「愛と死 V」

及川 信

ヨハネによる福音書 11章 1節〜27節

 

ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。・・・姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。・・・ イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」・・・そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。
イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(抜粋)

聖書を読むプロフェッショナル


 聖書は繰り返し前後を読み進めていくことを通して、いくつもの発見をしていくものだと思います。この世に生まれて様々な喜びがあると思いますけれど、生涯かけても味わい尽くすことがない、でも生涯味わい続けたいと心から願えるものに出会うことは本当に大きな喜びだと思います。以前、テレビで金属加工の職人の仕事に密着する番組を見たのですが、その方は、最後にプロフェッショナルとは何かという問いに対して「自分の仕事に満足しない人だ」と言っていました。それは、「これ以上は出来ないと諦めない」ということでもあると思います。つまり、絶えず今以上の仕事の内容を追求する人のことをプロフェッショナルと言うのだということでしょう。この場合のプロフェッショナルとは、通俗的な意味で、その仕事で収入を得ているという意味ではありません。私のような牧師は、説教することこそが最大の仕事です。説教とは聖書のメッセージを聴き取り、それを語ることですから、聖書を読み続け、そこから聴けるだけのメッセージをいつも新たに聴き取る努力を続け、それをなるべく分かりやすく語るための努力を続けることがプロの要件なのだと思います。しかし、いつも言いますように、信仰は霊と言葉によって与えられるものです。言葉だけでも、霊だけでもありません。霊は神様の賜物ですから、その聖霊を求めて読み、聖霊を求めて語る。それが説教者の使命でしょう。しかし、キリスト者というものは、説教をする者であれ、説教を聞く者であれ、基本的に聖書に対してはプロフェッショナルなのだと思います。皆さんも、絶えず新たに聖霊を求めて、生涯聖書を読み、説教を聞くことにおいてプロフェッショナルであらねばならないのだし、その喜びへと召されているのです。
プロフェスという言葉は、信仰を告白するという意味がありますし、プロフェッションは職業という意味と共に信仰告白という意味があります。私たちキリスト者は、聖書の言葉から絶えず新たに神の言を聴き取り、信仰を告白しつつ生きることに生涯をかけており、ある意味、そのことを生涯の仕事として生きているのです。その点においては、牧師も信徒も何の違いもありません。

何を信じるのか

前回は、ヨハネ福音書の一一章前後の文脈を「信じる」という言葉を巡って振り返りました。そして、ヨハネ福音書の結末の言葉と一一章二七節のマルタの信仰告白を中心に据えました。つまり、イエス様を「神の子、メシアであると信じる」、それがキリスト教信仰であると言ったのです。それは勿論、間違ってはいません。しかし、「神の子」や「メシア」(キリスト)という言葉は、実はこの時代も今の時代もイエス様以外にも使われる言葉です。たとえばローマの皇帝アウグストだって「神の子」と呼ばれていました。旧約聖書においてはイスラエルの王は「神の子」でもあります。イスラエルの民も神の子という意味をもっています。また、「メシア」を自称したり、また人々からそう呼ばれる人物はイエス様の前にも後にも大勢います。旧約聖書においては、イスラエルの王はメシアでもあるのです。神様に選び立てられ、聖別の油を注がれた王や大祭司はメシアなのです。そういう歴史的事実を知らなくても、私たちがそれぞれ「神の子」とか「メシア」とはこういうものであると勝手に想像して、イエス様にそのイメージに当てはめ、「イエス様は神の子であり、メシアです」と言うことも出来るわけです。
しかし、そんなものがヨハネ福音書の伝える信仰であるはずもありません。先週も少し触れたように、トマスという弟子は、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言いました。彼はこの時、イエス様が命がけの伝道をした上で英雄的な死を遂げて終わる殉教者だと思っていたのです。しかし、彼は復活の主イエスと出会った時に「わたしの主、わたしの神よ」と言ったのです。この告白がヨハネ福音書に登場する人物の最後の信仰告白です。
「主」とは、旧約聖書では神ご自身のことです。キリスト教信仰とは、イエスという人物がその神であること、あるいは主は今イエスにおいてご自身を啓示しておられることを、信じる信仰なのです。少なくとも私にとってイエスは「わたしの主、わたしの神」以外ではないことを告白する信仰です。その根拠は、このイエスという人物が、十字架の死の後に復活されたからです。その方と出会う、出会ってしまう、その時、人はこの信仰を告白せざるを得なくなります。しかし、その方と出会っていなければ、その人にとってキリスト教信仰は愚かにして狂気なものにしか見えないことは当然のことです。
もう少し、このことについて見ておきたいと思うのですが、一一章の直前でエルサレムのユダヤ人がイエス様を石で打ち殺そうとする理由を、こう言っています。

