟に湖の上を歩いて近づき「わたしだ」と告げる奇跡が続きます。これはギリシア語では「エゴ・エイミ」と言って、しばしば神様が御自分の存在を表す時の言葉として、聖書では使われます。六番目に九章の盲人の癒しがあり、最後のしるしがラザロの復活なのです。この一一章で、イエス様の公の活動が終わります。イエス様はラザロを復活させることを通して、死刑に処せられることが公けの機関で決定されていくのです。つまり、このラザロの復活以後、イエス様の受難物語が始まり、イエス様は基本的に弟子たちにのみ語り始めることになります。
 このことから見ても、ラザロの復活という出来事が、いかに重大なことであるか分かります。ラザロの復活とイエス様の十字架の死、それは切っても切れない関係にある。そして、そこにイエス様のラザロへの愛がある。先週は、そのことをメッセージとして受け止めたのです。

メシアのしるし

 範囲をもう少し狭めて九章から一二章を見てみると、こういうことが言えるように思います。
 九章は盲人の癒しですから、問題は見えることを巡ってでした。何をもって見えると言うか、です。イエス様の姿は、当時の誰だって肉眼で見えていたのです。しかし、そこに神の子メシアの姿を見、信じたのは癒された盲人だけであった。そういう問題が、そこにはありました。そしてそれは同時に、イエスの姿が肉眼では見えなくなって以後、イエス様が見えるとはどういうことか、という問題でもあります。
 次の一〇章では、羊と羊飼いの話が出てきています。そこでの問題は、聞こえるかどうかでした。羊のために命を棄てるよい羊飼いの声を聴き、信じて従う羊か、声を肉の耳で聴いても、その声を聴きとることが出来ない羊か。そういう問題でした。それは同時に、聖書の言葉を目で読むことを通して、今、生きておられるイエス様の声を聴けるか、また説教を聴くことを通してイエス様の声を聞くことが出来るか、という問題でもあります。
 しかし、一一章では、死人が登場します。死人は、見ることも聞くことも出来ない存在です。さらに言うと、信じることも出来ない存在です。しかし、その死人がイエス様の言葉によって甦るのです。これは一体どういうことか?そこには、この男の姉妹の信仰がありましたが、それと復活はどういう関係があるのか?今日は、まだその問題にまで立ち入ることは出来ません。
 一一章三七節を見ますと、人々は「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言っています。盲人の目を開けるとは、メシアのしるしの一つです。そして、他の福音書でも同じことですが、死人を甦らせることもメシアであることのしるしの一つなのです。そして、それらの出来事の後、過越の祭りに合わせてイエス様がエルサレムに上がるとき、「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と歓呼の声を上げて迎えた人々は、ラザロの復活の出来事を目撃したり、伝え聞いた人々です。「イスラエルの王」とは、メシアを表す一つの称号です。つまり、九章から一一章にかけて、イエス様が来るべきメシアであることが、次第に明らかになっていき、そのことによって、イエス様を信じる人々と、イエス様を殺そうとする人々が鮮明に分かれていくのです。

信じる 信じない

 そして、九章から「信じる」「信じない」という言葉は、決定的な意味を持つ言葉として何度も使われています。
イエス様が、ご自身が見えるようにしてあげた盲人と新たに出会う場面を読みます。
「あなたは人の子を信じるか。」
「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」
「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
「主よ、信じます。」

と彼は言って跪きました。つまり、主イエスを礼拝したのです。イエス様はその姿を見て、こうおっしゃいました。
「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」
   これは生と死を分ける裁きは、イエス様を信じるか信じないかによって引き起こされるという決定的な言葉です。
 一〇章でイエス様が羊飼いの譬えをお語りになった後、ユダヤ人たちは、「もし、メシアなら、はっきりそう言いなさい」とイエス様に詰め寄ります。しかし、イエス様はこう答えるのです。

「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証しをしている。しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。・・・わたしと父とは一つである。」