「善い業のことで、石で打ち殺すのではない。神を冒?したからだ。あなたは、人間なのに、自分を神としているからだ。」

 私の高校時代、世界史の教科書に、イエス・キリストと釈迦と孔子が世界の「三大聖人」とかいう括りで出ていたと思います。しかし、ヨハネ福音書は、イエスという人を聖なる人物として紹介してはいません。ヨハネ福音書は、最初から「イエスは神である」と告白している、プロフェッションしているのです。

「はじめに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」

 これがこの福音書の書き出しです。言とは、イエス・キリストのことです。そして、さらにこういう言葉も出てきます。

「言は肉となって(つまり人間となって)、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。・・いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。」

命がけのプロフェッション


 ここにこの福音書を書いたヨハネという人、また彼が属する教会の人々の信仰告白、プロフェッションがあります。そして、この告白をすることが、当時の人々にとってはまさに命がけのことだったのです。当然です。イエス様が自分のことを神と等しい方とすることで神への冒?罪に問われて殺されることになるのですから、そのイエス様を人となった神として告白をする人々もまた、神を冒?する者として殺されても少しもおかしくありません。実際、当時のキリスト者たちは、神が人間の肉の姿を取るわけがないと信じているユダヤ人からも、皇帝こそ神の子であり救い主であると信じることを強要するローマ帝国からも迫害され、殉教の死を遂げる人々がいくらでもいたのです。そういう時代状況の中で、この福音書はイエスを「神の子」「メシア」「主」「神」として信じる告白をしているのです。
プロフェッションという言葉には、一歩前に進み出て告白するというニュアンスがあると思います。一列に並んでいる人々に対して、「この中でイエスを主、神と信じる者は前に出よ」と言われた時に、「はい、わたしは信じております」と命をかけて一歩前に出て告白する。マルタの告白とは、そういう告白。ヨハネが属している教会の命がけの信仰告白なのです。この福音書を書いたヨハネという人は、何の危険もない状況の中で、思弁的に神とは何か、メシアとは何かを論じているわけではありません。この信仰によって生きるのか、この信仰によって死ぬのかという厳しい現実に直面する中で、イエス様が神の子メシア、そして、主、神であることを信じる告白をしているのです。

キリスト者の人生

そして、この福音書を通して、イエス様ご自身が、私たちに「あなたはこのことを信じるか」と問いかけてくるのです。そして、その問いに「信じます」と答えることが出来る時、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者は誰も、決して死ぬことはない」という信仰の神秘が、現実として分かるのだと思います。この信仰の神秘、あるいは究極の現実に向かって、私たちキリスト者は生きているのだと思います。そのキリスト者の現実を、パウロがフィリピの信徒への手紙の中に書いているので、お読みします。

「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。・・・わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。」

 ここにも信仰に生きるプロフェッショナルとは何であるかが明確に記されていると思いますが、私たちは今日も、私たちなりに、これまで到達したところに基づいて一歩一歩前に進んでいきたいと思います。

不可解なイエス様の言動

 これまで二回、この箇所を読んできて、まだちゃんと触れていない言葉がいくつもありますが、その一つは、四節のイエス様の言葉です。イエス様は、愛するラザロが病気であることを知らされた時、不思議なことを言われました。

「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」

 そうおっしゃってから、なお二日間同じ所に滞在されました。前後の文脈では、イエス様はラザロを愛しており、ラザロの姉妹たちのことも愛していることが明言されています。だからマルタとマリアの姉妹も、その愛の故にイエス様はすぐ来てくださると思っていたでしょうし、すぐに来て欲しいと願っていることは明らかです。その願いを聞いた上で、イエス様が「この病気でラザロは死ぬわけではない」とおっしゃっているとするなら、それはそれで慰めの言葉として分かる気がします。しかしその後の「神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」とは何を意味するのかが分かりません。マルタとマリアの姉妹に遣わされて来た人も何を言われたか分からなかっただろうし、その場にいたであろう弟子たちも分からなかったでしょう。

人の求めに応じないイエス様

 ヨハネ福音書を読んでいて気が付く一つのことは、イエス様は人の求めに応じて業を行わないということです。先週の説教の中で、ヨハネ福音書にはユダヤ人にとって完全数である七つのしるし、つまり、七つの奇跡行為が記されており、このラザロを復活させる行為はその七つ目だと言いました。つまり、そこにイエス様のしるしの完成が描かれているということだと思います。しかし、その七つの行為すべてにおいて、イエス様は人間の求めに応える形でしるしを行われることはありません。その最初のしるしにおいて、イエス様の母がイエス様に「ぶどう酒がたりなくなりました」と言います。ラザロの病気を知らせるマルタとマリアと同じ様に、ここでの母も「ぶどう酒を補充してください」という直截な求め方をしないところが面白いのですが、この時イエス様は「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」と意味不明のことをおっしゃる。でも、その後で、イエス様は水をぶどう酒に変えるというしるしを行われます。それ以外のしるしも、主イエスは人からの求めにそのままの形で応じることはありません。つまり、イエス様は人に束縛される方ではないのです。
九章で、盲人を癒される前も、イエス様はこうおっしゃいました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のある内に行わねばならない。だれも働くことの出来ない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である。」
こうおっしゃってから、盲人の目が見えるようにされたのです。主イエスはいつも、主イエスをお遣わしになった方、つまり、父なる神の要請に応えて、限られた時間の中で、その業をなさるのであり、人の要請に応えてなさるのではないのです。
そして、その業の目的は、その業に与った者、あるいは目撃した者が、その業を通してイエス様を神に遣わされた独り子なる神であることを信じることなのです。一〇章三七節三八節にもそのことが記されていますし、ラザロを墓から呼び出す直前にも、主イエスは父なる神に向かって「わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです」と祈っておられます。
つまり、ラザロを復活させるという業は、神の業であり、その業を通して、イエス様は神様がこの世にお遣わしになった言、肉となった言、独り子なる神であり、この方を通して神ご自身が現れ、その救いの御業をなさっていることを信じさせることを目的とした業なのです。そのことと「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」という言葉は関係し、また「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである」という言葉もまた深い関係があるのです。神様の「栄光」を現すために、そして、その栄光を信じさせるために、イエス様はこれからラザロの復活という御業を始める。その業は「日のある内に」、つまり、十二時間ある「昼間に」行われなければならない業なのです。
 今日は、これまで読んできたことを踏まえて、ここに出てくる「病気」「死」「栄光」「昼」「光」「夜」という言葉を巡って、メッセージを聞き取っていきたいと思います。

栄光とは

 病気が単に肉体の病気だけを意味せず、そうであるが故に、死もまた肉体の死だけを意味しないことは、既にドストエフスキーやキルケゴールの言葉を引用した最初の説教で語ったことです。それでは、栄光とはどういう意味であり、病気と死とどういう関係にあるのか、昼、光、夜とはどういう意味で、それらの言葉が病気や死とどういう関係にあるのか、それが問題になります。
 栄光という言葉は、先ほど読んだ一章の一四節に肉をもって現れた独り子なる神の栄光として最初に出てきました。この言葉が、その後、どのように使われているかを丁寧に跡付けることは時間の関係で出来ません。でも、一箇所だけは挙げねばならないと思います。それは一二章二三節です。そこは、ラザロを復活させた後、主イエスがベタニアでマリアに「葬りの日」のために油を注がれ(つまり、葬られるメシアということだと思いますが)、過越の祭りに向かってエルサレムに入られたイエス様にギリシア人が会いに来たところです。そのことを知ったイエス様は、突然、こうおっしゃいました。

「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。・・・今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」

 「人の子」とはイエス様のことであり、イエス様はご自身のことをこう呼ばれます。内容は基本的に「神の子」と同じですから、神の子が栄光を受けることと、神の栄光を現すことが、ここでも並んで出てきます。そして、人の子の栄光は、なんと地に落ちて死ぬことにおいて現されるというのです。神の栄光は神の子の死を通して現れるのです。そして、その死によって、多くの実が結ばれることになる。多くの人が死を超えて、あるいは死を貫いて永遠の命に至る道が拓かれる。そういうことだと思います。そして、イエス様は、実にこの十字架の死のために人間の肉をとってこの世に宿られたのです。
 栄光という言葉は、日本語でも光という意味が入っていますが、ギリシア語でも光が輝くという意味が込められた言葉です。イエス様が生きている時は光の時です。昼です。その光はこれまでもイエス様が父の業をなして来られた時に輝いていました。昼の光として、あるいは世の光として。しかし、すべての人がその光を見たわけではありません。見えない人には、闇のままです。また、その光は、イエス様の死においてむしろ燦然と輝く光なのです。死の闇の中に閉じ込められたと人には思われるその時こそ、実は、命の光が輝く時でもある。それが「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」という神の言が語っていることだと思います。イエス様は墓の中で甦ったのです。一粒の麦が地に落ちて葬られた墓の中に、命の光が輝いたのです。そのことのために、イエス様は十字架に向かわれるのです。ラザロの死体が横たわる墓に向かうとは、イエス様が十字架に向かうことであり、それは墓に向かうことであり、そしてそれは復活に向かうことなのです。その十字架の死と復活という栄光を現すために、イエス様はラザロが病気だと聞いてもなお二日その場に滞在されたのです。ラザロに復活の命を与えるためにです。病気を癒すことよりも、復活の命を与えることの方がはるかに大きな愛であり、大きな業、最終的な業だからです。