 この言葉が決定打となって、人々はイエス様を石で打ち殺そうとするのです。そこでイエス様は、ユダヤのエルサレムを去り、ヨルダン川の向こう側、洗礼者ヨハネが最初に洗礼を授けていた所に滞在されることになります。そして、かつてイエス様に関するヨハネの証言を聞いていた人々は、「ヨハネは何のしるしも行わなかったが、彼がこの方について話したことは、すべて本当だった」と言って、多くの人々がイエス様を「信じた」とあります。
 これが一一章の直前の状況です。つまり、エルサレムを中心とするユダヤ地方ではイエス様を敵視する人々(主にユダヤ教の権力者たちですが)が多く、それ以外の地ではイエス様は多くの人に信じられている。しかし、ベタニアはエルサレムに近い村ですからユダヤ地方に含まれます。ですから、イエス様が弟子たちに「もう一度、ユダヤに行こう」とおっしゃる時に、彼らが反対したのは、そこにはイエス様にとっては死の危険があるからであり、そのイエス様に弟子としてついていけば、自分たちにも死の危険があるからです。一六節に出てくる「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」というトマスの言葉も、そういう状況が背景にある言葉です。
 このように文脈を読むことによって、イエス様を取り巻く外的な状況が見えてきたと思いますし、問題はイエス様を信じるか信じないか、どのように信じるかであることが明らかになってきたと思います。
 そして、今日の箇所でも、イエス様は不思議なことをおっしゃっています。

「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところに行こう。」

 イエス様にとっての問題は、弟子たちが信じるようになるということなのです。そして、この後、イエス様はラザロの姉妹であるマルタと核心的な対話をします。その対話の言葉を読みます。

「あなたの兄弟は復活する。」
「終わりの日の復活の時に復活することは存じております。」
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」
「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」


 このマルタの告白は、ヨハネ福音書の結末に出てくる言葉と同じです。ですから、私たちは、ある意味から言うと、この告白を目指して読んでいく、あるいはこの告白を巡って読んでいくということになります。そして、それは私たち一人一人が、「あなたは信じるか」というイエス様の問いの前に立ち、「信じております」と言えるか言えないか、という問題なのです。

不思議に満ちたイエス様

 以上のことを踏まえた上で、今日の箇所に入ります。ラザロの姉妹であるマルタとマリアはイエス様の許に人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせます。微妙な言い方ですが、これは明らかに、「すぐに来て癒してあげて欲しい、あなたならそれが出来るはずです」と言っているわけでしょう。でも、この婉曲なもったいぶった言い方の裏にある一つの思いは、主イエスのラザロに対する愛への信頼だと思います。自分たちは、ラザロが病気であることを伝える。それだけで充分である。あとは一切、ラザロを愛してくださっている主イエスにお任せをする。そういう信頼の思いがある。しかし他方では、一刻も早く来て欲しいのです。二一節や三二節を見れば分かりますように、マルタもマリアも、主イエスがいてくださればラザロは死ななかったはずだと思っているのです。
 でも、ラザロを愛している主イエス(五節では「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」とわざわざ書いてあります)は、「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」と、よく意味の分からないことをおっしゃった後、「なお二日間同じ所に滞在され」、それから、いきなり「もう一度、ユダヤに行こう」と弟子たちに言うのです。
 主イエスの言葉と行動は、なんとも不思議です。「死では終わらない」とは、「死に向かっているのではない」とも言えますし、「死が終わりではない」とも言える言葉だと思います。しかし、先週も語りましたように、「病気」という言葉もまた、いわゆる肉体の病気の意味だけではない限り、「死」もいわゆる肉体の死の意味だけでないことも留意しておかねばなりません。いずれにしろ、「死では終わらない」という言葉は、今後も考え続ける言葉です。
 さらに、ここでなんと言っても不思議なのは、この三人の兄弟姉妹を愛しているイエス様が、知らせを受けてなおも二日間、動かないということです。今いる所にも急病人がたくさんいて、ラザロだけ特別扱い出来なかったと書かれているわけではありません。一五節を見ると、イエス様は、敢えてラザロを死ぬに任せた、死ぬままにしておられた、そのことが目的であったかのようです。そして、ラザロが死んだことがイエス様には分かったのであろう二日後に、何の理由の説明もなく、突然、弟子たちに「もう一度ユダヤに行こう」とおっしゃるのです。「ベタニアに行こう」でも、「ラザロのところに行こう」でもないので、弟子たちは、多分、再びユダヤの地に伝道に行こうという意味だと思い、「ユダヤ人たちがついこの間も石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」と言って止めたのではないでしょうか。それに対する答えもまた、不思議です。「昼間は12時間あるではないか。」私には、何のことかさっぱり分かりません。
 ヨハネ福音書を読んでいると、私もたまにイエス様と直接話しているような気分になるのですが、いつもびっくりします。なんでこの人はこんなことを言うのか、何を言っているのか、さっぱり分からない。なんでこんな人についてきちゃったんだろうな・・・と思う。当時のユダヤ人は、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアならはっきりそう言いなさい」と詰め寄り、それでも理解不能なことを言われると、頭に来てイエス様を殺したくなりました。弟子のトマスなどは、ある意味では同じ様に理解できないんだけれども、イエス様を愛しているものだから、「一緒に死のうではないか」と思ったりする。理解できないということでは同じでも、愛しているかいないかで正反対の思いになるわけです。私は、例によっていつも分裂しているというか、多重人格的なので、ある時は抹殺したくなり、ある時はついていきたくなりという感じですが、とにかくその不思議な魅力に取り付かれ、キルケゴールの言葉で言えば、イエス様に恋しているとは思います。恋しているから、理解したいのです。理解しているから恋をしているわけではありません。