生きるとは 死ぬとは

 しかし、そこで気をつけなければなりません。ラザロは今も肉体をもって生きているわけではありません。彼はまた死んだのです。この時、ラザロは肉体をもって復活させられたけれども、しかし、それが肉体である限り、その肉体は死にました。イエス様の肉体も死んだのです。しかし、イエス様は今も生きている。イエス様は「復活であり、命」だからです。そして、そのイエス様に甦らされたラザロは今も生きているのです。おかしなことに聞こえるかもしれませんが、聖書はそう言っており、それが私たちキリスト者の現実なのです。
 イエス様は、最初、「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く」とおっしゃいました。しかし、弟子たちが、その言葉を通常の意味で眠っていることと理解していると分かった途端に、「ラザロは死んだのだ」とおっしゃった。つまり、イエス様にとって死は眠りであり、その死の眠りから人を起こすことがご自身において実現する神の業なのです。そしてそれは、人の罪の結果としての死から「罪を取り除く」ことによって人に新しい命を与えることなのです。この七番目のしるしであるラザロの復活は、イエス・キリストがご自身の十字架の死と復活を通して私たちを覆っている罪と死の支配を完全に撃ち破り、私たちに新しい命を、最早肉体の死をもってしても死ぬことがない命を与えてくださったことを示す神の業なのです。すべてのしるし、すべての業は、この七つ目の業を目指しており、またそれを背景としたことです。そこに神の栄光が現れていることを信じること。それが自分の内に光をもつことになる。イエス様は、そうおっしゃっています。

光と闇

 こういうところこそ、聖霊の導きを祈り求めつつ聞いていかねばなりませんが、九節から一〇節の言葉は、最初は昼と夜という外的な光が問題になっています。でも最後は「その人の内に光がない」というように、実は人間の内なる光の問題を語っていることが分かります。そして、その光とは、肉体の死を超えた永遠の命のことなのです。それは、「はじめに言があった」に続く、「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中に輝いている。暗闇は光を理解しなかった」という文章から明らかです。
 でも、そこで分からなくなるのは「昼間は十二時間ある」とか「夜が来る」とかいう言葉です。昼は光の時であり、夜は闇の時であると考えるのは当然のことだからです。でも、これも二重三重の意味で言われているのでしょう。イエス様が肉体をもって生きている時は昼間の光の時間だけれど、十字架に磔にされて死んでしまう時がくる。それが夜であるという意味が第一義的にはあると思います。でも、先ほども言いましたように、その夜の闇の中でこそ神の栄光は輝くのですし、一章にありましたように、光は闇の中に輝くものですから、闇だけとか光だけの時間というのはないとも言えるのです。そして、その光や闇がどこにあるのかという問題についても、それは人間の外にあるものとして言われている面と同時に人間の内にある面が強調されてもいるわけです。つまり、イエス様を信じていない時は、外は昼の光が照っていたとしても、その人の内には闇があるだけであり、歩けばつまずくのです。この「つまずく」とは倒れてしまうことであり、死を暗示している言葉だと思います。つまり、イエス様を信じることが出来る今、信じるならば、人間を照らす命の光を内に持つことが出来る。世は闇であったとしても、もはやつまずくことはない。死に至ることはない。永遠の命の光を持っているからだ。イエス様は、そうおっしゃっているのです。