正しく信じるとは

 イエス様に恋をするとは、イエス様を信じることです。しかし、信じることがいつも正しい理解を生み出すかと言うと、そんなことはありません。恋は盲目とも言います。恋をしていなければ、信じていなければ、イエス様のことは何も分かりません。でも、信じていても、いつも正しく分かるとは限らないのです。
 そこで問題になるのは「信じる」という言葉の意味です。ここに出てくる弟子たちは、残った者たちです。これまでに多くの弟子たちがイエス様を信じることが出来なくなって去って行きました。十二人が残った。それは、主イエスが彼らを選んだからです。でも、イエス様を信じてついてきた彼らもまだ正しく理解をしているわけではありません。そして、それはまさに今日もこの礼拝堂に集まっている私たちキリスト者、キリストの弟子である私たちにも当てはまることだと思います。私たちは誰一人としてイエス様を心底から愛し、正しく信じ、理解し、そして従っているわけではありません。皆、すべての点で不完全です。
 先程、一〇章の最後に「そこでは、多くの人がイエスを信じた」とあることを指摘しました。そして、この後、ラザロの復活の出来事を見たユダヤ人の多くが「イエスを信じた」とあります。そこで「信じた」と出てくる人々、彼らは、イエス様の「しるしを見て信じた」人々なのです。一〇章も一一章も同じです。そして、そのことで思い出すのは、二章の言葉です。そこには、イエス様のしるしを見て信じた人々をイエス様は信用されなかった、とあります。
「そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。」

イエスの愛と選び


なんだか身も蓋もない感じですけれど、これはリアルな現実だと思います。弟子たちもまた、この人々の一員でもあるのです。でも、「あなたの愛しておられる者」とラザロは呼ばれており、イエスはマルタもマリアもラザロも愛していたと書かれています。つまり、イエス様が愛している、特別に愛している。そういう現実があると思います。また、ここには「兄弟」とか「友」という言葉も出てきます。一五章では、イエス様が「友のために命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ、・・あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」とおっしゃり、二〇章では、裏切って逃げた弟子たちのことを主イエスは「わたしの兄弟たち」とお呼びになるのです。そして、先週も語ったように、「イエスの愛している者」、イエスの「友」「兄弟」、それらは初代教会においてキリスト者のこと、つまり教会員のことを表す言葉です。ラザロもマルタもマリアもキリスト者の一人であり、あるいは次第にその一人になっていく者たちとして、ここに登場しており、弟子たちも同じです。そして、そのキリスト者とは、自分がキリストを選んでキリスト者になったのではなく、キリストがその人をそうなるべき人として選んだことに根拠がある者たちなのです。
一〇章にありますように、キリスト者はよい羊飼いに導かれる「羊」とも言われますが、その羊は、イエス様によれば「父がわたしにくださったもの」であって、羊の方が羊飼いを選んだのではありません。神様の業、イエス様の業、愛し、選ぶという業が先にあるのです。