  あなたの兄弟は復活する

 私は、ヨハネ福音書の説教を年が明けた一月四日から再開し始めました。年末から元旦まで休暇を頂き、元旦から説教の準備を始めました。そして、その日に、かねてから心身の病の中におられた教会員のNさんが、独りアパートの一室で亡くなっていたことを知らされました。その現実とラザロ復活の奇跡との関連を考える中で、ドストエフスキーの『罪と罰』やキルケゴールの『死にいたる病』という書物を引用しつつ説教をしました。後日、私にNさんが逝去されたことを知らせてくださった方が、一九七七年に中渋谷教会で発行された『求道』という小冊子を貸してくださいました。それは、当時受洗したばかりの方や求道中の方々の文集です。それを読ませていただきつつ、私は様々な偶然に驚きましたし、目を開かれました。そこには、後に牧師となるべく献身して、私と神学校の同期生となる女性が、まったくの絶望の中で『死にいたる病』を読んで、教会の門を叩いたという証が掲載されていました。そして、Nさんは、こう記しておられるのです。

「昭和五二年五月、ドストエフスキーの講座に出席したのが、中渋谷教会に来た最初ですが、講師(の)佐古純一郎さんは、その著作を通して知っており、いつとはなく、礼拝初め諸集会に出席するようになりました。そうして求道者会の合宿のテーマが洗礼であったことが、半年後、(洗礼について)改めて問うようになっていったのでした。
『健康な人に医者はいらない。いるのは病人であり、私が来たのは、義人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。』そうイエスが言われるのであるが、私には信じがたいことであった。田舎育ちで、わがままな親不孝の私のようなものは、神の招きを受ける資格なき者で『滅びることになっている怒りの器』にほかならないと、思わずにはいられなかったからです。それなのに主なる神は、イエス・キリストにおいて私の罪の赦しを宣言し、その御許に招いておられるのだという事実――― 死んでいたのが生き返らされたという、甦りの信仰が、私をして蘇生させたのです。
 古い人を十字架にかけてしまい、そしてキリストの復活と共に、新しい人として、現在を生きたいのです。
 あなたは気付かなかったでしょうか。私は、とっくに死んでいたのです。肉体は生きていても、こころはすでに死んだ人間として、いわば生ける屍として生き続けていたに過ぎないのです。(わたしは)芸術家でもなく、言葉を作る機械として書き遺すことがすべてであり、それ以外に何ものにも希望を持てなかった。(しかし)いかにノートに言葉を重ねても、いっこうに気持ちが晴れず、私を捕えてはなさないものがあった。その自分の犯した罪がたとえ消えないものであっても、ゆるされて生きることは出来る可能性を信じるところに私は立っているのだと、思い知りました。主なる神に栄光あれ、アーメン。」

( )内は及川の補充
 Nさんが、遺されたこの文章、それはラザロの復活とは何であるかを正しく深く教えてくれる文章だと、私は思います。Nさんもまた、一人のラザロだったのです。イエス様に愛されている「ある病人」だった。私も、そうです。死臭芬々たるラザロでした。しかし、その私のところにイエス様が来て下さった。一粒の麦となって。そのイエス様と出会うことが出来た。「この方こそ、わたしの主、わたしの神」と信じることが出来た。ただ、そのことで新しく生きることが出来るようになったのです。罪は消えないし、新たに罪は犯してしまうし、そういう絶望的な自分の現実を直視して尚、キリストの故に希望をもって、なんとか死人からの復活に達したいと願いつつ前進できるようにされたのです。

あなたは信じるか

 『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが犯した殺人という罪は消えるものではありません。その罪は、彼自身をじわりじわりと殺していく裁きとなって彼を捕えてはなさないものです。その彼にラザロの復活の出来事を読み聞かせるソーニャは、「だって、あなたは信じていないじゃありませんか」と問い詰めます。つまり、「信じなさい。そうすればあなたの罪は赦されます。あなたの罪をイエス・キリストがすべて負ってくださいます。そして、あの十字架の上で裁かれてくださるのです。その裁きの死、死の暗闇をすべて引き受けてくださるのです。そして、復活し、あなたに新しい命を与えてくださるのです。あなたは、罪につまずき、今死の闇の中にいます。でも、信じることが出来れば、命の光をその内に持つことが出来るのです。死の眠りから立ち上がることが出来るのです。」そう迫っているのです。そして、『罪と罰』におけるこのソーニャは、死の病に罹っている病人を愛し、その病人を死から甦らせるために十字架の死に赴き、神の栄光を現すイエス・キリストの象徴でしょう。
 そのイエス・キリストが、今日も、私たちに問いかけてくださいます。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。(あなたは)このことを信じるか」と。
「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシア、わたしの主、わたしの神であることを信じます」と信仰告白することが出来る人は幸いです。その人の内には命の光が宿るからです。信じることが出来ますように。
 
ヨハネ説教目次へ
礼拝案内へ