与えられる信仰

それを信仰に当て嵌めると、信じることも私たち人間が自分から信じるのではなく、神様によって信じさせられて信じる。信仰もまた神様から与えられたものです。イエス様が信用する「信仰」とは、そういう信仰なのだと思います。
皆さんもキリスト者にされる前は、キリスト者を偉い人であるかのように思ったことがあると思いますし、キリスト者になってからは「偉いわね」なんて言われて困ったことがあるかと思います。信仰を与えられていない時は、信仰とは人間の主体的決断であって、その決断には人間の価値判断があるものだと思っているものです。つまり、イエス・キリストは素晴らしい、その方を信じることも素晴らしいことだ、だから私は信じることにした。そういう人間の側の価値判断と決断の結果、信仰を告白し、洗礼を受けたのだ。そう思っている。だから偉いもんだと思う。もちろん、そこに皮肉が込められていることだって珍しくはありませんが・・
でも、少なくとも、生涯を信仰に生きる人たちにとって、キリスト者というのは、そんな偉いものでも立派なものでもありません。キリスト者とは、いつまで経っても、イエス様のことが分からずに頓珍漢なことを言ったり、やったりしている人々のことだし、背いたり、逆らったりもする人々なのです。にも拘らず、何故か主イエスが愛し続けて下さる人々であり、そのイエス様に愛されていることが分かる。その愛に縋り、イエス様を愛していく。それが私たちの信仰生活というものです。愛されるとか、愛するというのは、偉いとか立派という事柄とは全く別のものです。そして、最初にあるのは親の愛、つまり、神様の愛、イエス・キリストの愛なのです。子が先に親を愛するのではなく、親が先に子を愛するのです。だから、ラザロも「あなたが愛する者」として登場するのであり、「あなたを愛している者」として登場するのではないし、兄弟とか友というのも、背いたり、裏切ったりしているにもかかわらず、先にイエス様が私たちをそう呼んで下さるのであって、私たちがイエス様をそう呼んだのではありません。呼べるはずもないのです。私たちは、罪という病気にかかって死んでいた人間だし、今でもしょっちゅうその病にかかってしまう人間なのですから。

主イエスの決断

主イエスは、そういう病にかかっている人間、ラザロを起こしに行く決断をされるのです。「わたしたちの友、ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」と。そして、「ラザロ、出てきなさい」と呼んでくださる。このイエス様の決断と呼びかけにこそ、ラザロの復活の根拠があるのです。イエス様がベタニアに着いた時には、ラザロは死後四日も経ち、その死体は臭うほどになっていました。しかし、そうなった時にイエス様がベタニアに到着したことは、信じてはいてもまだよく分かっていない弟子たちが、正しく信じるようになるためによいことなのです。死んだラザロに対する人間の最後の業である葬式も埋葬もすべて終わり、死体が臭いを発し始めるその時こそ、神の業が始まる時なのです。それは死から命への転換が始まる時です。

わたしは生きている

先程、キリスト者は偉いというイメージがあることを言いました。その内の一つは、清く正しく美しいキリスト者のイメージです。神様が聖なる方だから、神を信じる者も聖なる者となりなさいという言葉が旧約聖書にはあります。ですから、ある意味で、そのイメージは大事なことです。しかし、聖書に出てくる言葉のもう一つは、「神は生きている」という言葉です。旧約聖書の特にエゼキエル書では、神ご自身がしばしば「わたしは生きている」とお語りになります。だから、神を信じる者も「生きる」のです。キリスト者とは生きている者なのです。悪しき道から正しい道へ移し変えられた者であるというよりも、もっと本質的には、あるいは根源的には、神に背く悪の故に死んでいたのに生き返った者なのです。生きていなければ倫理も何もあったものではありません。信仰の本質は命であって、倫理ではないのです。
あの枯れた骨が復活する預言が出てくるエゼキエル書の三三章には、こういう言葉があります。

彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

ここに出てくる悪人とは、神様との交わりを捨ててしまった罪人のことです。神への信仰に生きない人間は、聖書では皆罪人なのです。この世で言う罪人とは意味が違います。罪人とは、神様との交わりを失っている者、あるいは自覚として神様の愛を必要としていない者のことです。しかし、私たちが食欲がなくても、体は食物を欲しています。それと同じ様に、私たちが自覚として神の愛を欲してなくても、神に象って造られた私たち人間は神の愛を欲しており、それを拒絶している限り、それは既に死に至る病を抱えつつ生きているということであり、その人生の最後は、肉体の死で終わるのです。
しかし、私たちに愛されなくても、私たちを愛してくださる神は、「どうしてお前たちは死んでよいだろうか」とおっしゃる。そして、その神がついにその愛の結実として、独り子イエス・キリストを死の闇が覆われたこの世に、命の光としてお送りくださったのです。そのイエス・キリストが、ラザロが完全に死んだ後、人間のできるすべての業が終わった後に、「ユダヤに行こう」と決断され、ラザロを「起こしに行く」と決断してくださったのです。それは、ラザロのために、しかし、それは同時に主イエスが愛するすべての者のために、十字架に磔にされて死に、復活する道を歩むという決断なのです。それは「立ち帰れ」と呼びかけられても、立ち帰ることも出来ない死んだ者に新たな命を与える道、つまり死の闇の世界に命の光をもたらしに行くという決断です。

信仰による命

その新たな命を生きるために必要なもの、それが信仰です。主イエスの十字架の愛を信じる信仰です。十字架で死んだ主イエスが復活であり、命であることを信じる信仰です。主は死の世界にまで降ってきて、死人に新しい命を与えてくださるのだ。主は私を新たに生かすために世に生まれ、十字架に死に、甦ってくださったのだ。その事実を知り、感謝し、感激し、心から讃美する信仰です。その信仰は聖霊と御言によって与えられるものです。しるしを見て信じる信仰ではなく、聖霊の導きの中で主イエスの言葉を聴くことを通して信じる信仰、見ないで信じる信仰なのです。
主イエスは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない。(あなたは)このことを信じるか」と言われます。マルタは、「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」と言いました。これはヨハネ福音書の結末の先取りの言葉です。あの疑い深いトマスが、復活のイエス様を見て、ついに「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白したのと同じことであり、主イエスから「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われた、あの信仰の先取りだと思います。その信仰を、この時、マルタはイエス様との対話を通して与えられたのです。彼女は、多くの人々がそうであったようにラザロの復活というしるしを見て信じたのではありません。しるしを見る前に、主イエスの言葉を聞いて信じたのです。文脈上は、まだ聖霊が与えられる前のことなのですが、ヨハネは、この完全数である七番目のしるしの記事の中に、神が与えた正しい信仰の言葉を書いたのだと思います。この信仰こそ、ラザロの復活に並ぶ、あるいはそれが意味する新しい人間の誕生という奇跡そのものなのですから。その信仰を与えられたマルタが、マリアにイエスとの出会いをするように促すために、家に帰っていくのです。「先生がいらして、あなたをお呼びです」と。

聖霊による礼拝と信仰

問題は、イエス様の言葉を聴くことです。私たちは、毎週、そのためにこの礼拝堂に集められているのです。イエス様が呼んでくださっているのです。招いてくださっているのです。礼拝が招きの言葉から始まるのは、そのことを表しています。私たちは、何故か選ばれ、そして招かれています。そして、今日もイエス様の言葉を聞いています。その言葉を聴く前に、必ず司式者は聖霊を求める祈りを捧げます。聖霊が与えられなければ、私たちは聞けども聞かず、見れども見ないままに終わってしまうからです。礼拝は聖霊の注ぎを受けることによってのみ、生ける主、生簀イエス・キリストを礼拝するものとなり、聖霊が与えられなければ、ただ歌って話を聞いて会費を払って帰る、妙な集会になるのです。
教会は礼拝によって誕生しました。その最初の礼拝は、復活の主イエスがあの死の闇で覆われた暗い部屋の中に閉篭もっていた弟子たちに会って下さった時のことです。その時、主イエスは、「平和があるように」と彼らに語りかけたのです。そして、「息を吹きかけて」「聖霊を受けなさい。誰の罪でも、あなたがた赦せば、その罪は赦される。誰の罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る」とおっしゃいました。罪の故にイエス様と一緒に死ぬことも出来ず、死の闇が覆っている部屋に閉篭もっていた弟子たちは、この時、聖霊と共に主イエスの御言を聴き、信じ、罪を赦されました。そして、聖霊として生きるイエス・キリストの体現者として世に派遣されたのです。「イエス様がお呼びです。あなたのために死に、そして復活されたイエス様が、あなたを呼んでおられます」と、一人また一人に伝えていくためです。私たちもそうなのです。礼拝を通して、イエス・キリストによって罪赦され、イエス・キリストによって新しい命を生きる者とされた私たちは、死から命へと生まれ変わらされるのだし、その私たちを通して、イエス・キリストが生きておられることが明らかにされるのです。死の病の中で死んでいた私たちが、今や、命の光としての主イエスを証し出来る存在とされている。何と言って神を讃美したらよいのか、分かりません。
 
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